06 緑竜と青竜と五千年前①
夕方の草原が風に揺れる。
風の原因は、茜色に染まった空を飛翔する緑竜だった。
草原にぽつりと生える木の傍らでまどろみかけていた青竜は、その気配に気付き体を起こす。
そして、ほっとしながら声をかけた。
『おかえり、フィオーリ』
『ただいま、ミディ』
青竜のミディエーニと緑竜のフィオーリは、親友同士だ。
青竜と緑竜という違いはあれど、気の合う二頭は親といるよりもずっと長く、同じ時を過ごしていた。
今日も当然のように、フィオーリはミディエーニの元へ帰り、目の前に降り立ったフィオーリを、ミディエーニは笑顔で迎えた。
『今日はお土産がたくさんあるよ。市場においしそうなものがいっぱいあって、選びきれなかったの』
『良い匂いさせてると思った。ありがと。だけど、ちゃんと本命の買い出しはできたの?』
『うん、それもばっちりだよ』
『そう……』
フィオーリは満面の笑みだ。
けれど、ミディエーニの心中は複雑だった。
それは、親友のこの笑顔が、フィオーリの恋人によって引き出されたものだからだ。
フィオーリが幸せならば、それはミディエーニにとっても幸いなのだけれど、親友をとられたようで気に障ってもいた。
フィオーリの恋人は、文字通り"人間"である。
ひょろひょろと細く頼りない、若い人間の男。
一瞬で踏みつぶせてしまいそうな見かけだが、その実、竜ともやりあえる実力を持っていることを、ミディエーニは知っている。
稀代の魔術師、ジールベール。
ミディエーニやフィオーリを含め多くの幻獣が住まう北の大地――彼はそこに隣接する大国に所属する魔術師だ。
質の高い大国の魔術師の中でも抜きん出た才能を持つ彼は、その実力の高さから新たな魔術研究所の所長を任され、日々魔術研究に勤しんでいた。
フィオーリがジールベールと出会うきっかけになったのも、その魔術研究所である。
フィオーリは元々人間に興味があり、時折北の大地を飛び出しては人間を見に行っていた。
そこで、ジールベールがその研究所を自らの魔術によって創る場面に遭遇し、こっそり観察していたら見つかってしまった、という。
ミディエーニは後から聞いてひやりとしたものだ。
もしジールベールが幻獣を全て害悪とみなすような相手だったなら、フィオーリはただでは済んでいなかっただろうから。
しかしジールベールは警戒する様子もなく、のんびりとフィオーリに話しかけ、その後一人と一頭は魔術談義に花を咲かせたという……。
その後フィオーリとジールベールは種族の垣根を越えて友情を育んだ。
やがてそれは、友情から恋情へと移り変わっていく。
ミディエーニが彼のことを親友から打ち明けられたのは、フィオーリが彼への想いを自覚した後のことだ。
実を言うとその前からフィオーリの様子がおかしいことを心配し、親友の動向を把握していたミディエーニは、ようやくかと思いながら詳しい話を聞いたものである。
『それで、今までわたしにそれを黙っていたのは、話したらわたしがフィオーリを止めるって思ったから?』
『う……。今ヒトの国はきな臭いって、ミディ、心配していたから……』
『正直、ものすごく止めたいけど。フィオーリは行きたいんでしょ?』
『うん……』
『それならわたしもできるなら邪魔はしたくない。だから、わたしにもその人間に会わせて。その周囲も合わせて危険は少ないって、わたしを安心させて』
『ミディ……!』
フィオーリは瞳を潤ませた。
フィオーリが黙っていた理由には、ミディエーニを危険に巻き込むことを良しとしなかったということもあるのだろう、とミディエーニには分かっていたから、それ以上責めるようなことは言わず、親友の涙を拭った。
そうしてフィオーリに打ち明けられた後、ミディエーニは因縁のジールベールとの邂逅を果たす。
彼は途方もない実力者であると微塵も感じさせないのほほんとした笑顔で、「君のことはフィオーリからたくさん聞いているよー。よろしくー」とのんびり口調で挨拶し、イライラさせられたものである。
とはいえ彼は、竜だからといって彼女たち相手に過剰な反応をしたり、嫌悪を見せたり、そんなそぶりは一切見せなかった。いたって自然体だった。
普段は緊張感の欠片もない、ぽけぽけとした顔をしているのに、魔術のこととなると早口になり、いつまでも話し続けていた。
フィオーリとミディエーニも、(竜の中では)若いながら魔術にはかなり長けている方だったが、ジールベールはそれに匹敵する知識量と魔力量、ひらめきを持っていて、いけ好かないながら彼との議論はミディエーニにとっても面白いものだった。
そうやって同じ時を過ごし、言葉を交わしていれば、ジールベールが善良な男であることはよくよく理解できて、ミディエーニは反省した。
――フィオーリを見くびっていたのかしら……。親友失格だわ……。
ジールベールは竜の力や知識を目当てに親友に近付いたのかもしれない等々、様々な可能性を考えては疑心暗鬼になっていたミディエーニは、ジールベールという男を知って、しょんぼりと肩を落とした。
