09 緑竜と青竜と五千年前④
転移先で姿を隠したフィオーリとミディエーニは、信じられない光景を目にした。
人々の血に、次々と魔術式を刻み込んでいく魔術師。
その魔術師が倒れると、新たな魔術師が作業を始める。
人間のアビリティ工場とでもいうべきものが、そこにはあった。
さらに、そのすぐ隣の施設では新たな力を手に入れた人々が訓練をしており、様々な魔術を恐ろしいスピードで発動させている。
『何これ……』
いくらなんでも、あまりにも事態が進むのが早い。
彼女たちの出足が遅れたとはいえ、異常だ。
アビリティ――ここで新しく力を手にした人々について言うならば先天的な能力ではないが、こう呼称することとする――も普通ではない。
何故、一人の人間が様々な魔術をアビリティとして使用することができているのか。
そこまで多くの魔術式を、血に刻むことができるのか?
しかもそんなアビリティ持ちの人間が、既に何百人と存在している。
――わたしとフィオーリだけで、あの全員をどうにかできる? しかも、ここにいるだけとも限らないのに?
血の気が引いた頭で考えてみるが、良案は浮かばない。
そんなミディエーニの隣で、フィオーリは唇を戦慄かせていた。
『このアビリティ……、ジールが考えていた……』
『えっ!?』
『ジールは……、魔術式の始まりの文字と終わりの文字を血に刻んで、中の術式を自由に記述できるようにすれば、どんな魔術でも一瞬で発動できるんじゃないかって……。問題はその自由記述のところだって話してたんだけど、知らない内に解決していたのかも……』
『あいつ天才だけど、回り回って馬鹿だわ! 大迷惑だわ!』
ミディエーニは叫んだ。
『あっちを考えたのはさすがに違うわよね!?』
ミディエーニが指差したのは、非人道的な扱いを受けている魔術師だ。
アビリティを刻んでは倒れていく魔術師たちの姿は、とても見ていられるものではない。
フィオーリはふるふると首を横に振った。
『あんな風に魔術師を使い捨てにするなんて……』
『普通しないわよね……』
フィオーリとミディエーニは、人々がアビリティを手に入れていく様を茫然と見つめる。
『……フィオーリ、一旦退きましょう。これは想定を超えすぎてる』
『ミディ、』
『ジールベールは、この国に殺されたんだわ。今のわたしたちでは、国丸ごとを相手にするのは無理よ。態勢を整えて、出直しましょう』
ジールベールの魔術が利用されている光景を前に、フィオーリは決断しきれない様子だったが、やがてこくりと頷いた。
『……うん』
事はそれから急速に、悪い方へ悪い方へと流れていった。
アビリティを手にした人々は、次々と幻獣を襲い、いくつもの種族を滅ぼした。
ミディエーニはジールベールのことを隠し、人間のアビリティについて竜族の長老に報告したが、だからといって何か対策をするという話にはなっておらず、現状幻獣たちは防戦一方である。
今のところ幻獣側から打って出る様子はないが、そんなことがなくとも、遠くない内に人間と幻獣の全面戦争は始まってしまいそうだった。
『長老たち、腰が重すぎるのよね。竜族が今のところ攻撃を受けていないからって……』
『うん……』
あれからずっと、フィオーリの顔色は冴えないままだ。
当然だろう――恋人が殺され、その恋人の創った魔術が幻獣たちを滅びへ導こうとしているのだから。
人間たちの動きを阻止するため動き続けているせいで、常に疲労を抱えているせいもある。
撤退の後、フィオーリとミディエーニは魔術研究所を封印し、ジールベールを弔った。
ジールベールを殺した国に彼を眠らせたくはないからと、彼の遺体は北の大地に埋葬した。ジールベールとフィオーリが暮らすはずだった場所だ。
フィオーリは毎日、ジールベールの元を訪ね、人間の国へ行っては情報収集をし、妨害工作を仕掛ける……、ということを続けていた。
『フィオーリ……、これから、どう動く?』
いつもの二頭の憩いの場所で、ミディエーニは尋ねた。
