21 貴族の娘と黄金の竜
「……おはようございます。お父さん、なにか、おこってましたか?」
ヴィゼとクロウの謝罪大会は、寝ぼけ眼のラーフリールの登場によって終止符が打たれた。
ラーフリールの開けたドアがヴィゼの尻にぶち当たり、緊迫した空気は霧散する。
しかしエテレインだけは、衝撃から醒めてはいなかった。
ぼんやりと、まるで夢でも見ているかのように<黒水晶>メンバーの集まる光景を目に映す。
気遣うようにそっとサステナが腕に触れて、びくりとエテレインは体を震わせた。
「お嬢様……」
「わたくし……、」
声が震える。
視界の端に、瞳に心配そうな色を浮かべるクロウの姿が映った。
けれど、その顔をいつものようには見返せない。
「ごめんなさい、混乱していて……。一度、宿に戻ります」
ぎこちなく挨拶をして、エテレインは<黒水晶>たちの気遣わしげな視線から逃れるように食堂を出た。
その後をサステナと、そしてアルクスが追う。
「お嬢様、馬車を……」
「歩いて帰りましょう。……少し頭を冷やしたいの。付き合わせてごめんなさい」
「謝るようなことではございません」
昨日はそのまま<黒水晶>本拠地に泊まったので馬車はないのだ。
徒歩で宿まで戻ると言うエテレインにそれ以上は何も言えず、サステナは黙って従った。
正直なところ、サステナも混乱している。
クロウのこと、アディーユのこと、“呪い”のこと。
けれど、それらを心に落ち着けるのにそう時間はかからなかった。
サステナもクロウとは何度も話している。その為人――と言ってよいのか今となっては分からないが――は知っているし、彼女はエテレインを害さない。<黒水晶>の仲間たちもそれを許さないだろう。それが分かっていれば、クロウが竜であるか否かなど、気にせずとも良いように思われた。
あまりにも突飛なことなので、いまだに信じられていないだけなのかもしれないが……。
“呪い”のことも、アディーユのことも、そうだ。
サステナのこれまでの現実とはかけ離れているようで、ぼんやりとしか捉えられない。
けれど、ヴィゼや<黒水晶>たちが口を噤んでいた理由は、分かりすぎるほどに分かった。
アディーユが全く別のものに取って代わられるなど、こちらの心情を思えば言えなかっただろう。
アディーユがいなくなった直後、感情的になっていた時期に“呪い”が云々と言われても、理解を拒んでいたのではなかろうか。
今回も、クロウの連れ去られた場面や彼女が竜であるという証を見せられていなければ、信じられなかったかもしれない。
――多分、ヴィゼ様には、黙っていてもらった方が良かった……。
エテレインの背に、サステナはそう、思う。
“呪い”のことなど知らず、<黒水晶>の人々とエテレインが幸せに過ごす時間がずっと続けば、それが最上だった……。
アディーユはきっともう、戻っては来ない。
エテレインは約束した、と言うけれど、サステナはそう思っていた。
それはサステナが薄情なのではなく、彼女がアディーユの友人だからこその結論だった。
アディーユは生真面目で、頑固で、エテレインを大事に大事に守ってきたのだ。
異なる世界に足を踏み入れたアディーユは、エテレインのため、会うことを己に禁じているに違いない。
あの時はヴィゼの策が上手く嵌って、エテレインの願い通りになったけれど、あれは一度きりのことだろう。
だからエテレインは、“呪い”のことなど知る必要はなかった。知らない方がきっと心穏やかで、幸せにいられた。
サステナはそんな風に考える。
だが沈黙は破られてしまった。
エテレインはそれをどう受け止めるだろうか。
一体今、どのように受け止めようとしているのだろうか。
アディーユが消えてしまった時のように、エテレインが沈み込んで浮き上れないような、彼女が笑顔を失ってしまうような、そんな事態になることは避けたかった。
――クロウ様への好意が一転して、嫌悪や憎悪になってしまったりは……しませんよね……。
サステナも<黒水晶>の面々と同様、クロウを責めようなどとは思わない。竜であると言えなかったのは当然であろうし、“呪い”に関して彼女に非がないのは明らかだからだ。
とはいえ、“呪い”の大元が竜だから――黒竜だから。それだけで、直接的にクロウが危害を及ぼしたわけでなくとも、危険視し忌避する者はいくらでもいる。ただでさえ人間は魔物に脅かされているのだ――アディーユの夫が殺されたように。
クロウやヴィゼがあれほどに自罰的な様子を見せたのに、納得すると同時にサステナの気持ちはますます重たくなった。
これまでのクロウのことを思って。
これからの、クロウとエテレインのことを思って……。
表情を曇らせつつもサステナはしずしずとエテレインに従う。
すると突然エテレインが立ち止まり、くるりと振り返った。
「お嬢様?」
「ごめんなさい、ちょっと、」
エテレインの顔はいまだ強張っていたが、何やらその瞳には強い意志の光が見え、サステナは瞬く。
「あなたに聞きたいことがあります」
エテレインの言葉は、サステナのさらにその後ろにをついてきていた、アルクスに向けられたものだ。
動揺しながらも、護衛が自分についてきていることを、エテレインはきちんと認識していた。
「なんでしょう」
この男は憎たらしいほどに普段通りに、一見穏やかに、微笑む。