フィオーリが心惹かれた相手が悪い心の持ち主であるはずがないと、最初から分かっていて良かったのに、と。
一方で、彼がフィオーリの心を奪っていった以上憎い相手であることに変わりなく、認めなければならないことが悔しかった。
『告白、頑張ってみよう、かなぁ……。でも、それで拒絶されたら耐えられない……。いや、むしろ、ジールが告白って気付かない可能性も!?』
『あいつ、天然ぽやぽや魔術特化脳だものね……』
ミディエーニがジールベールに及第点を与えたところで、フィオーリの恋の相談は本格化した。
人間なんて止めておけと言いたいのは山々で、フィオーリに全く希望がないようであれば、ミディエーニは強く止めていただろう。
しかし、ジールベールもフィオーリに恋心があるのは明白で――自覚の有無についての判断はつきかねたが――、ミディエーニはさんざん迷った末に、応援することを決めた。
とんでもなく癪だったけれども。
本当は、反対する方が正しいこと、なのだろうけれども。
それでも、フィオーリがジールベールという存在を望むのならば、と。
この時代、人間と幻獣とが結ばれるのは、珍しいことではあったが皆無というわけでもなかった。
だからミディエーニも受け入れられた、とも言える。
とはいえ、異種間での婚姻は、価値観の違い、時の流れの差などから、悲劇で終わることも多い。
もし、ジールベールがフィオーリの心を引き裂くようなことをしでかしたら。
――その時は、死よりも酷い目にあわせる。
ひっそりと思い定めていたミディエーニだったが、それ以前の問題で、もだもだもだもだし続ける親友と鬼才魔術師にとんでもなく苦労させられることとなる。
どうして両想いなのにくっつかないのか、と何度心の中で叫んだか分からない。
それほどに、大変な日々だった……ミディエーニにとっては。
そんなミディエーニの尽力の末、フィオーリとジールベールは結ばれた。
その後、もだもだカップルの交際は順調だったのだが――。
『フィオーリが留守の間に、長老のところに行ってたんだけど……』
親友の土産を食べ終える頃、ミディエーニは真面目な顔で口を開いた。
『ワーウルフの村が一つ、人間に滅ぼされたって』
『……!』
フィオーリは息を呑む。
ジールベールのことさえなければ、心優しい親友に告げたいことではないのに、と思いながらミディエーニは続ける。
『人間の方にも犠牲が多かったみたいだから、次の襲撃までは間があるはず。どこを狙うかは分からないけどね。それで、竜族としては交流のある種族に対して避難協力をするって。今のところ、人間との全面戦争は避けたいみたいだけど……』
協力しあい共生する人間と幻獣がいる一方で、人間を襲う幻獣と、幻獣を狩る人間がいる。
これまでは何とかバランスを取りながら、人と幻獣は同じ大陸で生きてきたのだが――。
北の大地に最も近い人間の国、ジールベールも属する国の王が代替わりし、幻獣全てを悪として攻撃し始めたのは、ここ数年のことだ。
かの王は人に対し友好的な種族であっても、幻獣である以上敵であるとして、次々と幻獣たちの棲み処を襲っている。
『ジールベールの移動はなるべく早い方が良さそう』
『そう、だね……』
このままいけば、人間と幻獣の間で大規模な戦いが起きる。
そんな情勢を鑑み、ジールベールはこの北の大地でフィオーリと共に暮らしていくことを決めていた。
殺生を嫌う親幻獣派の彼は、従軍の命令が下る前に国を出なければと考えたのである。
本命の買い出し、と先ほどミディエーニは言ったが、今日フィオーリたちは、彼の移住に必要なものを目的として市場へ行っていたのだ。
『仕事をある程度整理したらすぐに、って言ってたから……。そう遠くない内に……』
『あいつ、色々とやばいもの溜め込んでいるものね。ま、仕事はできるやつだから、きっとすぐでしょ』
『うん……』
励ますように、ミディエーニはフィオーリの翼に自分の翼を軽く重ねた。
微笑したフィオーリだが、ここに戻ってきた時のような明るさはその顔から消え、憂慮が漂う。
人間と幻獣の衝突そのものが気にかかっているのはもちろんのこと、恋人がその争いのために利用されたり、謀略に巻き込まれたりするのではないかと心配しているのだ。
ジールベールを人の世界から引き離してしまって良いのか、という迷いも、ないとは言えない。
ジールベールと暮らしていけるのは嬉しいけれど、この北の大地に住まう人間はごくごくわずかで、不便なこともあるだろうとフィオーリは気にしていた。
だが、それでも。
早く、早く、来てほしい。
「すっごく楽しみだよー。北の大地には知らないものがたくさんあるだろうし、……フィオーリとずっといられるからね」
脳裏に浮かべるのは、照れたように笑った恋人の顔。
フィオーリは不安を払拭しようとして、けれど、できなかった。
隣の親友の温もりも、いつもならばとても心強いものなのに。
何故か恐ろしさでいっぱいで、消えてくれない。
憂いを抱えながら、フィオーリは待って、待って――。
しかし、彼女の願いが叶う時は来なかった。
ジールベールは、死んだ。