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縁の枝

作者: 蔦子

 その日まで、結城理央の人生は平凡ながらに順風満帆だった。

 第一志望の高校には合格できたし、家族は円満。友人関係にも恵まれた。まさに順風満帆といった人生だった。青年期らしく悩みのひとつふたつはあるものの、家が破産しそうとか誰かが死にそうとかいう深刻な悩みはひとつとしてない。しいていえば彼女がいないことくらいか。けれど彼女がいなくても死にはしないし、今は友人と馬鹿をやるのが面白い。

 そんな順調な結城理央の人生にひとつの染みがぽつんと落ちたのは、高校二年の初夏。桜が落ちてその地面を薄茶色に染めるころのことだった。


 とうとつに。

 そう、とうとつに。

 気付いてはいけないことに気付いてしまった。


 それはお昼すぎの英語の授業のときのこと。お腹がいっぱいで眠くてたまらない、午後の授業のときのこと。

 壇上で教鞭をとる若い男の教師がふと目に留まった。週に四度ある英語の授業教師の久我だった。見慣れた顔だ。分かりやすい授業内容よりも、容姿が華やかで女子にもてはやされている英語教師。そう。その久我とふと目があった。

 演習の時間だから、なんだかよそ見をしていたのが気まずくてすぐに顔をノートに落としたのだが、なぜだか気になってもう一度顔を上げると、久我はじっと理央のことを見ていた。

 無意識にぶるりと身体が震えた。

 その視線は、普通の生徒を見るものとは違う異様さがあって、なんだかとても気味が悪かった。なんといえばいいのか分からないが、理央のことをじっと、真剣な眼差しで見ているのだ。理央はなんだか不気味に思って、再び視線を落とした。しかし、演習の内容はまったく頭に入ってこない。英語はあまり苦手ではないはずなのに、目が文字をすべり、うまく思考が働かない。

 なんで久我にそんな目で見られなくてはならないのか、意味が分からなかった。

(意味分かんね…)

 と、そのとき。ふと久我という男に奇妙な既視感を覚えた。

 久我という男について、英語教師という顔だけでない、何か違う面知っている気がしたのだ。理央は伸びてきた記憶の糸を必死につかんで手繰り寄せた。

(思い出せ、なんだ、なんだこの妙な感じ……)

 記憶の海の向こう側。それを必死に手繰り寄せ、そして掴んだもの。


 それは、思い出してはいけない記憶の蓋だった。



 *



 目を覚ますと、少し汚れた白っぽい天井とクリーム色のカーテンが目に入った。聞きなじんだ校内放送が下校時刻を教える。どうやら理央は保健室に寝かされているらしかった。最後の記憶は英語の授業だから、多分、授業中に倒れたのだろう。我ながらおどくべき失態である。

 目を覚ましたがすぐには起き上がる気にはなれなかった。未だ理央の頭の中にある、この不可解なものに、理央は折り合いをつけられないでいたからだ。

 そう。ぱかりと開いた記憶の蓋の先に待っていたもの。意識を失う刹那、あるいは意識を失った後に見たそれは前世の記憶というべき、なんとも奇妙なものだった。


 記憶なんて所詮、脳の皺だ。結城理央はそう思っている。

 それなのになぜ、その『記憶』とでもいうべきものを思い出したかは分からない。もしかして、理央の妄想かもしれないし、それは理央の記憶ではなく、この身体が受け継いだ、遺伝子の記憶かもしれない。とにかく、理央は「結城省吾」という男の記憶を思い出した。父や祖母からその名前を聞いたことはないけれど、多分理央の親類縁者であろう男。その「結城省吾」の記憶の中に、あの英語教師とよく似た男がいた。

 結城省吾の友人、幼馴染だった男、「久我征基」だ。


 結城省吾は戦争まっただ中の日本で生まれた。家は裕福ではなかったが、畑を持っていたので食うものにはあまり困らず、また弟妹も省吾によく懐いていたため、結城省吾の少年時代は戦時中であったにも関わらずあまり暗さはなかった。家が地方にあったこともあり、戦火はさほどひどくなかったこともその一端を担っているのかもしれない。結城省吾の毎日はそれなりに充実しており、きらきらと輝いていた。そんな省吾の友人のひとりに久我征基という男がいた。

