背を灼く記憶、目を焦がす過去③
「伶和!大丈夫か!?」
「お、お兄ちゃん…ご、ごめんなさい、ごめんなさい…」
「伶和、謝らなくていい!お前のせいじゃない!」
「ごめんなさいごめんなさい許してお願いごめんなさい…」
伶和はと言うと恐怖に完全に支配されていた。そして、零弥の声が聞こえてないのか別の声に聞こえているのか、ひたすら謝罪と赦しを乞う言葉を呟いていた。
そして、先ほどまで電話を相手していたはずの葵はと言うと、
「…蓮?ねえ嘘よね?蓮、起きなさい。蓮、蓮!!」
その葵の姿に零弥は自分の目が信じられなかった。涙を、流したのだ。
葵は子供に興味がないのではなかったのか?零弥はこの時、真実を知った。葵は、蓮だけを愛していたのだと。行きずりの夫の斗真も、その子供の零弥も伶和も、葵にとってはできもののようなもの。しかし、蓮だけは違ったのだ。彼女は、蓮だけは自分の子供として愛していたのだ。蓮しか見えてなかったから、零弥にも伶和にも目をくれず、蓮だけを愛していたから、蓮が2人を育てると言い出したから、2人はこれまで生かされていたのだ。
しかし、いくら葵が頬を叩き、揺さぶり、声をかけても蓮は反応を示さない。目を見開き、痛みに顔を歪めたまま、事切れていた。
「・・い」
「…お袋?」
「許さない、殺してやる、みんな。私の蓮を…よくも」
葵の目は何も見ていなかった。顔を上げ、包丁を視界の端に捉えると、立ち上がりそれを手に取った。そして、ビクンビクンと痙攣する斗真に向かって歩き出した時、遠くから駆けてくる足音、扉が開かれ部屋に飛び込んできたのは、警察だった。
警察は包丁を持ち斗真に向かって今まさに振り上げていた葵を羽交い締めにし、取り押える。
もう1人がこちらに近づきしゃがんで何か話しかけてくるが、伶和は未だ正気に戻らず、零弥は呆然としたままだった。
…
「あの後、警察に聞かされた話によると、兄貴の死因は、腎臓を破壊された痛みによるショック死だそうだ。出血も尋常じゃないが、直接的なのはそれだろうって。
それから、俺達とお袋は警察により保護、隔離された。親父はいろいろあるけどその場では違法薬物取締法違反で逮捕。今頃連続通り魔事件の犯人として死刑判決でも受けてるだろうな。
そして警察の保護から解放されたその日の夜に、俺達は、川へと身を投げて、自殺しようとしたところで、この世界に運ばれたんだ。」
零弥はこれで終わりと言うように、目を瞑った。
3人は、何も言えなかった。この状況では、何を言っても零弥を傷つけてしまうのではないかと怖れていた。
壮絶すぎる悲劇。ただそれ以外の言葉で2人のこれまでの人生を表現できなかった。
最後の事件で伶和が人質のように扱われた際の痛みと恐怖、そして文字通り目の前で最愛の兄が事切れる瞬間を目の当たりにしたショックで、伶和は手首を掴まれること、刃物の先端を見ることに深いトラウマができてしまった。
今回のスカンジルマの一件では、スカンジルマが伶和の手首を掴んで捻り上げた痛みで、強いフラッシュバックが起きてしまったのだ。
長い沈黙が過ぎた。沈黙に耐えきれなくなったか、遂に口を開いたのは、ネオンだった。
「ごめんねレミ君、一つ、いいかな?」
「うん?」
「昔ね、お父さんが魔法事故に遭った患者さんがフラッシュバックを起こしちゃった時のことを話してくれたの。
トラウマは、強いフラッシュバックを起こした時が最も危険だって。ただでさえ脆くなってる心に再び強い衝撃を与えてしまうことになるから心が壊れちゃうこともあるって。
それで、レナちゃんは…。」
レミはカーテンの向こうのレナを一瞥すると聞き返した。
「ネオンは、俺があの時、どうやって伶和を落ち着かせたかを知りたいのかな?」
「あ、うん。」
「あの当時、俺は頭の中でいろんなことが渦巻きすぎて、気が狂いかけた。」
3人は突然なんの話かと首を捻った。が、零弥は止まらない。
「人はストレスを解消する方法が人によって違う。
