すれちがいセレナーデ ─In the past─
あらすじがプロローグになってしまったので簡単に。
外向的な少年が、内向的な少女に恋をする話です。
1
僕の目は自然と教室の窓際に座る少女へ向いていた。影ではその内向的な性格から、根暗と呼ばれている少女で、両の目を覆うように長い前髪がひときわ目立つ。そして、不釣り合いに大きい眼鏡が、これまた微妙なビジュアルを醸している。雰囲気自体も俗に言うあまり話しかけてくるなオーラというものが感じられ、いままで会話しようと思ったことはあるものの、話しかけづらいという者が多数いた。
僕が彼女を気にかけるようになるきっかけは、とても些細なものだった。
根暗といわれた彼女は、本を読むときだけ決まって眼鏡を外す。当然と言えば当然なのかもしれないが、その時以外に彼女が眼鏡をはずしている姿を僕はまだ目にしたことがない。それからやや下を向いて、まるで髪で顔を隠すように前傾して物語の世界へ入り込む。目にかかる前髪が外界からのコンタクトを遮断しているようにも見える姿勢だった。
そこで、よほど目が悪いのかうっかり手を滑らせて、机に置かれた眼鏡を彼女が取り落としたとき、偶然そばを通りかかった僕がそれを拾うという出来事があった。その時は別段意識しているということはなかったわけだけれど、初めてみる彼女の姿に、少しだけ緊張している自分がいた。
長い前髪の奥では不思議な奥ゆかしさを感じさせる大きな瞳があった。両目ともにまっすぐ僕を見つめていて、しばらくそのままでいるととてもおかしな気分になった。だが、僕は続けようとしたところで、彼女の名前を知らないことに気がついた。開きかけた口から情けない声が漏れる。
「私の、名前ですか?」
助け船を出すようなか細い声が聞こえ、見つめあっていた僕と彼女は互いに目をそらした。改めて意識してしまうと、途方もない羞恥心がこみ上げてきた。
少し間が空いて、僕はあわてながら言葉を紡いだ。
「ごめん、まだ名前を覚えきれてないんだ。顔を覚えるのは早いんだけど、どうしても暗記って苦手でさー」
話したことが無いとはいえ、やはり名前を知らないとなると微妙な空気になってしまった。
「ううん、大丈夫。実は私も……苦手で、その、顔と名前が一致しないとか……よくあるから」
「そっかー、よかった。まあおれだけじゃないよな。おれ、桜木晴太。晴太りって書いて晴太。そっちは?」
「かやの……坂島菜摘。よろしくね」
坂島のぎこちない口調から僕にも緊張が伝わってきて、続く言葉に詰まってしまう。間には微妙な空気が流れた。
訪れた沈黙に我慢できなくなったのか、不意に坂島は僕の手から眼鏡をひったくるように取ると、おぼつかない手つきでかけた。ふわりと小さく舞った耳元の髪のすき間から朱が覗いていた。
「眼鏡、していない方がかわいいのに……」
ふと無意識に僕が放った一言に、ビクッと坂島は肩を震わせたが、何事も無かったかのように読書を再開した。眼鏡をかけたままで。
はたして、この時思うように文字が見えていたのかはわからないが、僕はまだ誰も知らないであろう坂島の一面を見ることができたような気がしていた。あれから僕はすぐに立ち去ってしまったので、坂島がどんな表情を浮かべていたか見ることはなかったけれど。
僕は元来友好的な少年だった。
幼少期は普通に友達に困ることはなく、むしろ家にいる時間帯のが少なく感じるくらい外で走り回っていた。誰かが遊ぼうと言った時には必ず頭数に入っていたし、誰かと揉めて、そのいさかいの先頭に立っていたのも、やはり僕だった。リーダーのような存在ではなかったはずなのだが、人一倍気性が荒かったからそうなってしまったのかもしれない。
そんな僕が、誰かに恋をした。こんなこと誰が想像したものか。でも、交友関係が広いというだけで考えると十分にありえる話だ。だとしても信じきれない自分がいる。そしてこの気持ちを誰に明かしたらいいのか、交友関係が広い分選択肢が無駄に多い僕にとってはとても手に余る問題だった。
「なあ千田、おれの……その、相談に乗ってくれない?」
放課後の帰り道。僕の隣を歩く幼なじみの男に、僕はこの気持ちをどうすればいいのか相談してみることにした。
