16 少年修復士と“呪い”の封印③
ヴィゼの研究部屋に窓はない。
真っ暗闇の中訪れた、ヴィゼの目覚めは最悪だった。
頭痛はするし、体は軋む。
何よりも、
――黒竜だなんて。
運命というものがあるというのなら、それはなんという皮肉屋なのだろう。
黒竜を追い求めるヴィゼが、黒竜を殺さなければならないなんて。
“あの子”ではない――けれど会って話してしまえば情が湧く。
エイバの身のことを考えれば、見逃すなどということもできないのだ。
それを彼女も望んでいない。
「くそ……」
弱々しく罵って、ヴィゼはマットレスを叩いた。
――皆には、言えない。
最初から、ヴィゼが黒竜を求めていることについて他言するつもりはなかった。
けれどこうなってしまえば尚更、エイバたちには何も言うことができない。
背信、という単語を思い浮かべながら、ヴィゼは身を起こした。
体を動かすのはつらかったけれど、ヴィゼはすぐにでも始めなければならなかった。
かの竜を殺すための魔術式を、ヴィゼは編み上げなければならなかった。
ヴィゼが一本の剣を引きずって研究部屋から外に出ると、空は暗闇に包まれていた。
早朝なのか深夜なのかと目を凝らし、星の位置から夜の方らしいと見当をつける。
その闇に、出会ったばかりのかの女性の瞳を思い出した。
ゼエンたちは眠っているだろうか、と思い旧納屋の方を窺うと、ドアの隙間から明かりが漏れている。
ヴィゼは何となくほっとして、ドアをノックして開いた。
「ヴィゼ殿!」「ヴィゼ!」「ヴィゼさん!」
三つの声が重なり、三対の目がヴィゼの方を向く。
眩しいな、と思いながらヴィゼが何となく立ち竦んでいると、ゼエンがすっと近付いてヴィゼの体を屋内に入れた。
その後ろで、小さな音を立ててドアが閉まる。
三人はどうやら夕食を囲んでいたようである。
並んだ皿を見て、ヴィゼは空腹を思い出した。
「え、と、おはよう?」
「もう夜中ですが……、おはようございます。無事に起きられたようで、ほっとしました」
「全然ぴくとも動かねえから心配したぜ。良かった」
「一応体動かしてもらっとったけど、どう? 変なとことかあったら診さしてもらうで」
代わる代わる気遣われ、ヴィゼの良心は痛んだ。
「大丈夫だよ。何日間寝てた?」
「三日ですなぁ」
「その間は、特に?」
「ご覧のとおりだ」
エイバはにかっと笑って見せた。
“呪い”の進行はないようで、ほっとする。
「良かった。それじゃあ夕食が済んだら早速“呪い”を引き剥がそう」
青白い顔をして言うヴィゼは、普段と同じようでいて、どこか鬼気迫るものがあった。
エイバとレヴァーレがぎょっと目を丸くし、どうどう、とゼエンがヴィゼの肩を軽く叩く。
「……そう仰られるということは、首尾は上々だったのですな」
「うん。魔術具も用意したから、いつでも始められるよ」
「……ってヴィゼお前、今起きたんじゃねえのかよ。それ作ってからこっちに来たのか……」
エイバの目がヴィゼの手にする剣に向く。
「有り難てえっつうか、どうにも現実味がねえんだが……。ヴィゼお前、とにかくこっち来てちょっと座れ。お前も食べて、話はそれからだ」
「でも、」
「いいから」
ヴィゼはゼエンとエイバによってイスに座らされた。
ゼエンはそのまま、ヴィゼの分の食事の用意を始める。
「……ヴィゼ、お前、何を視たんだ?」
「エイバのことなら、ほとんど視えなかったよ。“呪い”に集中してたのが良かったみたいだね」
「それはいいんだけどよ、お前、何か変だぞ」
エイバと同じ感想を、他の二人も抱いているようだ。
――そんなに分かりやすかったかな……。
ヴィゼは手に持ったままの剣をきつく抱きしめる。
――いや、確かに今の精神状態を平静なんて言えないか……。
ヴィゼは深く呼吸をした。
「……何て言ったらいいのか」
「無理に言わなくてもいいけどよ。……俺も夢の内容は、あまり口にしたいもんじゃない」
エイバの見る夢は、どうやら凄惨なもののようだ。
おそらくだが、彼女が大切な人を殺された時の光景や、それに類するものを見せられているのだろう。
かの竜との邂逅を告げるわけにはいかないヴィゼは、エイバの誤解をそのままにしておくことにした。
「とにかく早く、って思っちゃって」
「お前、体調は」
「大丈夫。僕なら後でいくらでもベッドの住人になれるし。それよりタイムリミットのあるエイバが優先だよ」
気持ちは嬉しいのだが、エイバの方こそ顔色も悪いが表情も暗い少年のことが気にかかる。
レヴァーレと目を合わせれば、やはり心配そうな色を浮かべていた。
「ほんまに大丈夫なん?」
「うん。強がってもいないよ。ただ……、終わらせたいんだ。一刻も早く、終わらせてあげたいんだよ」
そうしなければ、ヴィゼの方がくじけてしまいそうな気がして。
ただ、エイバも同じように思うところがあったらしい。
彼女の慟哭を聞き、ただ憎むだけでいられなかったのは、エイバも同じだった。
「……それじゃあヴィゼ、早速だが頼むことにする。この“呪い”から俺を、解放してくれ」
