魔法の学び舎④
帰りの馬車の中、伶和は横に座って本を読みながらノートにペンを走らせる零弥を眺めていた。
伶和にとって、生まれた時から傍にいて、辛い時も苦しい時も一緒にいて守ってくれた兄は、この世で最も尊敬する人物であった。
しかし、伶和が零弥を慕う理由はそれだけではなかった。もっと単純な理由。零弥は凄い。それを知っているからこそ、周りに「妹扱いに不満を覚えたことはないのか」とよく聞かれても一切不快に覚えたことはなかった。
零弥は基本的に頭が良い。物覚えが特に良いということではない。つまり、頭の回転が普通の人より遥かに早いのだ。中学校のテストでも、社会のような丸暗記科目では多少苦労してるようだったが、それ以外、特に国語、数学、科学では常に平均寄りな点数を取る自分が半分ほど解き終わった頃にふと兄を見ると、すでに手持ち無沙汰に虚空を眺めており、常にほぼ満点だった。現に、零弥は今もこうしてたった1ヶ月しか触れていない魔法を開発するための勉強をしているのだ。
学力だけではない。二人は、少し特殊な縁からよくケンカに巻き込まれた。そんな時、いつも彼女を守っていたのは零弥であり、零弥はどんな相手でも、何人いても、一人で立ち向かい、決して膝をつくことは無かった。
そんな兄だから、この世界で多少の荒事に巻き込まれたくらいでは負けることはない。でも、この世界には、人の限界を超えた力がある。そして、自分達はその力の世界に飛び込むことになる。その時、普通の魔法が使えず、現状代替手段もほとんど無い兄は言わば弱者である。
伶和が恐れているのは、兄の負ける姿、兄を侮る者が現れる可能性だった。だからこそ、今こうして必死に自分だけの魔法を開発しなければいけない兄を見つめてしまう自分がいた。
「…ん?どうした伶和?気分でも悪いか?」
「やっ、ううん。大丈夫だよ。ごめんね、邪魔しちゃって。」
「気にすることないよ。何かあったらすぐ言えよ?」
「…うん。」
優しく微笑む兄に心配かけまいと、伶和は笑顔で応えた。
やっぱり、私は兄の妹でいたい。伶和はそう思いながら、零弥の邪魔をしないよう窓の外を眺めることにした。
…
零弥は恐れていた。その男を。争いの中で姿を現し、暴力の中にその快感を得る。その眼に映るものは須らく敵で、唯一の存在である彼女以外を鏖殺していく。その男が現れてしまえば自分は眺めていることしかできなくて、しかもその光景は眼に焼き付いているのにその間自分は何もできない。
零弥は探し続ける。その男と決着をつけるための方法を。そして今、そのための手段を見つけた。全ては、伶和を守るために。全ては、平穏を自らの手で掴み取るために。
あの男の影を振り払うために。
…
その日は、新学期の始まる前日であった。
その日の朝から、セシル家の門を叩くものがいた。
「あ、クロム君!どうしたの?馬車はお昼からだよね?」
「あっ、レナちゃん。いや、その事で話があってさ。」
レナを見た瞬間、急に肩に力が入ったように見えたが、クロムはすぐに元に居住まいを正した。
「やっほー。私もいるよ!…あれ?レミ君はおでかけ?」
「お兄ちゃんなら、たぶんまだ寝てるよ。昨日は遅くまで勉強してたみたいだから。」
後ろから姿を見せたネオンの問いに答える。
伶和は「昨日は」と言ったが、正確には、この一月、零弥は常に何かに取り憑かれたようにノートに走り書きをしたり、かと思えば、1人で地下の倉庫に潜ったりしていた。そんな調子だから学校の準備もまともに進んでいなかったのを3日ほど前に気づいた伶和が、最低限のものだけトランクに詰め込んだあと、零弥を引っ張って(というと語弊があるが)最終確認だけ行ったが、それが終わるとまた零弥は勉強に戻ってしまった。
そして今に至る。
「へぇ、熱心だなぁ。何処かの誰かさんとは大違い。」
「うるせぇやい。」
「ふふふ。本当に仲いいんだね。」
「まぁ、幼馴染みだしね。」
「そうなんだ~。」
曰く、ネオンの親はリグニア家のかかりつけ医であるので定期的にリグニア家に行くのだが、幼い頃のネオンはそれについていき、クロムと知り合った。元々人見知りなタチのクロムはやがて不思議とネオンと打ち解け、よく一緒に遊ぶ事が増えた。
今となってはそれが親同士でも話題にのぼり、いろいろとあって腐れ縁のように続いた関係なのである。
