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感染世界

焚火と磔と少年

作者: 鱈井 元衡

「…ところで最近は発症したって話、すっかりないな」

 厚着の大人たちが数人、焚火の周りにあぐりをかいて座っている。

「確証があって言ってんのか、豊野?」

 豊野と呼ばれた男は眉毛の厚い初老の男だ。彼は、ややもすると童顔に見える顔に、しわの深く険しい顔つきを張り付けている。

「そんなこと、誰がうそで言うかよ」

 彼の口調はすこし怒っているようだった。

「たしかに戦時中、北の町にある自警団の中で感染者が発生して数人が死んだ。でもあの戦争が終わって以来、あそこからも南の方からも特段発症したという話は聞かん」

「しかし戦時中はその南町で発生して数十人の犠牲者がでたというぞ? まったく末恐ろしいことだ……」

「いつかここでも感染者が出るぜ」と言うのは頭髪を刈って、左頬に小さな切り傷のある三十路の男だ。その眼つきからはやけに猛々しいものを感じる――ところが、それに反して穏やかな感じもどこかに感じられた。

 そう言われて、豊野は拳を小さく振る。

「おい、心配させるなよ大木」

 そんな彼らを、遠くから眺める一人の少年があった。目つきはやや鋭く、大人びているがあどけなさがのこる。

 少年の服は汚れていた。おそらく長く使われていなかったものを着ているのだろう。ここでは衣服はそう簡単には手に入らないらしい。

 ここは「市」と呼ばれ、この地一帯の行政をつかさどっていた街である。

 いや。もはや、『である』という言葉を使うことはできない状態にあった。『であった』といいなおすべきであろう。国家の行政機構はすでに崩壊していたから。

 男たちのいる空間の周りを見ると、おぼろげながらもいくつか高くて大きい建物が並んでいるようだが、いずれも劣化がひどい。壁に穴があいたり、天井がなくなったりしている者もある。

 彼らの立っているところにはコンクリートが広がっているが、ところどころに大きなヒビが走っている。さらによく見ると、その間に青黒い草が割り込むようにして生えているのが見えた。

 しかし、その雑草を取り除いて地面を補修する技術も、またそうしたいと意う人間も、ここにはないようだった。

「まあ、ウイルスも外部から変な奴が来なければうつされるおそれはない。現にこの五か月で誰も発症なんてしなかったからな」

 大きなため息をついて、大木という名の男がつぶやく。豊野よりももう少し若くて高い声だ。

「何か不法に侵入されたなんて記録はないよな?」

「ああ、検問も徹底されている」

「はあーっ、こんな状況もいつまでも…」

 その時、けたたましいサイレンが鳴った。その音で、男たちの体が一気に固まった。そしてその直後、顔つきもいかめしいものに様変わりした。

 豊野や大木らはやおら立ち上がると焚火のそばから離れていった。

 すると、豊野は少年を目にした。その後にはすぐ声をかけていた。

「おい、坊主」 先ほど、遠くから豊野たちを視ていた少年である。

「あっ、豊野さん…」 その声への反応は素早い。

 少年の口調には、わずかに幼さがあった。また、妙に高い声だった。

「この音は…」

 不安げな表情。

「ああ、あれだ」

 豊野(とよの)繁亮(しげあき)は大津市一体の自警団に所属する男で、この街――といってもほとんど廃墟に近しい様相だが――では名の通った人間だ。やや童顔な顔つきのせいで凡庸な印象を受けるが、その眼光をよく察ると、これが尋常ではない。よく分からないが、その目からはなかなか一筋縄ではないかなそうな気配を感じるのだ。この眼光こそが豊野繁亮を異様な人間たらしめていた。

 建物の壁に寄り添いたむろしていた人々に対し、彼はこう叫んだ。

「おまえら、夜盗どもに備えろ」

 その言葉に、中岡は強烈に反応した。

「さあ、お前も中心の方へひっこめ」

 人々は急にたたずまいを変えると、きびきびと奥の方へと動いていった。中岡俊二もそれに続いた。後は自警団の人に任せるしかあるまい。

 いったい自分はこんな世界で何をしたいのだろうか。

 少年は、いつも自問していた。

 いやそもそも…かくのごとき場所でわけもなく生きていることに、意味があるだろうか?

 中岡俊二は五十年くらい前の世界をほとんど知らない。そんなものは年上の人から聴いたり、昔の本を視たりして断片的に把握しているだけである。その本と言うのも自警団の人がわずかに持っていたのを見せてもらっただけだ。なにより、中岡にとってはこの五十年ほどの間に起こったことが人類の歴史だった。

 その五十年間は、俊二にとってあまりに愚かしく、みじめなものであった。

 五十年ものあいだそうであったのに、ましてや自分が生きる後々の世界が、なぜ明るいものでありえようか?

 心に深く思いながら、中岡は粗末な小屋の並ぶ通りへとかけていった。


「来やがったか、あいつらめ…」

 忌々しいものを察るような目で、豊野はうそぶいた。

 しかし、彼は略奪者のごとき暴徒に対して特段憎悪の念をもっていたわけではない。むしろ豊野は彼らに対して同情にも近い羨望を抱いていた。

 豊野にとって、彼らは危険を冒して危険な行為に走る冒険者であり、自らの利益がために自らをも貪り食ってしまうような禽獣であった。

 彼らはおそらく長くは生きられない。ついには共食いを起こして相手も自分も食らいつくして終わるだろう――豊野はそう考えていた。またそれは憐憫ではなかったように思われる。なぜかと言えば、豊野はそんな生き方にあこがれていたのだ。

