朝霧、その先の空①
ネオンを家に届けてから30時間弱が経過。ローレンツの東の大通りのマルシェを抜け、東門を出た先の道をさらに進むと、大きな港がある。
空はまだ暗い。海の向こう側がようやく紫色に染まり始めている時間だ。
船着場を望める少し離れた資材置き場の一角に、小さなテントが紛れ込んでいた。ボロ布で覆われており、一見すればホームレスの住まいとも取れるため、一般のものであれば見ることすら忌避するだろう。その中に零弥とリンはいた。
『猫の耳』で指名手配と思しき二人組を見かけた翌日、零弥はリンに次の日の朝に起こるであろうこと、そしてそれに対して取ろうとしている行動について打ち明けた。それを聞いたリンは、
「…そうか。」
と、もはや何も言うまいとこめかみを揉んだ。
その後守備兵団に二人組のことを伝え、一先ず「密航」の容疑で取り押さえてもらうことになった。
根回しが終わったところで東の港にテントを張り、この時間までそこで交代に見張ることにしたのである。
「では、基本的に守備兵団に任せ、あくまで成り行きを見守るだけだな?」
「はい。守備兵団が二人を拘束してくれるのを期待します。」
零弥の回答に、リンはため息一つで了承することにした。
「危険だと思ったらすぐさま逃げる。そいつらの拘束は二の次だ。いいな?」
「わかってます。」
リンの念押しにも零弥は淀みなく答えた。
ちなみに守備兵団は零弥達のことを認識している。昨晩巡回の団員と遭遇して事情を説明してある。また、目標を見つけたら『合図』をする話も取り付けた。
動きがあったのは零弥とリンのやり取りの後の10分ほど後。1人の男が周りを気にする様子で歩いて、漁業用の小型蒸気船に乗り込んだ。荷物を確認しているような様子である。
男が紙巻きタバコを蒸しはじめてまた少し経つと、目的の男女が現れた。服装は2日前と違い少し高級そうだが庶民的な格好であった。海の上での生活で貴族服は邪魔ということか。化粧も凝っており顔の一部に傷跡すら描いてある。
だが、零弥の【眼】にはハッキリと映っていた。男の方は緑と黄色のマーブルカラー、風と雷属性の使い手。そして、女の方は理解に苦しむ幾何学パターンの紋様のような魔力であった。
「来ました。『合図』を出します。」
「勘づかれるなよ?」
零弥は手元の空き瓶を勢いよく近くの石材に投げつけた。
甲高い破壊音が港に響く。それと同時に、槍や剣を構えた守備兵団が現れた。
「動くな!この港で許可なき遠距離航行を行う者は罰せられる!ご同行願おうか!」
「…あらあら、随分と殺気立ってるわね。」
女は先に来ていた船頭と思しき男を睨む。
「ち、違う!俺じゃない!こんなのがいるなんて知らなかった!」
「お嬢様、私のミスです。恐らくどこかで私たちの会話を盗み聞かれたのでしょう。」
「そう。まぁいいわ。それなら私は自衛するから。貴方は虫を払いなさい。」
「かしこまりました。」
女は船頭の方へと歩みを進め、男は反対に守備兵団に相対する形で前に出た。
「二手に分かれろ!3人とも容疑者だ!」
守備兵団は男へ向かうものと、女と船頭の元へ向かうものに分かれた。
ただし、男へと向かったもの達のうち、比較的近かった5人ほどは次の瞬間には男から離れて行った。
本人達にも何が起こったか分からなかった。なにせ前へと進もうとしたら後ろに飛んでいたのだから。
しかし一瞬後に遅れてやってきた痛みと痺れを感じ、遠ざかる視界の中で、男が足を下ろすのを見て、自分達は目にも留まらぬ速度で蹴られたのだと認知した。
遠くから見ていた零弥とリンも目を丸くしていた。
「ばかな、一瞬で5人も…!」
「雷属性の身体強化ですね。あの男はかなりの使い手ですよ。それよりも女の方です。」
「…!?なんだあれは…。」
リンの視界に映ったのは、不可解な光景であった。
まず女の姿が変わっている。どこから取り出したのか、白衣と眼鏡をかけていた。そして手には小さな霧吹きが握られていた。
そして、彼女へと襲いかかった守備兵団達は、みな顔や喉を押さえてもがき苦しんでいた。
「あらあら、ちょっと香水を振り撒いただけでこの体たらく。だらしないわね?」
「がぁ…っはぁっ…!」
「毒使い…だと!?」
