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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ブルーラグーン

作者: 凪瀬夜霧

 失恋をした。


 いや、失恋をしたことを、知ったのだ。


 なんとも間抜けな事に、それなりにショックを受けている。

 そんな資格すら、ないというのに…。



 俺の人生は、これでも納得できるものだ。

 一流大学を出て、望んだ企業に就職した。同期を抜いて現在は社長秘書だ。

 高級スーツを着て、好みの車に乗り、一等地のマンションに住んでいる。

 サラリーだっていいだろう。


 だた、それだけだった。


 『少しきつい』が、控え目な俺への評価だろう。本心では『お局』だ。

 言葉がきつい。性格は言葉と同じく。

 けれど、同じくらい努力もしている。

 企業にとって優秀とされる人材の手本のように、勉強し、地道なツテを作り、成績を残してきた。それに対して嫌味を言われる筋合いはない。


 だが、プライベートな付き合いがないことは確かだった。

 恋愛は一応ある。

 今となっては、あれが恋愛と呼べるのかが疑問に思えるが。

 求められて、応じて付き合って、それなりの形があったのは確かだ。

 だが、すぐにそれは終わってしまう。女性いわく、『真剣じゃないのね』という事らしい。

 そうだったのだろう。実際、別れても未練なんてなかった。


 そんな俺に、上司の加賀地は困った顔でよく笑う。何でもなく仕事をしている俺に、「お前はもう少し落ち込みなさい」と説教するのだ。

 そしてそんな日は決まって、仕事上がりに飲みに誘われる。

 行くのは加賀地行きつけのバーだ。こぢんまりとしているが、雰囲気がよく、酒も美味い。

 バーテンの牧山も、決して必要以上に踏み込まない、心地よい空気を作ってくれる。

 俺はここでの時間が好きだった。

 話のはなんてことのない世間話だ。

 プライベートな時間の過ごし方。最近気に入っているもの。どうして彼女と別れたのか。そんな、近い距離の話。普段はこういう話は苦手だが、何故か加賀地には話せた。



 それは、俺にとっては突然の事だった。


「佑、すまないがイタリアンの店を知らないか?」


 加賀地からの申し訳なさそうな言葉に、俺は少し驚いた。

 加賀地はこれでも俺の務める会社の社長だ。仕事中にプライベートなお願いなんて今までされたことはない。その辺はわきまえている。


「いくつか知っていますが」

「見繕ってもらえないか? あまり堅苦しくない店で」


 何かが、どこかに刺さった。例えるなら、喉に小骨が引っかかったような、そんな痛み。だが引っかかった場所は喉ではなくて、もっと大切な場所のように思えた。


「構いませんが。よろしければ、俺が取りましょうか?」


 デスクの一番下の引き出しから、ファイルを引っ張り出して加賀地の前に持っていく。俺の秘蔵データだ。接待などに使う店をピックアップするのに、自分で調べて気に入った店をファイリングしている。どれも価格ではなく、店の雰囲気やサービスなどで選んでいる。


「こちらはパスタに力を入れています。裏路地で、落ち着いて食事が楽しめます。こちらは家庭料理が定評です」

「落ち着いて話がしたいんだが」

「では、こちらが。日時は?」

「今週末。と、言うのは急すぎるかな?」

「確認してみます」


 俺は何か胸の中がザワザワと落ち着かない事に不安を感じていた。

 別に、加賀地とは仕事の関係で、たまに飲みに行く程度の間柄だ。彼がプライベートでどんな事をしていたって…。


「…人数は」

「二人で」


 「どなたと?」と、聞きそうになって俺は踏みとどまった。

 知ってどうするつもりだ。

 関係ないだろ?

 そう、言い聞かせている自分に気づいて、俺は大いに焦った。


 無事に予定の日時で店の予約をし、場所の地図と連絡先を教えて、その日の業務を終えた。

 もやもやとしたものが残っている。

 なぜこんなに気になるのか。他人のプライベートになど首を突っ込まないほうがいいだろ。分かっていても、何かが割り切れていない。

 一晩経っても、一日経っても、俺の中で謎の感情は渦巻いている。名前を知らないその感情に振り回されて、正直疲れ切ってしまった。



 何もする気が起きない。そんな珍しい週末を過ごし、出社する。

 いつも通り少し早めに出てコーヒーを淹れ、加賀地の一日のスケジュールを確認後、メールの処理をするつもりでいた。

 だがこの日、俺よりも先に加賀地がいた。妙に幸せそうな顔で。


「おはようございます、社長。どうしたんですか、こんなに早く?」

「おはよう。実は、佑に報告したい事があってね」


 表情から、悪い報告ではないと分かる。けれど俺にとっては、どうだ?


「どうしました?」


 やめればいいのに、俺は聞く。聞くべきじゃないと、どこかで警鐘が鳴っただろう。それなのに、聞いてしまった。

 多分、俺の中にあるこの不安定な状況にケリをつけたかったのだと思う。


「恋人が、できたんだ」


 俺の中で、何かひび割れた音がした。表情が死んでいる気がする。幸せそうな人を前に、今にも死にそうな顔をしているんじゃないかと不安になる。自分が笑えているのかも、分からない。


「それは、よかったですね。この間の食事、上手くいったのですか?」

「あぁ。佑には本当に感謝しているよ」

「ちなみに、お相手は…」


 心臓の音が大きくてうるさいくて、止まってしまえばいいと願った。よせばいいのに相手の事を聞いていた。そんなの聞いたって、状況が悪化するばかりなのに。

 加賀地はどこか恥ずかしそうに笑う。そして、実に意外な人物の名を口にした。


「牧山なんだ。もう三年以上誘い続けていたんだが、ずっと断られていて。でもようやく、実ったんだ」


 目眩がした。加賀地に恋人ができた。しかもその相手は、よく連れて行ってくれたバーのバーテンだなんて。

 気づくべきだった。もう三年も片思いをしていたと言うなら、何か気づくだろうに。

 言われてみれば、何度かそうした空気を感じた事はあったかもしれない。濃厚というか、親密というか。


「気持ちが悪いと思うかい?」


 加賀地の辛そうな表情を、俺はどんな顔をして見ていたのか。顔の筋肉がこんなにも動かないのは、初めてだった。これでも外面はいい方なのだが。


「佑、これだけは信じてくれ。遊びじゃなくて、本気なんだ。好きになった相手が、たまたま男だったんだ」

「…信じます。だって、貴方はそういう人だと、俺は知っていますから」


 偏見など持たない人だ。学力や見た目で相手を判断しない人だ。誠実で、優しくて、穏やかな人だ。どんな相手にも、誠意を見せる人だ。


 そんな人だから、俺はこの人についていこうと思ったんだ。


 決して平坦な道じゃなかった。大手にいた俺を加賀地は口説き落とした。正直、給料はいいが雁字搦めの大手に辟易していた俺にとって、まだ無名の会社というのはやりがいがあった。