 やがては悲惨に崩壊し、うたかたのごとく消えてしまうような生き方に。

 街の外で、豊野は銃を提げ鉄条網の向こうをにらみつけていた。

 だが、いくら彼がとその仲間数人が待てども、大勢の人間がやってくる気配はない。

 とその時、一人の男が奥からやってきた。自らの提げた小さな光に照らされながら。

「……どうも今回の奴は臆病だったらしい」 その男は頭を刈り上げており、左ほおに痣のような切り傷を残している。

 大木は大型のライフルを抱えていた。こういった銃火器は、戦時中に日本へ持ち込まれたのを盗ってきたものだ。

「その代わり、一人捕虜を連れてきた」

 連れてこられた少年は、ちょうど中岡と同世代の子供だった。


 中岡はトタンを組み合わせた小屋の中で、マッチでともされた火に当たっていた。季節はすでに冬に近い。

 彼の隣には年配の女性が同じような姿勢でいた。

「俊ちゃん、あなたも大きくなったらこの街を守るのよ」

「うん」

 と言っては見たが、決心はつかない。

「ここは、わずかに生き残った私たち人類の、最後の砦の一つ。だから、あなたもこの街の命を絶やさないように、がんばらないといけない」

 そのようなことを耳に入れねばならぬことは、生まれてから、耳にたこができるほどまである。

「ああ…そうするよ」

 けれど何回そう言っても、彼の心の中には空虚なものがちらつくばかり。

 彼にはどうしても生きる意味が見いだせないのだ。

「あら、自身のない顔つきね」

「ち、違うよ」 中岡にはその言葉がまるで自分に失望したかのように聞こえた。

「そんなしょんぼりしていたら、この先生きてけないよ。もっと希望を持つのよ、そうすりゃ――」

 ざっと足音が響いて、中へと入ってきた。

「ん、ここにいたか」

 その声で中岡は振り向く。がらくたとごつごつした土が占める空間の中に、もう一人初老の童顔が小さな光の中に姿を現していた。

「あ、…おかえりなさい……」

「…大丈夫だったんですね」 女性は豊野に笑顔を向けた。

「ああ、今回はな」

 また、楽しげな声で外を指さし、

「それより、あれを視ろ」

 中岡は、外に出るとぎょっとした。

 大人たちが怒鳴り声を上げながら、小さな人間をまさに朽ちた電柱にくくりつけようとしていた。

「この盗人どもが!」

 大人たちはその人間を激しくひっぱたいている。

「くそ、やめろ…!!」 それは中岡の声とどうも似通っていた。

「違う! 単にゆずってもらおうとしただけだ!」

「そう言って、あとから銃弾でなぎはらわせようとしたんだろ!?」

 少年の叫び声で目をそむける中岡。

(どうして俺が、こんなものを聴かなきゃならないんだ!)

 そんなものに意味はないと、思い込もうとした。隣では女性が少年の虐げられる様子を見て、にやにやしている。

「おれ、わかんないんだ」

「わからんだと? …」

 少年の顔を見据え、豊野はいぶかる。女は外での惨劇に見入っているようだ。

 中岡は、自分でもどんな表情をしているのか分からなかった。

「俺、自分がどうして生きたらいいかわからないんだ…。」

 陰鬱な話し方でそう切り出した。

 大して答えを期待しているわけではなかったし、現にそれを聞いた豊野の返事も表情もあまり明るいものではない。

「…それは僕の答えることではないな」

 けれど。中岡にはまだ言いたいことがあるのだ。

「でも、そうでなくても、なんだかこの世界はおかしいよ。人間が訳もなくあんなことされて、いいはずない…」

「だが、ガキは略奪者の手先かもしれんぞ」

 という言葉が出るのは予測していたし、自分でもおそらく、と意っていた。

 しかし、何か言葉に説明のつかないものが、この少年にあの少年を同情せしめていた。

「そ、それでも…!」 自分の腕がこわばるのを感じる。

「確かにそうだ。おかしい」 あっさりとした調子だった。

 そのまま落ち着いてこう続ける豊野。

「昔だったら、大木の奴は警察にからめとられてるところだ」

 言葉とは真逆の陽気なしゃべり口調によって、少年を助けようとする気はないとしか思えない。

「じゃあなんで、大木さんを止めないんだ」

「楽しいからさ」

 その表情はまるで笑っている。何がおかしくてこうも笑っているのか――

「た、楽しいって!」

 中岡は顔を赤くした。

「怒るか。昔の私も、怒るに違いない」

「お、怒りなよ!」 豊野の悠長な態度が癪に障ったのか、ますます中岡はいらだった顔で彼をにらみつけた。

 それでも豊野は微笑み続けていたが、

 突如として得体の知れなさを感じる童顔から表情が消えうせた。

「そうか。おまえ、すっかり大人になったな」

 あたかも偶像のごとくだった。顔つきには温かみがあるはずなのに、なぜか一線から飛び出たもののように、感じてしまう豊野の顔は。

「大人って…。僕はまだ十二だよ」

 中岡は頭と心臓が締め付けられた。

 あの子がどうなってもいいの、豊野さん!?

「いや、昔の十二歳の坊主なら言わないだろうと思ったんでな」

 こいつ、素直に答えてやったほうがいいな。

「――よく知ってしまったからだ」 ごくおだやかに老人は答えた。

「知ってしまった…?」

 わずかな間、中岡には豊野が生気に満ちた石像のように写られた。

「私が生まれたころ、この国は平和だった」

 と言い始めた時、石像の内側から

 唐突にそんなことを言い出す。

 だが、その言葉の話し方はゆったりとしたものだった。女性の姿は外へと消えてしまったようだ。

「ずいぶん長い間、私も含めてみんながその平和を享受していた。そうしているとは気づかないくらいに、日本という国は平和ではあった」

「平和…」

 中岡にとって『平和』とは理想郷に存在するものだと考えていた。それが、こんな荒廃した現在の五十年ほど前には、あったというのだろうか。

 中岡が知らずきょとんとした顔つきになっていると、豊野は少しトーンをさげた。

「…平和ではあった。平和といっても表だけの平和だ。実際には日本より強い国が武力をひけらかしあっておかしなことをしでかさないようにおどしつけていた。

 ああ、ガラスでできたもろい平和さ」

 と、ここで豊野はためいきをつく。

「そんなうわべだけの平和に人々は飽きてきたようだな。彼らは、刺激を求めたいという欲求にかられだした」

「刺激って…何だ?」

「要するに、平和なんてくだらない、争うことこそが世界を変えるんだ、とね。暴力こそが世界を変え生んだと。

 そうして、戦争を待ち望むものが出始めた。次に戦争をきれいごとのように扱う人間さえ現れた」

 それから、申し訳なさそうな顔で言う。

「いや、実は……(ここで数秒の沈黙が差した)私もそう考えていた一人だ」

「――なんだって」

「当時の日本は確かに平和の中にあったよ。そしてそれは強い、エラソウな国による支配でつくられていた――さっき言ったな? その平和は尊いものであるにもかからわず、わざわざそれを破ろうとする奴が増えだしてきた。さる愚行が自分を破滅させることも知らないでな。

