18 修復士と黒竜と繋縛
「……っ!?」
空間が、壊れる。
すぐ側で硬質なものが大量に砕けたような衝撃がした。
それと同時に襲った眩暈に、ヴィゼは思わず目を閉じ――。
「あるじ!」
その声に、すぐに目を見開いた。
凄絶な怒りを纏ったクロウが、そこにはいた。
アフィエーミがヴィゼの命を狙った時でさえここまでではなかった――それほどの殺気を撒き散らしている。
いつもは後ろで一つに纏めている髪は背中に流したまま、肩で息をし、余裕の全くない様子だ。
しかし、その怒りに満ち満ちた彼女も美しい――と、ヴィゼは状況を一瞬忘れた。
「ディーア!!」
ヴィゼの無事を確認したクロウは、すぐに親友に目を向ける。
慣れた方の愛称で呼んでしまったのは、クロウの余裕のなさの表れだ。
「メリディエスじゃ、クロウ。何をそんなに怒っておる?」
その理由を分かっていてあどけなく小首を傾げて見せるメリディエスに、ヴィゼは呆れた。
この状況でよくもそんなと、クロウに見惚れていた自分のことは棚に上げて。
案の定クロウはますます怒りに燃え、声を荒げる。
「あるじを妙な空間に閉じ込めておいて、白々しいにも程がある! それに何なんだ、あの眠りの魔術に、<影>の封印に、結界に、ゴーレムは! どういうつもりだ!?」
「話をしたかったのじゃ、この男とな」
「話をするだけなら、」
言いかけて、クロウは言葉を詰まらせた。
その機会を失くすつもりだったのは、彼女自身だったから。
しかし、そのせいでクロウはすぐに気付いてしまった。
「何を話した? あるじに何を、どこまで……」
「全てじゃ、クロウ。そなたにも話した全て」
簡潔に、淡々と、メリディエスは正直に告げる。
クロウは途端に、真っ青になった。
「あるじには、何も言うなと……、」
「わたしはそれに、諾の返事をしたつもりはない」
「なんで……!」
「クロウ、そなたに生きて幸せになってほしいからじゃ」
「そんなの……っ、わたしは、もう十分に幸せに生きた!」
「まだ全然じゃよ、クロウ。じゃから、この男に協力を仰ぐことにしたのじゃ」
「それであるじに何かあったらわたしは幸せになんかなれない!」
悲鳴のようなその叫びに、ヴィゼの胸も引き裂かれるようだった。
それでいて幸福にもなってしまうのだから、本当に自分はどうしようもない、と思う。
「それに、お前はわたしにだけ助かれと言うのだろう! 自分は死ぬつもりで……!」
「それは仕方のないことじゃ。白竜の魂は、知識は、全て、<源>に注がねばならぬ。……クロウ、わたしはそなたよりずっと永く、幸せに生きてきた。じゃから、今度はそなたの番じゃ」
「だけど……っ」
クロウの声が揺らぐ。
その瞳から涙が零れ落ちそうになって――、けれどクロウは、それをぐっと堪えた。
「……わたしは、譲らない。あるじを守る。そして、今度こそ、親友を独りにはしない」
クロウの決然とした言葉に、メリディエスは束の間、揺らいだ。
真っ直ぐなクロウの瞳が、メリディエスをその場に縫い留める。
その隙を、クロウは逃さなかった。
そして――。
不意に眩暈に襲われ膝をついたのは、ヴィゼだった。
――これは、眠りの魔術か……!
必死に抗うが、気を抜いたらすぐにでも意識を奪われてしまいそうだ。
おそらくクロウはここに辿り着くまで、様々な状況を考慮し、すぐに魔術を発動できるよう準備しておいたのだろう。
発動の瞬間を全く感じ取れなかったヴィゼは、抵抗しながら感嘆した。
そんなヴィゼの元に、クロウは素早く移動する。
転生したばかりで弱体化しているとはいえ、白竜であるメリディエスを相手にするより、ヴィゼに対処する方が先だと判断したのだ。
何よりもヴィゼさえ取り戻せば、クロウの目的は果たせる。
「しっかりせい、ヴィゼ! ……クロウ!!」
クロウがヴィゼに対し全く躊躇いを見せずこのように魔術を使うとは思わず、メリディエスの反応は遅れた。
クロウは邪魔をされる前にヴィゼを確保しようと腕を伸ばし――ぎくりと体を強張らせる。
「何故……っ」
とうに意識を手離していておかしくないヴィゼが腕を伸ばし、反対にクロウを捕まえていた。
「クロウ、これは命令だよ。動かないで」
目を見開き、クロウはヴィゼの腕の中で大人しくなる。
その様子に、メリディエスはほっと安堵の息を漏らした。
「間に合っておったか……」
「はい、ありがとうございます」
ヴィゼが完全に意識を奪われる前に、メリディエスが間一髪で放った魔術がクロウの魔術の効果をかき消していたのだ。
「この部屋でなければクロウの思惑通りじゃったかもしれんの……」
呟きに、ヴィゼはようやく今いる場所を確認する。
そこは、一月前に見慣れた、白い部屋だった。
古白石でできた一室は、しかし、当然ながらあの遺跡のものではない。
そして、部屋の壁、床、天井には、古文字がびっしりと刻まれていた。
ここは一体どこなのか、それ以外にも多々聞きたいことが出てくるが、今はそれどころではない。
「メリディエス、魔力を分けていただくことはできますか?」
「この部屋に残った魔力を使うが良い」
何をするつもりかとは聞かず、メリディエスは鷹揚に頷いた。
許可を得て、ヴィゼはすぐさま魔術を発動させる。
それは、ヴィゼがクロウと再会してから、ずっと創り続けてきた魔術。
ヴィゼのこれまでの知識を結集し、遺跡で得たものを加え、アサルトの助言で完成に近付いた魔術。
――まだ十全ではないけれど、大事な記述は完成済みだから……。
ヴィゼが頭の中に魔術式を書き連ねれば、それは光の文字となって空中に浮かび上がる。
古文字はきらきらと輝いて、ヴィゼとクロウを包み込んだ。
それはまるで、祝福のように。
「クロウ、ごめんね……。本当は、ちゃんと、君の理解を得てからにするつもりだったけど……」
一体何をするつもりなのかと、クロウは視界の閉ざされたヴィゼの腕の中で、その命令に逆らえないというのに、そこから抜け出そうと何とかもがく。
ヴィゼはそんなクロウを強く抱きしめながら、囁いた。
「僕は君を、離してあげることができないんだ。どうしても、失えないんだ……」
だから――、と。
ヴィゼは魔術式の記述を終える。
光の奔流の中、クロウは胸に温かいものを感じ、何故か泣きたくなった。
契約魔術により存在しているヴィゼとの繋がりが、さらに強くなったことが分かる。
――なんだ、これは……?
