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彼女のこわいこと



 

 国立図書館最上階禁書庫に、展望部屋の扉の開閉音が響いた。


 その音がケルッツアの耳に届いたのは、国立図書館の隠し通路内から、夕闇から藍へと空も地も染め替えられて今や照明が明るい禁書庫の一角へと出た時。


 次いで、微かに響いてくる軽い足音に、ケルッツアは一拍跳ね上がった鼓動に驚いたか、左胸の辺りに手をあてたかと思うと、頚動脈を触って、不可解そうに首を傾げた。


 何故か先程の、もう既に――――三時間ほど前に帰ったグルラドルンの言葉が頭の中で回り始める。



『可愛いこだもんねー? 構って欲しくなるんだよねー?』



 散々人をからかって、随分と楽しげに帰って行った友人の影響がまだ抜けない。

 ケルッツアは僅か眉を顰め、煩くなっていく心拍を無視してそのまま思考の海へと沈んだ。



(まあ、確かに。可愛いと呼ばれる類の顔と、背の低さか)



 天井を見上げる。



(でも、そんなことより)



 浮かび上がる事柄に楽し気に、天井ににんまりと笑みをひとつ。



(ソフィーレンス君は大変計算が速い)(いつもこまこま動いているのはリスみたいだ)


(任せた仕事はきっちりこなす)(間違いに気付くのも早いな)


(怒られても、あんまり嫌じゃないのは、声のせいかな)


(世話を焼かれても煩くないし・・・・・・。焼いてくれないとなんか物足りない)


(かなり力持ちだ)(不思議だ)(あんなに細いし小さいのに)


(絶対記憶脳保持者だ)(とても便利)


(結構、手とか足とか飛んでくるけど、別に痛くないし、うっとおしいともあんま思わない)


(不思議だ)(やっぱり声なのかな?)


(菌類好き)(僕よりカビが上なことがたまにある)(もやもやする)(なんだか腑に落ちない)


(実地の研究者顔負けの目をするのは、すごくいい)


(笑った顔に、心拍数が上がる)(不思議だ)


(頭のなか、どうなってるんだろう?)(見たい)(知りたい)



(でも勿体無い)


(すごく有用だ)



 ケルッツアは、自身の思いつく事柄を頭の中に思い浮かべ、最後に、彼女と話しているのは楽しいし、と床に敷かれた絨毯に目を落とした。


「有能だし、楽しいし…? 」


 抱えた書籍を持ち直して、嘆息。


「助手として、申し分ないから…か?」


 だから彼女が近づいてくると有用で楽しい時間が過ごせる期待が高まって、心拍数が上がるのだろうか。

 

 ケルッツアが、そんな結論を出したと同時、横手から聴きなれた声がかかった。






**






「お待たせしました、ケルッツア・ド・ディス・ファーン。

 言われた通り毛布と厚手のコート、展望部屋に用意してありますよ・・・・・・?


 …どうかされました?」


 今まで止まったように俯いていたケルッツアに、随分とゆっくり振り向かれ、ソフィレーナは怪訝そうに首を傾げた。


「ソフィーレンス君・・・」

「!」


 ついで、何気なくケルッツアの顔を見ようとした目を、咄嗟彼の喉元に下ろす。



(いまは、駄目)



 瞬間的に悟り、ゆっくりと目を閉じると、何気ないふりでワイシャツの下の胸元に揺れる銀鎖に通した母からの守護リングの冷たさを、指先に捉えた。

 

 ケルッツアは少しだけ灰色の瞳孔の黒さを広げた目でソフィレーナを捉えなおすと、おっとりと、しかし賢そうに小首を傾げる。


「……ちゃんと厚手の毛布とコートは展望部屋に用意してあるんだね? 

 …なら…。


 悪いけど、僕が禁書庫から借りっぱなしだった本を戻す作業を、手伝ってもらおうかな」


 目の前の人間が、どうやらにっこりと笑ったらしい気配に、ソフィレーナはそっと目を開いた。気配通り、ケルッツアの顔が直視出来る事を認識。



(……。このぐらいなら、まだ平気)



 既に、ソフィレーナの返事も待たず目的地らしき場所へ歩き出したケルッツアのその後に続きながら、先ほどの、三白眼の灰色の虹彩が瞳孔の黒で塗りつぶされた瞬間と出会ったことに数舜思いを寄せた。


(このひと、何を考えてたのかしら……?)