 コツコツと、でも確実に積み上げるように進めてきた。少しずつ会社も大きくなって、大きな仕事を任されるようになって、やりがいがあって、今に至る。ここまでこれたのは加賀地の人柄だって大きい。彼を信頼して任せる企業も今は多い。


「佑?」

「おめでとうございます。俺は、応援しますので」


 言って、俺は必死に笑顔を作った。



 失恋を知った。

 誰かを、しかも男を愛していた事に戸惑うよりも、胸の痛みに息ができない事に驚いた。

 今まで恋愛だと思っていたのは、なんだったのか。

 こんなにも痛い思いをしたことはない。



 その日、俺は社会人になって初めて早退した。俺の顔色が朝から優れない事を、加賀地が心配したのだ。


「少し前まで忙しかったから、今になって疲れが出たんだろう。数日休んでも構わないよ。有給も溜まっているだろ?」


 加賀地の気遣いに、俺は従った。正直このままなんでもなく仕事ができるとは思えなかった。こんな上の空で仕事をしてはミスをする。それを思えば、大人しく数日休むのが適当に思えた。


 …いや、これも言い訳だ。実際は、顔を合わせていられなかったのだ。


 家に帰って、疲れ切ってスーツのままベッドに転がる。顔を手で覆って、俺は壊れたみたいに乾いた声で笑っていた。


 どこの生娘だ、こんな事で仕事が手につかないなんて。バカも休み休み言え。

 とんだ体たらくに、自己嫌悪に陥る。俺はこういうことが許せなかっただろ。仕事にプライベートを持ち込み、コンディションを保てないのは社会人として未熟だと、言っていたのはどこの誰だ。


 三日、何も手につかなかった。カップ麺で三日乗り切るなんて、学生時代だってしたことがなかった。だが、食べに出る気分にはならなかった。

 何もしていないのに、疲れてしまった。

 幸い、俺の気持ちは誰にも知られていない。だから、俺が割り切れれば今のままでいられる。


 いられるのか?


 三日も悩むと気持ちも脳みそも疲れてきて、自暴自棄になってくる。明後日には出勤というのに、俺は無表情なまま上着を手に家を出た。

 向かったのは、牧山のバーだ。




 牧山一秀という青年は、とても雰囲気のいい青年だ。

 存在感はあるのに、決して邪魔をしない。動作や間合い、話し方が絶妙なんだろう。

 そんな彼が作り出すこのバーも、雰囲気がいい。

 カウンターに九席、テーブルが二席。間接照明の落ち着いた店内は、ゆったりと広めにスペースが取られている。

 その中心でシェーカーを振る牧山がいて、この店は完成されている。


 ぼんやりと絶望の淵を漂う俺の前に、明るい色調のグラスが置かれる。

 既に四杯、限界もくる。


「大丈夫ですか、鳥潟様」

「んっ、平気。これ…頼んだかな?」


 既にその記憶すらも曖昧だ。

 俺の質問に、牧山はゆっくりと首を横に振る。


「俺からです。アルコールは入っておりませんので」


 柔らかく笑って言った牧山を、俺はどんな目で、どんな顔で見ているのだろう。


 意気込んできたものの、牧山の雰囲気に折られた。俺は結局、何の恨み言も言えないまま一人である事に驚く牧山を無視しつつ席につき、いつもは三時間かけて飲む量を二時間で飲んでいる。途中心配されたが、押し切った。

 サービスだというノンアルコールカクテルに口をつけて、そうするうちに少し覚めてきて、また自己嫌悪に陥る。

 見て、話して、牧山はいい奴だと伝わる。正直、加賀地が惹かれた理由は分かる気がする。見た目にも綺麗だし、雰囲気も癒やされる。疲れていたら、こんな人に癒やされたいと願うだろう。


「ギブソン…」

「あの、もうやめておいた方が」

「大丈夫だから」


 俺の強い口調に、牧山は困った顔をしている。でも、これ以上酒を出してくれる様子はない。意外と頑固なのかもしれない。


 何をやっているんだ、俺は。


「…いや、やっぱいいよ。お会計お願い」


 いい大人が失恋未満のくせに一人で落ち込んで、自暴自棄になって、何の罪もない幸せな他人に八つ当たりをして、恥ずかしいだろ。

 俺は立ち上がって、立ち上がろうとして、出来なかった。

 立とうとした瞬間、足が地面についていないような感覚があって、世界が歪んだ。


「鳥潟様!」


 スツールから落ちそうになった俺を、牧山が慌てて支えて座り直させてくれる。俺はそこから、一歩も動けなかった。ただカウンターに突っ伏して、吐き気に耐えるばかりだ。

 正直、牧山は焦っていただろう。誰かに助けを求めようとしていたのかもしれない。ポケットから携帯を出すのが見えて、俺は焦った。彼が連絡を取ろうとする相手は、想像ができた。

 俺が焦ってそれを止めようと体を起こした、その時だ。涼やかなドアベルの音が店内に響いて、一人の男が入ってきた。


「一秀、久しぶり! って…どうした?」

「明谷さん!」


 途端、牧山の雰囲気が軽くなったのが伝わった。『助かった』という感じだろう。

 入ってきた男は、チャラそうな男だった。年は同じくらいに見える。それなりに身綺麗にしているが、空気が軽い。


「そのお客さん、潰れちゃったの?」

「少し側にいてください。俺はタクシー呼びますから」


 そう言って慌ただしくカウンターの中に入っていった牧山をぼんやりと見送った後、俺は隣に来た男を睨み付けた。


「ありゃ、なんかお気に召さない感じかな?」


 虫の居所が悪いんだ。


 男は一度俺を上から下まで見て、ニッと笑った。そして何を思ったか、俺の脇を抱えて立たせた。

 途端、世界が歪んで我慢していた吐き気が限界を超えそうになる。慌てた俺はパニックになりそうだった。酒の席で失敗なんてしたことがない。これが今までの人生で初めての醜態だ。