クロウが戸惑い、焦燥を覚える中、光はやがて収まっていく。
「あるじ!」
魔力を使い切ったヴィゼの身体がぐらりと倒れるのと一緒に、クロウも横倒しになった。
意識を失いかけながらもヴィゼはクロウを離さず、命令もそのままなので、そうなるしかなかったのだ。
「あるじ――」
魔力枯渇でヴィゼが気絶してしまう方がクロウにとっては好都合のはずだ。
けれど呼ぶ声には心配そうな色を隠せずにいて、ヴィゼは力の抜けてしまいそうな腕で必死にその温もりを抱きしめ続けた。
――そんな風だから、余計に手放せなくなってしまうんだ……。
そんなヴィゼの口元に、不意に柔らかいものが触れる。
「ヴィゼよ、今そなたに気絶されると都合が悪い。口を開けるのじゃ」
しゃがみこんだメリディエスにぐいぐいと押しつけられたそれを、ヴィゼは何とか飲みこんだ。
途端、口の中に凄まじく苦いものが広がって喉元を流れていき、ヴィゼは思いきり咳込む。
「あるじ、大丈夫か!? メル、一体あるじに何を食べさせたんだ」
「超速・魔力回復薬、その中でも一番まっずいヤツじゃ」
「他の味もあるんですね……?」
ごほ、と咳込みながら、ヴィゼは体を起こした。
腕の中にはクロウを抱えたままである。
「目が覚めそうじゃと思っての。どうじゃ、気分は?」
「おかげさまで、魔力は回復しました」
とはいえ、味わったばかりのえぐい苦みのせいで礼の言葉は出てこない。
クロウはそんなヴィゼを見上げ、言葉通り彼が回復していることに安堵し、その一方、不安で胸が満ち満ちていくのを感じた。
「あるじ……、一体何をした。これほどまでに魔力を使って、何を……」
「クロウ、」
ヴィゼは困ったように眉を下げ、蒼白なクロウの顔を見つめた。
己の魔術が成功していることを確かめながら、ヴィゼは率直に告げる。
「僕の命と、クロウの命を繋げた」
ヴィゼの腕の中、クロウは彼を凝視したまま、固まった。
「君が死ねば、僕は死ぬ。僕が死んだ時……、君も。そして、君が生き続ける限り、僕も生き続ける。僕が使ったのは、そういう魔術だ」
「……っ、馬鹿な!」
自由になった手で、クロウはヴィゼの胸を叩く。
最早クロウの思惑は潰えている――それ故に、ヴィゼは命令を解いていた。
「何故、そんな、人としての生を捨てるようなことを……っ、こんなに、簡単に!」
「クロウと生きて、クロウと死にたいからだよ」
揺らぎなく、ヴィゼは言い切る。
「普通に考えれば、人間である僕の方が先に死ぬ。クロウを置いていくことになってしまう。そうしたくなかったから」
「わたしが……、わたしがあるじに死なないでと願ってしまったせいか……?」
「そうだ、って言えたら格好がついたんだけどね。クロウのその気持ちが嬉しくて後押ししてくれたのは確かだけど、僕がこうして君と命を繋げたのは……、ただ僕のわがままでしかない」
「わが、まま……?」
泣きそうな声で、クロウは問うた。
「君を独りにしたくないっていうのも本当だけど……、一方で君が僕以外の誰かのものになるのは許せない。だからずっと、繋ぎとめておきたくて……」
言葉にして、ヴィゼは嘆息する。
「ごめん、最低なことを言っているって分かってる。だけどどうしても、君のことだけは……」
「そんなの……、」
また強く抱きしめられ、ぼろぼろとクロウはその目から涙を零した。
ヴィゼの想いは、クロウにとっても本望でしかない――。
それが幸せで。
あまりにも、胸が苦しかった。
「あるじのばか……、ばか……」
結局クロウは、震える声でそんな言葉をぶつけることしかできなかった。
許せない、と言いたい。
けれど言えないのは、ヴィゼの勝手を許してしまっていたからだ。
ヴィゼと生きていける未来を、嬉しく思ってしまったから。
クロウの気持ちが離れていかなかったことはヴィゼにも伝わって、彼はそっと安堵する。
ヴィゼは震えるクロウの肩を労わるように撫でながら、本当の意味で半身となった彼女の命の重みを感じたのだった。