機甲文学宣言
……私はずつと、「文学」と云ふものを疑ひつづけてきた。疑ひながら書きつづけてゐるのは、それが私の存在意義であるからだ。じつに不合理極まりないが、私は不合理を愛してゐる。
ある時期、私は「文学」を断つてゐた。断たざるを得ぬ時期であつた。書きつけるべき紙も筆もなく、脳髄に降つた無数の閃きも、朝には憶えてゐない夢のやうに、生死の境を渡る日々に忙殺されてゐつた。
詩を綴れぬ日々を、詩を綴りたいと云ふ一念のみで生き延びた。書かぬことは、「文学」ではなかつた。戦場での記憶は私の「文学」の血肉となつてゐるが、戦場での日々に「文学」はなかつた。
「文学」を疑ひながら「文学」から離れることができなかつた私は、まつたくあらたしい「文学」をうみださねばならぬと云ふ強迫に駆られてゐる。誰も書いたことのない、誰も為したことのない「文学」を確立させると云ふ野心に憑かれてゐる。それが何であるのかと云ふことをずつと、考えつづけてきた。そもそも「文学」とは何であるのかを問ひつづけてきた。
評論者は講評に云ふ。「人間が描けてゐない」と。そんな紋切り型の定型句に、私は長い間、反感を涵養しつづけてきた。評論者自身が、その文言をきちんと理解してゐるとは思はれない。「人間を描いてゐない文学」なるものが、そもそも存在してゐない。「人間が出てこない」幻想譚や空想科学小説に登場するモノとて、「人間が描いた」擬人化されたモノである。詩や観念小説は、「人間が描いた」心象の表現である。
「人間が描けてゐない」。何とも傲慢で、浅薄な文言であることか。たかが表現の巧拙に、「人間」を持ちだしてくる愚かしさ。彼らが「人間を知悉してゐる」と頑強に主張しつづけるのであれば、まちがひない。彼らは「造物主」のつもりでゐるのだ。高みから我々「人間」を見おろすだけの、自らは何もうみださぬ無為の「造物主」だ。
ここまで書いて私はふと、傲岸不遜な評論者たちに感謝をする。「人間を描いてゐない文学」が、誰も為してゐない「文学」であることに気がついたのである。「人間が描けてゐない」。この薄つぺらい文言が、私に天啓を与へたのだ。
……かうして私は、「人間を描いてゐない文学」を志向する。即ち、人間性なるものの完全なる排除。登場人物はない。人間を一切描かない。筆記者である私自身の心象も、一切加へない。残されるのは、人間性なるものの残滓のみ。名詞と句読点のみで、文脈を確立させる。絵画に於ける静物や風景のやうに。見たままの事象を、見たままに描写する。共通の認識を、共通の記号のみで。私はこれを、「機甲文学」と名づける。
……書きはじめてみると、これが困難を窮めることに気づく。そもそも書くと云ふ行為そのものが、人間性に汪溢した行ひであるのだ。「人間を描いてゐない文学」と云ふのは、その前提に於いて、大いなる矛盾を孕んでゐる。嗚呼、日は暮れて途遠し。私は死ぬまでに、「機甲文学」を確立させることができるのであらうか……。
冬純祭・主題開示
「新文学の確立」