背を灼く記憶、目を焦がす過去②
…
その日は雪だった。バイトも無かった零弥と伶和の2人は学校から帰って兄の帰りを待っていた。
壁掛け時計が7回鳴る。いつもならば兄が帰ってくる頃だ。
「蓮兄、遅いね。」
「そうだな…。」
もう夕飯も作って、あとは盛り付けるだけ。手持ち無沙汰であった。
じわりと沁み渡る寒さに手を揉む伶和を見て、零弥は提案した。
「伶和、寒いだろ。先にお風呂入っておいで。」
「でも…、」
「兄貴が帰ったら呼ぶから、ちゃんとあったまってこい。」
「・・・うん、ありがとう。」
伶和は着替えを持って風呂場へ向かった。
シャワーの音が聞こえてくる。零弥は特にすることも無く、テレビをつける。ニュース番組では、不景気だの就職氷河期だのと、視聴者の不安を煽るような内容ばかりである。
全国ニュースが終わり、気象予報と地方ニュースが流れる。
最近この街で連続通り魔事件が起きている。何れも若者が被害者の中心で、夕方から夜にかけて、突然刃物で襲われているようだ。死者も出ており、重症で命は取り留めたものの、暴言を吐かれたりした精神的被害も多いようだ。
こんなニュースを見ててもなお、零弥には他人事であった。自分もターゲットと同じ年齢層であるにもかかわらず、どこか関係ないという気持ちになるのだ。
「お兄ちゃん、上がったよー。お兄ちゃんも入ってきなよ。まだ温かいし。」
「ん、そうだな。それじゃあ、服とってくる。」
零弥はのそのそと立ち上がり、自分の部屋(とゆうことにしてるが物置である。)へ下着を取りに行った。
伶和は特に考えること無く零弥の座ってた席の向かいに腰を下ろし、テレビを眺め始めたところで、鍵の開く音が聞こえた。
「あ、蓮兄かな?」
伶和は立ち上がり玄関先へ向かう。扉が開き、入って来た人物の顔を見た瞬間、伶和の表情は凍りついた。
そこにいたのは兄ではない。父、斗真の姿であった。
「あ…お、おかえり、なさい。」
無意識に震える腕を後ろ手に組んで抑えて隠す。
父親は無職であった。2008年以降の大不況の煽りを受け、リストラにあったのである。
それからというもの、昼はフラフラと酒を飲み歩き、ベロンベロンに酔ったところで夜には帰ってきて薬を吸ったり兄妹に暴力を振るう浮浪者となってしまった。
最近は零弥も強くなり、2人一緒にいるときはむやみに手を出してこなくなったが、伶和は時々夜中に鈍い物音で目をさますと遠くから父親の罵声と零弥の呻き声が聞こえてくるのが聞こえるので、蓮を起こしに飛び出すこともままあった。
零弥は何度も伶和に一緒に部屋で寝ようと言われるが、自分の中にある破壊衝動を恐れる零弥は、断固として拒否するのである。
さて、零弥は先ほど風呂場に向かった。伶和はリビングに戻ると、斗真は黙って付いてくる。なんだか嫌な視線を感じていた。
「…おい、飯。」
父は味噌汁の匂いに気づくと一言、そう告げた。
伶和は内心憎らしく思いながら、短く返事をし、台所に立って盛り付け始めた。
伶和の家の中での格好は、厚手な生地であるがすこし緩めの赤いジャージである。いわゆるお洒落な洋服というものは、普段あまり着ない。数がそもそもそんなにないからだ。だから(零弥もそうだが)家では動きやすく、簡単なジャージを着て、厚着や薄着で温度調節をしている。
そして、先程伶和は熱い風呂に入って身体が温まり過ぎた感があったので、すこし襟を緩めていたので、すこしサイズの大きいジャージがズレて、熱で汗ばむうなじが見え隠れしていた。
伶和はふと振り返ると伸びてくる父親の手が伶和の腕を掴んで引き倒した。
「きゃあっ!!」
斗真が伶和のジャージを開き、下に着ていたシャツを破く。現れた伶和の虐待によって傷ついた素肌が露わになる。
「いやぁっ!やめて!!」
伶和は抵抗するも、酩酊していようと斗真は大人の男、14の少女の力では腕を解けない。
乾いた破裂音のような音が鳴り、伶和の頬は赤く染まる。痛みに一瞬抵抗が緩んだところで両の手をひとまとめに掴まれ、ついに斗真の手が彼女のブラジャーに伸びようとしたその時、
「この腐れ外道がぁっ!!」
斗真の顔がぶれ、視界から姿を消す。ジャージの上着を半開きにした零弥が、憤怒の形相で足を振り上げて台所の方へ吹っ飛んだ斗真を睨んでいた。
「伶和、下がってろ!」
状況や無事を確認する言葉は無用。伶和の姿を見れば何が起きたかは明白だ。
「おいクソオヤジ、今日という今日はもう容赦しねえぞ。
職も探さず毎日毎日酒とヤクばっか。だがそんなのはどうでもいい。俺達の生活費はほとんど兄貴や自分達で稼いだ金があるし、てめえが勝手にくたばるなら万々歳だ。
だがな、いくら俺に当たろうが我慢してやるが、伶和に手ェ出したらぶっ殺すって言葉、忘れたわけじゃねえよな?」
ボソリと何かつぶやく斗真。立ち上がると壁にかかっている麺棒を左手にとって殴りかかってきた。
(武器の上段振りは間合いを詰めて逆手に相手の手を掴み捻り投げ!)