(もしかして、何か思考のお邪魔、しちゃったかしら……?)



 と、彼女は少し気まずげに頭の片隅であれこれと思考を巡らせていたが、書籍をしまう際指示を貰った、その際の普段通りのケルッツアに、考え過ぎかな、と結論を出す。


 そして、先ほどテェレルから預かった書類と、サリウルの論文の事を告げる機会を窺うことにした。


 ソフィレーナが見ているに、ケルッツアは何かしら彼女の周りの本棚を、照明の灯りだけでは足りないのだろうか、橙の色が褪せたランプで更に照らして、何かを探している様子。


 しかしはた目から見て、そこまで真剣にも見えない。


(これ、単に時間潰してるだけだわ)


 ままあることだと知っている彼女は、禁書庫から借りたという二箱目の最後の本を棚に押し込み終えたタイミングで、彼に声をかけた。


「ねえ、ケルッツア・ド・ディス・ファーン。

 テェレル館長の、来年分の二階のリストは回収済みですから、後でお仕事して下さい、ね?」


 と、中腰の体勢から、ケルッツアがソフィレーナを見る。


()()()の書類? って……まさか毎年恒例のアレ?」


 テェレルの愛称と共に、何とも形容しがたい灰色の三白眼を向けたまま上体を起こした、その、いかにも厭そうなケルッツアに対して、ご明察です。とソフィレーナは澄まして肯定する。


「来期の『仮定図書一覧表』、第二図書館内分です。

 今、下で大々的に未処理分整理とか、入れ替え作業とかやってるの、ご存知でしょう?

 ………ケルッツア・ド・ディス・ファーン。

 私、もう、代理しませんから。それは各館長にストップかけられてますから。


 きッちり! 目を通して、棚ごとに、判子押して……。

 あ・な・た・のッ! お仕事ですよ? 総館長?」


 今回は逃げてもイケニエ居ないんですよ、と。彼女は、去年、一昨年の手酷い記憶をきっちり思い出しながら、にっこり。


 ケルッツアが、ゆっくりと瞬きを一つしたことに笑みを引きつらせる。


「プロフェッサー。

 …隠し部屋の場所、思い浮かべるの、止めて頂けません?」


 言い当てられた、といわんばかり。驚いたようなケルッツアの顔に、ソフィレーナはため息一つ。


 彼女が見ていると、彼は予想通り片手を後頭部に持っていき、僅かに掻いた。



(そして、ため息をつくのよね。肩を落として)



 予想通り、ケルッツアは深く息を吐き、肩を落として前かがみになった。



(このひとが、単にわかりやすいだけよね)



 ソフィレーナは、自分に呆れて、気恥ずかしさに頬を染める。分からない訳ないじゃない、と、思ってしまう心は決して口に出さない。



(だって……もうすぐ三年だもの)



 朝は朝一の船で着く時間帯から、夜は船着場の最終便に間に合うまで。

 その他調査研究旅行では常に一緒、他の階に借り出される事はあっても、顔を合わせない日は実はない。


 そんな時間を三年近く過ごしていれば、計算の違えで、彼の不摂生日数が何となく判る、という現実もまた、なかなかに、むべなるかな。



(誰だってこうなるわ)

(私だけじゃない)



 彼女は。

 意地でもそう思いたかった。その変化に自分の心情が絡んでいるとは考えない。

 いいや、考えたくない。



(だって、()()()もん)

(バケモノだから……()()()




 それ以上思考が深くならないうちに――――いつの間にか高鳴っていた心臓と頬の辺りに感じた熱も、前髪や横からの栗色の髪で隠して。

 ソフィレーナはケルッツアに声をかけた。

 。


「ケルッツア・ド・ディス・ファーン。

 お仕事終わりました。で、今夜の打ち合わせ行いたいんですけ、っ」


 頭を切り替えるべく改めてケルッツアを見。


 息をのむ。



(ああ)(だめ)


(今この人の目を見ちゃ)



(だめ)