幼なじみの彼、千田は普段内気であまり人と話すようなやつではないけれど、幼い頃からずっと仲良くしているため、僕が全幅の信頼を寄せる人物である。
なんのことかと一瞬思案するような顔をした後、千田は快く頷いてくれた。
「君が相談なんて、珍しいね。よほどのことでもあったの?」
「なんつーか……まあ、あんまり他人に言いたくないんだよ」
「へぇ……なんだろうな、怪しい趣味とか?」
「ばっか、そんなんじゃねぇよ。あったとしてもおれは基本的に秘密主義のつもりだし、おれに得もないのに言わないっての」
「まあ、そうは言いつつ結構筒抜けだけどね。それで、本題はなにかな?」
「おれ、好きな人ができた。それで、そのだな……」
一呼吸空けた後、僕は圧倒的質量を誇るソレを吐き出した。言ってしまってからその重さに気づいた僕は、思わず言葉を詰まらせた。
「な、なるほどー。それは確かに重いね。それで、ぼくになにか手助けしてほしいとか?」
「そう! 話が早くて助かるな。ええと、それでなんだが……」
千田の助け船により、なんとか勢いを取り戻した僕は、今までの流れを千田に話した。千田は終始笑顔で、静かに僕の独白を聞いてくれていた。
やがて、僕の話が終わると、千田は大声で笑い出した。
「あははっ、意外だったなあ! 君が、ああいう子がタイプだなんて!」
千田には、明るく開放的な性格の僕が、対照的な立ち位置でかつおとなしめな女の子に恋をしているというギャップがとても滑稽に映ったのだろう。別にあり得なくはない話で、むしろありふれたものだと僕は思っていたのだが、やはり意外性はあるらしい。
「う、うるさい! なんか……いいじゃんか。それに、眼鏡とると、かわいいんだよあいつ」
「ふうん……。よく見ているんだね。それはぼくもちょっと気になるなぁ」
「よし、じゃあ今度話しかけてみようぜ! それで眼鏡とってもらえるかな」
僕が提案すると、千田は遠い目をして首を横に振った。
「うーん、ぼくは遠慮しておくよ。男二人に話しかけられるとやっぱり緊張しちゃう気がするんだ。ぼくだって、女の子一人と話すのが限界なのに……」
「そうか? まあ、似たような性格のお前が言うんだからそうなのかもなー」
残念、と息を吐いた僕にまぎれて、千田のかすかなつぶやきが聞こえた。
「だから……というのも変かもしれないけど、ぼくにはあんまり手伝えることはないかもなぁ」
その真意を確かめようと僕が口を開いたところで、千田は「じゃあ今日はここらへんで! この件については考えてみるよ!」と言い残して走り出してしまった。
よくまわりを見てみると、目の前にはいつも帰りに僕たちが別れる公園があった。その公園の入り口の真ん中を千田が走っているのが見えた。
「まあ、無理を言って手伝ってもらうものでもないしな……」
事実、おとなしい性格の千田が積極的に手伝ってくれるような場面はとても多いとはいえない。そういうことなら、さっきの言葉にもうなずける。
「話を聞いてくれるだけでも助かるし、それでもいいか。千田には感謝しないとな」
もうほとんど隠れてしまっている西日が少しだけ寂しかった。
2
翌日の昼休み、委員会へ行く千田から、僕は図書室へ本を返しに行くことを頼まれていた。なんでも、貸し出し期限が今日までらしい。だったら放課後に行けばいいのにとも思ったけれど、いいからいいからと押し切られてしまった。別段断る理由もなかったので引き受けた僕だが、なぜだろうと思い返さないこともない。自分を納得させるためにも、協力してもらうお礼ととらえておくことにした。
ともあれ、図書室についた僕は、入学時の案内の記憶を頼りに返却の手続きを進めた。一回も図書室を利用したことが無いだけあってかなり挙動が怪しかったに違いない。だいたいの流れは、図書委員あるいは司書さんと主にやり取りをして返却を終えるだけなのだが、その過程で僕はずっと面倒くさそうな目で見られていたような気がする。
無事に返却を終えたものの、すぐに帰ってしまうのも気が引けたので、僕は少し本を見ていくことにした。入学以来二度目となる図書室はとても新鮮に感じられた。普段は校庭で駆け回ったり教室で騒いで昼休みを終える僕には、関わることのないような本がたくさんあった。
