07 黒竜と道中
遺跡到着後に不安はあるものの、その後も道のりは順調だった。
しかしクロウは一人困りごとを抱えていて、現在も困った状況にある。
上手く村や町に立ち寄れず、野宿の最中。
夜の見張り番として、ヴィゼと二人きりなのだ。
今のクロウにとって、それは素直に喜べることではない。
他の人間がいればそうでもないのだが、最近ではヴィゼと二人きりになると妙な空気になることが多く、それにどうにも耐えられないのだ。
昼間は大抵イグゼがヴィゼをつかまえ、研究員たちを巻き込みつついつまでも何やら話し続けているので困ることはほとんどない。
だが夜は違っていて、例えばこうして見張りで二人きりになったり、街の食堂で何故か二人だけでテーブルを囲むことになったりするのだ。
同行する面々が変に気を遣ってくれているようなのである。
最初こそ抵抗を試みたが、巧みにかわされてしまい、今に至っていた。
――どうして<迅雷風烈>のメンバーにまで成り行きを注視されているのだろうか……。
クロウのそうした思いを他所に、ヴィゼはこれ幸いと便乗しているようである。
彼は自分の気持ちを隠すことを止めていて、だからといって他者の協力を積極的に求めている風ではないが、あるものは使うつもりらしかった。
――フルスに近付いているし、あるじの側に堂々といられるのは有り難くはあるが……。
クロウは焚火を前に、膝を抱えて小さくなった。
そんなクロウを見つめるヴィゼの、眩しいものでも見るような眼差しに、逃げ出したくなる。
「……あるじ、見すぎだ」
「ごめん」
眠っている仲間たちを起こさないよう、密やかな声で咎めるが、返ってくるのは口先だけの謝罪だ。
今までヴィゼをずっと盗み見てきたクロウに抗議が許されるのか、と頭によぎるが、当たり前のように受け止めることなどできないのだから仕方がない。
「好きだなと思って」
「……っ、もう、それは、」
このやりとりも何度目だろうか。
それでも慣れることなどなくてクロウは言葉を失い、紅潮した頬を隠すように顔を伏せる。
ヴィゼは開き直ってから、臆面もなく想いを言葉にするようになった。
それにクロウは困り果てながらも、嬉しくて面映ゆくて堪らないのだ。
――あの頃のわたしがこの状況に放り込まれたら、卒倒してしまうかもしれないな……。
フルスに戻っているせいもあってか、ここのところ昔のことをよく思い出す。
引き離され、ヴィゼのことを見つめるばかりだった毎日を。
ずっと隣にいられた日々を取り戻したいと、何度願っただろう。
初めて知った、温かで穏やかな時を……。
あっと言う間に過ぎ去ってしまった時間と、逆境の中負けずに前に進もうとするヴィゼの姿を支えに、あの時のクロウは生きていた。
最初はきっと、この胸にあったのは純粋な好意だけだったはずだ。
それなのに、いつしかクロウは、邪な感情を抱えるようになってしまった。
ヴィゼの全てを、自分のものにしたい。
笑顔だけでなく、そのつらさや痛みも、全部が欲しい。
そんな身勝手な感情に、クロウは強い罪悪感を覚えていた。
ヴィゼひとりを置いて逃げたクロウが、何を欲しがるというのか。
苦しむクロウに、白竜は恋というものを教えた。
白竜の話に耳を傾け、書物を読み、クロウは恋を学んだ。
――これが本当に恋というものなのか。
疑ったことも、数知れない。
何故ならヴィゼは、人間で。
クロウのこの想いは、あまりにも自分勝手で、醜かった。
白竜が告げてくれたように、大切にしようなんて思えなかった。
書物が形容するように、美しいものだなんて思えなかった。
けれどやはり、クロウの胸にあるヴィゼへの想いは、恋なのだ。
そうでもなければ、人間であるヴィゼと番いたいなどと、そんな欲望を抱くことなど、ないはずなのだから。
クロウが初めてそれを明確に意識した時は、困惑と羞恥で消え入りたくなると同時に、決してその想いが満たされることはないのだと、改めて絶望したものだった。
ヴィゼのことは、こうしてずっと見つめるだけ。
その生を見届けるだけ。
クロウがその隣にいることはもう、許されない。
ヴィゼが人間である限り。
クロウが黒竜である限り。
クロウがヴィゼを残して逃げた事実が、消えてしまわない限り――。
見守るだけの日々の中、激しい感情を持て余しながら、クロウは少しずつ、諦めを大きく育てていった。
不毛な思いは心の中で潰して小さくして風化させていって。
ただ優しい感情だけを大事にしていこうと決めて。
それはおおよそのところ、成功していた、はずだった。
それなのに、この状況は、どういうことなのだろう。
ヴィゼの想いを捻じ曲げるようなことを、無意識のうちにでもしてしまっただろうか。
クロウはそんな不安すら抱えていた。
だがヴィゼは、クロウの恋心を知らなくて、それでもクロウを特別だと告げる。
ずっと諦めようと努力してきたのに、それをそっくり差し出して、クロウにあげると、そう言うのだ。
――あるじはとても賢い。それなのに何故こんな愚かな選択をするんだ……。
「……ばかだ、あるじは」
「ひどいなぁ」
零した言葉は、冷たい夜のしじまに予想外に響いた。
罵られたのにも関わらず、ヴィゼは苦笑ひとつで済ませてしまう。
――もっと正しい相手を、ふさわしい相手を見つけるべきだ。
そんな言葉が口から出かかったけれど、声にはならなかった。
嘘の塊が喉に詰まるようで、苦しい。
どうしたら、ヴィゼに諦めてもらうことができるのだろう。
嫌われるようなことをすれば?