 ソフィレーナの見やる先、ケルッツアはただ、首を反って天井を見上げていた。

 目許は前髪の灰色に隠れて見えない。


 それは。それだけが救い。


 彼の、横顔の口元は時折言葉らしき形を作るが音はなく。ランプを持たない側の手が、しきりに何かを形作ろうと動かされていた。


 それら全てが、ケルッツア・ド・ディス・ファーンという学者が、思考を理論化する時の癖。



(この癖が現れた時の月一報告論文は、本当に面白いのよね)



 目の前で、夢中になる論が――――事実がまた一つ、彼の手で明かされている。

 その瞬間に立ち会えている奇跡に、ソフィレーナは、瞬く間に高揚した。耳の痒さ、鼓動の高跳びが抑えられなくなる。



(そろそろ、かな)



 その高揚感のままにケルッツアを観察していた彼女は、意を決し、どんどんと苦しくなる息を飲み込んで、一歩、彼へと近付いた。


 一歩。

 もう一歩。

 足場を確かめるようにゆっくりと、けれども確実に。


 そして、彼の褐色の手から今にも落ちそうなランプの柄に手を伸ばす。アーチを描く鉄の細いそれに横手からそっと触って、僅かに持ち、その体勢のまま慎重に上へと持ち上げていった。


 彼の皮膚と鉄が離れた刹那、痙攣のように指先が反応しただけで、鉤形に垂れ下がった指に意志の動きは無い。


 彼女が彼の顔を見ると、まだ思考の彼方のものを引き寄せ、体系付けている最中のようだった。



 ソフィレーナは、今度は自分の茶色のベストの内ポケットから、中型のメモ帳とペンを取り出し、メモ帳の白紙の部分を出した状態で、彼のランプを持っていた側の、今は固まっている褐色の手に握らせた。


 と、存外強い反応でペンとメモ帳が奪われた。



 何かを形作ろうとしていた側の手でペンを持つと、彼は自動書記のように手元も見ずに、なにやら数行書き込みをしていく。

 

 一行、二行。軽い図形が書かれて、最後に言葉が二つ。


 ソフィレーナはそれを見届けて、終わったかな、と。

 ケルッツアが今にも落としそうになっているペンとメモ帳をそっと受け取った。


「お帰りなさい、ケルッツア・ド・ディス・ファーン」


 メモ帳が手から離れた途端、ケルッツアは天井に向けていた顔を元に戻した。


「うん。ただいま」


 既に普段の状態で、ソフィレーナにそう返して笑っている。



(たった、これだけで)

(何処にもケチの付けようの無い論文が書き上がるのだから、バケモノよね……)



 ソフィレーナは、回収したメモ帳を畳みながら、内心舌を巻いている。一瞬見えてしまった書き込みは絶対記憶脳に消える事はない。けれど、ソフィレーナには、書かれている事の全体像が分からない。


 ケルッツアの――――知恵者の論は、あまりに簡潔であまりに突飛。


 あたかも地底湖の水生生物から彩度の定義を経て、重力の落下速度を割り出し気化した分子の最小単位を論じるように。



 『ウィークラッチ島における蔓植物の観察記録』


 何をトチ狂ったか、報告論文でいつぞやこの知恵者はそんな物を書いた事がある。


 恐らく、本人としてみれば軽い遊びのつもりで提出したそれは、しかし学会の記録に未だ残るほど精密で、笑い飛ばせば即笑った側の無能さを曝け出す、とんでもない代物だった。



(そう。このひとはバケモノ)



 ソフィレーナは未だ微かに残る早鐘の余韻を内に抱きながら、平静を装ってサリウルから頼まれていた論文がある事をケルッツアに告げる。

 ケルッツアは、小首をかしげたが、ややもすると、ああ、と納得。論文のあるという展望部屋にひょいと足を進めた。

 ソフィレーナも一通りケルッツアの忘れ物がないか彼のいた場所を確認してから、後に続く。


 ケルッツアは手慣れたもので、展望部屋に入ると、照明をつけざま、向かって右の壁に押し付けてあるお気に入りの大きな青いソファーと、窓際に対で置かれた背もたれのない黄緑の椅子の間にある、低い木製のデスクの上の荷物を確認する事もなく、対置きソファーの更に奥に足を進めた。