辞書ほどもあるハードカバーに、よくわからない生物の図鑑、文庫本サイズで表紙になにやらかわいらしいアニメ絵が描かれているものがあったり、他にはいわゆる検定の勉強に使う参考書などを見つけた。中学校の狭い校舎の、さらに狭い廊下の一角に位置するこの図書室に、こんなにも見たこともない世界が広がっているなんて、と僕は少し感動していた。たまに図書室を訪れてみるのも悪くない。
そして、そんな満足げな気分に浸っている僕をさらなる衝撃が襲った。
本といえば、僕が気になっていた女の子が趣味で持ち歩いているもので、内気な彼女が本に囲まれた環境を好んでいたとしてもおかしくはない。普段見慣れない、眼鏡を外した姿であっても、僕はその素顔を知っているから、まして興味を抱いたうえで記憶しているのだから、思い当たらないはずがなかった。
「……坂島だ」
見覚えのある前傾姿勢で本を読む坂島の姿は、とても愛らしかった。純粋に僕はかわいいと思っていた。
よく考えてみれば、これは好機なのかもしれない。坂島の読書を邪魔する結果となってしまうのはわかっていても、教室ではなかなか声をかけづらい存在がここまで無防備にいるからには、話しかけておくべきだ。
意を決して、僕は坂島のもとへ歩み寄った。
少し近づいたくらいでは、坂島は僕を気にも留めなかったが、坂島が座っている席の隣に腰かけ、そっと声をかけると、さしもの坂島もはっと目を見開いて本から視線をそらし僕を見た。
「ええと……ああ、桜木くんか。急にどうしたの?」
「千田から本返すの頼まれててさ、見かけたから声かけてみた」
「ふうん……本……千田くん!?」
坂島が急に身を乗り出して僕の眼前に迫る。
「ち、近いって」
「ごめんなさい……。でも、なんでもないからっ」
「は? まあ、ともかくそんなわけでさ。……そういえば昼休みは教室で見ないけど、いつもここにきてんの?」
「うん、教室にいると落ち着かないし、気まずくなっちゃうから……」
「気まずい?」
「えーっと、友だちがいないから、とかじゃダメかな」
「ダメも何も、事実なら仕方ないんじゃねえか? おれ自身はあんまり経験ないけど、千……友だちがそんな感じだからなー。なんかわかるよ、そういうの」
「よかった……。そうだ、やっぱり桜木くんにお願いしてもいいかな? ちょっと誰かに相談したいことがあって。その……好きな……人のことなんだけど」
「え、おれに!?」
思わず大きな声を漏らす。図書室中から迷惑そうな視線を感じた。
しかし、よく考えてみると僕に相談するということは、その相手が僕である可能性が限りなく低いということに気づいてしまうと、あまり乗り気ではいられなくなった。
「図書室では大きな声を出してはいけません……。それでね、少しだけ耳を……」
そう言われ、僕は坂島に耳を傾けた。坂島は少し口をまごつかせてから、意を決したように、
「私、千田くんのことが好きみたい」
僕が予想もしていなかったことを言った。頭を鉄の棒で殴られたような衝撃に、僕は言葉を失う。
あとで、ちょっとだけ協力して欲しいんだけど……と坂島が付け足した。
正直、この時ばかりはなんと返せばいいのか、僕は答えを持ち合わせていなかった。驚きと落胆で打ちひしがれてしまって、頭がうまく回らない。もしかしたらこの迷いが顔に出てしまっているかもしれない。
だが、坂島に目を向けると赤面して目が泳いでいるばかりで、こちらの異変に気づく様子もなかった。いっそのことなら気づいてもらいたい自分もいた。想いを届けたい相手に想い人がいたというこのやるせない気持ちをどこかへぶつけてしまいたい、それでも逃げ出すことのできないこと状況では、僕が折れるしかなかった。まさかここで僕が気持ちを明かしてしまうわけにもいかない。
「そう……だな。よしわかった。協力するよ。千田なら、仲良いしさ……」
自然語尾が弱くなっていくのを感じた。自らの精神的ダメージを実感する。
でも、ここで断るわけにもいかなかったのも事実である。断れば、坂島に近づく機会を一生失う気がしたのだ。
「ありがとう!」
そう言って嬉しそうに微笑む坂島の表情を見ることができただけでもよかったと思っている自分がいた。でも、いずれ振り向いてくれる日が来ればいいとも思っていた。