零弥は瞬時に判断し、間合いを詰めるとガラ空きの喉にを突き刺し。
同時に右手を麺棒を逆手に持つように斗真の左手ごと掴み、左足の踵で右くるぶしアキレス腱のあたりを打つ。
そして右手の手首を内側に巻き込むように曲げると斗真はがくんと倒れこむように時計回りに回って台所に強かに頭を打ち付け伏した。
零弥は直ぐさま伶和に駆け寄り、自分の上着を掛けて頭を撫でてやる。
「何をしているのあなた達。」
冷めた声に振り向くと、能面のような無表情で2人を見下ろす母親、葵がいた。
葵は物音を聞きつけリビングに入ると、2人の子供と伏した父親を見た。
「遂にやってくれたわね。待ってなさい2人とも、いますぐ警察に突き出して少年院に送りつけてあげる。」
葵は、生意気な双子にも、酒と薬に溺れる夫にも飽き飽きしていた。だから無干渉、幸い零弥は蓮に似ているため、成長すれば父親程度殴り倒せるようになると見ていた。その時は大手を振って父親と双子を家から追い出せると睨んでいたのだ。
葵が携帯電話を手にとったその時、ただいまと最後の住人が帰ってきた。
「何してるんだ母さん?」
「2人が遂にお父さんをやってくれたわ。いまから警察を呼ぶのよ。2人とこの人を突き出すの。」
「まだそんなことを言ってんのか!2人は俺が面倒みるって言ってるだろ!ようやく準備できたのに…」
「恨むなら待てなかった2人を恨みなさい。もしくはそこのしょうもない男をね。」
葵の声はどこまでも冷たい。
零弥と伶和は、不安な面持ちで2人のやりとりを見ていた。これまで父親のどんな暴挙にも無視を決め込んでいた母親の不干渉にそのような裏があったなどと思いもしなかったのだ。
皆が葵に意識を向けていた。だから、次に起こったことには葵も含めて皆が驚愕した。
なにかの気配を感じた零弥。それが初めて零弥が知った、本物の殺意であった。零弥は首に向かって飛んできた光をすんでのところで避ける。首の薄皮に切れ目が入り血がつぅと流れた。
振り向いた先にいたのは、当然ながら斗真。目を血走らせ、息も荒いそれは、手に包丁を取って、れなの右手を捻り上げて拘束していた。
小さな悲鳴を上げる伶和は、手首を掴みあげられる痛みに暴れようとしたが、目の前に突きつけられる包丁に竦んでとうとう動けなくなる。
「…葵、やめろ。」
「ふん、なによ今更亭主のつもり?若さに任せてバカやって産んだ子供に八つ当たりするヤク漬けの呑んだくれなんてもう書類上の関係でもうんざりよ。
殺す気なら好きにしなさい。私は止めないわよ。あなたの罪状がここで一つ二つ増えようが、私が証言すればあなたの絞首台行きは変わらないのよ?」
「母さん、何を…?」
「蓮、もうちょっと新聞読みなさい。今この辺で出没してる若者狙いの通り魔、失血による死者数名、重症多数。被害者は男なら黒髪、女なら茶髪ばかり。わからないかしら?」
葵の言葉は非常に単純な答えを示していた。そう、犯人は斗真であったのだ。つまり、この状況は早い話、今まさに零弥は殺されかけ、伶和は殺されようとしているのだ。
「おい親父、やめろ!」
「・・・」
斗真の包丁が再び光を反射したその瞬間、蓮は包丁を持った右手に掴みかかり、伶和を挟んで取っ組み合いになった。
その間にも葵は警察に電話を掛ける。それを見た零弥は母親に飛びかかり携帯を叩き落とした。
携帯から警察の声が聞こえる。こちらの音が伝わったか状況を確認するような声が聞こえてきた。
葵は零弥の足を踏み怯ませると直ぐさま携帯に飛びついた。
「もしもし、警察?うちの子が旦那にぼうこ…」
そこから先の葵の声は、頭を割るような号哭が全てかき消した。
零弥も葵も何事かと振り返る。その光景に2人とも絶句した。
取っ組み合っていた蓮と斗真。蓮の脇腹から少し後ろの辺りに、斗真の握っていた包丁が突き刺ささっている。そしてその包丁が抜かれると、夥しい量の血が噴き出し蓮は倒れた。
「て、てめぇええええ!!」
零弥は怒りに任せて斗真の顎を蹴り上げる。包丁は床に転がり、斗真は脳震盪を起こして完全に沈んだ。