 彼のパソコン机に目立つように置かれていたテェレルからの――――第二図書館長からの正式な書類リストよりも、その下の、論文の下書きだという紙の束を手に取ると、流し読む。


「……・・・・・・。

 これ、君はどうだった?」


 ケルッツアは、ソフィレーナが禁書庫の照明を消し、展望部屋の扉を閉めたタイミングで問うた。


 彼女は、彼の手の中の論文を、ちらり、と見やった後。可もなく、不可もなく、と、ソファーの対置きされた場に向かってゆく。

 低い木製のデスクの上、整えた毛布に手を置くと、口元に片手を当て、考える素振りで目を瞑った。


「良くまとまっているとは思います…でも……」


 彼女の継いだ言葉に、彼も全く同じ言葉を沿わせる。



「持論が出てない」



 重なる響きに驚いたソフィレーナは思わず目を開けてケルッツアを見。



(あ、やば)



 天と地が判らなくなった。



「っ…」


 声を咄嗟に飲みこめただけ、まだマシだったと、彼女は感じた。


 平衡感覚のあるうちに、と。近くの助手専用の――――背もたれのない切り株のような黄緑色の椅子に腰かけ、低いデスクの上に用意した毛布やコートを再度確認するふりをしながら、細く息を吐き出す。

 

 妙な浮遊感を感じるのはいつものこと。

 いい加減慣れたいと思うのも、いつものこと。

 背の辺りが痺れる。それは悪寒か、愉悦か。



(このひとの目にだけは、わからないわ・・・・・・)



 ぞくぞくと足の爪先から駆け上がってきては、全身の力を奪い去ろうとする何かに、ソフィレーナは心底己のうかつさを呪った。

 何度同じような場面に出くわしているのか。忘れていない筈なのに、だから、目を瞑ったのに。

 どうして開けてしまったの。忸怩だる後悔が胸に消えない。



(立てる、かな・・・)



 ソフィレーナは、本気で自分の足の心配をしていた。腰が抜けていたらどうしよう、と。


 そんな彼女など知らず、ケルッツアは、論文をページ飛ばして読みながら鋭い言葉を続けていく。


「…今、有力視されてる論の追随だ……それだけだな。

 いい所を突いているのに………曲げている。

 ・・・これは、おべっか用? にしてもひどい。惜しい。

 こんなものを出したら体よく使われて終わりだぞ……」


 

(バケモノじみたこと、言わないでくださいよ・・・ホント)



 ソフィレーナは、横で聞いていて泣きたくなった。

 ケルッツアが今、サリウルの下書き論文に注いでいる目が、怖い。


 怖いもののはずだと、彼女は認識、()()()


 論文が()()()()()()と感じる、そんな心はないと、ソフィレーナは必死に自身と戦っていた。



(その目に見て欲しい、なんて、私考えてない)


(考えない、はずよ)

 

 

 ケルッツアの時折見せる、あくなき学者としての目。普段は灰色に近い色を深い漆黒に染め上げた知性の瞳。


 ソフィレーナは、それに、どうしようもなく恐怖を覚える。


 恐怖以外を()()()()()()()()と、こわくなる。

 


(バケ、モノ)



 彼女は見続けてきた。

 強大なバケモノの傍にいてもうすぐ三年、バケモノが、獲物を解す姿を見つづけてきた。

 獲物が、綺麗に、綺麗に解体されていく様を、畏怖と、認めたくない感情でもって、見つづけていた。



(だって、ほんとうに……優しく解体していくから・・・・・・)



 ソフィレーナはケルッツアに対して、事象の神そのもののように感じる事がある。

 それほどまでに、彼の前では全ての事柄が跪き、おのずと全てを曝け出してゆく。



 元より、彼女は思う。狂っているではないか。通常では考えられないことだ。

 記憶よりも。地位よりも。名誉よりも。己の体よりも。



(思考の劣化)



 それだけを厭って都市伝説を信じ文献を漁り、遺跡の解読をして遺跡を壊してまで、異世界への旅券を手に入れる人間なんて。


(バケモノ以外になんて呼んだら)



(もし)


(も、し)



(その目が、()()()()()()()()()()?)