それはともかく、クロムが持ってきた話というのは、なんなのか。伶和はとりあえず2人を家に上げて、お茶を出してから、零弥を起こしに階段を上がっていった。
「…どう?クロム。」
「どうってなんだよ?」
「レナちゃんの事だよ。気になるんでしょう?」
「ばっ!なんでそんな事を…!」
「分かりやすいなぁ~。まぁ、幸か不幸か、レナちゃんにはまだ気づかれてないみたいだけど。
でも、確かにレナちゃんって可愛いよね。なんか薄幸の美少女って雰囲気あるし。学校でも人気出そう。今のうちに少しでもアピールしといた方がいいんじゃない?」
「いや、ダメだろう。俺がレナちゃんしか知らなかったならそれもありだろうけど、レミがいる。」
「いきなり友達の妹に手は出せない?」
「そんな感じだ。それに、レナちゃんだけじゃなくて、今の二人にはそんな余裕はないんじゃないかと思うんだよ。」
「そうだね。まるで、何も知らないみたいな感じするよね。本当に私達と同い年なのかなってぐらいにこの国、この世界の事を知らない、そんな様子。」
零弥と伶和に対して抱いた違和感は、ともすれば真相に辿り着こうとするものだったが、残念ながら彼らはそこから「異世界からの来訪者」などという発想ができるほど常識はずれではなかった。
「そんなことより、ネオンこそ、レミに何か思うところがあるんじゃないのか?」
「うーん、かっこいいとは思うよ?」
「…それだけ?」
「うん。まだそれだけ。レミ君って、レナちゃんに比べて感情やなんかが表に出てこないから。今のところ私の中では『妹思いなクールガイ』ってところかな。」
「あれは妹思いなとゆうよりシス…」
「あれ、二人ともこんな早くからどうしてうちに?」
クロムの爆弾発言が投下されようとしたその直前、髪がボサボサの状態のレミが居間に現れた。
「うわぁっ!レミ!?レナちゃんが起こしに行ったはずじゃなかったのか!?」
「あぁ、どうも地下室で寝落ちしちゃったみたいでな。レナには悪いことしたか。
んじゃ、俺は顔洗ってくるから。もうちょっと待っててくれよ。」
そう言うとレミはシャワールームへ向かっていった。
「あっ、お兄ちゃん。おはよう。」
「おはよう。悪いな伶和、地下室で寝てた。」
「そっか。あんまり無理しないでよ。」
「あぁ、わかってるよ。」
そんな会話のあと、入れ替わるように伶和が姿を見せた。
「ごめんね。待ってもらっちゃって。」
「ううん、大丈夫。こっちも朝から押しかけてるからおあいこだよ。」
それから暫くして、零弥が居間に戻ってきた。髪も濡れていて、タオルを肩にかけてることからも、シャワーを浴びていたのだろう。
「それで、クロム君。話って何?」
「朝から来るってことは急ぎの用事か?」
「あ、いや、それほど急なことでもないけど。二人は、学校へ何で行くんだ?」
「何って、普通に相乗りの馬車でだけど。」
「そうか。じゃあよかったらさ、うちの馬車に乗っていかないか?」
「クロム君のお家の馬車?」
「私達はいつもそれで学校へ行くんだよ。二人だと広すぎる分もあるから、レミとレナちゃんも一緒にどうかなって。」
「どうする、お兄ちゃん?」
「別にいいんじゃないか?学校の馬車もチケットを買うとかそうゆうのではないんだし。リンさんはもう学校にいるし、アクトさんとイリシアさんはもう仕事だろ?」
「あ、そういえばイリシアさんは今日は行ってないよ。今はお買い物だって。そろそろ帰ってくるんじゃない?」
伶和の言葉に合わせたかのように、扉の開く音がして、イリシアが姿を見せた。
「あら、クロム君、ネオンちゃん、いらっしゃい。どうしたの?」
「お邪魔してます。実は、レミとレナちゃんを学校までうちの馬車で一緒に行かないかと誘っていたところでして。」
「あらそうなの?良かったわね二人とも、きっと快適よ。」
ニッコリと柔らかな笑みを浮かべてイリシアは尻尾を揺らしながらキッチンへ歩いていった。
リンの獣人的な要素はこの母親譲りらしい。フワフワとした尻尾とピンと尖った耳が特徴の狐型獣人。より正確には、マナ生命体「月狐」の一族である。
「しかしリンちゃんから初めて聞いたときは驚いたよ。マナ生命体が人と交わって子供が生まれるなんて聞いたことなかったし。」