 だが、日本だけではなく、世界の国々も退屈して刺激を欲しがっていた。ゆえに、どこか戦争が起きているところに行って退屈しのぎをやろう、とする馬鹿どもがしょっちゅう出るようになった」

「…」 理解できない。

 中岡は十年ほど前に起こった戦争を直接経験しているわけではないが、そのときの人々の辛さというのは、何回も聴いてきた。

「それで…戦争が起こったのか」

「いいや。戦争もそうだが、まずあらわれてきたのはウイルスの方さ」

「……!」

 ウイルスという言葉だけで、中岡の身にはほとんど無意識的な身震いを起こした。

 彼にとって、ウイルスとはただ一つだけの概念を意味した。


 それに感染した人間はただ目に写る人間の殺戮を始めるようになり、そのまわりにいる人間を見境なく巻き込むようになる。


「ウイルスが発生したとき、私はそれを単にモラルの退廃ではないかと思ったんだ。いや、その時はみんながほとんど同じように考えていたよ」

「モラルって…なんだ?」

「人間の正義、あるいうは良心の呵責を感じるって心か。いや、今ではもうどうでもよくなっているが。

 君は確かどのくらい知っていた?」

 いつの間にか中岡は息が苦しくなっていた。

「昔、ある時から起こって……今もどこかではやり続けている……あまりにも恐ろしい…」

 ウイルスに感染した人間が何をしでかしたか。中岡は何をするにつけても年上の人からよくそれを聴いた。あまりにも多くて、耳が痛くなるほどに。

「うむ。大体間違ってはいない。だが、それくらいしか教えられてはおらんとはな」

 あきれたらしい口調の豊野。

 その態度に、含まれた者を感じる中岡。

「豊野さんは…知ってるの?」

「ああ、知ってる、知ってる。なんせそのころに私は生まれたんだからな」

 小さな音を立てる焚火をながめながら、老人は答える。

「ウイルスはもともと数十年ほど前、アメリカのとある場所から発生しだした。そいつは、数年で南北アメリカ、ヨーロッパ、アジアへと東に向かって広がっていったそうだ。

 それに感染した人間はただ『殺し』をやり通すだけの人形になり下がる。どんな手段を使ってでも人を殺すことをやめられなくなるんだ。刃物で刺殺だ。有毒のガスだ。車で衝突だ! 飛行機を墜落させるだの! 化学反応で爆発を起こすだの!!」

『殺し』を並べ立てるほどに、豊野の口調は激しく高ぶっていった。中岡は、耳を覆いたくなっていた。 同時にこのようなことも感じていた――これは知らなくちゃならないことなんだ。後世に伝えるべき、大切な。

 そこまでいった時、火に照らされた豊野の顔は険しいものに変貌しつつあった。

「凄惨な事件が、ある日を境に急に起こり始めるようになった。最初、これらの場所で起こった凄惨な事件は、ただのたちが悪い事件としか受け止められなかった。

 ウイルスはたくさんの不幸を生み出した。絶望もな。だが、それに対して喜ぶ奴もいた」

「喜ぶ…!? なんで……」

 人の不幸を喜ぶとは、一体どんな人間だろう。

「おまえには理解できんだろうがな。昔ある人が『他人の不幸も幸福の一つ』とか言ったそうだ」

 憮然たる顔つきになっていく中岡に、繁明は続けた。

「平和であるにせよ幸福じゃなかったな、あの時は。幸福はそんなものすごい意味の言葉じゃなかった。誰もが自分を不幸だと考えていた。

(ここで豊野の目つきが一気に鋭くなり)

 だが、その不幸は今と比べればはるかにかわいいもんだ」

 豊野はここで口を閉じて黙り込んだ。その表情にまごつく中岡。

「やめろ! こんなことを平然と…、おまえらは悪魔だ!」

 少年は縄から必死でもがいた。

 彼の眼前には、鬼畜の目つきをした男たちが

「悪魔は、おまえだっ!!」

 一瞬、激しい殴打が炸裂して、少年の視界を一時暗くした。

 ……気づくと、鬼畜の顔がすぐそばに迫っている。左頬にある傷が、その凶暴性を際立たせる。

「てめえらは、自分たちがどんくらいの悪人か知ってんのか?」

 豊野の語る目つきが、遠のいているように見えた。

「……今みたいに誰もがどん底ってわけじゃなかった。とても幸せであればそうでない人もいた。むしろ幸せじゃない人間もいた。もっと不幸な人間も。

 だからこそ、人々は幸福を求めると同時に、自分より不幸な人間も探してわが身をなぐさめていたわけさ。

 あの時までは。

 …そうだ。数々のおぞましい事件を起こした犯人たちは、いずれも共通していることがあった。

 精神的に不安定であるとか、人に何かを頼む以外は一切口を利かないとか、基本的に表情が変わらないとか、瞳孔が開いたままであるとかな。

『ひょっとして、病原体なんじゃないか?』と疑う人間もいたにはいたよ。だが、この時はまだ分からなかった。

 ウイルスが現れたからと言って、すぐにそれがウイルスだってわかったわけじゃない」

 はっとしたように豊野は口を開いた。中岡は厳粛な面持ちでその声を聴いている様子である。

「でも…ウイルスはその後素早く世界中に回ったんだろ?」

 ウイルスについて訊くのは不快この上なかった。

 だが、そうせねばならぬという気持ちが、中岡を豊野の話に釘づけさせているのだ。

「ああ、世界が異常に気付いたのはもう少し後になってからだ」

 およそ人が起こすものとは思えない事件が、世界規模で急激に増えた。

 恐怖に打ち震え、誰もが確信する。

 これは単純に人間に原因があるのではない、と。


「その時、私はウイルスとは無関係だった。少なくともそれを身近に感じる世界には生きてはいなかった。だが、誰かが感じていなくても、ほかの人はそれを死にそうなくらいに受け止めている…どんなことであれだ…このことを、私はその時深くさとっていなかった」

 言葉の最後の部分で、豊野は中岡から目を離した。そこに何の意味があるのだろう……当時の中岡にはまだ、知りかねた。

「なんでそれがウイルスだとわかったか? アメリカの科学者が、これを初めて病原体のせいだと言ったんだ。私も含めて、みんな狼狽したね。なんせ人類はそんな危険なものを数年間ものさばらせていたのだからな。