 だが男は素早く、側のトイレに俺を連れて行って、背中をさする。屈辱だが、どうにも止めようがなかった。

 そうしてしばらく時間が経って、俺はどうにか立ち上がる事に成功した。正直具合は最悪だが、よろけながらも歩ける事に安心もした。


「ほれ、まずはおしぼりな」


 トイレのドアの所で、さっきの男が待ち構えていた。手には適度に冷ましてあるおしぼりがある。それで手や口を拭うと、少しだけサッパリした。


「水も少し飲んだら? 楽になるから」

「いい…」

「人の忠告ってのは、聞いとくもんだぞ。少なくとも俺は、お前よりもこういう失敗多いからな。楽になる方法も、ちゃんと知ってる」


 強引に出された水を口に含み、少し口をすすぐ。口の中もサッパリしたところで、改めて一口。とても心地がよかった。


「タクシーは乗れないだろ。多分、また具合悪くなるぞ。少し夜風に当たろうぜ。今日は梅雨の晴れ間で、いい風が吹いてるからな」


 男はまた、俺の脇を抱えて強引に連れ出す。抵抗は、ほぼ無意味だった。


 外は確かに気持ちのいい風が吹いていた。火照った肌にひやりとするが、このくらいが心地いい。


「家、遠いのか?」


 俺は答えなかった。見ず知らずの男に何故そんな事を言わなければいけないのか。元々機嫌が悪いこともあって、俺はだんまりを決め込んだ。

 だが、男は俺が黙ったのをいいことにどんどん足を進めていく。酔ってふらふらの俺は、しらふの男に抵抗する力がない。

 そのうち、少しだけ怖くなってきた。行き先も分からない、誰かも知らない相手に、連れて行かれる。店から大分離れた、知らない場所でようやく俺は足を止めようと踏ん張った。


「気持ち悪くなったか?」

「ちが…」

「あぁ、やっと覚めてきて怖くなったか?」


 言い当てられた事に、俺は動揺した。男がニヤリと笑う。危険な感じがして、逃げようとしたが周囲に人はいない。車の一台も通っていない。

 焦った俺は、だが次の瞬間に男がやんわりと笑ったのに、驚いて声を上げ損なった。


「とりあえず、何もしないよ。ここから、あと数メートルで俺が使ってる隠れ家がある。ベッドもシャワーもあるから、泊まってけ」

「うさんくさ…」

「じゃ、自力でタクシー呼んで帰るか? 正直その様子だと、車乗って気分悪くなって途中下車だな」


 『帰る』という言葉に、俺の思考が止まった。


 帰る? 家で、また一人になる。具合悪くて、最悪で、そのうえまた一人で悶々と考える一日を過ごすのか?


「…帰りたくない」


 小さく、絞り出すように言った言葉を、男はしっかり聞いていたんだろう。そこからは何も言わずに、俺をその隠れ家とやらに引きずっていってくれた。


 男の部屋は2LDKの、センスのいい家だった。

 入ってすぐにソファーに転がされた俺は、動くのも億劫になって無言のままでいる。

 何も考えたくない。何も感じなくなれば色々と解決するようにすら思える。まずはこの醜態だ。自分が情けなくて消えたくなる。

 そして、相変わらず底の方に渦巻いている痛みだ。


 コトッ


 ガラス天板のローテーブルに、水の入ったグラスが置かれた。視線だけを上げて男を見ると、穏やかな表情で見下ろしている。


「飲めよ、楽になるから。少し食べれそうなら、果物でも切る」

「…あぁ、食べてなかったな」


 ぼんやりとして、俺は言う。心の声なのか、何かの受け答えなのか、もうはっきりとしていない。


「食ってなかったって。もしかして、空きっ腹に酒入れたのか?」


 出された水をチビチビ口に含みながら、俺は頷く。良く覚えていないけれど、今日は食べた記憶がなかった。

 一瞬、男に睨まれた気がした。次に、男はその場から消えてキッチンへ。冷蔵庫から何かを取り出している。

 少しして出てきたのは、果物の盛り合わせ。グレープフルーツに、リンゴ。


「少しでもいいから入れろ。あんた、本当にあそこの常連か?」


 常連ってほどでもない。月に一~二度、たった三年のつきあいだ。


 出された果物に手を伸ばし、口に含む。正直気持ち悪くなるんじゃないかと恐れたが、意外と大丈夫そうだ。しかも一口大に切ってあるから、食べやすい。

 男は俺のそばに腰を下ろす。俺はというと他人の家なのに、もう何もかも面倒で寝そべったままだ。醜態なんぞもう、この男に対しては晒しすぎて怖くもない。


「一秀が驚いてたぞ。普段はこんな無茶な飲み方をする人じゃないのにって。なんか、嫌な事でもあったのか?」

「…」


 言い出せないのは、言っていいのか悩んだからだ。言えるほど、痛みは消えているか分からない。

 酒はこんな時に、力を貸してくれるのかもしれない。少なくとも理性とか、プライドとか、そういう面倒なものが外れやすい。ましてこの男は俺を知らない。そういう気安さがあった。


「失恋、したことに気づいた」

「は? 何だその面倒な言い回し。振られたのとは違うのか?」

「振られる以前の問題だ」


 俺の言いように、男は考え込んでいる。まぁ、こんな間抜けな話、誰が想像できるものか。

 俺は、もの凄くゆっくりと事の経緯を話した。話している間、やっぱり小骨がひっかかったような痛みがあったけれど、一人で悩むよりはずっと痛くないように思えた。


「…あんた、鈍いにもほどがないか?」


 俺の話を聞き終えての、男の率直な感想だった。

 俺もそう思う。本当に、笑い話のレベルだ。


 男が少し、距離をつめた。俺は随分楽になって、とりあえず起き上がる事に成功していた。それでもソファーの背もたれにどっかり身を預けている。腰を立てるのは、まだちょっとバランスが取れない。


