PR20 (8)
「なっ!…ちょっと待て、紫兎!」
五郎からすれば、それが当然の反応だ。
「紫兎ちゃん…それは…」
二條いちみも声を挟まずにはいられなかった。その行為は危険過ぎると、昨夜、紫兎たちと話したばかり。
…く…っ…
ギリッ…と歯噛み、落ち着こう、と五郎は決めた。
作戦中だ。
ここで取り乱すのは司令長官として失格だ。
「紫兎…答えてくれ、帯同する御子は誰だ?」
レイアは負傷し、珊瑚も気絶している。
なら舞子か…?
敵陣に乗り込むにしても、それでは、少な過ぎるはずだ。
「いません。わたし一人です」
「なっ!?…んだと…?」
さすがにこれは、クラッ…ときた。
五郎は思わずこめかみに手を当てる。
「紫兎ちゃん…いったい何をする気?」
「いちみさん。わたし、やっと気づいたの。御盆がね、わたしの神ノ起具だったの」
やっぱり…
「そうじゃないか…と思ったわ」
「御盆?…って…家の?…煌河石のやつか?」
「そう。初めから、こんなに身近にあったのに、今まで気がつかないなんて…」
「し…しかし、その神ノ起具と、お前がゲートの向こうに行かなきゃならんのと何の関係がある?」
「この神ノ起具は煌河石の魔光を必要とするの。でも、ここの、この地球上の煌河石だけでは足りない…だから……」
「だから、何だ?」
いちみが言葉をつなぐ。
「…だから、ゲートに飛び込んで…行くのね、あの場所に」
ーー月の大空洞に…
「そう…あれだけの煌河石があれば、この神ノ起具の力で鬼魔ノ衆を一掃できるはず。それがわたしには分かるの」
「…だ…だとしても危険だ!危険すぎる。その場所には、まだこちら側にきていない鬼魔ノ衆が山ほど残ってるんじゃないのか?」
「…たぶん……」
そう言葉を濁したのは、五郎を心配させまいとする紫兎の気遣いだった。
その山ほどを一掃しに行くのだ。
五郎もそれを分かっていて、なお、尋ねているのだ。
途中、鬼魔ノ衆と遭遇する確率もかなり高い。
だから、ないよりマシだと思い、テンガンも装備した。
「それに時間の流れも…」
いちみがとても重大なことに気がつく。
「わたしのタイムリミットは、4分です」
紫兎が言い切る。
「こちら側の240分…つまり司令本部に鬼魔ノ衆が現れるまでの4時間ということね…」
その4分が日本が生き残るか死に絶えるかの分水嶺。
仮に運良く特0司令室が残ったとしても、その後はとうてい対処できないほどの大量の鬼魔ノ衆が出現する。
そうなれば御子たちも命を賭すしかなくなるだろう…
「その通りです。向こうに着いたら、4分以内にこの神ノ起具を発動させないと間に合わない……いちみさん、もうそれしかない。上手くいくかどうか分からない。でもこのままじゃ…御子は…御子のみんなが力尽きてしまう…そうなれば……」
そうなれば、この地は鬼魔ノ衆の穢れに支配されてしまう。
五郎が気づいてしまう。
「…紫兎…でも、お前……どうやって帰ってくるんだ?」
「………………」
紫兎は沈黙で返すしかなかった。
「マジか…お願いだ、紫兎。誰でもいい。飛べる御子を連れていってくれ」
「五郎ちゃん、そんなのダメだよ。みんなには、たった今、護るべき場所と護るべき人があるもの」
ーーそれが御子の本質…
「ぐっ!…しかし…」
いちみは、ずっと考えていた。
御盆の神ノ起具…それはきっと神獣鏡だ…と。
ーー『裏側なんか顔が映り込むほどツルツルで、幾何学的な透かし模様が入ってる。縁取りも綺麗な装飾で…そうそう、その装飾にも兎のモチーフが入ってたな…』ーー
以前、五郎に聞いた話を思い起こし、そう思う。
煌河石の神獣鏡。
もしかしたらそれは、三種の神器の一つ、八咫鏡のオリジナルなのかもしれない。
煌河石という神使に導かれ、ウサギを祀る神の鏡を神ノ起具に持つ御子。
それが引波紫兎。
あなたが護るもの、それは御子。
では…あなたは、どこから来たの…?
