09 修復士と復讐者
絶叫に、作業員たちも、モンスベルク側で野営を進めていた者たちも、はっと手を止め顔を上げた。
音量だけではなく、その叫びに込められた強烈な憎悪が、そうさせたのだ。
叫びと同時に、フルスメンバーの中から走り出した人影がある。
若い女兵士だ。
剣を抜き、一直線にヴィゼへ向かってくる。
すさまじい形相で、仲間たちの制止の声も聞こえないようだ。
まさかこんな衆目の中、堂々と――というより、ここまで我を忘れた様子で襲い掛かられるとは、ヴィゼも思っていなかった。
襲われるにしても、もっと人目を忍ぶだろうと考えていたのだが……。
――それだけのことを、あの男が――僕が、してきたということか――
それでもヴィゼは、大人しくその剣に斬られてやるわけにはいかなかった。
ゼエンとリーセンが前に出、ヴィゼが仲間たちを守るように障壁を張る――だがそれよりももっと早く。
「かは……っ」
女はヴィゼのずっと手前で仰向けに転ばされ、首元に剣を突きつけられていた。
それは人の認識能力を超えた速さで行われ、誰もが、何が起こったのか分からず目を見開く。
周囲の人間も、女自身も――。
女の腹を踏み付ける、クロウ以外は。
絶叫さえなければ、彼女はもう少し――あと二、三歩は進めていたかもしれない。
しかし声を出したことにより動作に遅れが生じた上、クロウの動き出しを早めてしまった。
そしてクロウは、ヴィゼへの殺意を一時でも放置しなかった。
予備動作もなく、一瞬どころではないスピードで女に接近したクロウは、彼女の足を払うと、前のめりになった彼女の腹を蹴るようにして仰向けに地面に転がし、その首に剣をつきつけたのである。
「――さて、」
整った唇から発された声は、凍えるような冷たさを宿していた。
エイバと戯れる際にも怒ったような声を出すことはあるが、ここまで絶対零度の彼女の声を聞くのは、<黒水晶>メンバーにとっても初めてのことである。
周囲はクロウの撒き散らす殺気によって言葉を失い――それどころかかすかな身じろぎでさえできずにいて、その声をはっきりと聞きとることができた。
「あるじ、この女をどう処分したい? このまま首を落とすか?」
誰もがそれに、ぎくりとする。
クロウのそれは、まぎれもない本気だった。
怯えた目をした女が、クロウを見上げる。
漆黒の瞳が女を静かに――それでいて苛烈に見下げてくる。
その黒のあまりの強さに、触れた剣先がさらに食い込むより先に、心臓が止まってしまいそうだった。
「――クロウ」
人々の視線が、クロウからヴィゼに移る。
クロウが指示を仰いだ先のヴィゼは、この状況下に全く似つかわしくない、柔らかな微笑を浮かべていた。
「ありがとう」
その声も、穏やかなものである。
惨劇になるかと想像した者もいたが、しかし、続く言葉も至極穏当なものだった。
「とりあえず彼女はそのままで、戻っておいで」
「……あるじ、生かしておいてはこの女はまたあるじを狙う」
「うん。二度目は容赦しないってことで。今は手を引いてあげて」
クロウは渋々と女から足をどけた。
「……あるじに感謝するのだな、女。ただし、次はないぞ」
鋭い一瞥をくれてから、剣を収める。
女に背を向けたクロウは一つ息を吐いて、手首のブレスレットに触れた。
白竜から贈られたブレスレットは、魔術具としての機能を今もきちんと果たしている。
それなのにこの場にクロウの殺気が満ち満ちてしまったのは、ブレスレットが制御できる以上の感情を爆発させてしまったからだった。
クロウはブレスレットに魔力を送り、その機能を使って、辺りに充満している強い怒りを含んだ彼女の魔力――殺気、冷気を己の中に戻す。
わずかに残った残滓は冬の風が連れて行き、ようやく周囲の人間たちは自由を取り戻した。
