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【レポート】無意識的な悪意ある行動について

作者: 豆々駄

『この人は赤ちゃんなんだ』


 これは以前、私が相性の悪い人に対して使っていた気持ちを落ち着かせる方法である。


 自分のことを理解してくれない、馬鹿にする。

 他人の作品を過小評価する。

 非常識的なこと、非道徳的なことを平気で行う。

 アンチ、煽り、荒らし。


 これらのことを行う人に対して始めは苛立ちを覚えていた。

 どうしてそんなことが出来るのだろう。

 何の意図を持って行っているのだろう。

 煮え立つ感情を抑えこんでなんとか疑問に変える。

『みんな違ってみんな良い』という言葉がある通り、それは個性であり、私が理解できないだけで本当は彼らも何かしら意図を持っているのかもしれない。けれど、どんな意図を持ってしても社会的に肯定できない言動である場合、例えば「馬鹿」だの「死ね」だの只の人権損害でしかない暴言等は納得できるはずがない。


 では、何故そうやって平気で人権損害を犯してしまうのか。

 それは人権を侵害していることに気付いていないからではないか?いや、人権という言葉すら知らないのかもしれない。もしかしたら無知の状態のまま本能的に言葉を放っているのかもしれない。


 生まれたばかりの赤ちゃんは自分と外界の区別すらつかず、口に入れたり触ったりして別の物であるということを学ぶ。また、身の回りで人間が過ごしているのを見たり聞いたりして知識や言葉を身につける。更に言えば、大人が経験を得られるような環境を作らなければ学ぶことすらできない。


 つまり、理解し難い行動をする人はまだ良識を身につける経験を得ていない赤ちゃんなのではないか?


 もちろん馬鹿にしているつもりはない。赤ちゃんは尊ぶべきものであり、無条件の愛情を注ぐべきものである。

 たとえ無知だからといって決して上下の関係は生まれず、人として同等に扱わなければいけない。『教えてあげなければいけない』のではなく、『学べるような環境を作り支援しなければいけない』のだ。


 しかし、相手にしてみればそれは確実な“悪意”である。

 此方がいかに深い慈愛を持って接しても、見下されているように感じてしまうのだ。それもそうだろう。相手は多かれ少なかれ歳も経験も重ねているのだから。それを全否定してしまうことになる。

 その上、相手の周囲の人間が学べる環境を作っていなかったとして、間接的にだが、両親や親族、教師や友人まで貶していることになってしまうのだから。


『いじめられている側が苦痛を感じている以上、それはいじめなのだ』という言葉通り、受け取り手が負の感情を抱く以上それは善ではない。


 かといって人が皆その理論に従うわけではない。たしかに私は相手の言動に対して苦痛を感じたのだから、受け取り手である此方も守られるべき存在であるはずだ。

 けれど相手はその理論を尊重していないかもしれない。もしかしたら知らないのかもしれない。では此方は尊厳すら守れず泣き寝入りするしかないのか。

 それは可笑しいだろう。

 せめて胸の内でだけでも納得したい。


『きっと「馬鹿」だの「死ね」だのに深い意味はなく、語感が良いから使っているのだろう』


 人にはそれぞれ好き嫌いがある。心地良く感じるものとそうでないものがある。

 私も小説を書く時はある程度の波に乗せて文を作る。人によっては詩のように感じるらしい。それに私は奇数が嫌いで偶数が好きだ。けれど1番好きな数字は9である。肉も魚も野菜も嫌いで果物は食べられない、チーズは固形でなければ食べられる。

 恋愛ものの話が嫌いでサイコパス系やホラー系を好んで読む。

 これら全てに共感する人が何人いるだろうか?

 それに当てはめればいい。

 彼らには彼らなりの好みがあるのだから、否定せず受け止めればいい。耳障りなら聞き流す程度で良いのだ。もしかしたら、彼らが使う「馬鹿」とは友人へのだる絡みなのかもしれないのだから。


 しかし。これもまた“悪意”である。馬鹿にしてるのかと。

 聞き流す、真面目に取り合わない、これらの行為を上司や親しい友人に行うか。答えは否。こんなことをしたら此方が嫌われてしまう。

 いやいや、でも。相性の悪い人に、しかも此方に悪意を向ける人に対してわざわざ媚を売る必要はないのではないだろうか。浅く広くの付き合い方をする人もいれば、深く狭くの付き合い方をする人もいる。付き合い方まで指図される覚えはない。

