PR02 (1)
改札から奥までわざわざ飛んだのは、昏倒している人々を踏みつけてしまわないためで。
それほどの足の踏み場もない凄惨な状況。
舞子は最奥の壁際で身を低くして、ホームへ続く上り階段を見上げて息を呑む。
ひどい…
ここでも多くの人々が毒気に冒され倒れ伏せていた。
階段の傾斜に沿って緩やかに流れ落ちてくる黒紫の霧状の流体。それが舞子の張った浄化の光膜で堰き止められたところで無色に昇華していく。
この上ね…
翠玉色の双眸を険しく眇める。
確か…ホームは地上のはず。今日は晴れていた。
なのに、すごく暗い。まるで黒紫の雲海に覆われているように見通しが利かない。
「…司令本部。舞子です」
手首にある煌河石のリングに声を乗せた。
「舞子ちゃん、どんな状況?」
リングが淡く菫色に変光し、先と同じ少女の声が返ってくる。
「ホームへ上がる階段の下まで来ました。状況は…」
そこで言葉を止め。倒れ伏せている人々のもとに駅務の救急隊員がドカドカと駆けつける様子を振り返る。
「…とにかく酷いです。ホームから流れ込む大量の毒気で意識不明者がここだけでもざっと100人ほど。でもホームにも、たぶん、それ以上…」
「…そう」
リング通信の向こうで少女がぐっと息を呑む気配。
「…この改札は浄化して応急的に結界を張りました。もっと人出が要ります。特0はまだですか?」
「えーっと…何だか大人の事情でごたごたしてたけど、間もなく現着する……みたい。警戒レベル最大でオールユニット出動中……みたい」
少女の語尾が妙なのは、いちいち近くの特0の誰かに確認しているからだと舞子は知っている。
東京には7つの特0部隊が配置されてた。その全てが同時に出動する事態はこれまで初めてのこと。代々木公園並の被害予想という現場情報が伝わり効いたのだろう。
「それで…どんなヤツ?」
少女の声音が緊張を帯びる。
「まだ本体は未確認…けど…」
この穢れの強さと毒気の量からすると…
「かなりの大物と推測されます」
「麗愛ちゃんと珊瑚ちゃんもそろそろ現着します。舞子ちゃん、決っして無理は禁物ですよ」
東京を守護する御子は、神薙舞子の他に、水天宮麗愛と天津珊瑚の二人がいる。
「…それと、近隣3県にも応援要請しました。あっ、そうそう、みらいちゃんが、舞子ちゃんと肉まんが食べられないって泣いてましたよ」
クスッと舞子。
「うん。それはわたしも泣きたくなる」
箱ヶ咲みらいは神奈川を守護する御子。
ここに、このタイミングで鬼魔ノ衆が現れなければ、今頃は二人で中華街の食べ歩きデートを楽しんでいたはずだった。
「浄化が済んだら、舞子ちゃんの大好きな餡蜜を特0の経費で買い占めておきますね」
「ふふっ…やる気がでた。ホームに上がってみます」
「舞子ちゃん」
「ん?…」
「気をつけて…」
司令部にいながらも、その邪気の大きさを感じているのだろう。そしてやはり、心配してくれているのだろう。
こうして独りじゃないというだけでも心強い。
「うん、わかった。気をつける」
よし、覗いてみよう…
意を決して立ち上がったのはいいが、舞子は、膝が震えていることに気づいた。
無理もない。それ程の得体の知れない禍々しさがこの上から伝わってくる。
かつて、代々木公園で対峙した荒魂化した夜刀神を思い起こす。あの時と同じか、考えたくないけど、それ以上。
でも…
わたしはーー御子ーー
それが自身の命を賭してまですることなのか、いまだにその答えを舞子は見つけられない。
こんな割の合わない危険なお掃除仕事をしているのが、舞子だけじゃないと知ったのはもう1年以上前のこと。
仲間がいると知って、どんなに心強かったことか。
スゥッ…と短い息ひとつで覚悟を決める。
舞子は、階段上まで結界を押し広げながら、まるで燕が飛ぶように左右の壁をジグザグに蹴ってホームへ一気に駆け上がって行った。
トン…と上り詰めた所で。