「ほんと、自分でもバカバカしい。挙げ句、嫉妬する資格すらないのに彼のバーに向かって、何か言ってやろうなんていい迷惑だ」


 誰かに話すことで、少しだけ冷静になってきた。冷静になってきたら、本当に自分がバカだと気づく。

 でも男は楽しそうに笑ったけれど、そんな俺を否定しなかった。


「まぁ、恋愛なんてのはどんな利口な奴でもバカになるって。そう落ち込むなよ。ヤケになる前に理性働いたんだ、十分だろ」


 男に大いに笑い飛ばされていたら、今まであった胸の中のモヤモヤがストンと落ちていく。そうなると、冷静になっていく。

 男がまた少し、距離を詰めてくる。俺は拒絶しなかった。と言うよりも、その隙をこの男が与えなかったんだ。

 体が触れるか触れないかのギリギリの距離は、普段なら近くて困惑する。でも今は、これでよかった。




 目が覚めた時、ここがどこか分からなくて焦った。知らない家で、ソファーに寝ている状況。少し遠くでシャワーの音がしている。

 落ち着け! と、俺は何度も繰り返して、昨日の記憶を引っ張り出す。幸い、どれだけ飲んでも大まかな記憶はある。細かな会話の内容は思い出せなくても、誰とどんな経緯でここにいるのかくらいは覚えている。


「牧山さんのバーに行って…」


 男が、俺の面倒を見てくれたんだ。柄にもなくハイペースで飲んで、自暴自棄になって、酔い潰れた俺に付き合ってくれた。帰りたくなくて、男がここに連れてきて、話を聞いてくれたんだ。


 ガチャッ


 音がして、男がバスローブ姿で出てきた。目が合った俺は、少しだけ気まずい。昨日の醜態を思いだしたら、かなり恥ずかしかった。


「起きのか。シャワー使うか?」

「あぁ、うん」


 一瞬逃げようと体は動いた。けれど、思いのほか動けなかった。まだ少し、昨日の酒が残っている。

 男は気にする様子もなかった。キッチンに行って、ミネラルウォーターを飲んで、俺の対面にくる。


「あの、昨日は、その…」


 なんて言えばいいだろうか。言い訳も変だし、今更だろう。

 そういえば、この男の名前を俺は知らないんじゃないのか?


「お、正常な思考には戻ったわけだ。んじゃ、改めて自己紹介だな」


 男は実に明るく言って、俺の前に名刺を差し出す。俺はそれを受け取って初めて、男の名前を知った。


「明谷恭平です。この辺にいくつか、飲食店を持っている。一秀ともそういう縁で知り合いだ」


 男の名刺を呆然としばらく見ていたが、ハッとして俺も財布から名刺を出す。なんか、おかしな絵面だが。


「鳥潟佑です」

「へぇ、空間コンサルタント! 店のインテリアや、イベントの運営もやるのか?」


 明谷は俺の肩書きに、予想以上に飛びついた。これは職業柄か?


「小規模なパーティーから、展示会のような企画のプロデュースまでなら」

「へぇ。今度お願いしようかな。店の内装とか、結構マンネリ化して面白みがないんだ」

「有り難うございます」

「お願いしたら、あんたがやってくれるのか?」


 明谷の少し鋭い視線に、俺は一瞬ドキリとした。勿論そんなもの、顔には出さなかったが。


「俺は秘書で、設営なんかは」

「そら残念」


 あっけらかんとした様子で、明谷はそれ以上仕事の話はしなかった。


 俺はシャワーを借りながら、これからどうしたものかと考えた。今日まで休みはある、それはいい。問題は、これほど迷惑をかけた相手にどう礼をしたものか。

 考えたが、そもそもそんな事をあいつが望むのかが分からない。

 熱いシャワーを浴びても俺の脳みそはまだ酔っ払いなのか、結局結論など出ず、あいつに聞こうということにした。

 シャワーから上がると、明谷はキッチンで何かを作っていた。俺が上がったタイミングで出来たのか、二人分のうどんが出てくる。質素で色の薄い、関西風のうどんだ。


「まずは胃に入れろよ。んで、ちょっと付き合え」

「付き合うって…」

「あんたの時間を少し、俺に使ってみないかってこと。大丈夫、夕方までには帰すから」


 俺は言葉をなくした。だがとりあえず、礼をするという話はこれでチャラにしようと思った。

 明谷が何に付き合えと言うのか、正直ドキドキしていた。とんでもない事を言われるんじゃないかと、警戒していた。

 だが彼が始めたことは、俺の想像の範疇にはなかった。


「…なに?」

「何って…ゲーム」


 家庭用ゲーム機をセッティングして、俺にコントローラーを握らせる。そして、問答無用でスタートさせる。


「ほら、始まるぞ」

「え? ちょっ!」


 始まるぞって、俺はゲームなんてやった事がない。

 結局、俺はスタートこそできたものの、ゴールはできなかった。その事実に明谷は驚いている様子だ。


「もしかして、ゲームしない子だった?」

「あぁ」

「これ、国民的レースゲームよ?」


 知るかそんなもの!


「友達の家とかでも、やった事ない?」


 そんな友達がいたらこんな性格してない!


 思わず俺は睨み付けた。色んな鬱憤をぶちまけるような怒りの目だ。それに、明谷は少し怯んで、申し訳無い顔をした。


 申し訳無い顔をするな! 余計に…惨めになる。


「あんたさ、休日どうしてんの?」

「読みたかった本を読んだり、行ってみたかったショップを巡ったり、ドライブしたり」

「一人?」

「一人だが」


 いちいち気に障る。昔から、こういう弄り方をされるのが嫌いだった。

 全身からイライラオーラを出している。こういう時、普通の奴は適当に濁してその場を去る。そういうのには慣れている。だがこの男はあろうことか、目を丸くしたままとんでもない事を言ってのけた。