そよそよと緑が風に揺れる風景はこんなにも穏やかなのに――この風景との別れも近いのだろうかと、そんなことを心の隅で思いながら。
『ずっと、考えているのだけれど』
ミディエーニの問いに、フィオーリは静かに答える。
『やっぱり……、何とかしてこの争いを止めたい。人も幻獣も、なるべく死なないやり方で』
『そう、ね……』
ミディエーニも思いは同じだった。
ジールベールの敵を討ち、全面戦争を当面回避するだけならば、諸悪の根源である国を滅ぼせばいい。
今やかの国の行いに嫌悪や憎悪を抱いている幻獣たちは数多い。
ミディエーニたちだけでは無理でも、味方を増やせれば、今ならまだ勝つことができるはずだ。これ以上人間のアビリティ持ちが増えれば、どうなるか分からないが……。
しかしそれは、最もジールベールが望まないやり方だろう。
人間にも幻獣にも、多大な犠牲が出る。
たとえ一国を滅ぼしたとしても、その結果に他国がどう動くか。幻獣を恐れて大人しくしてくれればいいが、幻獣を許さず蜂起したならば、結局は多くの血が流れることになる。
『いっそ全部、消してしまいたいとも思ったけれど……、ね』
『フィオーリ……』
フィオーリがそんな風に思うのも、当然だった。
人の国で情報を集める中で、ジールベール殺害の事実も明らかになっていたから。
『ジールベールは、この国に殺された』とミディエーニは言ったが、それが真実だったのだ。
国で一番の実力を持つジールベールは、味方であれば頼もしい存在であったが、敵に回せばあまりにも恐ろしい相手だった。
親幻獣派で、国に秘匿している魔術もあるとされたジールベールは、新たなる国王に警戒されていたのである。
そして、国王が幻獣の住処を次々に攻め滅ぼすにあたって、敵対するのではないかと恐れられた。
ジールベールに嫉妬する魔術師たちも国王の考えを後押しし、ジールベール殺害は綿密に計画されたのである。
その後の動きの早さは、国王の手腕と魔術師たちの実力の高さによるものだろう。幻獣への憎悪、ジールベールへの劣等感の強さの表れ、でもあるのかもしれない。
――ジールベールは確かに離反しようとしていた。でも、敵対するつもりではなかった……。ここで穏やかに暮らせれば、それで良かったのに――
どこか遠くを見つめるフィオーリからそっと目をそらし、ミディエーニは小さく溜め息を吐いた。
そんなミディエーニの隣で、フィオーリは続ける。
『だけど、ジールはきっとそんなわたしを止めるだろうし……。わたしも、誰かを傷つけるようなことは、本当はしたくない。だから――、いっそ、どこか遠くに行くのはどうかな、って』
『えっ?』
ミディエーニは目を瞬かせた。
『傷つけあうのは、近くにいるから。物理的に離れてしまえば、争いたくても争えない』
『それはそう、だけど……。それはつまり、わたしたちだけどこかに行くってわけじゃなくて、幻獣と人間を引き離す、ってこと、よね?』
『そう。例えば……、北の大地だけ切り離して、海の彼方に行っちゃう、とか。皆の了承は得なくちゃいけないけど、犠牲を出さないやり方だから、反対は少ないんじゃないかと思うの。少なくとも今のまま人間の脅威に怯えるよりはずっといいはず』
『そう……、そうね。良いアイディアだわ。それならきっと、血を流さずに済む……』
目の前がさっと晴れたような気持ちで、ミディエーニは親友の顔を見つめる。
『まるで逃げるみたいだけれど……』
『昔々の神様やエルフ族だってこの地を去っているのだから、それに続くなんて、むしろ必然かもしれないわよ。前向きな撤退は必要なことだし、無駄に犠牲を出すより全然いいじゃない』
『うん……』
若干興奮したように拳を握った親友に、フィオーリは控えめに微笑んだ。
『でも、細かいところは全然まだまだだから、ミディの知恵を借りたいの』
『もちろんよ!』
ミディエーニは力強く頷く。
それがきっと、明確に、未来が定まった瞬間だった。