51 修復士と黒竜とはじまりの場所
「ここが全てのはじまりで、ここが僕のよすがだった」
女々しい話だけど、とヴィゼは少し苦く笑って、
「ルキスの存在が、夢だったんじゃないかって、怖くなることがあったんだ。でも、これがあったから……、ルキスにもう一度会うことを、諦めないでいられたんだと、思う」
「あるじ――」
ひどく胸が騒いで、ルキスはヴィゼの腕を掴んでいた。
あの頃、彼女はヴィゼを見守るだけだった。
毎日強くなろうと必死だったけれど、白竜がいてくれて、<影>という過去の黒竜たちがいてくれて、ヴィゼが生きていてくれて、その全部が彼女を支えてくれていた。
だが、ヴィゼにとってルキスの存在はどんなものだったろう。
たった数ヶ月の思い出だけの存在。
どこへ行ってしまったのか、生死さえはっきりせず、それでもヴィゼは手を伸ばし続けてくれた。
たった、独り。支えらしい支えもなく。
ルキスとは違い、彼の周りの大人たちは敵ばかりで、いずれレジスタンスという仲間を得ていくとは言え、血筋故に完全に信頼されることの方が少なかっただろう。
そして、フルスを出、モンスベルクではかけがえのない仲間を得ながらも、求めるものが竜故に、ヴィゼはそれをひとり秘め続けてきた。
――わかしはそれを、分かっていたのに、分かっていたつもりになっていただけで、何も分かっていなかった……。
「会えて良かった」
ヴィゼは心の奥底から言って、ルキスの頭をそっと撫でた。
愛しげな声音に、ルキスの胸は痛みを覚える。
――わたしにそんな価値は――
――いや、そうじゃない――
――価値を決めるのは、わたしじゃない――
昨日からずっと、改めて考えてきた、“ヴィゼの幸せ”についての答えの一つ。
この時、それがルキスの目の前に、選ぶべき道として、現れていた。
「あるじ……」
ルキスは自分がとんでもない過ちを犯していたことを自覚し、呼ぶ声は涙まじりになって、ヴィゼをぎょっとさせる。
「ルキス? どうしたの? 顔色が……、空気が薄いからかな。外に出よう」
ヴィゼは慌てたように言って、ルキスの肩を抱くようにして外に出た。
降りそうな空模様だと感じていたが、雪がちらちらと舞い始めている。
「どうりで寒いわけだ……」
つい漏らして後、ヴィゼは気遣わしげにルキスを見下ろす。
「大丈夫?」
決して大丈夫などではなかった。
けれど大丈夫でないのはルキスではなくて。
ずっと大丈夫でなかったのは、ヴィゼの方だった。
――わたしはもっと大きな過ちを犯そうとしているのかもしれない。
それでもルキスは、このままではいけないと思った。
この過ちを、過ちのまま置いておいてはいけないと思った。
「あるじ……、ごめんなさい」
言葉を紡ぐ、口が重たい。
だが、ヴィゼの労わるような眼差しに、しゃんとしなければと、何とか体に力を入れる。
「わたし、嘘を、ついていた」
「嘘?」
ヴィゼが不思議そうな顔をする。
「……本当は、わたし、ずっと、好きな人が、いる」
ヴィゼが息を呑む音が、響いて。
ルキスの肩を抱く手に、ぎゅっと力が籠った。
「わたしは、ずっと、あるじが、好き」
「…………え、」
「あるじの番に、なりたいって、思っていた……」
「え?」
ヴィゼの耳が、みるみるうちに赤く染まる。
狼狽した様子で、杖を取り落としたヴィゼは、その手を口元に当てた。
「え、ルキス、ちょっと、待って……」
しかし、彼女は止まらない。
「でも、わたしは、あるじを幸せにする自信がなくて、逃げていた。黒竜だからって、それももちろん、あるけれど……、それを言い訳にしていた。あるじを不幸にしたくなくて。あるじを不幸にして、嫌われたくなくて。……わたしは、臆病だった」
ルキスのそれは、愛の告白というより、懺悔だった。
「自分のことばかりだった。……ごめんなさい」
「ルキス――」
許しを請う彼女を、ヴィゼは抱きしめて。
「謝らないで」
「だが……」
「今から謝るのは禁止」
そう言われて、ルキスは沈黙する。
「僕のことが、好き?」
「う、うん」
顔を覗き込まれるようにして改めて聞かれると、羞恥が込み上げてくる。
ルキスは頬を紅潮させた。
ヴィゼは真っ赤になったルキスの表情に、自分への想いをより、実感する。
嘘ではないのだ、と分かった。
彼女を疑うわけではない。