抑圧、投影、同一化、取り入れ、合理化、反動形成、分離、退行、昇華、打ち消し、置き換え、補償、自虐、逆転、知性化。
この辺が俺達の世界で提唱された主な解消法だ。
トラウマっていうのは、基本的に辛すぎる記憶や感情を抑圧したものだ。普通にしていれば思い出すことはない。だから、伶和はおそらく、兄貴が死んだその瞬間の出来事をほとんど覚えてなかったはずだ。
それが今回の事件で思い出してしまったんだな。
体の傷は治るけど、心の傷は治らないなんてよく言うけど、心の傷だって治る。ただ、とんでもなく時間がかかるだけだ。
でもいくらなんでも今回は開くのが早すぎた。
あのまま放っておいたら、伶和は壊れてしまっただろう。だから俺はあの時、魂属性の魔法で、伶和の記憶を一部消したんだ。」
「記憶を、消した…?」
「正確には、伶和の心の中、感情記憶の一部を取り除いて俺の魂の中に封じ込めた、だな。」
だから今、零弥の中には、あの時伶和が感じた思いがあることになる。
あの時の伶和の感じた恐怖や悲しみを零弥は自分の事のようにではなく、自分の事として感じているのだ。
「レミ…お前は、なんでそんなに落ち着いていられるんだ?お前は、その時の事件のレミとレナ、2人分の感情を感じるということだろう?
1人の人間に2人分の心は感じられない。もしそんなことをすれば壊れてしまう。
このままではレナが助かっても今度はレミが…」
「分裂…」
「?」
「俺は…堪えきれない感情を、もう1人の自分に押し付けてきた。もう1人の自分は、今も俺の中のどこかで、俺が押し付けた感情を抱えている。
今回は、スカンジルマにぶつけて少しだけ発散されたみたいだけど、次はどうなるか…わからない。
これに気づいたのはつい半年程前だ。時々意識が飛ぶと、目の前には倒れた人の山が出来ていたりした。俺はいつ爆発するかわからないこの爆弾を伶和に向けたくなくて、距離を置いたこともあった。」
クロムとネオンは、零弥のあの変貌に得心がいったようだ。あれは零弥が耐えて耐えて耐え続けていた感情の爆発だったのだ。
しかし、その対処法は、とても危険だという事も、2人は感じていた。
心は壊せる。感情の爆発は、心が根幹にある。つまり、心が爆発しているのだ。こんなことを続けていたら、いつ壊れてもおかしくないのだ。
「リンさん…」
「だめだ。」
「え?」
「どうせ、退学したいとか寮の部屋を1人にしたいとかそんなところだろう?許すものか。そんな我儘。」
「ちょ、リンちゃん。いくらなんでもそれは零弥が危ないって…」
「五月蝿い。ここにきて私がやるべきことははっきりとわかった。
レミ、お前は心を難しく考え過ぎだ。お前のやり方はひどく歪だ。こんなやり方ではお前、たとえこの学校をやめてもいつか壊れる。なら、多少荒療治になってでも、お前のそのぐちゃぐちゃになった心を矯正してやる。
いいか、お前は子供としての成長をしないまま大人になろうとしている。だからおかしくなるんだ。
まずはもっとシンプルになれ。変な我慢をするな。泣きたい時には泣け。怒りたければ怒れ。それすらできないやつが、大人になろうなんておこがましい!」
リンの言葉は、レミにとっては新鮮すぎた。そして、あまりに意外すぎるその指摘にぱちくりと目を瞬かせた。
「全くまだるっこしい!結局のところ、お前は兄が死んだことをどう思ってるんだ!1人だけ他人事みたいに達観しおって!さぁ、答えろ!」
零弥は、うつむこうとしたが「考えるな」と叱責を受け、頭がぐるぐると混乱しだした。
「り、リンちゃん、もうちょっと穏やかに…」
「黙れ小僧!この自分の感情すらわからんクソガキに徹底的に教育してやる!そうでなきゃ、そうでなきゃ…」
見ると、リンの顔はくしゃくしゃになって大粒の涙がボロボロこぼれていた。
リンは零弥の体を抱くと、嗚咽をこぼしながら語りかけた。
「レミ!辛かったんじゃないのか!?悲しかったんじゃないのか!?親に親子として扱われず、あまつさえ暴力を振るわれ、大事な人を傷つけられて奪われて、そんなの、辛すぎるだろう!!
