43 修復士と導く手
翌日。
あまり体を休めることのできないまま、ヴィゼは朝を迎えていた。
ぼんやりとひとり上体を起こしながら、ヴィゼは昨晩のことを思い出す。
「すまない、取り乱した……」
あの後クロウはしばらく膝を抱えていたが、時間が彼女に冷静さを取り戻させ、ひどく気まずそうにそう謝った。
ううん、と首を振って、ヴィゼはその頭を軽く撫でる。
「僕のせいだし。……そう自惚れていてもいいよね?」
「あるじ……、」
クロウは呆れたような恥ずかしそうな目で、ヴィゼを見たものである。
「戻ろうか。温かくして休もう。今日は本当に、色んなことがありすぎた」
「うん……」
何もなかったかのようにヴィゼが言えば、クロウはその気遣いを感じ取って、目を伏せた。
その肩にそっと触れて、ヴィゼはクロウを促す。
「あるじ」
けれどクロウは、動かなかった。
彼女は逡巡した様子で、ヴィゼを見上げて。
ヴィゼはその瞳の揺らぎさえ逃したくないように思って、その眼差しを受け止めた。
「――あるじ」
そしてもう一度呼んだ時、クロウの声から迷いの色は薄れていた。
夜空を映したような黒瞳は、彼女らしい真っ直ぐさを宿して、ヴィゼを見つめていて。
「あるじに見てほしいものがある。……明日、時間をもらってもいいだろうか?」
決然と言ったクロウを思い出しながら、ヴィゼは洗顔を終えた。
――見てほしいもの、か……。
テントの外に出ると、冬の弱々しい太陽の光が、野営地を既に照らしている。
ヴィゼはぐるぐると肩を回したり屈伸をしたりして、体を解した。
「おう、ヴィゼ、起きたか」
「おはよう。……エイバは、元気そうだね」
ヴィゼよりもずっと早起きをして鍛錬を終えたエイバが、しっかりと汗をかいた様子でやって来て、ヴィゼは幾分呆れまじりの声になった。
朝から草臥れてしまっているヴィゼとあまりに対照的で、その体力を分けてほしい、と思う。
「ふむ。その様子だと――」
ヴィゼのやや皮肉交じりの台詞をエイバは気にした風もなく受け止めて、率直に言う。
「クロには振られたみたいだな」
「エイバ……」
ヴィゼは親友をじろりと睨みつけた。
「もっと違う言い方ができると思う」
「睨むなよ。別に初めてってわけでもないだろ」
「だから言い方……」
ヴィゼはまた溜め息を吐く。
「そのクロは?」
「僕を起こして、それから朝食作りの手伝いに行ったよ。多分、レヴァと一緒だと思う」
「ふぅん、珍しいな」
「何が?」
「あいつ、ここじゃ特に、お前から離れないように気をつけてるだろ」
エイバの指摘はその通りだった。
この場所はヴィゼにとって、敵地と言ってもいい。
自分から離れないようにと主張したのは、クロウの方だった。
だが、状況は変わっている。
ヴィゼを害そうとした者たちはほとんどが捕縛された。
クロウもそれで、警戒を少し緩めたのだろう。
何より、昨晩のことを気まずく感じていることは、想像に難くなかった。
「ま、<影>がいるんだろうが」
エイバの付け足しに、ヴィゼは苦笑する。
けれどそれも、瞬く間に消えた。
――あるじ、死なないで……。
そう、揺れる声が願うのを、思い出したからだ。
クロウにとって、<影>がヴィゼを守っているということが、彼女の精神を安定させているひとつの要因だろう。
――ずっと彼女と生きていく、その覚悟は常にある。
ヴィゼは、クロウの言う「見てほしいもの」に思いを馳せた。
迷いを振り払おうとするかのようだったクロウの横顔が、ヴィゼの心を落ち着かなくさせる。
だが、それが一体どんなものでも、ヴィゼの想いを変えることはもう、できはしない。
“絶対”など軽々しく使えるものではないが、それだけはヴィゼの中で絶対だった。
ヴィゼがこれから、何を見ることになるとしても。
「お、朝飯、できたみたいだな」
エイバが言って、手を振る先に、クロウやレヴァーレたちの姿がある。
ヴィゼは目を細め、エイバと共に仲間たちと合流した。
この日、遺跡探索は休み、ということが決まっていた。
緊張感に満ちた遺跡調査が続き、とどめに昨日の騒動である。
遺跡の部屋という部屋を回り終えたということもあり、調査員たちを休ませようと代表者たちの意見が一致したのだ。
理由は他にもあって、それは主にフルス側の都合によるものである。
研究者の一人が殺人未遂その他の容疑で捕えられたことにより、フルス側の研究者メンバーに動揺が走っているのだ。