それでもルキスから望む返事が返ってくるのはもっと先のことだろうと思っていたから、ヴィゼはただただ歓喜する。
遺跡の中で、彼女が自分を異性として意識してくれていることに、さすがのヴィゼも気付いていた。
けれど同時にルキスの中の葛藤が大きいことも分かっていて、だからヴィゼは、それが小さくなるよう努力しながら、待つつもりでいたのだ。
「ルキス……、ものすごく、嬉しいよ」
腕に力を込めて、ヴィゼは彼女の耳元で囁いた。
「だから、謝る必要なんて、これっぽっちもないんだよ」
「あるじ……、でも、わたし、あるじをずっと、」
「でも、今、こうして応えてくれた」
「う……」
「どうしてって、聞いてもいい?」
少し顔を離したヴィゼから、甘やかな口調で聞かれる。
ヴィゼの問いの意味を、ルキスはちゃんと理解していた。
「……あるじは、報われなければいけないと、思った」
真面目な顔で告げた彼女に、ヴィゼはきょとんとする。
「あるじはずっと、ひとりで頑張ってきた。そのあるじが、わたしを欲してくれている。手を、伸ばしてくれている。それならば……、わたしは手を伸ばし返すべきだ。わたしもあるじを好きで、求めているのならば、そうしなければと、そう、思った」
「ルキス――」
「わたしが報いになるのか、本当はちゃんとした自信があるわけではない、けれど……。でも、そうなれるなら、わたしは、なりたい。あるじを、幸せにしたい。誰よりも、あるじを。わたしが……、幸せに、したい」
ルキスは、何よりも、ヴィゼが報われることを考えてくれたのだ。
そして、それが、ルキスだと、思ってくれたのだ。
解って、くれたのだ。
ヴィゼは満ち満ちた心を持て余し、もう一度ルキスを強く抱きしめた。
「ルキス、あのね」
「うん?」
「今、僕は幸せすぎて、大変だよ」
「あるじ……、幸せなのか」
「うん。ルキスのおかげで」
「そうか……」
ルキスは心底ほっとしたように微笑んだ。
「あのね、ルキス。僕は君がいてくれればそれだけで幸せなんだ。君に告白したのも、君を全部僕のものにして他に奪われないようにするためだった」
「う、うん?」
零してはいけない本音だっただろうか、とヴィゼは思ったが、続ける。
ルキスの中の負の思いを、少しでも小さくできるように。
「それで、僕は君が笑ってくれたらもっと幸せになれるし、今は……幸せの過剰供給なくらいなんだけど……、だから、今すぐじゃなくてもいいんだ、自信を持って。不安なんか、覚える必要はないんだ。ただ、僕の側にいてほしい」
ルキスは一瞬、息を詰めて。
「……うん」
泣きそうな声で、けれどしっかりと、頷いた。
まだ迷いはあるのだろうけれど、それでも。
「……あるじ、でも、これが最後だから、聞いていいか?」
「うん」
「わたしは竜だ。本当に、わたしでいいのか?」
「ルキスがいいんだ」
「人間じゃなくていい?」
「ルキスが、好きなんだ」
それでも彼女の瞳には、まだ不安そうな色があった。
何故と、ヴィゼはその瞳を覗き込んで、ふと、閃く。
彼女はやはり、誤解をしているのかもしれないと。
いや、おそらくそれは、誤解ではないのだ。
だからこそ、不安を消せないのだろう。
「……ルキス、正直を言えば、僕は昔、一度だけ迷ったことがあるけれど」
「あるじ、」
「でも、選んだのは、君なんだ。何よりも、誰よりも、欲しいと思ったのは、君だけなんだ」
きっぱりと、ヴィゼは告げた。
舞い落ちてくる雪の冷たさから、ルキスを守るように抱いて。
ルキスも温もりを分かち合うように、気持ちが伝わるように、ヴィゼの背に腕を回した。
手を伸ばさぬようにしていた彼女の、それが、真実の想いのあらわれだった。
「最後じゃなくていいよ」
「え?」
「何度でも聞いて。何度でも言うから」
「あるじ……、」
ヴィゼは、ようやくルキスの全てを手に入れて、告げる。
「ルキス、君を愛してる。君だけを、愛してる」
――そうしてそこが、もう一度、二人のはじまりの場所になったのだ。
第5部 了
第6部へ続く
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
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