「…くっ……」
舞子は反射的に巫女装束の袖口で口元を覆った。
何て濃さ…
立ち込める毒気の密度に息を止めたくなる。
いくら特殊な巫女装束が鬼魔ノ衆の毒気にも耐性を備えているとは言え、これほどの濃度にあてられ続けると、御子といえどもどうなるか分からない。
いきなり鬼魔ノ衆に出くわすかもしれない。そう考えていた舞子は、すでに神ノ起具、銀杏桜の双槍を構えていた。
すー…と息を浅く殺し、視界の悪さにじっと目を凝らす。
ここが陽光が届く地上であることを忘れるほどに、やはりホーム一面が黒紫の霧に覆われていた。
いくつもの黒い影がゴロゴロと転がっていて、それが意識を失って倒れ伏した人の輪郭だとわかって。何かから逃げようとする途中で毒霧に冒されて力尽きたのだろう、全ての頭が舞子が上ってきた階段の方を向いている。
ひどすぎる…
これほどとは思っていなかった。いや、思いたくなかったのかもしれない。
そんな地獄絵図。
いつ襲いかかってくるか分からない鬼魔ノ衆に、全方位を警戒をしながら息を潜め、ジリっ…ジリっと前に出る。
が……
来ない……なら、今のうちに……
先ずは両手で頭上に掲げた双槍をブン!と大きく回して周囲の毒気を祓い、小さなドーム状の結界を張った。
新鮮な空気を確保し。
ふ…と足下を見ると、幼稚園児ぐらいの女の子が倒れ伏しているのが目に入った。その小さな背を守るように母親が折り重なっている。
こんな、小さな子供まで…
そう今は夏休みだ。
もう、事切れてしまっているのだろうか?
体の小さな子供には、この量の毒気は特に危険だ。
舞子は膝を折り、女の子の首筋にそっと手を当ててみた。
肌の温もりとごく弱い脈拍を指先に感じ、ボウッ…と白淡く光る掌を女の子の頭にかざす。
そうやって治癒の気を送り込む。
皆まで無理でも、せめて助けたい。
凄惨過ぎるこの状況に憤りを感じながら、続いて、まだ息のある母親にも同じことをしていると。
「か…神薙さん!」
いきなり背後から呼ばれ、驚いた。
振り向くと、白いマスクを口に当てた駅職員の斎藤が、這いつくばるような格好で階段から恐る恐る顔だけ出していた。
「サイトーさん!?…言いました。ここは危険です」
「ぁ…っと、すいません…でも…うぁっ、ひでぇ…」
立ち上がりつつ、斎藤もこの凄惨な状況に言葉を失う。
なら…
「この親子を下へお願いします!」
「わ…分かりました」
斎藤は、階段下にいる救急救命士に向かって声を張り上げる。
「おーい、こっちもだ!」
すっと立ち直って舞子は改めて地獄絵図を見渡し、下唇をグッと噛み結んだ。
もう膝は震えていなかった。
御子の本質ーーが舞子の魂を昂らせ、くっと小さく握りしめた拳を怒りで震わせる。
こんな…
赦さない!…鬼魔ノ衆!
ブワッ…とオーラのような神姫光が舞子の全身から朧立つ。
どこにいるの…?
禍々しい穢れをすぐ近くに、そしてこの一帯に感じるのだけど。視界の悪さと邪気の広がり方で、その本体がどこにいるのかまるで掴めない。これほどの濃度の毒気を大量に吐き散らす鬼魔ノ衆とは一体どんな怪物なのか?嫌な予感しかしないけど、急いで本体を祓って、一人でも多くを助けたい。
先ず、この毒気を何とかしなきゃ……
厄介な毒の霧を祓うため。舞子は神ノ起槍を頭上に掲げ、そのままヘリのように高速で回転させ始めた。
旋風のように巻き上がった浄化の渦が、舞子を中心にして同心円状に広がっていく。
そして開けた視界の先に見えたものに驚愕した。
なッ…!!
舞子は、ザッ…と双槍を身の前に持ち直し、腰を据え、臨戦態勢をとった。
チリン…と鈴の音とともに神起双槍の刀身が桜色に光を帯び。その切っ尖が向くのが新幹線車両か。
それは舞子が見知っているホワイト&ブルーのスリムな車体ではなく。大きな瘤のような丸い物体に覆われて、デコボコとなぜか蠢いている。
何……これ……?