そのジレンマを解消する方法があるのか。次の瞬間僕の頭の中はそのことだけで埋め尽くされていった。協力しつつ攻略を進めようなんて、あまり上等な選択肢ではないとは思う。けれど、それしか取りようのない状態まで精神が追い詰められているのもまた事実だった。
「どうだった? 今日は」
帰り道、唐突に千田にそう切り出された僕は、何にも思い至らずに首をかしげた。
千田は若干怪訝な顔をしたが、原因が自分にあるとわかるとばつが悪そうに少しだけ歩調を速めた。
「……図書室、坂島さんがいたでしょう?」
「ああ」
ようやく思い至った僕は、昼休みのことを思い返していた。千田のことを好きだと言った時の坂島の表情が鮮明に浮かび上がってくる。恥ずかしそうに頬を朱に染めながら、それでいて輝いていた大きな双眸。僕が望んでいた言葉が他人のための言葉だった時の絶望感はまだ尾を引きずっている。
だが目の前にいる千田はその真実を知っているわけがなく、まして僕が勝手に打ち明けるわけにもいかない。
「……ちょっとだけ話した。やっぱり本を読んでいるところを邪魔するのは悪いと思ってさ、あんまりしつこくは無理だったよ」
僕は当たり障りのない言葉を選んで返事をした。真実を知らない千田は、はぁとわざとらしくため息をついて言う。
「君はまだまだ押しが弱いよ。もっと積極的にいっちゃっていいんじゃないかなー。いつもみたいに! ホラ、ぼくたちはまだ中学生なんだからさ、多少失敗したって大丈夫だって」
まるで自分にも言い聞かせるように千田は言った。
僕は言葉に詰まる。あまりネガティブな方向に話を持っていきたくなかった。
「……うるせ、わかってるよ」
いまだに自分の気持ちをとるか坂島の気持ちを優先させるかどっちつかずでいた僕には、やはり返事を濁す選択しか残されていなかった。
「それでこそ君だよ」
先の言葉を都合よく解釈したのか、千田はうんうんと何度もうなずいていた。
それから、僕と坂島が話す機会は自然と増えていった。そしてそれに比例するように、坂島が千田とコミュニケーションを試みる場面も増えていた。だが、後者の進捗具合はまるで芳しくなく、坂島が話しかけることが出来ずに戻ってきたり、二人して無言の状態が続き、その沈黙に耐えられずうやむやになってしまう、という展開が多く続いた。
もちろん、自分が坂島と話す機会が増えていることにさすがの千田も気がついたようで、何度か僕にそれとなく注意してきたが、僕もそれを軽くあしらうという具合が最近の状態である。
誰が誰のことをどう思っているのかわからなくなってきた、というのが当事者たる僕の感想で、実際に感覚が麻痺してきている自分がいる。なぜか、いま坂島に告白したらよい返事をもらえるのでは、なんて謎の自信まで湧いてくる始末だ。これが俗に言う、女子と会話が弾むようになってきたときにしてしまう勘違いなのかもしれないが、いまではそんな気持ちもわかるような気がしていた。
僕は完全に恋にとりつかれていた。自分の好きな相手が喜ぶ顔を見たいがために自らを犠牲にし、あまつさえ手伝ってくれていた友人の親切心を無下にした。
一緒にいて楽しければそれでいい、そんな状態が長く続くはずもなく、満ち足りた時間は不意に終わりを告げた。
3
午後十時を回った頃、僕は千田から掛かってきた電話を取った。
「こんばんは。晴太くんはいますか?」
そう言ってきた千田に、僕は「俺だよ」と返した。
ああよかった、そう漏らす千田の声は固い。
電話ごしに話すのが緊張するというわけでもないだろう。頻繁に電話をしてきたわけではないけれど、少なくとも僕の前では、千田は普通に話す。
少しして、千田は最近どうなのかと訊いてきた。どうかと訊かれ、恐らくは坂島に関する事だと考えた僕は、坂島の恋心を応援していることだけが心苦しかったものの、いい感じだと答えた。
それを聞いた千田は携帯の向こう側でため息をついて、何をやっているんだと言った。
何を、と言えば僕が坂島を応援しているのがばれたのかと思ったけれど、そういうことではないらしく、僕の頭の上にはクエスチョンマークが浮かぶ。
僕は何かあったのかを訊ねてみた。千田は一瞬の逡巡の後、簡単に言うよと断りを入れ、
「今日、坂島さんに告白されたよ」
そう言った。
一言で僕は凍りつく。坂島が、千田に、告白をした?