 人々はそれを防ごうとしてわけのわからないことをし始めたよ。本当にわけのわからんことを」

 あの時の世界は豊野にとってひどくくだらないものだった。

 そして、豊野はそんな世界が好きだった。いや、愛していた。

「どうやってウイルスを見つけたというと……科学者どもは、発症者たちの脳髄に異常の存在することを知った。ウイルスが人間の神経に寄生し、人を殺すように操っているのではないかと奴らは推測した。

 そして秘密裏に数人の発症者を対象にして検査を行ったんだ。本当にそうなのかどうかをね。

 ある国では、ウイルスを食い止めるためにいくつかの空港や海港を封鎖したり、あるいはウイルスを鎮圧するためだけで、核兵器まで持ちだす騒ぎになったらしい。中東の方の話だが、発症した人間を大都市に送りこんで、無差別な虐殺を行わせようと計画したのもいたくらいでさ……。

 日本じゃウイルスが広がっていくのを防ぐため、全国に関門を置いて感染者を通せんぼしようとした。さらに地域間を移る人間に厳重な検査を施して合格した者だけが他の場所に移ることができるようにしたんだ。

 だが、たいして意味はなかったな。自由に行き来ができなくなったせいで経済は混乱、さる場所では暴動が起きた。関門を力ずくでも通り抜けようとする人間がでてきた。

 日本中が一気に混乱と破滅に覆われたってわけさ」

 ここまで詳しい話は始めて聴いた。それまではウイルスで世界が災害にみまわれた。そこに戦争が追い打ちをかけた……つう程度のことしか聴かされていなかったのだから。

 しかるに、豊野は彼ら以上に詳しくウイルスのことを語っている。

 現にあの時代を生きぬいた人だからこそ、いや、にも拘らず、豊野が声はまるで昔を懷かしんでいるかのようで、ほとんど陰りのごときものを感じられなかった。

「あのころはよくわからなかった。

 全く意味不明で、理解不能だった。

 いや、もはや愉快といっていいかもしれん。理解不能を通り越して。世界が突如愉快になりだしたんだよ」

 豊野の口から意外な単語が飛び出してきたので、中岡は驚く。

 だが、不思議なことに、中岡の心の中にはこの豊野さんに対する共感の思いも広がりつつあった。

 それは予想外のことであった。

 自分がいつかこの人の話を進んで聴こうとしていることに、中岡自身驚いていた。

「愉快……?」

「今考えると愉快そのものだったんだ! あのときは恐怖しか感じんかったがね。だが、あの日々は、今の私にとって確かに楽しかったのさ」

「今は…楽しかった…」

「ああ、あの頃から私の人生はだんだん楽しくなってきた」

 豊野の口がようやく速くなる。

「てめえらは豚だ!!」

 絶叫が響いた。

「なに、ガキがか?」

 冷淡な口調に大木に対し、

 少年は声が枯れるほどに絶叫した。

「たわけるな!! おまらは暴力をふるうのを楽しんでるだけなんだ!

 いくらひどい人間でも必要以上に人を痛めつけることはしねえよ!! それなのにてめえらは人を傷つけるのを楽しんでやがる。外道以下の畜生だ。いや、それすらでもない。

 てめえらはなあ、最悪最低のド畜生どもなんだよ! 人間の心を持たないケダモノだ!! てめえらはどうせ泥ん中をいつくばってでも生きるしか能がない! そうやって……破滅するッ……滅んじまうだけだろうがーッ!!」

「ああ、そうするしか道がないんでな」

 大木はここで少年の顔を眺めた。あざだらけになり、所々から血がついていたが、少年の表情には露も相手に屈している風が感じられなかった。それどころか、まるで何かが乗り移っているかのようだった。どうしようもなく大きく、異常な何かが。

(ああ、まさしく本で見たとおりだな)

 大木はぼんやりと思った。少年はますます憎しみの籠った目で大木をにらめつけている。

 生き物は命を落とそうとする際に、その力をふりしぼってすさまじく抵抗するそうだ。この少年もその生き物の理に従ってその全力を尽くして自分にあらがおうとしている。そのさまは、まさにケダモノのごとしといったところか。

「お前は自分を人間だと思ってるだろう。『人間』として扱われることを望んでいるだろう。だが今の世の中で『人間』だと思いつつ行動しているようじゃ、とうてい生きて残れやしない。

 もう俺たちは『ケダモノ』だよ。現に、お前の今の顔つきは『ケダモノ』そのものだ。心はいまだにケダモノじゃないようだが――」

 だが少年からすれば、この男こそがケダモノなのかもしれないが。そう、大木が言っている意味とはもっと別の方面で。

(愚かな、ことだ)

 すると、少年はいきなり笑い出した。血がついた容貌と相まって、その異様さは際立っていた。

「は……ははは! なんて御大層な思想だ! わかった。おまえらは人間であることを棄てて、情けも涙もない家畜以下の奴らに移ろうとしてるわけだ。

 だが、その果てには結局みじめな滅びが待っているだけだぞ。そんな馬鹿げた頭じゃ、子孫なんて残せそうにねえな(大木は少しも表情を変えなかった)。

 だが、おまえらには関係ねえだろうな。好きなようにケダモノになりやがれ。なりはてて……しまいに滅べ。塵のように死ね! 豚みてえに死ね!! その後には、どうせ何も残りゃしねぇんだよ!!!」

「ああ、おれたちは人間じゃない」

 大木は冷たい口調で言い放つと、その腹に激しい蹴りを入れた。

「ぐばぁっ」

「俺は元から人間の心なんて捨てている。一体『人間』にどっくらいの意味があるってんだ?」

「そう。我々は禽獣なのだから」 豊野は静かに、彼の言葉に添えた。


 ウイルスは人々に疑心暗鬼をもたらした。

 ウイルスに感染しても、しばらくの間は正気を保っている。心理的に不安定な状態に陥ったり、瞳孔の状態がおかしくなる、ということが報告されていたが、誰が感染していて、していないのかはまるで分らなかった。

 少し違う挙動をしただけで、ウイルスに感染したとみられ、親密だった人々から離れられてしまう。

 それだけならまだしも、少しひどくなれば命を失うことさえあった。一度発症者による惨劇が生まれると、生き残った人々は、こぞって彼らを排撃した。何のかかわりもない人間がレイプやリンチにかけられて殺されていき、それは感染者の親族であっても例外ではなかった。