開けた視界で4車両ほど。妖しく仄かに発光する滅紫色の軟体の蟲のようなものがびっしりと張り付いていた。
1匹…と数えるのが正しいかどうかは別として、およそ1メートルほどの大きさが、何百…と。モゾモゾと蠢くそれらが群れで、新幹線をすっぽり包んで鼓動のような波を打っている。
鬼魔ノ衆は単鬼とは限らない。
これまでの浄化経験から、そういった考えも頭のどこかにはあった。けど、これほどの数とは想定外。
それに…
何て……気持ち悪い……
蟲ノ型。
別の意味で舞子の背筋にゾッ…と冷ややかなものが走った。
ぶよぶよと呼吸するように蠢く軟体の群れは、同時にドロドロとした体液のようなものを垂れ流している。そして、その滑りが揮発するかのように黒紫の毒霧を発生させていた。
目に見えているだけでもこれだけの数となれば毒気がこれほど濃いのも頷ける。
「うぁぁ、な…何だ!?…こりゃ…」
舞子の背後で救命士や駅職員の斎藤も、この悍ましい光景に身を強張らせている。
「急いでください!その親子だけでも」
この数が、いつ舞子に向かって飛びかかってくるのか。
背後は絶対に護らなきゃ…
臨戦態勢をとったまま、蟲の動きを見据える舞子の顳顬にツーっとひと筋の汗粒が滴る。
トク…トク…と緊迫に早まる胸の鼓動を聞きながら、そのまま沈黙の数秒が流れた。
…が、
どうやら蟲鬼の群れは新幹線車両に執着しているらしく、貼り付いたままで、こちらを襲ってくる気配がない。
ジッ…と、神ノ起双槍の切っ尖を向けたまま、ふーーっと静かに呼吸を整える。
蟲鬼の群れの隙間に13という数字を見つけて、目の前の車両が13号車だと理解した。
もし…
この大群が、先頭から最後尾まで全てを覆っているのだとしたら。
「サイトーさん…そこにいますか?」
前を見据えたまま視線を切らずに。
「はい…います」
「新幹線は何号車までありますか?」
「十六号車です」
「前はどっちですか?」
「神薙さんの向いている方が先頭です」
「ありがとうございます」
これだけの数だ。きっと一人では捌き切れない。見るからに蟲型は知能がないかわりに、こちらから仕掛けるとその防衛本能で一気に襲いかかってくるかもしれない。
でも…
ホームで倒れている乗客の救助も急がなければならない。どうすれば…?
それに…
車両の中の乗客はどうなったのだろう?
びっしりと張り付いた蟲鬼の群れが窓も覆い、中の様子が全く見えなかった。
蟲の隙間に博多と読める。関東から出たことがない舞子にしてみれば九州は遥か遠くの、いつかは旅して見たい憧れの場所。
まだ知らぬ美味しいもの、まだ見ぬ美しい景色、そんなワクワクを乗せて出発間際だったのだろう、ドアが開いている。
もう手遅れかも…
そう思ったその時、ドアだけぽっかり開いているのに、なぜか蟲鬼が侵入してる様子がないことにおかしいと気づく。
あれは…
結界…?!
誰が?…と周りを見渡してもそれらしき人物はみあたらない。つまり車両の中から結界が張られているということだ。それはすなわち、助けを待っている人たちがまだ中に…
急がなきゃ!
「舞子様!」
ブーツの踏み音がドカドカと階段を駆け上って来たようだ。振り向かずとも、その仰々しい呼ばれ方で、その声の主が現着した特0隊員のものだと分かる。
チラッと目端で確認し。
自動小銃を手にした隊員が3人と黒スーツの結界師が2人。
「うおっ!…何だこれ!」
彼らも、この異様な光景に驚かずにはいられない。
通常の銃火器では鬼魔ノ衆を浄化できないが。これまでの経験則から、鬼魔ノ衆のタイプによっては、動きを鈍らせるぐらいのダメージを与えることができ足止めの時間稼ぎぐらいの役には立つ。
だから特0隊員は武装許可されている。
そして特0結界師。御子ほどではないが、呪力のごく弱い鬼魔ノ衆なら浄化することも、あるいはその場に封じ込めることもできた。
もちろん各人の技量と対象にもよるのだが。それは、最低限ではあるが、一般の人々や特0隊員達を守ることができる。
御子、武装隊員、結界師の三位一体。それがこの1年で培われた基本的な対鬼魔ノ衆フォーメーション。
カシャッ…と安全装置が外された銃口が車両に向けられるのを、慌てて舞子が制する。
「待って!撃たないで!」
っと…
自動小銃のトリガーに掛けられた指が外された。
「まだ中に人がいます!」
銃弾が窓や車体を貫通すると大変だ。
もうやるしかない……
すぐにレイアも珊瑚も駆け付けてくれるはず。
「祓います!…援護を!」
「了解!」
舞子の背後で、特0隊員たちはすかさずバックアップ体勢をとった。
ふぅ…と短くひと息。
舞子は、車両に張り付いた蟲鬼の群れに腰横に据えた神起双槍の刃を構える。
「いきますッ!」
すると。
その切っ尖から、まるで銃のように浄化の閃光弾が数発放たれたのを見て、駅職員の斎藤は驚いた。
ーーぇぇっ!そんなのあり?