やるべきだと囁く自分もいる。
けれどそんなことは――もう、できはしないのだった。
少なくとも、意図的には。
ヴィゼに嫌われているとずっと思っていたのに、そうではなかったと知って、もう今更、あの頃には戻れない。
ヴィゼの瞳が冷たい色を宿してクロウを見つめる。
それを想像しただけで、足が竦んで動けなくなってしまうのだから。
クロウ自身さえ諦めることができていないのに、他人の心を動かすなど、無理な話、なのかもしれない。
それならば自分は一体どうすればいいのか――。
クロウはぎゅっと膝を抱えた。
一向に顔を上げられない彼女の耳に、ふっと小さく零したヴィゼの声が届く。
「……クロウ、顔上げて。しばらくは大人しく別のものを見てるから」
自身の情けなさにこのまま身を縮めていたい気持ちはあったが、顔を伏せたままでいればヴィゼを疑っているようだ。
クロウはゆるゆると顔を上げた。
焚火の前で、ヴィゼは木箱を手にしている。
クロウと一瞬目を合わせて微笑んで、ヴィゼはすぐに手元に視線を戻した。
竜の姿が彫られた木箱は、クロウがヴィゼに預けているものだ。
ヴェントゥスの皇帝アサルトが遺した木箱であるが、魔術的封印がされており、開けることが叶わないまま今に至っていた。
木箱を託されたクロウだが、今無理に開けなくてもいい、と思っている。
それをヴィゼには何度か伝えていたが、ヴィゼは探求心もあって諦めきれないようだ。
旅の間も考えてみたいから、とクロウに許可を得て持ってくるほどである。
クロウも中身が気にならないわけではないので、ヴィゼと一緒に頭を絞ってみるのだが、名案は浮かばないままだった。
「……何が入っているんだろうね」
答えのないその問いを、ヴィゼがするのは初めてだ。
クロウはどきりとした。
「かの人が、何を考えてこれを遺したのか……。開くために必要な鍵は――」
かの人、とヴィゼは言う。
万が一にも<黒水晶>メンバー以外に聞かれないためだ。
それ以外に――特にイグゼに――箱のことを知られると後々面倒なことになるのは目に見えているので、ヴィゼは<黒水晶>メンバー以外の前では決して箱を取り出そうとはしなかった。
「やっぱり竜、なんだろうな……」
ヴィゼはぐるりと箱をひっくり返し、とっくに見飽きているだろう六面を再度まじまじと確認する。
ひとりごちるヴィゼに、クロウは根拠のない不安を覚えた。
顔を上げたヴィゼが、ひたと真剣な眼差しでクロウを見つめてくるのに、さらにその不安は増す。
気付いてしまっているのではないか、と心に過った。
世界の秘密に、ヴィゼは、気付いて――。
「――その内、クロウにお願いしたいことがあるんだ」
「……何だ?」
ヴィゼがそっと視線をそらせたので、クロウは内心ほっとした。
「難しいことじゃないよ。すぐに終わること、なんだけど……」
「今でなくていいのか?」
「今じゃない方がいいだろうね。……それにまだ、ふんぎりがついてないんだ」
「ふんぎり?」
「大したことじゃない――んだけどね。僕の我儘というか……。もっと早くにお願いしていても良かったんだけど……」
ヴィゼは憂鬱そうに溜め息を吐いた。
「多分それで、開くんじゃないかと思うんだ」
え、と驚いてクロウは目を丸くする。
「だから、この依頼が終わった後とかに」
「……分かった」
ヴィゼの言うふんぎりやら我儘やらの意味が分からないながら、クロウは頷いた。
箱が開くかもしれない喜びよりも、先ほど胸を騒がせた不安の名残の方が大きく淡々としてしまって、後悔を覚える。
ヴィゼは一生懸命に考えてくれているのに、と思った。
そんなクロウの隣で、ヴィゼが堪えきれずくしゃみをする。
「大丈夫か、あるじ」
「うん……。今晩もかなり冷え込んでるからなぁ。クロウは寒くない?」
「わたしは大丈夫だ」
焚火があるとはいえ、真冬のこの寒さである。
ヴィゼの顔色が悪いように見えて、クロウは心配げに眉を寄せた。
「何か温かくなるような飲み物でも……、」
「クロウ、それよりさ」
ヴィゼは満面の笑顔で告げた。
「引っ付いていたら、温かいと思うよ」
わざとらしく腕を広げたヴィゼに、クロウは顔を真っ赤にした。
乱暴に影に手を突っ込み、<影>がどこからか持ってきた毛布をヴィゼに投げつけてやる。
ヴィゼはその仕打ちに顔を顰めるでもなく、むしろ楽しげに笑った。
「ありがとう。クロウは優しいね」
毛布を体に巻きつけて微笑むヴィゼの言葉は、皮肉ではなく心からのものだ。
クロウは最早どうしようもなく、また顔を伏せ膝を抱えるしかなかったのだった。