 むろん、それらは結局何の解決もならない。恐怖と憎しみに(いろど)られた惨劇が連鎖して起こる中で、予想しえないところから悲劇は起こる。

 

「ウイルスがこの世界を蝕みだしたとき、俺たちは隠し持っていた禽獣性をあらわにしはじめた。ある時を境にな」

 すでに中岡は豊野の話に聞き入っていた。

「あの戦争が始まってその時街は職業を探すのに忙しい日々を送っていて、その日はある日働きからちょうど帰ってきた時だった。

 家に行きつくと、玄関に母は笑顔を浮かべながら私の方に近づいてきた。それから……ハハハハ。どうなったと思う?」

「えっ……。うっ……」

 異様に不吉なものを感じ、中岡は身をすくめた。

 以前から豊野さんは普通の人間ではないという気はしていた。だが今回は比べ物にならないほどの異常さが彼の眼光からほとばしっていた。

「笑顔のまま、背中に隠していた包丁を振り上げて襲い掛かってきたってわけさ…………どうだ怖いだろ?」

「いや…そうじゃなくて」

「なんだ」

「怖く…なかったんですか?」 間違いない。この男は、一線を越えている。

「いや、その時ゃあ恐かったね。私はすぐに家を飛び出して一目散に逃げていった。脚がどうなろうと関係はなかった。

 すさまじい恐怖のせいで、誰かにぶつかってもすぐには気づかなかった。私はすぐ、近くに在った店の中へ逃げ込んだ。

 しばらくそこで身を隠そうとしたんだが、いきなり車が壁から突っ込んできて、店の中を激しく荒らしまわった。人がいようとおかまいなしでな。

 いや、その車はむしろ人を狙っているとしか思えない動きだった。

「なんとか店から出ることはできたが、通りに行くと、たくさんの建物が無残に壁をそがれていた。道端にはたくさんの人々が倒れていて、助けを求める悲鳴が耳にものすごくこだましていた。

 そこは地獄だった。

 私はもはや自分がいったい何を考えてるのかさえ分からなかった。気づくと知らないところにいて、いくつかの返り血を浴びていた」

 胸が痛くなるような話であるのに、豊野は心情の読み取れぬ不敵な笑顔で、淡々と話し続けていた。

「もうあの頃のことに関しては語ることが多すぎてな。お前もこんな話を聴き続けたくはなかろう?」

 と豊野は言うものの、中岡は彼の話に沈み込んでいるのか、先ほどから憮然とした表情のまま何も口に出さない。

「私は警察の方に助けを求め、その日は家の外で夜を過ごした。母とはもう二度と遇うことはなかった。たぶん隔離施設に放り込まれてひそかに殺されたんだろう(この時も、豊野の流れるような口調にはいささかの変化も認められなかった)が…あとで知ったことだが、悪いことに街には数人の発症者がいたそうだ。暴れた自動車は他の場所からはいってきたものだろう。あの家にはもういられなくなり……

 私は、親戚の家に身を寄せねばならんかった」

 その後、彼は最初こそ丁重にもてなされたが、この事件の犯人が自分の母親であるとわかると、急に態度を一変させた。

「ちょうどそのころ、ウイルスがニュースの話題になっていた。最近世界で起こっているすさまじい事件の多くは、一つのウイルスが原因ではないかってな。それを見た親戚は、どうやら俺もそれに感染していると踏んだ。そしてだ……

 夜、私は一室で眠りにつこうとしたていたが、突然床を踏みしめる音を聞いた。それは荒々しくて、危険な感じがした。私は奧ゆかしい恐怖を感じながら、外の方を視た。白い小さな光に、一つのシルエットが突っ立っていた。

 最初、一体誰だろうと思った。だが、それをよく察ると……懇意になっている叔父さんだったんだ。何かに囚われたみたいな顔つきで、叔父さんは部屋の中へとすごすごと入ってくる。しかも片手に金属製のバットを持ってな……。(中岡は、自分がまさにその場に居合わせているがごとく身震いしていた)

 最初気づいた時、私は動くことができなかった。私は死を覚悟した。

 だが、ちょうどそんな時に叔母さんの呼び声がして、その人はもうおれを殺そうとするのはやめた。だが、あの時の、うつろな表情は……」

 あまりに陰気な内容とは相反して、豊野はその時の情景を懐かしんでいるようにさえ見える。

 中岡は、もう相槌を打つこともできなくなっていた。

「私はなんとかその家にとどまることはできたが、その生活には何の安心もなかった。親戚一同、私を異物として見ていたし、私も一体彼らにどうやって接すればいいのか分からなかった。とくに叔父は隙あらばいつでもおれを殺そうと息巻いているようだった。そんな生活の中で、なんだか私は、自分が壁にとげのついている…真っ暗な部屋の中に閉じ込められていたような気がしたよ」

 最後のたとえは一体何を言いたかったのだろうか。それについて考えるひまも与えず、さらに豊野は不敵な表情でこう続ける。

「さらに素晴らしいことにだ…ちょうどそのころ、戦争が始まっていたのさ」

 いよいよこの言葉が出てきた。豊野の言葉にいっそう全神経をとがらせる中岡は、すでに少年の絶叫など気にならなくなっていた。

 豊野はまるで流れる川のように語り続ける。

「ウイルスがどこから来たかは誰にもわからなかった。なんでそんなものが生まれたかもわからなかった。ある人はこれを『生物兵器だ』といい、またある人は『既存のウイルスの突然変異種だ』といった。だがそんなことを言ってるうちにウイルスの猛威はますますひどくなってきて、世界のたくさんの国が被害を受けだした。人類の対抗策は全く役に立たず、ウイルスによって人類を滅亡の危機に陥れたんだ。現在完了形でよ。(中岡は外国語に関して知識がなかったので、この『現在完了』の意味を解さなかったが、おくびにもそれをたずねようとはしなかった。)

 だんだん世界の国々は互いに責任をなすりつけだした。

『おまえらがウイルスをまきちらしたんだろう!!』ってな。

 だがどこにもそんな証拠はないもんだから、色々な国が同じような言葉を色々な国にぶちまけたんだ。そうやって社会の秩序は次第に打ち崩されていった。一つの国の中でもウイルスの疑心暗鬼のせいで数えきれないようなテロや暴動が起き出した。そんなことが長く続いたらどうなるか……」