「それって、楽しい?」


 ピシッ


 俺の中で怒りにヒビが入った。


「楽しいが、何か?」

「誰かと遊ぶのが楽しいだろ。そりゃ、一人の時間も大事だけどよ。休日だぞ! アフターファイブじゃ出来ないことをしないと」

「俺はこれで十分楽しいんだ!」


 苦手な相手だ。俺とは真逆の考えだ。しかもそれを他人に押しつける。そうやって、俺を否定するんだ。

 睨み付けた俺をマジマジと見て、だが明谷はニッと笑った。


「教えるから、もっかいやろうぜ」

「なんで!」

「できないままは悔しいだろ? 一度くらい俺に勝てよ」


 ニッと笑った明谷は、俺の言葉を全無視してコントローラーの説明やら、キャラの説明やらを始める。そして何度も、バカみたいに同じコースを走るのだ。


 結局、数時間やっても明谷に勝てるようにはならなかった。だが、コンピューターには勝てるようになった。


「ほら、やればできるじゃん。あんた、頭いいんだな。飲み込みが早くて焦る。もう少しやれば、俺も危ないな」


 妙な満足感があったのは、確かだ。苦手だと思って手を付けなかったのは確かだったから。


「食わず嫌いみたいなもんだろ?」


 俺は少しだけ、明谷を睨み付けた。


 確かに、そういう部分はある。苦手なんだと思ったら、その分野は捨てた。捨てて問題のないものだと思っていた。だが、おそらく捨ててはいけないものだったんだと、大人になって気づかされた。

 かといって大人にもなって焦って拾い集めるには、プライドが邪魔をしてできなかった。結局は自分の土俵で勝負できるポジションに相手を持っていく方法しかとれなかった。根本的には何も、解決などしていないと分かっているのに。


「なぁ、あんたって人付き合い苦手なんじゃね?」


 コントローラーを置いて、明谷が言う。他人が絶対に本人を目の前にして言わない事だ。俺のプライドを全く考慮しない、直接的な言葉で言う明谷に、俺は何も答えずにいた。


「プライド高いだろ。しかも、そこを突かれるとあからさまにムッとする。高学歴でルックスいいと、そういうので遠ざかる奴が多いだろ」


 言い返す言葉が見つからない。明谷の見透かしたような言葉は、そのまま俺の行動だ。大抵は一睨みで去って行く。

 だがこいつは何故か逃げない。適当に受け流して、何事もなかったかのように側にいる。こんな奴は初めてだ。


「お前は、どうして側にいる」

「俺は興味があるから」

「興味?」

「そっ、あんたに興味」


 俺の思考は一瞬固まって、その後には驚きがあった。


 悪い気はしない。

 こんなに不機嫌な俺の相手をしてくれた奴は初めてだ。思えば昨晩のような醜態を見せた相手もいない。全部自分の中で、自分だけで処理していた。それで、これまでは良かった。

 今回の事で、何かを思い知った。俺は一人でいいと思っていたけれど、一人はあまりいいことじゃない。こんな時、誰に話していいか分からないからだ。

 いや、誰かに話すことも許せなかった。偉そうに説教している俺が、部下にこんな姿をさらすことはできない。加賀地になんて言えるわけがない。高校や大学の元友人は卒業後に音信不通になっている。


「なぁ、あんたは土日とか休み?」

「あぁ、大抵は」

「平日は?」

「基本、六時上がりだ」

「ふんふん」


 明谷はこんな事を聞いてどうするのか。


「また、誘ってもいいか?」

「? いいが、俺といても楽しくないぞ」


 遊び方も知らないし、そういう場所も知らない。正直一緒にいて楽しい相手だとは思えない。


「それは、人それぞれだろ? 俺は楽しい。今度は…ドライブか、飯な。何が好きだ?」

「なんでも…」

「じゃ、来週の土曜日なんてどうよ。も少し、話もしたいからな」

「あぁ…」


 次の約束なんて、少しくすぐったい気がする。

 でも心の中では、それが楽しみな気がしていた。




 翌日、俺は普通に出社できた。

 正直、加賀地の顔を見られるか不安だったが、平気だった。

 多少痛む気はしたが、それはもう気にするほどの事ではなかった。だから普通に振る舞う事ができた。

 もしもまた、加賀地の顔を見てあの思いがぶり返すようなら、辞職というのも考えていた。迷惑をかけるくらいなら、黙って去った方がいいと休みの間は思っていたのだ。

 問題なく、今まで通り仕事ができそうだった。



 明谷は約束通り、土曜日に俺を誘って食事に連れて行った。こぢんまりとした居酒屋で、焼き鳥と日本酒が絶品だった。距離が自然と近いが、それはあまり気にならなかった。

 付き合ってみると、明谷は気持ちのいい奴だった。良くも悪くも裏がない。言う事はきついことも多いが、大抵は的を射ていたから受け入れるしかない。

 それに、俺が反発しても気を悪くしない。だからこそ、俺は本心を隠すことなく安心して言えた。悪態も平気になった。

 そして俺を否定しない。受け入れたうえで、あいつなりの意見を言う。そのことに、俺は安心していた。



 あいつとの付き合いが一ヶ月を過ぎる頃、仕事にも影響があった。部下から漏れ聞こえていた俺への陰口が少なくなっていた。昔はもっと耳についたのだが。

 気にならなくなったのか、数が減ったのか。それは俺ではなく、加賀地からもたらされた。

 久々に飲みに誘われて、牧山のバーに行った。その頃にはまったく。俺は加賀地の事を考えなくなっていた。元々俺の気持ちが加賀地に知られていたわけではない。それがよかった。


「最近、佑は雰囲気が柔らかくなったね」

「そうですか?」


 加賀地の嬉しそうな言葉に、俺は首を傾げた。そう、変わったとは思っていない。


「話しかけやすくなったとか、怒るときも棘がなくなったとか、部下から聞くよ」


 そんな意識はなかった。だが、少しだけ思い当たる事はあった。

 明谷が言った事がある。


『あんた、言い方がきついんだよ。言う前に、一呼吸おいてみろよ。そうしたら、少し落ち着く。で、論破しようとしないで相手に考えさせるように諭せばいい。それだけでだいぶ、印象変わるって』


 と、言われた。部下のミスを怒るときに、ふとそれを思い出すようになった。自然と、一呼吸おけた。次は沸点が下がった。そうしたら、冷静に相手を見られるようになった。


「怒られたいファンもいるみたいだぞ」

「それはちょっと、遠慮願いたいです」


 困った顔で言う俺に、加賀地は楽しそうに笑って、その後は妙に見られた。観察するような視線には慣れていなくて、俺は更に困る。だが本格的に困ったのは、次の加賀地の言葉だろう。