少し離れていたため直接浴びていなかった守備兵の言う通り、これは香水などではなく毒物であった。
離れて見ていた零弥達には分からないが、もしある程度知識のあるものが近くにいたならば、その独特の刺激臭から、振り撒かれたものがメタナール水溶液、すなわちホルマリンである事が分かっただろう。
「毒使いだなんて無粋な呼び方はやめてもらいたいわ。これは導術で作り出された薬品よ?」
「導術…?」
「あーぁ、導術を知らない人も多いのよね。何のために勉強しているのかしら、私。」
彼女は床に転がっている守備兵の1人を持ち上げると顔からその手を退けて相手に向けた。その目や唇は炎症を起こしている。
「この薬品は粘膜に対して強い刺激を持つのだけど、これが空気と触れて変質すると…」
その時起こったことは零弥の【眼】に頼ることになるが、彼女の魔力がある特定のパターンの粒子となり、手元の守備兵の顔にかかる。
すると鼻からどろりとしたものが出てきた。また目はグジュグジュになり、口からは声にならない叫びとともに泡を吹きはじめ、そのまま彼はがくんと力を失った。
「この変質した物質はね、一部のアリのお腹の中からも出てくるの。だから、アリ毒って私は呼んでいるのよ。」
ホルマリンの中身、メタナールまたの名をホルムアルデヒドは、空気酸化することにより最も単純な構造のカルボン酸、ギ酸になる。
ホルマリンは粘膜に対し強い刺激を起こす、そしてそれが酸化するとギ酸となり、強い腐食性と酸性によって細胞を破壊し神経毒性も示す。眼に入ればおよそ失明するだろう。
また、被害者となった彼はホルマリンを吸っていた。彼が泡を吹いたのは、肺に入ったホルマリンがギ酸となることで肺水腫を引き起こし、溺死したためであった。
「何が導術だ毒使いめ。目の前で人を殺しやがって。殺人の現行犯で処刑台に送ってやる!」
相対していた守備兵は魔力を練り上げた。
組み上げる魔法は中級の風属性魔法【颶風斬】、しかし練り上げられたはずの魔力は、魔法の形をなす前に霧散した。
「なっ!?お前、何をした!」
「フフフ…さぁ?私は何も?」
彼女は不敵な笑みを絶やさない。
当然だが、魔法を霧散させたのは彼女である。
零弥の【眼】によれば、彼女の魔力が先程とは違うパターンの粒子となって、発動しようとしていた魔法を覆った。すると、術式にノイズが走り、エラーを起こして停止。魔力は役目を果たさず霧散した。
「一体….何が起こっているんだ?」
そう呟くリンの言葉により、零弥の魂属性と同じく、あの魔法は物理的な現象を伴わない魔力であることがわかった。
魔法の発動には、自然中に存在するマナと人間、精霊の存在が必要とされる。これは土中の栄養素と植物、微生物の関係に似ている。
マナを人が取り込み何らかのエネルギーを付与することで魔力を生産する。例えるなら植物が土中の栄養を吸い上げ有機物を生産する過程である。
魔力を外界に放つと精霊が魔力に群がり、マナへと分解する。植物が落とした葉や実を微生物が分解して無機栄養素に変換する過程である。
この際微生物が分解すると熱が発生するのだが、腐葉土の山から湯気が上がっているのを見たことがある方ならわかるだろう。そう、この熱が魔法事象である。微生物は有機物を分解したエネルギーを熱の形で発散するが、精霊は分解した魔力の種類によって違う事象を引き起こすということだ。
魔力の引き起こす事象は、火属性であれば「発火現象と"滅却"」のように、物理事象と概念事象が発揮される。ただし、これは魔力現象の「平行性説」の定義である。
そこに反証する例としてごく稀に、物理事象がなく、概念事象のみ引き起こす魔力がある。零弥の魂属性や、この場にいる彼女の魔法はそれに当たるということである。
このようなものの存在から、物理事象は概念事象の効果によって副次的に発生する現象であるとする「帰納的現象論」が提示されているが、この議論に関しての決定的な答えは出ていない。
零弥の【眼】が捉えた、発動前の魔法に起こったノイズとエラーは、ティニーの魔力によって魔法式を構成する魔力が変質を起こし、魔法式が機能しなくなったのではないだろうかと予想される。
…
11/4
後半部分を大幅に編集しました。多少読みやすくなったかと思います。