「……戦争……」

「ああ。その通りだ」

 豊野は笑った。

「あの戦争の時、日本は西から敵の軍隊におしよせられた。戦災をさけるために私と親戚の家は引っ越した。そこは街って感じのしない深い山奥で、数百人程度しか住んでいない片田舎の村さ。

 初めてきた時は『ここで新しい生活が始まるんだ』と思わず胸が浮き上がったもんだ。だがやはり親戚一同の俺を察る目は変わらぬままだった。

 最初こそ私は精いっぱい家の手伝いをして、集落の人々の信頼を得ようと努力し、まあなんとか食いつないでいた。ところが飛行機から撒かれるビラやラジオとかで、軍隊の中で感染した人がすさまじい虐殺をおこなっている、ということが次々と伝わっていた。逆に一般市民が感染して意図せずに占領軍に反抗している、というニュースもな。不安で不安でたまらなかったよ。

 だが、まさか来るとは意わなかったね。ここまでウイルスの脅威がやってくるとは」

 その最後の言葉に不穏なものを感じる中岡。

 まさか、二度もウイルスの災禍を蒙るとは、なんと壮絶な人間なのだろう。だが、豊野のくっきりとした表情からは、みじんもそんな暗さを感じなかった。

「ある時、ある猟師さんが山から帰ってきた。その人はイノシシなんかを取って料理していて、私にもよく声をかけてくれた。なかなかいい人だったよ。

 その日はとくに晴れていて、夕焼けの景色はとても綺麗だった。そこに一つ月のぽっかりと浮かぶのが、けっこう絵になっていたね。

 私は家の手伝いや隣から来た人を迎えるとかで忙しかった。やはり親戚一同からの冷たい視線は変わらなかったが、まあそれに慣れて来ていたころでもあった。

 新聞ではあいかわらず戦争のことばかりが取り上げられていた。しかし、私にはそれがまるで遠いことのように思えて仕方がなかった。無論、戦争が始まったら安全なところなんてどこにもないってことは知ってたよ。そして私の体の中には異様な平常心が鎮座していた。自分が平常でいられること自体に私はどうしようもない気持ちを覚えた。

 その日のほとんどは仕事だった。仕事で村中をめぐったせいか、とても疲れた。

 だから夜、みんななしおえて部屋に入ると、何も考えないでさっさと寝ることにした。最初は、なぜか寝つけなかった。変に体が震えたからだ。けれど、すぐにそのあやしい感じは消えてなくなってしまった。だから、もうそのまま寝こんで……しまった。」

 中岡には、豊野があたかも他人事のように話しているように思われた。

「私はいきなり目覚めた。最初は気のせいかと思った。だが、それと同時にあの違和感がふたたび部屋の中に充満してきた。

 そして、異様なにおいが鼻を突いた。もしかして、と思って立ち上がり、壁の前に立って窓を開いてみると、遠くに小さな火が立っていた」

 中岡の心臓がしめつけられる。

「私は勘が鋭かったせいか、直感であれはただごとじゃないと意った。そこで大声で

『火事だ! 火事だ』と家中に叫んだ。少ししておばさんの声が響いてきた。

『こんな時に、何事なのよ』ってね。その口調にはあまりに緊張感がなかった。

 私はもちろんあせって、

『はやく逃げ出してください! このままじゃみんな死んでしまいます!』ともっと大きい声で叫んだが、

『うるさいな!』とけだるい声でおじさんが入ってきた。

 その時、窓に映る火が大きくなり始めてきた。

『視てくださいよ! まだ分からないんですか!?』と怒鳴って私は窓の光景を指さした。この人たちも自分も、はやくこれを他の人たちに伝えなきゃならない。それだというのに、おじさんは

『ふざけるな! あれが何なんだ!?』

 おじさんは明らかに酔っていた。そういえば、少し前にある知人と酒を酌み交わしていたのを見ていたな。

『炎じゃないですか! 今にこっちにも押し寄せてきます』と私はなお続けた。だが、

『うるさいぞ! てめえごとき殺人鬼の息子がぬかすな!!』とすさまじい形相で言い返された。

 ……殺人鬼の息子。という言葉に私は深い衝撃を受けた。

 おじさんの顔には(あき)らかに私に対する嫌悪感が浮かんでいた。元から俺に善い印象を抱いていないのは知っていた。だが、目前で、こんな状況に、いちはやい口調でそれを言い表されては、さすがに俺も平静ではいられなかった。おじさんを察るうち、私の心の中にはだんだん憎しみに近いものが生まれだした。

 違う、そうじゃないって何とかおじさんを説き伏せようとしてみたが、知らず知らずのうちに怒鳴りつけたくなってきた、そして、怒りがとうとう頂点に達したとき、

『この分からずやが! そこでションベンでもかましてろ!!』

 って言ってやった。あの時、ずっと親戚一同に抑圧された苦しみがここで解き放たれたんだ。

 すると、もとから険しい顔つきをしていたおじさんは一気に恐ろしい顔立ち(中岡は少し前からおじさんははなはだ怒っていただろうと推測していたが、ここでそう言われると、もはや情景を考えるのさえも恐怖せずにはいられなかった)になって、こっちに向かって歩いてきた。

 私は逃げた。人間だれしも、自分の身が一番かわいいからな。

 私はすぐに家を飛び出した。飛び出して、力の限り走った。おじさんが追いかけてくるかと思ったが、なぜか誰もやってこなかった。家から少し離れて分かったが、火はすでにいくつかの家につきだしていた。それを観て、私は恐怖心の(とりこ)となってしまい、ますます走るスピードをあげた。

 村は火の海になるなんて時間の問題だ。時々銃声が響いたような気がした。もしかしたら……とは思うが、確証はない。

 すでにたくさんの人たちがバケツとかを持ってきて、火を消し止めようとしていた。だが、そんなものを見ても、それに加わる気は起きなかった。もうあれで、あの人たちには顔向けできまいという気持ちばかりが心の中にあった。……いや、あんな奴ら二度と顔を合わせるもんか、という気持ちだ。

 他の誰かから声をかけられたのを感じた。きっと助けを呼ぶ声だったんだろう。しかしそれを聞いても、もう迷う心なんて起きなかった。どうしようもなかったのさ。(そういう言葉にはたしかに感傷的な響きがあった)

 ひょっとしたら、この火事を起こした人は、たしかに発症者だったかもしれない。あるいは、ただの失火だったのかもな。ひょっとしたら発症者はずっと前に感染していて、すでに多くの人間がウイルスにかかっていたとも考えられるだろう……だがどっちでも悲劇であることに変わりはない。

