45 修復士と揺らがぬ想い
静かな衝撃を受け止めながら、ヴィゼはクロウを見返した。
「……もう決めてしまっているんだね」
クロウは首肯する。
「結界の揺らいだ時期が、早すぎた。今の人ではどうにもならないことが多すぎるし、このままでは少なからぬ死者が出ておかしくない。ここをこれ以上、人の血で汚したくないんだ。他ならぬ竜のせいで」
クロウはどこか淡々と、そう言った。
「それにこのままだと……、わたしはここに縛られることになりそうだ」
クロウの懸念は、ヴィゼも考えていたことである。
この遺跡の結界を通り抜けられるのはクロウだけ。
モンスベルク・フルスがこの遺跡の調査続行を決めた場合、クロウは必要不可欠な存在であり、両国とも彼女を囲い込もうとするだろう。
モンスベルク側――イグゼはヴィゼの意を汲み無理強いすることはないだろうが、それ以外がどう動くか。
フルス側もゼエンやリーセンがある程度防波堤になってくれるだろうが、確固として安全とは言えない。
さらに言えばクロウに下手に手を出してきた場合、ヴィゼが許さないのはもちろんだが、白竜の一族が一体どう出てくるか。
ヴィゼとしても調査は続けたいのだが、かといってここに長居するつもりはなく、クロウにばかり献身を請うのも嫌だった。
「……わたしの迂闊さが招いたことだが、まずい状況、だろう」
クロウとしても、まさか自分だけが結界を通り抜けられるとは思わぬことだった。
白竜に話を聞いていたといっても、具体的な罠や封じの内容を聞いていたわけではないから、仕方のないことではある。
「だから、あるじ――」
「うん」
どこか痛みを堪えるような声で、クロウは呼んで。
それに不釣り合いな軽さで、ヴィゼは頷き、了承の意を示す。
「分かった。遺跡は壊そう」
それがあまりにあっさりと告げられたので、クロウは瞬いた。
聞き間違いかもしれないと、疑う。
「僕には同意する権利も資格もないんだろうけど。でも、クロウがそれを望むなら。反対はしないよ」
「あ……、あるじは、でも、この遺跡の調査を続けたい、のだろう?」
「それはもちろん。ここは本当に、僕たちにとって宝の山だよ。危険で、いまだ封じられているといっても、五千年前のものがそのままに残っているなんて……、おそらく、もう他には見つからないだろうからね。もしかしたら、白竜の関係で例外があったりするのかもしれないけど」
ヴィゼは正直に述べる。
「でもそれは、クロウの意志を折ってまで反対する理由にはならない」
「あるじ……」
「それに、僕個人に限って言えば、ある意味ではここ以上のものを手に入れたしね。五千年前の知識とはいかないかもしれないけど、今後は皇帝アサルトの教授を受けられるんだ。ここに固執する必要はない」
言い放ち、ヴィゼは口元に微笑を浮かべる。
それは、温度のある笑みではなく。
ヴィゼが一歩二歩とクロウに近付いていけば、彼女は同じだけ後ずさった。
「クロウ、安心した? ……それとも、がっかりした?」
部屋の隅に追い詰められ、それ以上逃げられなくなったクロウは、その事実とヴィゼの言葉に絶望する。
おそるおそるヴィゼと目を合わせれば、彼はクロウには向けることのなかった、どこか暗い眼差しで、クロウの顔を覗き込んでいて。
――見透かされている……。
その眼差しに、クロウは拳を強く握って耐えた。
「クロウ、……どうして僕を、ここに連れてきてくれたの」
「それは、」
「僕が見たがるだろうと思ったから? 説明に説得力を持たせようと思ったから? どっちもみたいだけど、それだけじゃないよね」
「あるじ――」
「そもそも、説明なんてしなくても、ここをなくすと決めたなら、クロウは誰の許可も得ずに、誰にも知られずにそれができる。そうだよね? 君は当時の黒竜ではないけれど、でも、そうすることを許されている……」
「あるじ、」
「そうしなかったのは、僕に謝罪がしたかったから? きちんと説明をして、誠実でいたかった? だから遺跡を消す前に僕をここに連れてきた――」