エテレインは挑むように男を見上げ、問いかけた。
「あなたはクロウさんの兄弟子と仰いましたわね。そしてクラン<消閑>のリーダーであると」
「ええ」
「それについては既知とした上でお聞きします。あなたは……、何者ですか」
思いがけない問いにサステナは目を丸くし、当の男は――愉しげに、目を細める。
公道であるためアルクスは二人に気付かれないよう結界を張ってから、答えた。
「ヴェントゥス最後の皇帝アサルトと白竜が一子――半人半竜のアルクス」
さらりと言い放たれた言葉が、エテレインとサステナの理解に及ぶまで少し間があって。
瞠目したエテレインに、アルクスは人の悪い笑みを浮かべた。
「……ご希望通りの答えでしたか?」
「……まさかこの場面で揶揄ったわけではないでしょうね?」
「はい。真実ですよ。何でしたら、クロウ殿のように竜の姿でもお見せしましょうか」
「ええ、見せて頂戴」
即答が返ってくるとは予想外で、アルクスは珍しく虚を突かれたような顔を見せた。
「わたくし、竜の姿が見てみたいわ。一部、というのではなくて」
「……分かりました」
エテレインは本気だった。
必死な様子でもあって、アルクスは頷いた。
「では場所を移しましょう。こんなところで竜体にはなれませんから」
言い出したのはアルクスの方だが、ここまですんなりと事が運ぶとは思っていないエテレインは少しばかり目を白黒させた。
アルクスはすぐさま、転移魔術を発動させる。
エテレインとサステナは奇妙な浮遊感に包まれ互いの手を取り合ったが、その感覚もすぐに収まった。
辺りを見渡せば、そこにキトルスの街並みはない。
あるのは小さな湖と、青々とした樹々。少し離れた場所に、こぢんまりとした家が一軒建っていた。
「ここは……」
「白竜の隠家の一つです。ここならば結界もありますので、気にせず竜の姿になることができます」
「……せめてもう少し前置きをしてから連れて来てほしかったものですけれど……」
恨めしげなエテレインの声は小さなものだった。
自分が頼んだことだから、文句もつけづらい。
アルクスはすみません、と口先だけで謝って、
「それでは服を脱ぎますので、目を閉じていていただけますか?」
と爽やかに言い、女性二人を絶句させた。
「誤解しないでいただきたいのですが、このまま竜体になると、服も鎧も駄目になってしまいますので。キトルスに全裸で戻っても構わないのでしたら、このまま……」
「今、脱いで、ください!」
この野郎わざと、とエテレインは内心口汚く罵った。
顔が赤らむのを自覚する。
男がくすりと笑い、では、と鎧に手をかけるので、エテレインとサステナは後ろを向いた上でぎゅっと目を瞑った。
それを確認し、アルクスは身に着けたものを全て脱ぎ捨てる。
何百年と生きていればこの程度のことでいちいち羞恥を覚えたりしないので、それに躊躇は全く見られなかったが、何も知らない者が見れば犯罪的な光景ではあった。
アルクスとしても露出の趣味があるわけではないので、脱いだ衣類をまとめると、すぐに竜の姿になる。
クロウが人化の魔術を常時発動しているのとは違って、混血であるアルクスは、人の姿と竜の姿、二つを生まれた時から持っている。
白竜は人の姿で子を産み、生まれた赤子も人の姿をしていたが、いつしか竜の形もとれるようになったのだ。
どういう仕組みなのかと父親であるアサルトは興味津々なようだったが、さすがに子どもたちを実験体にしたりはしなかった。
確たることは分からないままだが、特にそれで不都合があるわけでなし、こういうものだと受け入れていて、アルクスは気にしていない。
『目を開けていただいて構いませんよ』
頭の中に声が響いて、エテレインとサステナは肩を震わせた。
概念送受というものを知らない二人だったが、魔術の一種かとすぐに納得して、恐る恐る目を開ける。
「……っ!」
エテレインはアルクスの人の悪さを顧みひどく警戒していたが、そんな警戒心などすぐに吹き飛んだ。
それを見た瞬間。
エテレインは、警戒心どころか、しばしの間、何もかもを忘れ、立ち尽くした。
竜、という存在は。
それほどまでに圧倒的なものだった。
首が痛くなるほどに見上げる巨体は、黄金に輝いている。
それは太陽さえ凌ぐようで、エテレインは神さまが現実にいたらこういう姿をしているのかもしれないと、ぼんやりと思った。
綺麗だった。
恐ろしかった。
こんないきものがいるなんて、信じられないような気持ちがした。
――わたくしはこんなにもちっぽけなのに……。
このいきものは、こんなにも美しくて、尊大で、翼を持っていて、どこへでも飛んでいけて、その体で、魔力で、爪で、牙で、邪魔なものはみんな壊してしまえて、きっと自由に生きられるのだ。
――クロウさんは……。
この、気に食わない男よりもずっと美しいのだろう。
それなのに、エテレインの近くにいて、エテレインを救ってくれた。
それなのに、何もかもを諦めたような、悲しい目をしているのだ……。
エテレインは胸を打たれたように感じ、泣きたくなった。
けれど熱い塊はぐっと飲みこんで。
「……わがままを聞いてくださって、ありがとうございます」
エテレインは丁寧に頭を下げる。
「キトルスへ戻してくださいますか。……<黒水晶>の本拠地に」
ただ静かにエテレインを見下ろしていた黄金の瞳が、ふと和らいで、頷きを返した。