03 修復士と黒の少女②
追いかけてくるか、とヴィゼは急ぎながらも後方を確認し、違和を覚える。
ワイバーンの死体の向こう、生き残りのゴブリンたちが、何かを畏れるようにして後ずさるように見えたのだ。
――なんだ……?
しかし、邪魔もなく走れば出入口となっている扉はすぐそこで、通り抜けてしまえばその疑問はヴィゼの頭の隅に一旦しまいこまれた。
それよりもと、全員が城を出たところで、しっかりと魔術で扉を閉ざす。
扉が破られる気配がないのを確認して、<黒水晶>の面々は深い溜め息を吐いた。
「……こんなに疲れたの、久しぶりやわぁ」
「一生分のゴブリンを見た気がするぜ、俺は……」
「普通、一生にゴブリンはどれくらい見るものなのですかな?」
「真面目に考えださないでくれっ」
あの状況の後でもそんな軽口を叩く余裕を見せるメンバーたちの様子に、ヴィゼはほっと胸を撫でおろす。
またこの城に入ってあの大群を退治しなければならないのか、と考えると憂鬱だが、ひとまず無事に切り抜けられたのは幸運なことだった。
しかし、城を出たヴィゼにはもう一つ、問題があるのだ。
それは。
――この手をいつ離すか、ということだった。
城を出る際、咄嗟に握った小さな手のひら。
ヴィゼは己が握る少女の手の温度を強く意識し、そろり、とその白い手首の細さに目を向ける。そこから辿っていけば、黒い瞳がじっとヴィゼを見つめていた。
――やはり、
既視感。
ヴィゼは無意識に息を詰める。
ヴィゼにつられるように、一息吐いた仲間たちの視線も、少女へと集まった。
ヴィゼを救った少女。
一体彼女は何者で、突然どこから現れたのか。
少なくとも、害を為すような存在でないのは確かであろうが――、と、仲間たちは顔を見合わせる。
そのわずかの沈黙の間を、緑の香りを濃く乗せた風が吹き抜けていった。
その風を見送り、とにかく、まずは礼を言うべきだろう、とヴィゼは口を開きかける。
だが、
「あるじ」
それを制するように、ヴィゼは黒い少女に再びそう呼ばれた。
「危地は脱した。わたしはここで失礼しようと思う」
「え……、」
「だから、手を、離してはもらえまいか」
――そうだ、離さなければ。
ヴィゼはしかし、それは駄目だ、と何故か強く思ってしまった。
むしろ、その華奢な手を掴む手に、力を込めてしまう。
――ここで離したら、また……。
また――と考えて、ヴィゼは戸惑った。
自分の心が掴めずに、ヴィゼは出会ったばかりのはずの少女を、途方に暮れたようにただ見つめることしかできない。
「あるじ?」
そんなヴィゼの様子に、少女は首を傾げた。
ヴィゼは慌てて、弁明を口にする。
「えっと、あの、できればお礼をさせてほしい」
「あるじをお守りするのは当然のこと。礼をいただくなど……」
少女は一瞬目を丸くしたが、生真面目にそう返した。
「……いや、でも――というか、主って?」
「あるじはあるじだ」
きっぱりと返されて、ヴィゼは困惑した。
「ええっと……」
「お前、こんな可愛らしい嬢ちゃんを覚えてないのかよ」
リーダーと恩人の様子を見ていたエイバは、ついつい呆れて口を挟む。
「ヴィゼやんのこと、主、って呼ぶくらいには何かあったみたいやのに」
「しかもワイバーンを一刀両断にした腕前の持ち主、なのですからなぁ」
仲間たちの言葉に、ヴィゼは眉を下げた。
少女は非常に整った容姿の持ち主である。その上に、あの実力。
一度会っているのなら、確かに、記憶に残っていそうなものだ。
だが、ヴィゼは思い出せなかった。
人違い、という可能性を、彼は考える。
一方で、ヴィゼは強く己を襲う既視感を、気のせいだなどと否定できないのだった。
真っ直ぐにヴィゼを見つめてくる、その瞳はまるで、そう、黒水晶のようで――。
ヴィゼが考え込んでいると、目の前の少女は口元をそっと笑みの形にする。それは、花のつぼみが綻ぶかのようだった。
「あるじが覚えていないのも無理はない。わたしがあるじに救われ、あるじと仰ぎ従うようになったのはもう幾年も前のことだ。それに、あの頃のわたしは弱かった」
「僕が、救った……?」
「そうだ、あるじ。わたしは、その恩を少し返しただけなのだ。だから、気にしないでほしい」
そういうわけにもいかない。
彼女がワイバーンを倒してくれていなければ、ヴィゼは深手を負っていた。
恩を少し返しただけ、と少女は言うが、少しどころではない、とヴィゼは思う。
だから、焦って口にしたことではあるが、きちんと礼をしたい、というのはヴィゼの本心だった。