 ケルッツアの黒い学者の眸。

 それに出くわす度、ソフィレーナはこの恐怖と戦っている。


 絶対記憶脳保持者。国の礎として命を捧げる事を、誰かに確実に求められている人間。

 それが、ソフィレーナ・ド・ダリルの、女神の血が直系なのに薄い落ちこぼれ姫の、もう一つの顔。


 彼女は高貴な家に生まれついて尚、四歳の時から、生存と脳の詳細なサンプル化の為の解剖とを天秤で図られている立場にある。



 だから、ケルッツアの学者の目が、恐ろしいと感じてしまうのだ。

 その目にきっと()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことが、こわい。



(こわいと思えない、のが、こわい・・・)



 彼女は、左胸が、胴が脈打ち酷く痛む感覚を耐えた。両の首筋、頭にかけて筋肉の収縮する痛みの鮮烈さが、回る血潮の音が、幻覚を見せる。


 伸びてくる、子供のような褐色の手。

 ケルッツアの真っ黒な眸に見つめられたら、ソフィレーナは抗う暇もなく、思考すら麻痺するだろうと思っている。


 解剖台の上に連れていかれても。

 二度と目覚めない薬を打たれても。



(きっと、どこかで)



()()()()って、おもう、わ・・・)



 そうして、ちり一つ残らなくなるまで、奇麗に、きれいに解し尽くされるのだと。

 彼女がこの事を思う時、天啓に似た予感はいつも冷たく言い知れず胸を透いてゆく。


 ありえないことだ、と。彼女はその事を十二分に判っているはずだった。そうでなければ、己の両親が――――女神の血の出来損ないの子供を、確かに愛して慈しんでくれる両親が、家族が。

 バケモノの傍に娘をやるはずは、ないのだから。



『断わる!

 折角だが、僕は君たちには興味がない!!!! 』



 温厚と知られる知恵者であり栄光誉れ高き賢者が、一際声を荒げて、人体解剖組と呼ばれる基礎医学の面々からの誘いを断った話は余りにも有名。


 ソフィレーナも、もうすぐ三年ほどそばに居て痛感する事に、このバケモノは人に興味を示さず、人を獲物として見ないということがあった。

 だから、こんな僻地に追いやられて尚、人望も厚く人も寄ってくるのだと。



(だって、アリエテハナラナイコト)




(ああ。でも)




 痺れて浮ついた思考はただただ、めぐる。

 今の彼女には、現実の音が水底にいるかのように酷く遠く聞こえていた。


 ケルッツアの声は既に独り言じみている。


「これが遊びならなにも言わない…けれど……。

 …発表するのなら……まだ、詰める必要があるな。」


 そうして知恵者は、論文とは別の紙――――この場合、テェレルの書類しか他にはないが彼女は気づく余裕なく、彼は書類がどうでもいい――――へと走り書きをし始めた。



 頭の片隅、内ポケットのメモ帳、と思いつつ。

 ソフィレーナはただ、食い入るようにケルッツアの漆黒の眸を見つめている。

 恐れながらも、その深さを測るように。



(もし)


(その目が振り向いた時)




 そして、どうにもこうにも湧き上がる、言葉では言い表せないほどの紅潮に、歓喜に抗えずにいた。

 思考はめぐる、くるくる。くるくる。




(誰よりも、その瞳の底を知ることができるかしら……)


(その黒に吸い込まれた時)





(はじめて、このひとを()()()()()ができる、かしら)



 論文の添削作業を続けるケルッツアの前で、ソフィレーナは、暴走する自身の内に囚われ出口は見えない。



(まるで、ブラックホールだわ)

(近づいたら最後なのに)




(強く惹かれて、どうしようもない)



 