戦闘員代表のリーセンも、その研究者やアフィエーミ、それに加えクロウが捕まえた復讐者たちへの対処をせねばならず、遺跡調査どころではなくなっていた。
さらに言えば、イグゼやストゥーデも、これまでの成果をまとめ、今後の調査について腰を据えて話し合いたかったようだ。
国からの指示はいまだないままで、二人ともこのまま調査を続けていきたいと、そのために一日を使うことに決めていた。
そうしたわけで、遺跡探索が一日なくなっただけで、遺跡調査任務自体が休みになったわけではなく、ヴィゼはその日一日イグゼにくっついて、あれやこれやと議論を交わすこととなった。
クロウもその際には護衛としてヴィゼの側に控えており、ヴィゼをほっとさせたものである。
そうやって仕事にかかっていたのは代表者たちだけでなく、結界については自主的な調査が認められていて、休まずに動いている者も少なくはなかった。
戦闘員たちの多くも鍛錬に時間を費やすなど、ゆっくりとしている者の方が少なかったかもしれない。
それでもその日一日、野営地にはどこかのんびりとした空気が流れていた。
――ごく一部を、例外として。
「……あるじ、起きているか」
潜めた声がして、ヴィゼは目を開けた。
明かりの消えたテントの中、横たわるヴィゼの頭上に、クロウがしゃがみこんでいる。
「うん」
頷いて、ヴィゼは静かに起き上がり、眼鏡を掴んだ。
仲間たちが横で眠っているのを、起こさないように。
「すまない、待たせた」
「ううん」
今度は首を横に振る。
夜――。
ヴィゼはクロウに、テントの中で眠らずに待っていてほしい、と言われていたのだ。
クロウには、今からのことを仲間たちには知られたくない、という気持ちがあるようだった。
彼らに違和感を覚えられぬよう、二人は努めて常と変わらぬように行動し、今に至る。
「遺跡に向かう」
この時ようやく行き先を短く告げて、クロウは手を差し伸べた。
ヴィゼは当然のように差し出されたその手を取る。
気温のせいか、緊張のせいか――、冷たく強張ったようなクロウの指先を、気遣うようにそっと握った。
その手に導かれるように、クロウに続いてヴィゼはテントを出る。
「……皆、起きないかな」
「起きない。眠ってもらったから」
クロウの声は硬かった。
その時ようやく、ヴィゼは気付く。
この場で意識を保って動いているのが自分たちだけだ、ということに。
いくつかの明かりが野営地をぼんやりと照らしているが、辺りを警戒しているはずの見張りは意識を失い、倒れていた。
テントの中から聞こえてくる物音も、全くない。
あまりの静寂に、ヴィゼは慄然としたものを覚えた。
「クロウ――」
「万が一にも、見られては困るから」
そう、クロウは弁解する。
待っていてほしいと彼女が頼んだのはこのためだったのか、とヴィゼはこの時完全に腑に落ちた。
「大丈夫だ。皆、凍え死ぬようなこともなく、朝にはちゃんと目が覚める。この周囲は<影>に警戒させているから、魔物の心配もいらない」
「うん――」
おそらくは魔術具で事を為したのだろうが、一体どういったものなのか――。
考えを巡らせるヴィゼを連れたクロウは、遺跡の白い輝きを前に立ち止まった。
「あるじ、そのまま掴まっていてくれ」
「え、」
クロウは説明らしい説明をしないまま、遺跡の屋上部分へと跳んだ。
ヴィゼの作った空間を、ヴィゼを引っ張るようにして軽く飛び越える。
そこまでの幅があるわけではないが、突然のことにヴィゼの心臓も跳ねた。
「っ、クロウ、言ってくれれば自分で……!」
「すまない、結界もあるし、このままがいいかと……」
クロウは眉を下げた。
「……手を繋いだままなのは、本望なんだけどね」
動悸を鎮めながら、ヴィゼは苦笑気味に言った。
暗闇の中、その台詞にクロウは頬を紅潮させる。
「これは……! その必要があるからで!」
慌てたように言い訳し、繋いだ手はそのままに、彼女は遺跡の屋上の中心部へとヴィゼを導く。
「あるじにはこの光が見えない……のだよな」
「うん――」
この光、というのが何を指しているのかさえ、ヴィゼには分からない。
彼の目に映るのは、その名の通りひたすらに白いだけの古白石だ。
「ここには優しい緑の光があるんだ」
「緑……」
「大きさも、結構なものだ。遠くから見ても分かるようにしたのだろう」
「その光は、つまり……」
「目印でもあり、入口でもある。……竜ための」
囁くように答えを口にして、クロウはヴィゼの手を引く。
「――行こう」