そして唐突にその答えに辿り着いた。
「月の御子…」
そう口走ったいちみ自身も驚く。
「…紫兎ちゃん、あなたは…月の御子…なのね?」
「うん…いちみさん、わたしもそう思う」
「月の?御子?…いったい何の話だ?」
五郎だけではなく、これを聞いている他の人にも何の話なのかさっぱりわからない。
二條いちみ、それと奈須ノ城瑠璃を除いて。
「そう…気づいていたのね…いつから?」
「パープルラビット…」
「えっ?」
「この機体のマーク。わたしのペンダント。これは、月の大空洞で、最後の日ノ御子となった、わたしのお母さんが身につけていたモノ」
「そう…だったのね…」
「うん、驚くかもしれないけど…きっと、わたしは、あの場所で生まれた月の子。あの場所でお母さんと一緒に、そして鬼魔ノ衆と共に封印されていたんだと思うの…」
それはつまり、日ノ御子たちが最後に託した希望。
1800年前、鬼魔ノ衆の大群を一掃できる能力を秘めた日ノ御子はまだ赤子だった。
二重の大結界を張り、危機を先送りにした日ノ御子たちが煌河石に変わり果てたのは、その日ノ御子の神使となるためだったのだろう。この神ノ起具もその時に形つくられ、日ノ御子たちの神霊気を宿しているのだろう。
そうして1800年後の遥か未来に起こる危機からこの国の人々を救う、という願いと祈りを込めて、その赤子を母親と共に封印した。
その能力を秘めているが故に、その日ノ御子が飛ぶことすらできないと知っていたのかもしれないし、そもそも赤子ではひとりで生きられない。
だから一緒に。おそらくは鬼魔ノ衆の大群が、再びこの地に解き放たれるより少し早く目覚めるような仕掛けを施して。
長い年月を経て目覚めた母親は、希望の赤子を連れてゲートを通り抜け、様変わりした未来の日本に辿り着いた。
そこで母親の命が尽きたのは、今となっては、その真実を知るものはもう誰もいない。
が…
その赤子は運良く引波五郎という男に出会った。
紫兎は思う。
そんなストーリーだったんじゃないか、と。
「…でも、あそこにはもう、わたしの護るべき人たちは誰もいない…」
紫兎はパープルラビット機の横扉から、遠く夜空に浮かぶ銀輪の満月を仰ぎ見る。
「…だけど、あの場所…月は、遥か遠い昔に失われてしまった御子の故郷……そして今ここには、この国には…そんな遠い遠い古からの御子の血が受け継がれている…鬼魔ノ衆の呪いとともに…」
うん、と頷く神薙舞子と視線を交わし合う。
その頬はもう涙で濡れて月あかりにきらきらと。
「…だから…月の御子であるわたしが護る大切なものは、ここにいる御子のみんなと、そして、その御子のみんなが護るもの全て。それが、わたしの御子としての本質」
あまりにも壮大で、突拍子もない物語だった。
そしてそれは、五郎にとって、受け入れ難く残酷過ぎる物語でもあった。
「御子のみんなには?」
「もう話しましたし、今も聞いてくれてます。誰も、わたしと一緒に行くと言わないでいてくれた。その言葉をこらえてくれた。わたしも一人前の御子だと認めて、信頼してくれているんだ、って分かって……ね?…いちみさん……わたしには、それが嬉しくてたまらない…」
いちみはもう頷くことしかできない。
同じ御子だから…と。
仲間なんだ…と。
いちみもその気持ちが理解できる。元御子として。
そしてそれが、どれほど紫兎にとって嬉しかったのかも。
「…でね、上手くいったら誰でもいいから迎えに来てって、お願いしたから…だから…」
それは心得た、と舞子は50の御子を代表するつもりで強く頷く。
五郎のかすれ声が割り込む。
「…紫兎……」
「これは、わたしにしかできないこと。だから…分かって、五郎ちゃん」
「………………」
もう五郎には、紫兎を止めるための言葉が何もなかった。
「五郎ちゃん、しっかりしなさい。司令長官でしょ?わたしが帰ってくる前にみんなやられちゃいましたっていうのは、なしだよ」
「…ぁ……ああ…任せろ…」
五郎は、もう自分が何を言っているのかすらわからない。
「大丈夫…きっと上手くいくから、諦めないで」
もう行かなきゃ…
このゲートが閉じてしまう前に。
紫兎はパイロットに告げる。
「ゲート直上につけて下さい」
ホバリングしていた機体が右旋回し、わずかに傾きながらゲートの中心に向かってさらに高度を下げていく。
紫兎は、今からこの身を投げようとしている大穴をそっと覗き込んでみた。
底の見えない地獄のような黒さを見せつけながら、その大きな口をパックリと開けている。
この深穴が仙台青葉山の時のように垂直にあの結界の狭間まで伸びていることを今は祈るしかない。
1000mでの落下速度は時速200kmほどに達するとも聞いた。
もし途中で曲がっていたり、結界の狭間に届かなかったら、紫兎の体は岩肌に叩きつけられ無論生きてはいられないだろう。
恐怖で口の中がカラカラになり、膝がガタガタと震える。
でも、もう迷っている時間はなかった。
大丈夫…
わたしの御子の血が、大丈夫だ、と囁いている。
気を失った珊瑚を抱えたままで、神薙舞子が紫兎を正面で見送る位置に浮かぶ。
水天宮レイアが痛みに顔をしかめながら、紫兎に向かって手を振る。
MCリングを通して御子のみんなの声も聞こえる。
「紫兎ちゃん、戻ってきたらウチが秋の嵐山を案内したる…だ…から…くッ…ぅ…」
あずきの言葉は涙で止まってしまった。
「うん…みんな、ありがと…」
みんなも、無事でいてね…
神祓天との出会いと別れが、紫兎をここまで導いてくれた。
天さん、見てる?
