08 修復士と眠れない夜
――寝つけないなぁ……。
夜、部屋には月明かりが差している。
その仄かな明かりの中、ベッドの上のヴィゼはそっと体を起こした。
枕元に置いてあった眼鏡を手に取る。
体を休めようと目を閉じて眠りを待ったのだが、一向に訪れてくれないので、諦めることにしたのだ。
――とりあえず、水でも飲んで来よう……。
月の光のもと、ヴィゼは迷いのない足取りで部屋を出た。
暗闇に慣れてきた目で、暗い廊下を危うげなくヴィゼは食堂へ向かう。
その際彼が隣室のドアについ目を向けたのは、そこがクロウのものとなったからだった。
クロウにはここ以外にない、と部屋を整えたのは、レヴァーレ(とラーフリール)である。
ヴィゼはそれでいいのかと焦ったが、クロウの感想は「有り難い」だった。
「それならば影に潜まずともこれまでと同様あるじどのを護衛できる」
「え、護衛、って、続けるの?」
「当然だ、あるじ。先ほどもあるじをお守りすると誓っただろう」
きっぱりと返されて、ヴィゼは結局何も言えず、クロウの部屋はそのまま決定した。
――そりゃあ、どの部屋になってもひとつ屋根の下っていう事実は変わらないわけだけど、すぐ隣の部屋でクロウが寝起きするって、うん、いや、今さらだけどさ。ずっとクロウは僕の影の中にいたわけだけどさ……。
食堂に辿り着き、ヴィゼは目を凝らしてキッチンにあるはずの水瓶を探した。
「――眠れないのですかな?」
ここだ、と手を伸ばしたところで声を掛けられて、ヴィゼは肩を揺らす。
魔術で小さな明かりを灯したゼエンが、静かに近付いてきていた。
「明かりもつけずに」
「ああ……うん。起こしちゃ悪いかなって……。って、明かりがなくても起きるか。ごめん」
「いいえ」
ヴィゼは気配を消すことをすっかり忘れていたから、それでのうのうと寝ているようでは戦士稼業は務まらない。
クロウのこともきっと起こしてしまっただろう、とヴィゼは申し訳なく思った。
護衛と自任するクロウが起き出してこないのは、ゼエンがこうしてやって来てくれたので、遠慮したのだろうか。
それとも、本拠地の中であれば安全との判断からだろうか。
「……ミルクでも温めましょうかな」
「ええと、じゃあ、お願いしよう、かな」
ヴィゼは少し後ろに下がって、ゼエンを奥に通した。
小鍋にミルクを注ぎ、魔術で火を作り出して温め始めるゼエンの手元を、ヴィゼはぼんやりと見つめる。
「眠れないのは、クロウ殿のことを考えていたからですかな」
「えっ、いや、それだけじゃないよ、依頼のこともどうしようかなって――」
「語るに落ちておりますなぁ。本当に今日は珍しいリーダーが見られる日です」
「あ、あー……」
ふふふとゼエンは楽しそうに笑った。
ヴィゼは気まずい気持ちで、誤魔化すように頬を掻く。
ゼエンは温めたミルクに蜂蜜を少し加えると、それをカップに注いだ。
「どうぞ」
「ありがとう……」
ヴィゼは差し出されたカップを受け取ると、何度か息を吹きかけてから、一口含んだ。
体が内側から温められて、ほっと肩の力が抜ける。
何度かカップを傾けて体を温めていれば、ゼエンと話したいことがあるような気がして、ヴィゼはカップを胸元まで下ろした。
小さな結界を張って、話を聞かれないように計らう。
何となく、これからの話を誰にも聞かれたくないように思った。
ゼエンは黙って、そんなヴィゼを見つめている。
「……正直なところ、御大にはもっと慎重になれって言われると思ってた。クロウのこと」
やがて、ヴィゼはそう口にした。
「急ぎ過ぎたって、自覚してる。クランをまとめる者として、皆の意見を先に聞くべきだった。クロウも戸惑わせてしまったし……」