耐性のない作業員たちの中には、安堵の余りへたりこんでしまう者もいる。
「……何故この状況で笑うんだ、あるじ」
向けられる恐怖と畏怖の視線を気にせず、クロウはヴィゼの元に戻る。
怪訝そうなクロウの視線に、ヴィゼは笑みを深めた。
「いや、クロウが怒ってくれたのが嬉しくて」
「あるじ……」
クロウは呆れと照れと怒りをブレンドした上目遣いで、ヴィゼを睨みつけた。
さすがに処置なしと思ったのか、ゼエンが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえる。
「……ヴィゼ、お前、結構空気読むヤツだったのにな……」
コレールなどは、思い切り引いていた。
目を逸らすように、倒れはしないものの蒼白になったイグゼとストゥーデを少し離れたところに座らせる。
モンスベルク側の野営地でも、彼の仲間たちが研究者たちを気遣っていた。
「おい、ヴィゼ、クロ!」
微妙な空気の中、顔色を悪くしたエイバとレヴァーレ(とレヴァーレにくっついたセーラ)が駆け寄ってくる。
「びっくりしたわ……。向こうからやとよく分からんかったんやけど……、彼女があの?」
問いかける視線の先には、リーセンの指示で他の兵たちに拘束された女兵士――アフィエーミの姿がある。
リーセンが「アフィエーミ伍長」と呼びかけていたので、間違いない。
「全く心臓に悪かったぜ。クロ、お前ももうちっとどうにかできなかったのか? 皆びびりまくってんじゃねえか」
「あるじを狙った女を許せるわけがないだろう」
「向かってくる魔物相手にはあそこまで殺気を撒き散らさねえじゃねえか」
「魔物がヒトを襲うのは最早本能的なものだから仕方がない。だが、あの女はあるじのことを何も知らず、あるじに刃を向けた。そのことを己の意思と偏見で選んだ。わたしはそれを、許さない」
きっぱりとクロウは告げた。
それにますますヴィゼの顔が崩れていく。
「……はあ。まあ、そうだな。それで、ヴィゼはどうしたんだ。いや、分かる……分かっちまうがお前、その顔はどうにかしろ」
「この空気の中で当事者のヴィゼやんがその顔はまずいで……」
「ごめん、つい。好感度マイナスからやり直してるつもりでいるから――」
「はぁ!?」
ヴィゼのあまりの発言に、複数の声が重なった。
この鈍感ぶりは、先ほどのクロウよりもある意味余程恐ろしい。
<黒水晶>の面々がそのように和んで(?)いると、部下に指示を出し終えたリーセンが戻ってきた。
「申し訳ありませんでした、ヴィゼ殿。私はこのようなことにならぬようこの場に来たというのに……」
「いえ、そんな」
本心から申し訳なく思っている様子のリーセンに、ヴィゼはむしろ戸惑う。
フルスの人間全員に嫌われているとまではさすがに思っていないが、もっと冷淡な態度を取られるものと想像していたのだ。
「きちんとした自己紹介もまだでしたね。フルス王国近衛師団長、リーセンと申します。この度は遺跡調査派遣隊の戦闘員の指揮を任されております。よろしくお願いいたします」
リーセンの肩書きを聞き、エイバとレヴァーレも驚きの表情になった。
それもそうだろう、とヴィゼも改めて思う。
しかもどうやら、リーセンの口ぶりからすると、彼はヴィゼのためにここに派遣されてきたらしい。
彼の名は、事前に送られてきていた名簿にはなかったはずだ。
それなのに、どうしてこうなったのか。
疑問は、ゼエンの口から再度提示された。
「リーセン、あなたがここにいる理由を説明してほしいのですが」
「はい。彼女の処遇と合わせ、お話しを。皆さん、こちらへ」
厳つい顔を引き締めて、リーセンはフルスのテントの一つへ、ヴィゼたちを誘った。