「恋人でもできたか?」

「え?」


 思いがけない言葉に、俺は思考が停止した。

 恋人…ではない。友人には、なれただろうか? それすらも疑問だ。

 明谷との関係は、始まったばかりでどこに位置するのか。他人との関わりが希薄すぎた俺には分からない。

 急に不安になるのはなぜだ。今確かに関わっている、それで満足しているはずなのに。


「佑?」


 黙った俺に、加賀地は不安そうに名を呼ぶ。それにハッとして、俺は久しぶりに顔を作った。


「恋人はいません。最近、友人ができて」

「いい友人ができたんだね」

「…はい」


 今度は嬉しさがこみ上げる。自分の事ではないのに、褒められたように嬉しいなんて。

 俺は確かに変わったのだろう。そしてこの変化は、一人の人物によってもたらされたのは確かだ。


 困惑と、戸惑いがあるのに不安は少ない。それは、多分一人だという意識が薄れたからだった。




 俺と明谷の付き合いは、二ヶ月になろうとしていた。今は平日も時々、連絡がある。仕事が終わる少し前にメールが入る。『今日、どっか飲みに行こう』と。

 俺はそのメールを、どこかで楽しみにしている。

 当然のように、土日のどちらかは一緒に食事に行ったり、ドライブに行ったりしている。たまに、映画や芸術鑑賞なんてこともあった。

 明谷の趣味は驚くほどに広い。ゲームや漫画ばかりかと思えば、美術なんかも好きだと言って誘ってくる。料理も上手かった。旅行も好きらしいが、一人は寂しいからあまり行っていないそうだ。


 俺の視野も少し広がった。ゲームは今、少しずつ教えてもらっている。やってみると悪くはなかった。料理はまったくだったが、今は明谷の家で少し手伝いながら覚えている。不器用だが。

 明谷は俺の出来ない事を笑わない。皮むきすら満足に出来ない事に驚きはしたけれど、「最初は皆ここからだ」と言って、根気強く付き合ってくれた。

 それと、話をよくするようになった。俺の事、明谷の事。家飲みの時は特に話した。


 明谷は子供の頃から色んな事をして過ごしていたようだった。やってみたい事を禁止されたことはないらしい。良いことだけじゃなく、悪いことも。事件にならない範囲の悪い事はしたそうだ。

 親の言うとおりに生きてきた俺とは、だいぶ違う子供時代に羨ましいと思う。俺は規制が多かった。そこから外れることを、両親は許してくれなかった。

 そんな話をすると明谷は「今は自由だろ? 羽根伸ばさなきゃな」と言って笑い飛ばす。それは自然と、俺の中に落ちてきた。



 その連絡は、週の半ばくらいにあった。

 仕事が終わって家に帰り着いたくらいに電話があった。ディスプレイに浮かぶ『明谷』の名前に、俺は少しだけ首を傾げる。いつもはメールだからだ。


「もしもし、どうした?」


 何か緊急の話かもしれないと思って、俺は心持ち固い声で話し出す。明谷はそれに、少しだけ無言だった。


「おい、どうした」

『いや、ちょっと。あのさ、今週の土曜日って、空いてるか?』

「空いてる。知ってるだろ?」


 最近はずっと、土日に予定など入れていない。予定を入れるのはいつもこいつだ。


『飯、食いに行かないか。車で迎えに行くからさ』

「? あぁ、分かった」

『絶対だからな』

「分かったって」


 妙に念を押してくる明谷に、俺は首を傾げる。いつもの軽さがない。

 胸騒ぎは一瞬あった。けれど必要以上に悩みもしなかった。少なくとも、俺は関わっていられる。電話の様子を考えたら、明谷は俺を巻き込む気満々だ。だから、大丈夫だと思えた。



 約束の土曜日、最寄りの駅まで明谷は迎えにきた。乗り込んで、まずは買い物。どうやら今日は家のみのようで、色々買い込んでいる。だがなぜか、ビールや焼酎は買わなかった。

 そのまま、車は俺の知らない方向へと走っていく。いつもは最初に行った、明谷の隠れ家なのだが。


「どこ行くんだ?」

「ないしょ」


 それ以上、明谷は教えてくれなかった。


 連れてこられたのは、前のマンションよりもずっとグレードの高い高級マンションだった。車をとめて、荷物を持ってエレベーターに。上層階まで一気に上がり、ついて行ったのは角部屋。そこを開けると、なんだか重厚感のある部屋が広がった。

 リビングはこれまでのマンションの倍くらい広い。空間をゆったりと使っていて、堅苦しさがない。ソファーもいいものだと分かる。スプリングが違う。


「ここ…」

「俺の本宅。まぁ、仕事場近くの隠れ家のほうが使う事が多いけどな」


 明谷の職業を今更ながらに思いだした。コイツの雰囲気がそれを思わせないが、これでも経営者だ。しかも後で知ったが、けっこう有名店ばかりだ。大きくはないが、品質の高いサービスと料理を提供する拘りの店ばかりだ。

 こういう世界の人間だった。それを今更見せられた気がして、少し落ち着かない。


「座ってろよ、作るから」

「あっ、手伝う…」

「今日は俺がやる。あんたは座って、本とか適当に見てろよ」


 そう言われると突然突き放された気がして寂しくなる。でも、ここは明谷の家だ。彼に従うほかない。いると余計に面倒な手伝いなのは理解もしている。

 大人しくテレビをつけ、ニュースに視線を向ける。それと一緒にローテーブルの上を観察している。綺麗に片付いているが、端に読みかけの本がある。その本は、何か見覚えがあった。


「これ…」


 それは確かに、俺の好きな作家の本だ。しかもけっこう古い。どうして今更そんなものを読んでいるのか。俺は気になって手に取ろうとした。

 だがそれは未遂に終わった。俺の手を止めるように、食前酒とチーズのセットが置かれた。それは自然に、俺の視線を遮った。


「仕上げだけだから、ちょっとこれでも摘まんで待っていてくれ」

「あぁ」


 俺の視線が一瞬外れた隙に、本はどこかに回収されてしまっていた。


 食前酒がなくなる頃、見計らったように明谷が俺を呼んだ。立ち上がり、ダイニングテーブルを見て俺は言葉をなくした。

 明谷は料理が上手い。だがこれまでは、その場でパパッと作るお手軽料理が多かった。だが今、目の前に並んでいるのは間違いなく、そんな簡単なものじゃない。仕込みが必要そうな、とても手の込んだ料理だ。