***






 唐突に場に生まれたのは、ペンが机に落ちた、そんな些細なものでしかなかった。


「!」


 ケルッツアは、論文以外の紙に黒々と、最早何と書かれているのか本人ですら判別の難しい文字列を書き込んでいた手を止めた。


 ソフィレーナもまた、用意した毛布に手をかけたまま、ケルッツアをじっと見つめていた、己を自覚した。


 ふたりは、瞬時に普段の状態へと戻ると、互いに視線を合わせずとも同じ早さで瞬き二つ。


 ケルッツアは深く息を吐くと、自身の手にある、びっちりと書き込まれた紙切れを数枚見つめて頭を掻いている。


「…………しまった。

 ……やってしまったよソフィーレンス君…。

 これは僕のものではないのだから・・・・・・あー・・・っと、

 ・・・これと、これは、いらない項目だな…」


 黒い文字の上から更に幾つかの場所に横線をひきだす彼によって、テェレルの作った来期の仮定目録の三ページ程がもはや使い物にならなくなっている。


 ソフィレーナはようやっとテェレルの――――第二図書館館長からのリスト三枚が駄目になったことを大きく認識し、あとで謝罪と、その分のデータも貰わなくちゃ、と気まずく思った。


(このひとの暴走に飲まれてちゃ、助手失格よね)



 気をつける、と何度目かの半生で頭に手をやり、そこで改めてその動作に気付いて、今度こそ固く目を閉じた。何故頭に手をやっていたのか。少なくとも、彼女にそんな癖はなかった筈だった。


「サリウル君の……題材、ブラックホールでしたね

 あなたも……興味があるんですか?」


 ソフィレーナは、上げた位置のまま行き場の無くなった手を誤魔化す様に閉じて開くと、そっと背の下の方へと隠すようにしまいこむ。己の単純さも含め、呆れた声を出した。


 実際、彼女自身猛烈に反省していた。なんて単純。なんて浅はか。

 歯止めも効かずにあらぬ方向へと迷走していた思考に出てきた比喩は、この論文が発端とは思いたくない。


 が。十中八九そうだろう。



(サリウル君に罪はないけど……妙なスイッチが入るのね・・・気を付けなくちゃ)



 彼女の内で、今だ鳴り止まぬ鼓動の音は喚きのようだった。頬の熱さがどうにも浅ましく思えて、ソフィレーナは中々視点を定める事が出来ない。

 やおら立ち上がると、展望部屋に実に眺望よく外壁に沿って嵌められた硝子の壁に分厚いカーテンを閉める為、開いているレールに不備がないか、一通り見て回ろうと窓辺に進み出る。


 ソフィレーナに問われたケルッツアの声にも、自嘲の響きがあった。


「…うん。……僕も、研究したくて。

 でも、メルザ、ええと、メトーラルシザに止められていて。

 何時かは、と機会を窺ってる最中なんだけど、……刺されるのは、余り良い気分じゃあ、ないし………。


 上手くやらないと・・・中々ね………。


 そんな鬱憤もあったのかな・・ついつい、持論が出てしまったよ・・・


 彼女の脅しがあるから、実現させるには、もう少し時間がいるんだけどね……」


 ケルッツアは、新たな紙――――これはサリウルの論文が選ばれた――――に数行、今度は他人にも分かりやすく書き込みを入れつつ、恥じたような、掠れて心地の良い声で、強かに笑ってそんな事を話している。


 レールに目視で異常が見られなかったので、いよいよと開閉装置に向かっていたソフィレーナは、思わず、このひと、と呆れにケルッツアを振り向いた。

 頬の熱さを押し隠して。



(こんな事も聞けるのが、助手の特権よね)



 微かな愉悦が彼女の内に沸きあがり、その想いにますます視線を彷徨わせ、ソフィレーナは窓辺へと目をやる。夜の色、黒鏡と化した硝子ごし、直には見る事の出来ないケルッツアの顔を見つめて言葉を返した。


「……ティーチャー・ゲライアもお気の毒ですね。

 あの方、ブラックホール解明に一生捧げてらっしゃるんだから、貴方はゆずるべき、だと思いますよ?」


 窓辺に顔を向けて答え返したソフィレーナに、予想外の言葉を聴いた、とばかりケルッツアは目を丸くする。

 ついで、情けない顔で反論した。


「え、ゆずるべきってソフィーレンス君?