 どっちだったとしても何の関係がある? 俺はただの被害者であって、加害者の事情になんの興味もない。俺は加害者を平等に憎むよ。加害者が俺とことに関わりのある人間じゃなかったらな」

 最後のほうで豊野はその時、異様な笑顔を浮かべた。中岡はぎょっとした。

「……だが、一つ確定したことがある。

 私は失うことができたんだ! それまで大切だと思っていた全ての物を!!」

 なんと破滅的で、背徳的だろう。

「大切なものも、嫌いだったものも! ヒャハハハハハハ、何もかも!!」

 豊野の言うことも、様子も、常軌を逸していた。こんなことを、普通の人ならやすやすと語れるわけがない。

 だがこの異物はいとも易くそれを為している。

 彼こそは常人と狂人の混血児に違いはないだろう。しかし、それがどうしたのだろう? この世界ではそんな人間はいても珍しくもなんともない。現に中岡は、恐怖や絶望に押しつぶされ、心を折ったが末に発狂した人間を目にすることが一、二回ではなかった。

 だが、豊野のように正気を保っていると同時に狂気の奥底に生きている人間など、いまだ見たことがなかった。

 だからこそ、中岡は魅力を感じた。

 絶望を転じて希望と為す力がこの人にはある、と。

「私は何とか逃げ延びることに成功した。だが、どこにもよるべなんてなかった。気づくとかなりの空腹感があった。

 後ろを振り向いてみると、一面に炎が輝いていた。その恐ろしさで、私はもう、ただ前だけを向いて逃げて、逃げて逃げた。

 ひょっとして、発症者が俺を追いかけてるんじゃないのかとな。

 しかし途中で、私は窓からかすかな光のさす大きな家を横に見た。ここぞとばかり私の目は輝いた。

 声もかけないで私は扉を開き、なかに躍り上がったよ。

 その家の中にいた人々はみな、激しく(おどろ)いた。恐らく私が感染者かなんだと思ったんだろう。

 だが、理性を鈍らせていた私は、この時とばかり家の中へと躍り上ったんだ。この日だけでもいいから、飯にありつきたいんだ、という一心で!

 すると中にいた一人が、すさまじい形相でなにかを私に差し向けた。それは先がとがって光を華ているようだった。

『くるな! 化け物!』

 それを握る手は、ひどく震えていた。私は、自分が今拒絶されているのだということに気づくと、急激に理性を取り戻した。

 私は恥づかしくなった。もう何も言えなくなった。

 そのまま後ろを向こうとすると、ある一人が

『めぐんでもらおうとしたんだろ?』

 と言った。だが、何も答えることができない。私は下を向いたままだった。

 するとその人は私に叫んだよ。

『いいから帰ってくれ。でないと殺す』

 脅しなんかじゃない、あれは本当にそうしかねない雰囲気だった。だから私は素直に従って……再び息が保つ限り駆け出していった。もはや生きる意味さえ奪われてしまったってことだ」

 すると、豊野の口調が哀情を帯びだしてくる。

「またもや私は拒絶された。私は本当に絶望した。もう生きる気力さえなかった。呼吸をすることさえ面倒臭かった。

 すでに周りは暗い森の中だった。私は岩の上に乗りかかると、そのまま深い眠りに落ちた。

 目覚めると、すぐそばに見知らぬ男が岩に腰かけていた。それを見て、私はぎょっとした。

 私は『もういい! 死なせてくれ!!』と叫んで、そのまま岩壁に頭をぶつけて死のうとした。

 だが、その人は背後から俺の両肩をつかみ上げると、こう言った。『お前はこの世界を楽しまないのか?』

 その言葉に私は驚いた。一体こんな世界の何に楽しみを求めるんだ!?

 ただ、首を後ろ向けにしてじっと察ると、そいつは俺とほとんど同年代らしかった。

 俺が答えないのを察ると、そいつはまた言い始めた。

『この世界には面白みってのがなきゃいかん。兼好法師も言ってるじゃないか。“この世界は変わらないものがないから面白い”ってな。俺たちは一昔前まで何の変化もないつまらない世界を生きたってのに、この数十年で世界は大いに変わっちまったじゃねえか。火を見るより明らかにな。そんな新しくやってきた世界を楽しもうと思わないのか?』

『やめろ』私は男から離れようとした。『お前の言ってることは意味不明だ。この世界を楽しむ!? dんな了見で言ってんだ!?』

 それでも、奴はまだ落ちついた口ぶりで言う。

『まあ落ち着け。このまま自暴自棄になっても意味がない。よく俺の話を聴くんだ。いいな?』

(そのセリフの最後の部分は非常に真剣な口調だった)

 そうごちた時、俺はこの男が何をしゃべりだすか妙に興味がわいた。

『さっき、あんたは“死にたい”なんていいやがったろう。よく分かるよ。俺だってそんな気持ちになったことが一度か二度じゃない。だが、それじゃだめだよ。それでも人間は生きなくちゃならないんだよ。

 なんでか?

 それはな、人間はこの世界を面白くするために生きてんだ。それが使命ってもんさ。じゃなきゃ、どうやって人間は発展できた? つい少し前まであんな大層な社会を構築できたと(おも)う?

 この世界の中で“人生”に勝る娯楽なんて存在しないよ、君。この世界をよりよくしてきたのは、人生をどうやって楽しめばいいか、心得ている奴らだ。

 それが仮に、こんな地獄が奴らの前に現れたとしても、奴らはそれを大きな、大きな娯楽作品として受け止めるだろうよ。そして自分はその中のプレイヤーとして楽しみつくし、味わい尽くすわけだ。奴らこそは、この世界でもっともタフな連中に違いない。

(中岡は、その時不審と衝撃の入り混じった表情をしていた)

 奴らみたいになれなくてもだ、俺たちは変わらなければならん。そのためでは常人でいることなど許されん。ダーウィンも“最後に生きるのは、変化できる者だ”と言っている。この地獄を生きるためには、どうしても変化しなくちゃならない。今のお前は変わったのか?』

 それを聞いて、

『ああ、変わってしまったよ。何もかもな』と俺は答えた。だが、そいつは俺に好き勝手させるのを許さず、ずっと両肩をつかみ続けていた。

『違うな。何も変わっちゃいない。おまえは目の前にいる現実に目を閉じているだけだ』

 そいつは容赦ない口調で俺に語りかけた。

『目の前に広がる地獄を否定して、幻を視たくても、それができないから勝手に絶望しているだけだ。たくさんの人間がウイルスで死んだ。たくさんの人間がそんな状況にたえられず、ケダモノになった! これが現実なんだよ。それをなんで目に据えようとせん』

 俺は激高した。

『それを誰が受け止められるんだ!』とね。その時はあいつの言葉なんて狂人のたわごとに過ぎんかった。でもその人は俺の言葉にまっすぐやりあうつもりはこれっぽちもないようだった。

『今おまえは恐怖しているだろう?』

 などというのが返事なんだよ。

『この恐怖こそが人間にもとからある感情だ。原始時代の人間は恐怖に支配されて生きていた。あの頃人間はとてもひ弱で、いつ食われるか? いつ死ぬか? そんなことを寝る時も起きる時もだ!