 それに加えてセッティングが綺麗だ。アレンジされた花やキャンドルが中央にある。まるで、特別な席のようだ。


「食べよう」

「あぁ…」


 そんな、気軽に食べる雰囲気じゃない。気を引き締めて食べなければいけないようで、俺はいつもよりも畏まって食事を始めた。

 正直驚いた感じがある。前に明谷は「料理学校とかは行っていない」と言っていた。だがこの料理は、本格的なフレンチの味がする。これでも仕事のリサーチに、あちこち食べ歩いているんだ。そこで出された数々の料理に引けを取らない。


「もっと気軽に食えよ。顔が固まってるぞ」

「こんな立派なの、気軽に食えるか。ちゃんと食べないと失礼だろうが」


 コースのように一品ずつ出てくるわけではないが、それでもそれなりに順番を守ってしまう。驚くべきはパンも明谷が焼いたということだ。

 明谷はどこか嬉しそうだった。正面に座って笑っている。笑顔が多い奴ではあるが、いつもとは違う。もっと優しい笑みだ。


「佑のそういう所、俺は結構好きだよ」

「!」


 飲みかけたワインがおかしな方向に入っていって、俺はむせて咳き込む。こいつは、今何と言った? 「佑」と、名前で呼んだのか? そんな事今まで一度もなかっただろ。今までは「あんた」か「なぁ」だった。


「おい、大丈夫か?」

「あっ、あぁ」


 今日は何かおかしい。何か企んでるな? なんでこんなに豪勢なんだ? こいつの態度は、どういう意味なんだ?


 俺は混乱しまくっていた。



 食事を終えたら、しっかりデザートまで出てきた。ちょこんと乗ったストロベリームースは、口当たりがよくて、冷たくて美味しかった。


「ご馳走様」

「いいや。んじゃ、今度はこっちな」


 まだ何かあるのか。俺の戸惑いは更に大きくなるばかりだ。不安になってくる。こいつが何をしようとしているのか、俺には理解できない。


 …違う、何かの予感は感じている。だからこその不安じゃないのか? 俺は、今形が変わりそうな予感に、不安を感じているんじゃないのか?


 こぢんまりとしたバーカウンターのスツールに腰を下ろした俺の前で、明谷はグラスに入れた氷をステアする。

 その指先の綺麗さを、初めて知ったかもしれない。それだけじゃない、明谷の所作はしなやかで綺麗だと、何度か思った事がある。

 スッと、オレンジ色のカクテルが出される。俺が何度か頼んだものを、こいつは覚えていたのだろうか。


「スクリュードライバーです」


 静かな声がそう告げる。俺はそんな明谷の顔を、呆然と見ていた。

 人好きのする、整った顔をしている。性格の明るさも、表情の多さもこいつの魅力だ。

 俺は出されたカクテルを飲み込む。ドライに仕上げたそれは、俺の好みを知っているっぽい。そんなのは、牧山くらいしか把握していないはずだ。

 ハッとして、俺は明谷を見る。あいつはカウンターの中で缶ビールを片手に俺を見ている。そんなところは明谷っぽくて、俺は何故か笑えた。


 一杯目を、しっかりと時間をかけて飲んだ。果物やナッツなんかも摘まみながら。それでも、交わされる会話はいつもより少なかった。どちらとも、なんだか話しかけずらい空気があった。


「コンフェッションです」


 二杯目に口をつける。明谷はそれを一つずつ、確かめている。


「…なに、考えているんだ」

「それを飲んだら、教えてやるよ」


 これ以上は何も言わない。

 そういう意志を感じて、俺はそれに口づけた。


「じゃ、これがラストな」


 そう言って出されたのは、綺麗な青いカクテルだった。


「ブルーラグーンです」


 俺の前にカクテルを出すと、明谷もカウンターを出る。俺の隣に腰を下ろし、俺の目を真っ直ぐに見る。見た事のない明谷の表情に、俺はずっとドキドキしていた。


「花言葉ってのがあるように、酒にも言葉があるって、知ってるか?」

「いや」


 初めて聞く話だ。飲みたいものを飲むものだから、そんな細かな事は知らない。


「まぁ、気にするのは送る側だからな」

「…今の三杯にも、あるのか?」


 俺の心臓の音は、妙にうるさく俺を駆り立てる。聞くことを躊躇うくせに、聞かなければいけないと思う。その意味を、俺はどこかで感じているのに、それをどう受け止めていいか、知らないふりをしている。


 明谷はとても静かな目で俺を見て、口を開いた。


「スクリュードライバーは、貴方に心を奪われた」


 ドクンと一つ、強く心臓がなる。酒を飲んでいるのに、喉が渇く。そばの酒に手を伸ばそうとすると、明谷は俺の手を掴んでそれを止めた。


「コンフェッションは、告白だ」

「告白…」


 なんの。とは、もう分かっているんじゃないのか?


「そしてブルーラグーンは、誠実な愛。俺の伝えようとしている事は、鈍いあんたにも伝わったか、佑?」

「!」


 耳まで熱くなっていく。俺は、何も考えられなくなっていた。


 明谷の気持ちを、ずっと今日まで知らずにいた。冷静に考えてみれば、何かの違和感を感じただろうに、気づかないふりをしていたに違いない。


 では、俺はどうなんだ?


 こいつとの時間は心地よかった。踏み込まれても拒まなかった。誘われるのが楽しくて、待っていた。次の約束が嬉しかったんじゃないのか?


「あんたが鈍いのは知ってたけどさ。流石に少し焦った」


 俺は今、大いに焦っている。それは明谷の気持ちを知ったからだけじゃない。俺の気持ちまで、形になろうとしているからだ。


「言っとくけど、俺はその気のない相手に二ヶ月もしつこくしない」


 だろうな、俺もしない。好意を持っている相手だって、二ヶ月ずっとなんて冷静に考えれば少し異常だろう。


「まして、仕事終わりにわざわざ誘ったりはしない」


 疲れているのが見える日もあった。でも、そんなのも楽しくて誘われた。


「俺は、二人きりでドライブなんて普通はしない。友達大勢のが楽しいからな」


 それは前も言っていた。大勢で遊ぶのが好きだと。

 では、二人きりのドライブの、その意味はこれだったのか?