けれどそれ以上に。
やはりヴィゼは、少女が去って行く、その後ろ姿を見送りたくないと、そう思ってしまうのだ。
どうすれば、それが可能だろうか。
戦場であればいくつでも有用な策を生み出せるヴィゼが、この時は焦るばかりで上手い言葉を見つけられない。
その様子を見守っていた仲間たちは、ここはリーダーの味方をしようと目で意思疎通を図り、ヴィゼに助け船を出すことにする。
まず一歩前に出たのは、エイバだ。
「あー、俺たちとしても、礼をしたいと思うわけなんだが……。ヴィゼは駄目でも、俺たちならどうだ?」
「え……」
それに、少女は目を丸くする。
「この城を無事に出られたのは嬢ちゃんのおかげだ。俺たちとしても、礼をしたい。せめてちっさい女の子を送るくらいはさせてもらいたいもんなんだがな」
口を滑らせたエイバに、仲間たちの焦りの視線が突き刺さった。
案の定、少女は気分を害したように、エイバを睨む。
「……気持ちは、有り難く思う……」
その口調は冷たい。
「だが、わたしは無駄にでかい大剣使い殿が思っているほど幼くはないので、問題ない」
「無駄に、でかい……?」
返された形容に青筋を浮かべるエイバだが、すかさずレヴァーレがその前に回り込んだ。
実を言えばこの二人は夫婦で、夫の不始末は妻である自分が、とレヴァーレはこっそりエイバをどつきながら詫びる。
「ご、ごめんなー。今のは気にせんといて! でも、お礼をしたいってのは本心なんよ。やっぱ駄目かなぁ? この後用事とかあるん?」
「いや、そういうことはないが……」
懇願するように見つめられ、少女はたじろぐ。
レヴァーレは屈みこむようにして、さらに続けた。
「自分、真面目なんやねぇ。お礼したいて、押しつけみたいにしてごめんな。でも、何かごちそうするくらい、させてほしいんよ。恩人をただで帰すのはすっきりせんのや。やから自分も、ヴィゼやんに恩返しがしたいって思て、さっき助けてくれたんやろ?」
その言葉に、少女の心は揺らいだようだった。
視線がうろうろと彷徨い、返答に迷っている様子は、非常に分かりやすい。
「だ、だが……、わたしが見えるところにいては、またあるじに迷惑をかけてしまうかもしれない……。わたしは、あるじに迷惑をかけたくないのだ……」
思い詰めたような顔で言う少女に、レヴァーレはなんて健気なのかと胸を押さえた。
ヴィゼはエイバとゼエンに意味深な目で見られ、たじろぐ。
――迷惑なんて、そんなこと。
俯く少女にヴィゼは優しい言葉をかけたかったが、レヴァーレに先を越されてしまう。
「大丈夫、大丈夫やで。ヴィゼやんは優しい男や。自分みたいに可愛くて一生懸命な子を迷惑がったり嫌ったりせん。な、そんなん分かっとるやろ?」
「……うん」
柔らかなレヴァーレの声に、こくりと少女は首を縦に振る。
「あるじは、優しい」
その言葉に、赤くなって俯いてしまうヴィゼだった。
「わたしに、初めて優しく接してくれた。今も、こうしてお礼をしたいと、言ってくれる。とても、有り難いことだ。わたしがあるじをお守りするのは当然で、それでわたしには十分で……それには、変わりないのだが……。だからといって、あるじの気持ちを、無碍にしたいわけではない。わたしは本当に、迷惑にならないか?」
「当たり前だよ!」
ヴィゼはいささか声を大きくした。
「是非、お礼させてほしい」
それならば、と少女は、やはり躊躇いながらも、ようやく頷く。
その返事に、レヴァーレが親指をぐっと上げてウインクして見せ、ヴィゼはどう反応したものか迷い、結局見なかったふりをすることにした。
「……ありがとう。えっと、そうだ、順番が何だかおかしくなっちゃったけど、紹介するね」
ヴィゼは簡単に、メンバーの紹介をする。
少女は生真面目な顔つきでそれを聞き、それから名乗った。
「わたしは……、クロウ、と呼ばれている」
その言い回しのおかしさに、<黒水晶>の全員が気付いたが、誰も追究はしなかった。
「僕たちもクロウ、って呼んでいいかな」
「うん」
少女――クロウはまた、こくりと首肯して見せる。
その時彼女の瞳に過った寂寥のような、哀愁のような色は、誰にも見つかることなく消えて。
「それじゃあ、クロウ。僕たちの本拠地に君を招待したいんだけど……、」
「謹んでお受けする」
堅苦しく応じたクロウに、ヴィゼは微笑んだ。
「それじゃあ――行こうか」
ヴィゼの号令に、<黒水晶>のメンバーは城に背を向ける。
小さな影を一つ、増やして。