捲し立てるようにヴィゼは言った。
「だけど、そんなのは全部、表面的なことだ」
クロウは肩を震わせた。
決定的な言葉が続くことを、理解して。
「クロウ――、君は、僕に、嫌われようとしたんだね」
打って変わった静かな調子で、ヴィゼはクロウの真実を容赦なく暴いた。
クロウには何も言うことができない。
ぐ、と込み上げてくるものを呑み込んで、ヴィゼとただ、対峙する。
――これが、わたしの望んだ結果、なのだ。
気付いても、気付かなくても、あるじは、わたしを――
――嫌いに、なる。
そのための決意をようやく固めて、クロウはこの時、この場に臨んだ。
それなのに、心から絶望も怯えも消えなくて、目の前が暗闇に塗りつぶされそうで――。
「馬鹿だなぁ、クロウ」
今にも泣きそうな様子のクロウに、ヴィゼはふっと空気を緩ませた。
「この遺跡と君じゃ、比べ物になんかならないのに」
「……でも、あるじは、魔術の研究を、ずっと……」
「僕が魔術に傾倒するのは、君と生きていくために必要だからだよ。……一番の趣味、みたいになっていることは否定しないけど」
仲間たちが聞けば、「みたいになっている、どころのものじゃないだろう」と呆れ顔で突っ込むだろうことを付け加える。
「クロウ……、ごめんね。この気持ちは、何がどうなっても変わらない。君が僕からいくら嫌われたがっても」
ヴィゼは苦く笑った。
「たとえ君が僕を殺したって、君が世界を滅ぼしたって……、僕は君を愛し続ける」
ひたむきな眼差しで、重い愛の言葉を告げられ、見開いたクロウの目から涙が零れた。
「馬鹿は……、あるじの方だ」
「そう、かな?」
「私を好きになっても……、不幸になるだけだ。黒竜と恋仲になった人間は……、二人が二人とも殺されているんだぞ……!」
クロウがヴィゼの想いを止めようとする理由の一つは、それだった。
フィオーリの恋人もノーチェウィスクの恋人も、残酷に殺されてしまったのだ。
たった二人と言えばたった二人だが、これまでの黒竜のほとんどは忌み嫌われ短命で命を落としていて恋愛にいたることがなく、確率で言うならば百パーセントである。
ただでさえ生まれてから不吉な存在として扱われてきたクロウが、その事実に怯えるのは、当然の成り行きだった。
「クロウと両想いになれたら、僕も呪われる?」
この場合の「呪い」は、一般的な人々が言う呪いである。
「……ばかばかしいと、思うか」
「いや、両想いの証だと思えば悪くないような気もして」
「あるじ!」
不謹慎な言葉に、クロウは非難の声を上げた。
「ごめん、クロウの心配を軽んじるわけじゃなくてさ……。クロウの懸念が、全く分からないわけじゃないんだよ。呪いがあるとかないとかはともかくとして、僕たちは人と竜だし、共に生きていくのに他にない苦労はどうしてもなくせない」
真面目な顔のヴィゼに、クロウも神妙に頷いた。
「でも、僕が殺されるかどうかってことについては、今までの二人と違って、クロウが心配することはないよ」
「……何故、そんな、断言ができるんだ」
「だって、クロウが、絶対に僕を殺させないだろう?」
決まり切ったことのように言われて、クロウは絶句する。
「<影>が常についていてくれているし、僕だって余程のことがない限り、自分の身は自分で守れるし」
「いや、しかし……、私にもどうにもならない時が来たら……」
「その確率は天文学的なものじゃないかなぁ。それに、いざとなったらさ」
ヴィゼは続く台詞に似合わぬ、甘い笑みを見せた。
「クロウだけを置いていくことはしない。どこまでも君を、連れていくよ」
「――!」
重すぎる愛の言葉に、しかし、クロウの胸は歓喜に満ちた。
「……あるじ」
「うん」
「あるじは賢いのに、本当に、ばかだな……」
「ひどいなぁ」
「他力本願で」
「それは否定できない」
「でも、わたしのことを信じてくれて、ありがとう」
涙を頬に伝わせながら、クロウは口元を綻ばせた。
「わたしが、あるじを守る」
「うん。……お願いします」