「俺はこの家に、友人は招かない」


 招かれている俺は、友人ではない。


「俺は、友人に雑多な飯は作っても、こういう手の込んだ料理は作った事がない。今までの恋人にも、作った事がない」


 それは、明らかな『特別』という言葉だ。


 俺は俯いた。明谷の顔をまともに見られない。心臓が口から出そうなほど、ドキドキしている。もう何も言わなくてもコイツの気持ちは分かる。そして多分、俺の気持ちも分かっている。

 明谷の気配が近くなった。耳元に、唇が触れそうな距離。そこにダメ押しのように、囁かれる。


「俺は、金銭発生しないのに酒は作らない」


 この酒は、コイツの最後の勝負。俺が今ここで出す答えで、俺とこいつとの関係は大きく変わる。


「そこんところ踏まえて、答えをどうぞ」


 明谷の手が離れた。俺の答えは…決まっているだろ。


 少し乱暴にグラスを掴んだ俺は、そのまま一気に飲み干す。余計な事は考えずに、今ある俺の気持ちだけを優先した。

 一気に飲み干し、グラスを置いた俺を明谷は驚いた顔で拍手する。その顔は、俺のこの行動に驚いているようで、同時に受け入れられた事にも驚いているようだった。


「そんなに意外か」

「もの凄く。だって、あんたノーマルでしょ」

「べつに、今まで付き合っていた相手がたまたま女ばかりだっただけだ」

「いや、この敷居けっこうあるよ」


 明谷は少し焦った顔をしているが、俺はいたって冷静だ。覚悟が決まればなんてことはない。


「…天秤にかけたんだ。お前を受け入れて一緒にいる時間と、お前をなくして一人に戻る時間を。俺はもう、一人の時間に戻りたくない」


 楽しかった時間が枷になるだろう。それは、加賀地の時とは比べようのない喪失感だ。それに俺が耐えられるとは思えない。

 不意に、温かな手が頬に触れた。そこからゆっくりと、明谷が近づいてくる。触れた唇は、案外簡単に受け入れられた。嫌悪とか、動揺はない。とても静かな気持ちで、彼を受け入れられる。


「あれ、逃げないね」

「逃げたらどうするつもりだったんだ」

「そんなに傷ついたりはしないさ。リスクは承知済みだし、無理することもない。手に入れたなら、後はゆっくり段階踏めばいいだろ?」

「ほぉ、ゆっくりでいいんだな?」


 俺が薄く笑ったのに、明谷の方が驚く。マジマジと俺を見るこいつのこんな顔は初めて見た。驚き過ぎて、どうしたらいいか分からないという顔だ。

 俺はますます楽しくなって、ニッと笑う。今日はこいつに散々振り回されたから、今度は俺の番だといわんばかりだ。


「あの…。え? それってどういうふうに取ればいいんだ?」

「お前しだいなんじゃないのか?」


 まじまじと俺の顔を見た明谷の表情が、徐々に落ち着いてくる。


 あぁ、この顔も見たことがない。


 軽い男の真剣な顔。改めてゆっくりと、でも存在感を隠さずに近づいてくる。俺の髪をかきあげて、間近で、真っ直ぐに見つめる男はとてもいい男に見えた。

 逃げる隙はあっただろう。不意打ちでもない。拒めばこの男は止めただろう。

 でもなぜだろうか。俺も、受け入れるつもりでいた。

 深く繋がる唇を受け入れる。困った事に、俺は身を委ねていられた。不安はなく、穏やかで温かくもあった。不安に跳ねた心臓は、今は違う意味で鳴り響く。


 俺は多分、今けっこう幸せだ。


「止めるんなら、今だけど?」

「止めるのか?」

「あんた、そんなに挑発的だったっけ?」


 困った顔の明谷は、だが止める気なんてさらさらない表情をしている。それでもコイツは優しいから、俺が怖じ気づいたら止めるんだろうな。

 そんなに、半端な覚悟でこんな事はできないだろうに。


「鉄は熱いうちに打てと言うだろ」

「後で泣き見るぞ」

「その時はお前が責任取れ。それもしないつもりで、俺に声をかけたのか?」

「…いいや」


 男の顔が見えてくる。こんなにも、男前の顔をしていただろうかと、驚かされる。俺は、どんな顔をしているだろう。


「あんたが欲しい。ってか、そんな色っぽい顔で挑発されたら、俺も我慢ができない」

「我慢する気もなかっただろ」


 安心した。俺は、ちゃんと笑えている。ちゃんと幸せだと、相手に伝えられている。俺の気持ちは、こいつに伝わっている。

 甘く囁きかけられる「愛してる」に酔いしれて、俺はようやくたった一人を手に入れる事ができた。




 後悔が全くなかったかと言われれば、悩む部分がある。

 あの勇気をもう一度振り絞るかと言われると、多少尻込みするかもしれない。

 こいつで本当に良かったのかと聞かれると、「たぶん」という答えが出てくる可能性もある。

 それでも、隣で幸せそうな顔で眠る男を見ると、全ての質問に「大丈夫、これでよかった」と、最後は言うだろう。

 陽光に起こされた俺は、怠い体を引きずって体を起こす。ベッドサイドのミネラルウォーターを半分くらい飲み干して、ようやく乾きが癒える気がした。

 思ったほど、体の負担は大きくない。それはひとえに、明谷が上手かったからだろう。明谷は本当に、どこまでも優しく甘い男だ。俺の事ばかり気遣って、自分はかなり抑えていただろう。

 俺の中で、僅かな炎が灯った様に思った。まだねこけている男の、幸せボケした顔を僅かに睨む。とても、挑発的に。


「いつかその優男の仮面、引き剥がすからな」


 聞こえないくらい小さな声で、俺はこいつに宣戦布告をした。



END



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― 新着の感想 ―
[良い点] 途中でオチはわかっちゃったけど、どんなふうにオチるのか楽しくなって一気に読めました(*゜▽゜)ノ素晴らしかったです(*゜▽゜)ノ [気になる点] やけ酒の途中で現れたのは偶然だったのかな?…
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