苦しかったろう、泣きたかったろう。でもわかるぞ零弥、お前は、お兄ちゃんだもんな。伶和の前で、弱いとこなんか見せられないもんな。
でも、もういいんだよ。我慢はもうやめていいんだ。
だから、今は、せめて今だけは!お前の本当の気持ちを、私にぶつけてみろ!」
「レミ、リンちゃんの言うとおりだぜ。
楽しい時に楽しいって笑えないなんて、損だろ?それに、お前が嫌な時に嫌だって言ってくれないと、お前が何が好きで嫌いで、何がしたいのか分かんねえ。
そんなの、俺だってつまらない。だから、教えてくれ、お前の心を、な?」
「レミ君…レナちゃんは、心の底からレミ君が大好きなんだよ。今日だって、レミ君が喜んでくれるかなって願ってお弁当だって作ってたんだよ。
今日は渡せなかったけど、明日はきっと渡すから、その時、それを食べて、美味しかったら笑ってほしいな、美味しくなかったら、びっくりしてほしい。きっとレミ君がどんな反応をしても、それが心からの感情なら、レナちゃんは嬉しいと思うから。」
リンの言葉が戸を叩く、クロムの言葉が肩を叩く、ネオンの言葉が手を引いた。
そして…、自分の中に仕舞い込んだ伶和の心が問いかける。
《お兄ちゃん…私達、いつか一緒に、友達や、家族に囲まれて、笑える日が、来るよね?》
変化は一粒の涙からだった。
息が荒くなり、やがて嗚咽へと変わった。
身体は震え、リンの体をぎゅっと抱き締めて離さなかった。
そして遂に、零弥の心は初めて、本当の産声をあげたのだった。
「兄貴…兄貴ぃぃぃ。なんで、なんでなんだよぉぉ。一緒に、いたかった。ずっと、兄貴と、伶和と、一緒に、いたかった。寂しいよ、口惜しいよぉ。う、うぁあああああ…」
零弥の涙は、それから、時計が10時を示し、それから秒針が何周かしたあと、ようやく止まった。
…
零弥は、泣き疲れたのか、リンに抱かれたまま、眠ってしまった。
「やれやれ、おっきな赤ん坊みたいだったな。」
「正直、あんなレミ、今後二度とお目にかかれないだろうな。」
「てゆうか、次、目を覚ました時、このこと覚えてるのかな?」
3人は顔を見合わせると、誰からともなく吹き出してしまった。
ひとしきり落ち着くと、クロムとネオンに、零弥をベッドに寝かせておくよう頼んで、リンは保険医を呼びに職員室に向かった。
「なぁ、ネオン。」
「なに?」
「レミの話でさ、『異世界から来た』のくだり、どう思った?」
「え、うーん、正直、信じられないって思ったけど、きっと、零弥君がそう言ってたわけだし、そうなんだと思う。どうして?」
「…零弥達はさ、元の世界で自殺しようとして、この世界に来たんだよな。」
「そうゆうことに、なるね。」
「まだ、死にたいって、思ってるのかな?この世界が辛くなったら、また、死のうって考えるのかな?」
「…大丈夫だよ!」
「なんで。」
「だって、私達がいるもん。クロムと私、リン先生、もう3人も2人の理解者がいるんだよ?怖いものなんて今更ないない!
それに、仮に2人が辛くなって、また死のうなんて考えたら、どうせクロムなら殴ってでも止めるでしょう?」
「あ、あぁ…まぁな。多分そうする。」
「じゃあ何も心配する必要ないわよ。あんたはあんたの思いで行動しなさい。さっきレミ君に言ったばっかりだよ?」
「・・・そうだな。」
リンが保健医を連れて戻ってくる。2人はリンに連れられて、寮へ戻っていった。
雨は、止んでいた。
…