 けれど私はこれが悪意だと捉えられるなら、すぐにこの考え方を止める。何故なら私は善人でいたいのだ。彼らに悪意を向けたくないのだ。


 では、どのように対応すればいいのか。


 相手を認めるか。それが正しい行為であるように捉えてみようか。いや、彼らはそれらの行為を善行であるとは思っていないだろう。そうでなければ“馬鹿にしてるのか”と見下されるような気分にはならないはずなのだから。


 相手に合わせてみようか。彼らの「馬鹿」に共感してみようか。やはり彼らはそれを良くは思わないだろう。身内ならともかく全く思考の違う人間に真似されれば“馬鹿にされている”と感じるはずなのだから。


「どうしたの?なにか、そんなに心が荒むことでもあったの?」と尋ねてみようか。それこそ怒鳴られそうだ。


 どう足掻いても悪意を作ろうと思えば簡単に出来てしまう。

 寧ろ対人関係で悪意なく接することの方が難しい。

 ただ、それを悪意と認識していないだけで。


 例えば、自分の作品に対して低い評価を与えられた。

 芸術系の部活の大会で1位になれなかった。

 確実に頑張ったし、それは最高の出来であったはずなのに。

 そういった時、少なからず相手に不満を抱くのではないだろうか。感性が合わなかった、理解力がなかった、きっと自分の作品を理解する為に必要な何かが欠けていたのだろう、と。

 これは相手に悪意を持っているのではないだろうか。それを悪意だと認識していないだけで。


 たとえ自分の思う評価が得られなくても自己反省で済む話だ。あえて相手を攻撃したり、見下したりする必要はないのだから。


 例えば、電車が揺れた瞬間足を踏まれてしまった。

 運が悪かった、それで終わりに出来ればよいが、「ちゃんと体制整えとけよ」と悪態付くこともあるだろう。


「Aちゃんは可愛いけど勉強苦手だよね。まあ、可愛いから許されるけど」

「車改造するのはいいけど五月蝿いのは迷惑だよね。常識ないのかな?」

「ここの本屋品揃え悪いよね。ニーズ分かってない感」

「BのグループよりCのグループの方が格好いい」

「『死にたい』って人見ると正直意味分からんって思う」


 日々思うことはあるだろうし、吐き出す場も必要だ。けれど、それは本当に必要な悪意であったのだろうか。見たものに対しての単純な感想であるならば、自身の作品が否定された時も同じように受け止めるべきではないのだろうか。

 自分がされるのと人にするのは違うというのならば、過剰に文句をし、あまつさえ相手を非難する姿は肯定されるべきなのだろうか。


 相手は悪意があった。私には無い。というなら、誰がどれを悪意だと感じるか考えた方が良いのではないだろうか。


 私は案外悪意を汲み取りやすい。というよりも、悪意が潜んでいないか真っ先に探ってしまうのだ。思い込みがほとんどだろう。しかしそれを無抵抗に、純粋な善意であるとして受け止めるには度胸が足りないのだ。もしかしたら相手は密かに悪意を潜ませているのかもしれないと保険をかけなければ自我を保てないのだ。

 相手の悪意に気付かず正直に喜べば恥ずかしいだろう。


『面白かった』


 作品を読んだ感想をこの一言で済ませられたら、私は恐らくそれを悪意だと捉える。この一言以上の言葉を考える手間すら惜しむ内容だった、という悪意を潜ませているのではないかと考えるだろう。


 つまり、悪意の被害者になることも加害者になることも案外簡単なのだ。


 考えすぎだ、と言われれば。そうだね、と答える他ない。


 逆に言えば、悪意を忍ばせることも簡単である。相手が悪意だと感じればそれは悪意になるのだから、どちらとも捉えられる言葉を忍ばせる。そして相手がそれを悪意だと捉えればとぼけた顔をして言えばいいのだ。


『考えすぎでしょ』


 私は今、相性の悪い人に対して『色んな生き方があるんだなぁ』と思うようにしている。勝手な憶測で答えは導かず、疑問のみを抱くようにしている。だから相手も悪意を感じることはない。貶すような目ではなく、なにやら関心を持った目で見られるのだから、不思議な気分にはなるだろうけれど。

 誰しも自分の人生の主人公であるのだから、色んな生き様があるだろう。それを憶測で語るには私の知識が足りなすぎる。


 実際、文字だけのこの世界では難しい話だけれど。ただ、相手に私の存在は認識できないのだから相手が不快に感じることもない。

 最善の形はその人の視線、態度、言葉選び、表情全てを持ってして相手の心情を読み取ることである。






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