「そうですなぁ」
己を省みているリーダーに、ゼエンは穏やかな眼差しを向ける。
「それほどまでに、リーダーはクロウ殿を側にと願われたのですなぁ」
「……その言い方は、何だか誤解を招くような気がするんだけど……」
ヴィゼは眉を寄せる。
「皆が全然反対しなかったのは、そう思ったから?」
「そうですな」
問えば、ゼエンは当然とばかりに肯定した。
「もちろん、今日一日接しておおよそクロウ殿の性格を知り、仲間としてやっていけると判断したからでもありますがなぁ。リーダーがクロウ殿の手を離そうとしなかったのが、私もそうですが、エイバ殿にもレヴァーレ殿にも、印象的だったのでしょうな」
「ああ……、」
廃城の門の前でのことを思い出して、ヴィゼは恥ずかしくなった。
誤魔化すように、こくり、とまたホットミルクを口に含む。
甘い。
「……いなくなる背中を、なんだかすごく、見たくないと思ったんだよね……」
「ふむ。……それは、惚気ですかな? それとも、熱烈な告白ですかな?」
「どっちも違う!」
ヴィゼは思わず声を大きくした。
「冗談です」
「御大……、」
「しかし、クロウ殿との過去のことを思い出したわけではないのですな」
「うん……」
じとっとした目をゼエンに向けたヴィゼだったが、すぐに神妙な面持ちになる。
「僕を主と呼ぶくらいのことがあったなら、すぐに思い出せそうなものなんだけどね……」
「ですが彼女の言葉を、嘘とも人違いとも、疑ってはいないのですな」
「そんな嘘をついて、クロウにメリットがあるかな。……いや、それは、僕の願望か。だけど、嘘をつくなら、クロウにはもっと上手いやり方があったはず」
ヴィゼはカップを持っていない方の手で、少しばかり頭をかき回した。
「人違いってのはあり得るけど、そうならクロウはあまりにも……、真っ直ぐすぎる」
「人違いでも、彼女がそうと思い込んでいるならば、そのような態度にもなるでしょうな」
「――そうだね」
ヴィゼはぎこちなく、ゼエンの言う可能性を肯定した。
「とはいえ、クロウ殿はずっとリーダーの側にいたと仰る。人違いなら、気付いていておかしくないですな」
「何だかいじわるだなぁ、落として上げて……」
ヴィゼはちょっと肩を落として、すぐに顔を上げた。
「まあいいや。もし人違いだったって分かったら、クロウを傷つけないように何とかしよう。ひとまずはクロウを信じることとして……、御大にも、心当たりはない、よね」
「はい」
ヴィゼが尋ねたのは、彼が戦士となって以来、ゼエンとはほとんど行動を共にしているからだった。
「……一応明日、時間があったら過去の依頼の記録を見直しておくよ」
「それが良いですな。しかし、私にも記憶がないとなると、もしかするとモンスベルクでの出来事ではないのかもしれませんな」
ゼエンが口にした内容に、ヴィゼはわずかに顔を強張らせた。
ヴィゼもゼエンも、モンスベルクの出身ではない。
二人は隣国フルスの出身で、国を出てモンスベルクに移り、それから戦士稼業を始めている。
二人が出会ったのはフルス王国を出る時で、それよりも前にヴィゼとクロウの出会いがあったのならば、ゼエンに心当たりがないのも当然のことだ。
それも最早十年も昔のことであるから、ヴィゼがなかなか思い出せずとも仕方のないことであった。
「……その可能性もなくはないけど、そうだとするとその時のクロウはかなり小さい子どもだったんじゃない?」
「さて、それは……」
ゼエンは曖昧に首を傾け、
「可能性がゼロでないならば、考えてみて損はないのではないですかな。それでも、全く思い当たるところはありませんか?」
「それは、」
ヴィゼは淡い明かりの中、手元のカップに視線を落とした。