てっきりその麗美な長槍で斬り払うか、貫いていくものだと思い込んでいたが、まるで違った。
的となった軟体の蟲鬼が数体、ぱあっんと風船のように弾け灰燼となって散る。
舞子はそこでひと呼吸おき。
よし…来ない…
「さらにいきます!」
反撃がないと見るや、桜色した光弾がいきなり横一線に高速連射された。
派手な炸裂音こそないが、まるで自動小銃のよう。放たれた閃光が連続した光条にも見えるそれは、撃ち抜くというより薙ぎ払い。
まるで殺虫剤でも撒かれたように蟲鬼の群れが悶え蠢き、次々と黒炭の塵と化していく。かなり乱暴に言ってしまえば、泥で汚れた車両を高圧洗浄機で清掃しているようにも見える光景に。
「…す…すげえ…」
斎藤は棒立ちで唸る。
もちろん初めて目にする、これが御子の浄化の能力なのか。
政府が言っていたことは間違いではなかった。
浄化の閃光を放ちながら、舞子は蟲鬼が剥がれた新幹線の窓に目を凝らす。
よかった…
中の乗客がまだ無事なのを知って、ホッとする。
不思議とパニックを起こしたりしていないようで。席に着いたまま、中から窓を通して舞子や特0隊員の姿を驚きの表情で見つめている。
…いた!
舞子は、車両内でただ一人だけ立っている人物を見つけた。黒スーツの男が、胸の前で両手で結界印を結んでいる。
特0の結界師に違いない。出張か何かでたまたま乗り合わせたのだろうか。
結界師はホームの舞子に気づき、大きく頷いた。
誰だか知らないけど…
「もう少し、がんばって…」
舞子もその男に頷き返す。
見える範囲の蟲鬼の群れは一掃した。
車両の向こう側まで張り付いている蟲鬼たちに反撃してくる気配がないのを見て、舞子は特0隊員たちに告げる。
「この場を預けます!今のうちに乗客の避難を!」
わたしは…
「前を処理します」
トン…とホーム蹴る。
双槍を旋回させながら毒霧を祓い、前方車両の方に向かって低く飛行する。
彼の結界が、どこまで侵入を防いでいるのかを知りたい。
…11号車…10…9…8…7……6……
浄化の閃光を連射しながら大雑把に蟲鬼を蹴散らし、車両番号を数えていく。
あの人、かなりの腕ね…あるいはもう一人いるのか。
そして5号車の開いたドアから蟲鬼が溢れかえっているのを目にして、ホームを滑るように着地した。
「くっ…」
ここまでか…
すぐさま5号車の蟲鬼を祓い落とし、窓越しに中を見ると、そこはすでに蠢く蟲鬼で充満していた。
…であれば、中の乗客はもう生きてはいないだろう。
毒気で意識を奪われ、生きたまま肉と魂を喰われる。骨すらも残さずに溶かされるのだ。
もちろん先ほどの女の子のような小さな子供もいただろう。
そう…だって今は夏休みだ。
…ごめんね……救えなくて、ごめんなさい……
ポロポロと涙が溢れる。
舞子が自責の念に駆られ、消沈していると。
パアンっ!…と不意に、空から浄化の閃光が矢のように降ってきて。5号車の屋根に群がる蟲鬼を一掃した。
…えッ?……と驚き、見上げると。
車両の上に浮かぶ、薄い江戸紫色のショートヘアーの銀灰色の巫女装束。
「レイア!」
水天宮レイアがフワリと、そしていつもの無表情で。
「…何なのこれ…気持ち悪い」
読んで頂きましてありがとうございます。