それは事実なのだろうか、問うと千田はそうなのだという。坂島からは何も聞いていない。そしてそんな素振りは見せなかった。千田とはいつも通り一緒に下校したし、第一僕は学校で常に千田と坂島のどちらか一人の行動は確認できる距離にいたはずで、それにもし手紙などを用いた呼び出しがあれば、千田が教えてくれることになっていた。
「さっき電話でね」
なるほど、それでパズルのピースがはまった。だが、少し気になるのは、坂島が独断で告白するに至った理由だ。なぜ前触れもなく事が起こってしまったのかが僕は気になって仕方がなかった。
しかし、善は急げともいう。ふと何かの拍子にそんな思考に至ってしまったため事に及んだなんてこともありうる。
こればかりは千田も聞いていないらしく、真実は本人のみぞ知るところだ。
「なんて……言ったんだ? お前は」
僕は言った。千田が口ごもる。
「なあ、千田……もしかして」
「いいや、君が想像するような答えはぼくは出していないよ。ただ……ぼくは少しだけ惜しいことをしたような気がしてならない」
千田の吐き捨てるような語尾に、僕の中であるイメージが浮かび上がった。
「本当のことを言ってくれ、桜木晴太。君は……坂島さんの恋を応援していたんだよね?」
確信に満ちた物の言いだったのは、千田がその事実を知っていたからだ。
「……そうだ」
「そして、自分の恋を諦めるつもりもなくて、坂島さんの相談に乗るように見せかけて距離を縮めようとしていた。それも、ぼくの手を借りながら」
千田の声は冷たく淡々としていた。図星を突かれた僕は、シラを切る気にもなれなくて。
「……おっしゃる通りです」
弱々しい返事をした。僕の返事を聞くと、千田は大きく息を吐いた。
「はあ……まったく、昔からバカだよね、君は。」
それに対して異論はない。僕はテストで千田よりいい点数を取ったことがなかったし、いろいろなことにおいても千田の方が博識だった。
でも今回、千田がそういうことについて言っているのではないと、さすがの僕にもわかった。
「本当は、もうちょっと早くアピールしていこうと思ったんだ。でも、楽しそうにしてる坂島をみると、そういうの言い出せないし、応援しようかなって気持ちにもなった。そうして、このままでもいいやって思ってるうちに、坂島が一歩踏み出せないのをひとりで克服しちゃって、おれは置いてかれたんだよな……」
千田は、僕が遠慮をして一歩引いてきたのをおろかだと言いたかったのだ。
遠慮するべきでないところを、必要以上に引いた位置から坂島のそばにいた僕は、ついに想いを届けることができなかった。
「そうだね、その通りだ。そして盲目な君は、ぼくが坂島さんを好きだという可能性を考えていなかった」
聞いて、僕は自分の浅知恵を嘆いた。だがそれ以上に、それならば千田の方こそ僕と同じではないか、そう言いたかった。
「同じではないよ。だって、結果的にぼくの悲願は達成されたからね!」
まるで僕の考えを見透かしたかのように、千田は勝ち誇った笑い声を上げて言った。
対して現実を呑み込めていない僕は、通話口の前で口をパクパクさせていた。
「ぼくは、こんなことで君のような親友を失ってしまうことがかなり惜しいよ。でも、彼女ができることに比べたらたいしたことじゃない。一生女の子と話すことなんてできないと思っていたから余計嬉しいさ。ぼくはね、君を見ていて本当にうらやましかったんだ。たくさんの友達に囲まれてワイワイ騒いでさ。こうまでしなくてもいつかは見返してやろうと思っていたんだ。だから、いまは最高に気持ちがいいよ。君には申し訳ないけれど、ぼくはすっごく幸せだ」
くそ野郎だ、そう思った。でもそう思っただけで、口は動かなかった。
すさまじい脱力感が僕の身体を襲った。携帯が途方もなく重たい。
いますぐ横になってしまいたい。
だけど、悪魔の独白は未だ続いていて、僕を解放してくれそうにない。
電話を切ってしまおうかと思った。
だがその時、そうだ! と千田が声を張り上げた。
僕は耳から遠ざけていた携帯を、声がはっきり聞こえる位置まで戻した。
「君に伝えておかなきゃいけないことがあったんだ。坂島さんがさ、君に告白が成功した報告の電話をしたいっていっていたよ。もうそろそろじゃないかな」
「……んなのいらねーよ」
「好きな子からの電話だよ? 出てあげなきゃ!」
「ばかばかしい。おれは、もう、寝るんだ……」
「そうなの。かわいそうに。まあいいや、また来週ね」
どの口が言うんだ。僕は心の中で毒づいた。そのまま電話も切った。
「そう言えば、明日は土曜日か」
土曜授業もない。日曜日も含めると二連休だ。
それでこのかき乱された心がどうにかなるとは思っていない。
月曜日になって登校する気になれるかすらわからない。
僕の心をさらなる暗い気持ちが襲った時、再び電話が鳴った。
また千田かと思ったが、彼の言葉を思い出す。
坂島だろうか。
千田と僕が通話している間もかけていたのだろう、着信音が鳴っては止んでを数分の間隔をあけて繰り返していた。
僕は電話に出る気になれなかった。
きっと明日も出ることはないし、明後日も恐らく出ない。
しばらく家族以外とはかかわりたくない。
僕は携帯電話の電源をそっとオフにした。