 この久我征基という男だが、家が大変に裕福だった。当然、征基と省吾とでは身分には大きな開きがあった。片や家に家庭教師を招いて勉強するお坊ちゃまと、昼は尋常小学校に、午後は親の畑を手伝う一般市民。しかし、この久我征基と結城省吾は不思議と馬が合った。

 征基には身分が高いものにありがちの、自分の身分を鼻にかけるようないやらしさがなかった。征基の祖父にはあまりいい顔はされなかったが、征基はよく省吾のもとを訪れては二人で連れ立って遊びに行った。征基は省吾の知らない世界をたくさん知っていた。省吾はそのひとつひとつに触れるのが好きだった。一緒にいて飽きることはなかった。楽しかった。

 けれどそんな関係は長くは続かなかった。戦争が長引く中で省吾にも赤紙が来たのだ。

 生まれたときから戦争をしていた。省吾の覚悟はとうに決まっていた。けれど別れがつらくない訳ではなかった。湿っぽいことが嫌いな省吾は、親友には何も言わず、黙って戦地に赴いた。そして、他の命と同じく、戦地でその命を散らした。


 そういえば久我という教師、以前から妙に絡むなと思っていた。資料の準備を手伝わされたり、妙に褒められたり。平々凡々とした理央になぜからむのかと、疑問に思っていたのだ。

(もしかして、これが原因か…?)

 いや。これが夢や妄想の類ではないという証明はない。それに百歩譲ってこれが妄想でないとして、久我があの『久我征基』とも限らない。

 けれど、理央には妙な確信があった。

 これは、本当にあった出来事で、そして久我は「久我征基」であると。

 

 知らぬうちに身震いをしていた理央は、暗くなってきた室内にもう日が落ち始めてきていたことに気づいた。今日はまっすぐ帰ろう。いつも一緒に帰る友人の高坂も、きっと帰っているに違いない。

「せんせー、寝かせてくれてありがとうござい…」

 カーテンを開けて保険の先生に挨拶をして帰ろうとした瞬間、その場にいた人に理央は言葉を失った。

「久我…せ……んせ」

「結城くん。もう具合の方はいいのかな?」

 くるりと回転椅子を回して理央の方に向き直る。相変わらず、びっくりするくらい顔がきれいだ。

 けれど、その美しさが、今は怖い。

「あ、…はい。寝たら随分よくなりました。」

 久我は立ち上がると、理央の前に立ち、男にしては細く長い指で理央の頬に触れた。

「それはよかった。でもまだ顔色が悪いみたいだね」

「いえ。大丈夫です」

「そう。――――悪い夢でも見たのかな?」

「え?」

「そんな顔をしているよ。信じられないものを見たような、そうだな…例えば死んだ人間でも見ているような顔してる」

「…は、はっ。まさか」

 乾いた声しか出なかった。妙に喉の奥が乾く。

 恐る恐る覗いた久我の目は、笑っているようで真剣だった。

「先生、俺そろそろ帰ります」

「そう?よければ送っていくよ。授業中に倒れるなんて、普通のことじゃない。病院に連れていこうか迷ったんだけれど」

「いいえ。大丈夫です。家、近いですし」

「うん。知ってる」

「え?」

 知ってる?俺のうちを?

 久我に対して得体の知れなさを感じたが、それもすぐに解消された。

「送ろうと思ったからね。職員室で調べてきたんだよ」

 そうか。知ればなんてことはない。久我に対して、妙に身構えてしまうことに罪悪感を抱きながら、努めて笑顔で応対する。

「チャリなんで、大丈夫ですよ。それに先生に送ってもらっちゃったら、明日チャリなくて遅刻しそうだし。今日はまっすぐ帰ります」

「うん。それくらい元気そうなら、大丈夫かな。私はここを施錠していくから、君は早く帰りなさい。」

「了解です。じゃあ先生。さようなら」

 俺が笑うと久我も笑った。女子が見たらキャーキャーいいそうな笑顔だ。

「じゃあね、結城くん――――――――また、あした」


 その瞬間、なぜかぞくりとした寒気が背筋を這いあがってゆくのを感じながら、俺は保健室の扉を閉めた。




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