ヴィゼとしては情けない気持ちもあるが、クロウの呪縛が解けるのならば、この程度大したことはない。
「……ところでクロウ」
改まった調子で呼ばれ、クロウは首を傾けた。
「この話の流れ的には」
「うん?」
「僕たちは恋仲になっていると思ってもいいのでしょうか?」
何故か丁寧語で問われ、クロウは真っ赤になった。
「いや、いや……、あるじ、それはまた、別の話だ」
ヴィゼの顔を直視できず、視線をそらし、クロウは何とかそう言う。
「そうなの?」
「そうだ。このままだとあるじが危険だから、わたしはそれを話しておきたかっただけで……」
クロウは語るに落ちている。
ヴィゼは歪みそうになる口元を必死に引き締めた。
「このままだと危険、か。それならその内、ちゃんと危険になれる?」
ヴィゼの言葉の真意がクロウに浸透するまで、しばしの間があった。
ぐ、とクロウはこれ以上ないほどに真っ赤になって、言葉を失う。
「あるじ……、あるじは、大丈夫だ。危険は及ばない。わたしが守るのだから」
しまった、とヴィゼは反省すると同時に内心で頭を抱える。
意地悪をしすぎて、スタート地点に戻ってしまった。
だが、クロウは言って落ち着いたのか、肩を落とすヴィゼにそろそろと切り出す。
「……なあ、あるじ。勝手なことを、言うようだが」
「うん?」
「危険は、ないぞ。危険は、ないが……、あるじがわたしを嫌いにならなくて良かった、と思っている」
「クロウ――」
それだけ、ヴィゼが彼女のことを思い詰めさせてしまったのだと思えば、ここにきてようやく、ヴィゼの胸に罪悪感が湧いた。
「だが、一方で……、わたしでなくともと、思ってしまうんだ」
「それは!」
「あるじの想いを、否定するわけではない。だが……、わたしは竜で、わたしにこだわることはない、と思う。わたしたちが、家族であることだって、」
「僕の気持ちは、僕が決めることだよ」
きっぱりと、ヴィゼはクロウの言葉を否定した。
「クロウは……、僕の家族であることが、嫌?」
「そうではない! わたしにとって……、あるじが唯一無二の、大事な家族だ。だが……、あるじは、そうではない、だろう?」
不安げな表情で、クロウはそれを口にする。
それも、ずっとクロウの抱えてきた不安の一つだった。
「もしかして――クロウ、御大のことを気にしてるの?」
「……その、ずっと、あるじに黙っていて……、本当にそれで正解だったのか、今でも分からないんだ。わたしよりもずっと、御大の方が――」
「クロウ、」
ヴィゼは彼女を落ち着かせるように、その両肩に手を置いた。
「君が黙っていたのは、御大の事情も考慮したからだろう? 僕も気付かないふりをしていたようなものだし……。それに、家族は一人だけってものじゃない。クロウはクロウ、御大は御大だよ。それはクロウだって、ちゃんと分かっていることだろう?」
ヴィゼに言われて、クロウはしばしの後、こくりと頷いた。
「うん……。そう、そうだよな。すまない、何だか、心許なくなって……。わたしは……、御大にも、許されるべきではない、と思っていたから……」
そんな風に思い詰めてしまうクロウが、ヴィゼは悲しかった。
しかし、まだまだこれからだ、とヴィゼは自身を鼓舞する。
卑下と過小評価は、ヴィゼ自身改善しなければならないことでもあるのだが。
「御大は、クロウにお嫁さんに来て欲しいみたいだけどね」
昨晩のゼエンの言葉を思い出したのだろう、クロウは頬を紅潮させた。
「……そういえばそんなことを言っていた、か……」
「僕としても是非、お嫁さんにほしいわけです」
「あ、あるじ!」
「だからさ」
ヴィゼは笑った。
今度こそ、優しく、愛しげな色を隠さずに。
「すぐにとはいかないだろうけど、色んな不安とか心配とか、ほっぽってさ。いつか、でいいから。この手を取って、僕を危険に晒してほしいな」
ヴィゼが差し出した手を、クロウはやはり、取ることができなかったけれど。
「やっぱり……ばかだな、あるじは」
解けた彼女の表情には、隠しきれないヴィゼへの想いが滲んでいた。