「そもそもマナ生命体自体が確認事例が少なすぎる種族だからね。人前には姿を見せることがほぼないから。」
「でも、魔法の発動にはマナ生命体である精霊が関与してるだろ?結構そこら中に精霊はいるじゃないか?」
「精霊なんて目に見えないものどうやって調べろってのさ。そもそもあいつらには物理法則は通用しないんだから、捕まえることもできやしない…。」
クロムはそこで絶句した。レミの掌の中に、小さなつむじ風が起こり、そこに「何か」がいることに気づいた。
「レミ君…それ何?」
《むーっ、それとはシツレイな!僕にはキチンと零弥様に貰ったシルフィンって名前があるんだよ!》
ネオンの言葉に反発するように光を発し、念話で反論してきた不可視のソレは、伶和にとってはどこか見覚えのあるものだった。
「お兄ちゃん、その子、風の精霊?」
「あぁ、風の精霊のシルフィン。
これは俺の開発した魔法の一つで【精霊喚起】。媒体にした物を司る精霊を物理世界に干渉できるように魔力でできた仮の肉体を与える魔法だ。一度呼び出して名前を与えれば契約完了、この子たちは常に俺の周りにいて、媒体さえあればいつでも呼び出せる。風の精霊は空気を媒体にできるから、実質いつでも呼び出せる一番便利な子だよ。」
《えへへー。》
零弥の言葉を受けて嬉しそうに頬擦りするシルフィン。その風を受けて零弥の髪がなびき、そこにいることがよくわかった。
「でも今、レミ君何にも詠唱してないよね?無詠唱ができるの?」
ネオンが疑問に思ったのは、無詠唱というとんでもない高等技術を見せられたためである。
そもそも詠唱は何のためにあるかと言えば、魔法の発動の「構築」の段階でイメージを補完するためである。そのため、理論的には詠唱をしなくても魔法は発動できるが、それは頭の中だけで完璧なイメージができるもののみ。よほど豊かな想像力が要求される。
故に、これができる魔法使いは、魔法発動にほとんどラグがなく、また、詠唱から何をしようとしているか特定されないため、隙がほぼないということになる。一応時間をかければ誰でも無詠唱で魔法は使えるが、実用レベルに至るものはほとんどいないと言われている。
「いや、さっきも言ったけど、これは俺が作った魔法だ。自分で作った魔法ならその内容は完全に自分の頭の中に入ってるのは当然だろう?あとはただそれを呼び出すだけだ。
それに、普段は全くの無詠唱というわけでもない。割と多くの魔法の中で、鍵になる一節だけを読むことで実戦ではより確実に発動するようにしてるよ。」
「詠唱破棄の要領か。それでも十分凄いけど、レミが開発したってなら納得だ。でも、魔法の開発なんて俺たち習ったことないぜ?できるって話しか知らなくて、実際それを学ぶのは高等部に入ってからだ。」
クロムは素直に感嘆した。
その辺に関しては心得てる伶和はもっと単純な疑問に気づいた。
「そういえば、シルフィンってあの水の子とは性格違うね。精霊ってみんな違うの?」
「あぁ、ウィンディか。彼女は落ち着いた性格だな。シルフィンは元気があって明朗だ。土の精霊ノーンは無口で紳士的、雷の精霊ゼノンはクールで孤高なイメージだな。光と闇の精霊のシャイナとルネは一心同体、比翼連理。炎の精霊のアグナはちょっと気性が荒かったな。」
《僕アグナ嫌いだー。怒りっぽいもん。》
「まぁまぁ、でも悪い奴じゃないよ。それに、火と風は相性のいい属性だろ?仲良くしてやってくれ。」
《零弥様がそうゆうなら…仕方ないなあ。》
零弥の周りをフワフワと浮かんで口を尖らせるシルフィン。苦笑いを浮かべて諭す零弥。あまりにも自然なその表情にネオンは内心ひどく驚いたがそれを表に出すことはなかった。
「とまぁ、こんな風に精霊ってのは結構身近にいるもんなんだから、その仲間であるマナ生命体をそこまで特別視する必要もないんじゃないか?」
《全くダヨー。人間てのは見えるものしか信じやしないからこまるヨナー。…オロ?》
シルフィンの体が形を保てなくなりだした。
《チェー、モウ時間切レカー。モット遊びタカッター。》
「仕方ないよ。またいつか呼ぶから。その時はよろしく頼むよ。」
《ウン、ワカッタ!約束ダゾ!ジャアナ!》
そしてシルフィンの身体は霧散した。
2018/4/5 精霊ゼノンについて加筆。精霊ノーンについて修正。