ヴィゼは一つ、頷いた。
「……といって、急すぎてあんまり実感湧いてねえんだけどな。お前が寝てる間はそわそわしてたけど……、お前突然すぎんだよ。そりゃあ起きたらやるとは言ってたけどな、もっと前触れが欲しいっつうか、心の準備をする時間をくれ」
「そう言われても」
ヴィゼは苦笑を浮かべる。
苦笑いでも笑ってみれば、現実に戻ってきた感覚を強く覚えた。
「ヴィゼ殿、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ゼエンが渡してくれたのはリゾットだ。
ヴィゼはそれをゆっくりと口に入れた。
「無理して全部食べなくても良いですからなぁ」
「はい」
頷いたが、量はそもそも控えめで、優しい味は難なく食べられそうだ。
ヴィゼは時間をかけて皿を空にした。
「……それじゃあ、エイバ」
「おう」
立ち上がったヴィゼに応えるエイバの声は、固かった。
魔術を使うならば研究部屋の方がふさわしいが、“呪い”の封印はそのまま旧納屋の方で行うことにした。
場所を移す時間すら惜しんだ結果である。
エイバには上着を脱いでベッドに寝てもらい、その脇にヴィゼは立った。
ゼエンとレヴァーレには、三日前と同様、少し離れた場所で見守ってもらう。
「おいヴィゼ……、まさかそれで俺をぐさっとやったりしないよな?」
「時と場合によってはそうなるかも」
剣を鞘から抜き放ちながら、ヴィゼは言った。
エイバとレヴァーレが、彼の台詞に蒼褪める。
「どんな場合だよ」
「この剣――魔術具は、魔力を込めて剣身を“呪い”に触れさせればそれだけで発動するようになってるんだけど、“呪い”がどれだけ肉体の深くに広がっているか分からないから、あんまり深くまで及んでいるようだったら刺さないといけないかもしれない。でも多分大丈夫だよ」
「多分?」
不安そうにエイバは聞いたが、ヴィゼはそれ以上答えなかった。
部屋の緊張感がいや増す。
ヴィゼの手にする剣は、一見したところはスタンダードなロングソードだった。
その剣身には、隙間なく古文字が刻まれている。
エイバたちには告げていないが、それは一角獣の角を主な素材として作られたもので、結構な稀少品だ。
一角獣の角には中和作用があり、かつヴィゼは魔術式に“呪い”が消えていくよう記述をしたので、これに“呪い”を封じれば、“呪い”はこの剣の中で消滅していくはずだった。
「――始めます」
“呪い”の正体を知るため、“全視の魔術”を使う際に発した言葉と同じ。
けれど全く異なる気持ちで、ヴィゼはそれを口にした。
覚悟の声が、部屋に落ちて。
ヴィゼの指先が、剣身をなぞる。
燐光を放ち始めた剣を、ヴィゼは寝かせるように、エイバの黒く染まった腕と胴体に触れさせた。
冷たい感触に、エイバは一瞬体を震わせる。
その直後。
変化はすぐに、訪れた。
剣身に吸い込まれるようにして、黒い痣が消えていくのだ。
レヴァーレとゼエンは息を呑み、目の端でそれを確認したエイバも信じられない気持ちでそれを凝視する。
一人表情を変えないヴィゼは、ただ目を逸らさずに、それを見ていた。
――さようなら……、おやすみなさい。
心の中だけで、そう呟いて。
四人の見守る中、徐々に剣の光が引いていく。
完全に魔術が終了したことを見届けると、ヴィゼは剣をそっと持ち上げて、鞘に戻した。
「終わりました。……エイバ、どう?」
エイバはゆっくりと起き上った。
いまだ信じられないという目で己の腕を見、腹を見る。
そこにはうっすらとした跡こそあるものの、黒々とした不吉な痣はなくなっていた。
エイバはおそるおそる、左の拳で胴を叩いてみる。
やや鈍いが、痛みが分かった。
少し前までは、己の体とは思えない感覚だったというのに。
「……なくなってる。“呪い”、なくなってるぞ、ヴィゼ……!」
「うん」
微笑んだヴィゼを、エイバは勢いよく抱擁した。
「全部お前のおかげだ……まさかこんな……本当に……」
声に涙が滲んでいる。
ヴィゼは感謝されることに後ろめたさを覚えながら、エイバの背中を軽く叩いた。
「今後の経過を見ていく必要はあるけど、とりあえず成功したみたいで良かったよ」
エイバは頷き、感謝の言葉を何度も口にした後、今度はゼエンにハグをした。
「ゼエンさんも、ありがとな……!」
そして残るは――いつかのようにぼろぼろと涙を零しているレヴァーレである。
けれど今の彼女の涙は、悲しくつらいものではなくて、喜びの涙だった。
嗚咽を漏らしながらしゃがみこんでしまった彼女を、エイバは強く抱きしめる。
抱きしめ合った二人が同じように涙するのを見て、ヴィゼはほっと肩の力を抜き――。
“呪い”に侵された友人を救い、その友人を想う少女の心を救い、“呪い”となってしまった女性を救った少年は。
友人や仲間たちを騙している自分を咎めながら、最も大切に思う“あの子”と同じ黒竜を殺すしかなかった自分を責めながら、またしても力尽きて、意識を失ってしまったのだった。