まだ残る白いミルクに、ヴィゼの心が映すのは、黒。
――黒水晶。
「……別の子のことを、思い出すんだよね」
「浮気はいけませんなぁ、リーダー」
「だからそういうんじゃないんだってば!」
声を荒げて、ヴィゼは肩を落とした。
「その子は……僕に残された、唯一の家族なんだよ」
その言葉に、ゼエンはぴくりと眉を動かす。
「それは……、」
「ああ、あの男の血を引いてるって意味じゃないよ。血の繋がりなんて全くない。でも……僕にとっては、家族なんだ」
「クロウ殿は、その方ではないのですかな……?」
「……分からないんだ」
途方に暮れたように、ヴィゼは返した。
それに、ゼエンも困惑する。
否定でも肯定でもなく――分からない――。
「それは、お顔を覚えていないということですかな?」
「うーん、そうじゃなくてね……。容貌なら、九十九パーセント違う」
「それは、別人ということでは?」
「そうとも言い切れないんだよね……これが」
ヴィゼは嘆息し、その曖昧な物言いに、ゼエンとしても返答に困った。
「ただ、あの子と離れ離れになった時、僕のせいであの子はひどい目にあったんだ……。だから、クロウが僕に恩を感じてくれているなら……、違うのかなって」
「けれど、全く否定もできない、というわけですかな」
「……瞳が、重なるんだよね。あの子と」
ぽつり、と零す。
――僕はクロウを、代わりにしようとしているんだろうか……?
ヴィゼは己の心を探るが、自分でも分からなかった。
ゼエンはそんなヴィゼをしばらく見つめていたが、やがて告げる。
「……クロウ殿のことはともかくとして、私としては、ひとつ合点がいきましたなぁ」
「え?」
「ヴィゼ殿は、」
と、ゼエンは呼んだ。
「ずっと何かを探しておられる。そのご家族だったのですな」
「あー、うん、そう。……実は、そうなんだ」
探しものがあることは、隠していなかった。
けれど、それが何かを打ち明けたことはなかった。
ヴィゼはこの時初めて、生き別れの家族を探している、と仲間に口にした。
「皆には、いつか話したいと思っていたんだけど……、説明が、難しくて」
「無理に語ることはないでしょう」
「……皆がそう言ってくれるって、分かってるから、甘えてるんだよね、僕は」
自嘲気味に、ヴィゼは笑った。
「僕がやってることは、ただの自己満足でしかない。あの子にも、皆にも、きっと迷惑をかける。分かってるけど……、会いたいんだ」
言って、ヴィゼはぎゅっとカップを握る。
「……御大、ひとつお願いをしておいていいかな」
「なんですかな?」
「いつか、あの子が見つかった時……」
その時が来るのか確信が持てずに、けれどその時を請うような瞳で、ヴィゼはゼエンへの願い事を口にした。
「皆を面倒事に巻き込んでしまうかもしれない。だから、その時は、『何も知らなかった』って言ってほしいんだ」
「リーダー……?」
ゼエンは訝しげな顔になるが、ヴィゼはそれ以上そのことに触れなかった。
カップを空にした彼は、「ごちそうさま」と、洗い場にカップを置く。
「クロウのこと、思い出せるようとにかく頑張ってみる」
決意を言葉にして、ヴィゼは微笑んだ。
「御大と話せてよかった。おかげさまで眠れそうだよ。ありがとう」
ヴィゼが結界を消して、それ以上聞けずに、ゼエンはいいえ、と首を振る。
二人は足音を立てないよう廊下を戻り、部屋の前で「お休み」と言葉を交わして別れた。
ヴィゼはもう一度ベッドに横になり、目を閉じる。
寝つけない様子だったヴィゼを気遣ってくれた、ゼエンの気持ちを有り難く思う。
その彼に眠れそうだと口にした、それを嘘にしないよう、ヴィゼはじっと、眠りが訪れるのをそうして、待った。