見てるなら、みんなを、わたしを護ってね…
「紫兎様、…ご武運…を…」
背後で特0隊員が声を詰まらせた。
「じゃあ、五郎ちゃん…」
ひとり娘の声に呼ばれて、五郎は力なく俯いていた顔を起こし、スクリーンに浮かぶパープルラビット機を見上げる。
そう…
いつかこんな日が来るんじゃないかと、ずっと恐れていた。
溢れだす涙で五郎の視界がぼやける。
「…紫兎……」
我が娘の姿をスクリーンに見上げながら、五郎は、その瞳に初めて出会った時のことを思い起こしていた。
あの無邪気でクリクリとした愛らしい…赤子だった紫兎の。
真紅の瞳ーーを。
その瞳が告げる。
「行ってきます……お父さん……」
……ぁ…………
今まで一度も言われたことのなかったその言葉を耳にし。
五郎の視界は噴き出す涙でもう何も見えなくなった。
「カウント開始…9…8…」
紫兎が自らカウントを刻み始める。
それでも五郎は、これで最後になるかもしれない我が娘の姿を見届けようと。必死で、もう涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ続けていた。
カウントを刻む紫兎の声が五郎の胸に重く、そして無情に響く。
「……5……4……3……2……1……」
行くな!!…行かないでくれ…!!
「紫……兎……」
無意識にスクリーンに向けて差しのべられた五郎の右手が、すっ…と虚しく空を切る。
「…0ッ!」
機体の横扉から大きく一歩を踏み出す紫兎。
そして…跳ねたーー
パラシュートスーツの銀色の小さな御子は、そうして音もなくゲートに吸い込まれていった。
拍手も歓声もなかった。
ただ…
ある者は立したままで、ある者は座したままで。
グッと唇を噛み、涙をこらえ。
たった一人で敵地に飛び込む勇敢な少女に向けて、祈るような敬礼を捧げていた。
静まり返った司令室にパープルラビット機のパイロットからノイズ混じりの無線が入る。
「…ザッ……特務0課司令室……こちらパープルラビット…ザザッ……紫兎様のご無事を祈る、ザッ……これより当機も鬼魔ノ衆との戦闘に加わる、ザッ……指示を…オーバー」
五郎はガチガチと震える歯を食い縛り、嗚咽を圧し殺していた。
うっ…ぐっ…ぅ…ぁ…
コンソールにギリギリと握りしめた両の拳を置き。
伏せた顔のその奥でギリッと噛みしめた唇から血が流れる。
泣いている場合じゃない…信じろ!…信じろ!…
あいつを信じろッ!!
「…司令……」
いちみは言葉を詰まらせ。
「くっ、そっおぉぉぉ!!」
五郎は叫んだ。
運命も、理不尽も、不条理も…
何もかも全てを吐き切るつもりで。
そうして特0の司令長官たる顔をぐっと上げ、鬼気迫る大声を振り絞った。
まるでそれを自分に言い聞かせるように。
「何をしている!手を休めるな!…俺たちは絶対に勝つぞッ!!…パープルラビットに指示を送れ!」
読んで頂きましてありがとうございます。