 ……いや、あの。

 気の毒なのは僕の方だろう? 頚動脈にメス突きつけられたんだよ?」


 同じ窓という鏡の中、一向こちらを向こうとしない己の助手は、実はこっそり照れている、とは。

 この時、ケルッツアは気付いたかどうか。


 ソフィレーナは相も変わらず素っ気無く、鏡の中の、遠いケルッツアにとぼけて見せた。片足だけつま先立ちに寝かせて、後ろ手に手を組み首を傾げている。


「さあどうだろ? 銃じゃなかっただけマシな気もしますが。

 ……で、その紙をサリウル君に渡すんですか?」


 ソフィレーナの飽きれたようなしぐさにか、冷たい言葉にか、振り向いた時の澄ました顔にか。

 ケルッツアは、よっぽど気に入らなかったか、眉を一瞬吊り上げると三白眼も見開き、怒りをあらわにした。


「じゅうっ・・・・ってッそう、だけど………ッ!」


 会話を打ち切る事もせず、ついには剥れてそっぽを向いてしまった。


 この段になって、彼女は素直にやりすぎた、と反省した。


「…あー……。

 ける、ッツア・ド・ディス・ファーン…?」


 急いでカーテンの開閉装置を入れると、ケルッツアの横に小走りで取って返した。

 少しだけ逡巡したのち、黒く長いコートの後ろから、自分の肩よりは少し高い位置にある彼の肩に手を掛ける。


「…結構、怒ってます? ………賢者様?」


 ソフィレーナのほんのりと赤い顔が、ちょい、と覗きこんできても、ケルッツアはぷい、と別の方向を向くばかり。

 視線だけは眇めよこしながら、冷たいというより拗ねた響きで答えてきた。


「さあ?

 ……いずれにしろ、貴女には関係の無い事であろうな?

 女神の血を受け継ぐ尊き血脈。ダリル家の末姫君殿」


 すがめ睨んでくる灰色の視線の圧力に、ソフィレーナもまた、ぷく、と頬を膨らませる。

 おもむろに、肩から手を放すと、微笑んで軽く片足で膝をついて屈み、礼を取る形で立ち上がった。


「もう!

 ……栄光、誉れ高き賢者ケルッツア・ド・ディス・ファーン様。


 私、ソフィレーナ・ド・ダリル、……ソフィーレンスめは、貴方様の助手でございましょう?

 ティーチャー・ゲライアがってのは……冗談ですってば」


 澄ました顔でケルッツアのコートの端を持ち上げ、顔の近くに掲げながら、これにキスもしますか? と引っ張るソフィレーナを慌てて振り返って、それでもケルッツアはまだ不服そう。


「そ、…それは、この国では、主従の誓いでやる事だって聞いてることで…・・・・・・


 ………冗談って…………………ほんとう? 」


 ケルッツアの声は、酷く幼く聞こえた。

 ソフィレーナは、今まで口許近くに寄せていた黒いコートの端をそっと、名残惜しそうに放して、苦笑しながらうなずく。


「本当ですよ」


 サリウルへのアドバイスを受け取りながら、当然でしょう? とソフィレーナが伝えれば、ケルッツアの褐色の曇り顔は直ぐに晴れた。



(そんなに、嫌、でしたか……?)



 ソフィレーナは、むず痒い感覚に口許が緩んで抑えられなくなる。

 抑えた口許の手の中で可笑しな笑いを掻き消して、軽く首を振り、前髪で目元を隠して落ち着いた。



 ケルッツアは、より機嫌を良くしたような顔で、後ろの彼女へと声を掛ける。

「……そっか。

 …と、じゃあソフィーレンス君、そろそろ行けるかな?」


 そして、声は冷静に、それ以外は弾みながら展望部屋の奥へと向かっていった。


 ソフィレーナはいよいよか、と残業の覚悟を決めて、毛布と厚手のコート、二人分の簡素な食品とポットを持ち、大きく息を吐き出すと、その背に続いた。


「…ええ。準備は出来てますよ。

 で、今日は私、屋上に出て観測のアシストですか?」


 追いついた彼女が問いかければ。


「ふふ、良い勘だねソフィーレンス君。でもまだ甘い。


 もうデータは十分とれたから。実証かねて、今日は全部機械に任せるのだよ」


 展望部屋の奥、望遠鏡の遠隔操作パネルを弄りつつ、ケルッツアは楽しそうに声を弾ませた。

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