 だがいつでもどこでも恐怖していては頭が変になっちまう。みんなが変になったら人類の種が絶えちまう!

 ここで人類は一つ考えたんだよ。そう…“恐怖を快楽にした”んだ』

『恐怖を快楽……?』 私は理解ができなかった。その時、かなりの疲れがまだ残っていたのもあったからだろうが。

『そう、俺たちは先祖がえりを起こすべきだ』

 男は言った。

『永い間人類は自分たちが世界の頂点に立っているうち、本当のところ恐怖が人類の根幹にねざしていることを忘れちまった。だが、それも見直されなくてはならん』

 男の口調は真剣そのものだった。気が狂っているのかもしれんが、その男の物言いにはなにか筋が通っている感じがした。だから私はその男と語らってみることにした」

 中岡にとって、その謎の男は最初狂気の象徴にしか見えなかった。

「私とその男は数日話し合った。この世界がどのようにあるべきなのか、人間はどう生きたらいいのか、深く語り合った。

 男が言うには、この世界の存在するものは必ず消え去る以上、何かを永遠に残したいと思って豪華なものにするのはただの『愚行』なんだそうだ。この世の万物は消え去るんだから、いつまでも変わらず残っているものよりも、無残に壊れてしまったものをめでるのがすばらしい、とさ!

 それからだ。恐怖は人間にとって最大の敵だが、人間は、時としてそれを引き起こすようなことを、平然と望んでいることがある。なんてばかばかしいことだ!

 だがそれがどうした。恐怖につかれたんならそれを自然なこととして受け入れればいいだけの話! それができないやつは低能にすぎん!

 ……今だと、あれはたしかに真実だと思う」

 豊野の顔にはすっかり理性的な面が取り戻されている。

「しばらくして、男は死んだ」

「……!」 唐突に話が展開したので、思わず中岡はまごついた。

「俺はしばらく奴と行動を共にした。一人じゃ何に遇うかわからないからな。あいつは銃の取扱いを心得ていて、俺にも教えてくれた。それから、カエルとかネズミの食い方とか(中岡は思わず顔色を悪くした)。

 そのおかげで俺は一人でもなんとか食っていけたんだ。

(一分間ほど、豊野は黙って宙を眺めていた。)

 奴が死んだのは、人のいなくなった都会を通り過ぎた時さ。俺たちはスーパーに入って食えそうなものをあさっているときのことだ。

 いきなり異様な視線を感じた。俺たちがそこには軍服を着た兵士が立っていた。たぶん敵国の兵士だったと思うが……、とにかくそいつはまるで悲しそうな表情を浮かべながらこっちに発砲して来やがった!

 あの野郎は俺をひっつかむと、すぐ下に倒れこんだ。その直後に銃声がした。

 俺は奴の名前を叫んだ。

『豊野! 退()がれ』と奴は言って二人は床に転がった。

 だが、次の瞬間、あいつの腹が血を噴いていた。俺は言葉を失った。

 腰に挿していた銃を抜いて、俺は兵士を撃っていた。脇腹を貫いていた。兵士はうつろな顔つきのまま、ばたりと倒れた。すでに奴は虫の息になっていたよ……もう、どうしようもなかった。

『俺を置いて、行け』 奴はそう言ったきりこときれた。

 奴の体を街の外が森の中に埋めてから、しばらく俺は何をする気も起らなかった。一体、どこに行けと言うのだ? だが……長いこと考えて、なんとなくこう思った。

 ひょうっとしたら、あれは、この世界の様々なところを視て行けってことなんじゃないか?

 それから私は、この日本のいろんな所をさまよった。たしか…五年くらいな。

 たとえば…私は街の廃墟で屍の山を見た。兵士の体もあったし、一般人の体もあった。あれは、感染者にやられたんだろうな、きっと。

 地平線が紅く染まっているのも見たし、感染者としか思えない人間が森の奥や人のいない街の中をうろつくのも見た。飛行機のけたたましい叫びを聞いた。遠くで人々が哭き声や怒りに満ちたどよめきを発するのも聞いた。気が触れた人と出会うのなんて珍しくもない。

 それを日本中どこでもだ。日本中が狂気の巣窟に姿を変えていた……いや、世界の方もそうなってるに違いない。だが、それがいい。

 破滅と混乱とは、この世を面白くするための最重要な元素(エレメント)なんだからな。いや、まったく愉快なことだ……。

 そうやって色々なところを巡った末…私はあるところにようやくたどり着いた。それが…」

 はっとして、中岡は問うた。

「……豊野さんは、この生まれじゃないの?」

「ああ。もともとはここからずっと離れたところに住んでいたんだ。長い旅の果てにこの街についたとき、私はあらぬ疑いをかけられて殺されそうになった。その時、ある一人が、

『まあ待ってくれよ。何も知らずに迷い込んできた人を殺すんじゃあ、いくらなんでもデリカシーがないってもんだ』

 と叫んで他の男たちを説得し、私を危機から救ってくれた。

 それがあの男だ。私とあいつはなかなか気があったもんだ」 

 大木は無表情のまま少年を見据えていた。すでに十前後のあざが刻まれ、かすかにふくらみかけている顔の左半分は血で覆われていたが、その目つきに込められた激情はあまりにも凄絶だった。

「ふざけるな……」

 そして、少年の口ぶりには少しも気圧されたものが無いようだった。

「てめえらのような…ただただ惰性のままに……自分以外のすべてを暴力で服従させようとするクズ虫など……誰が認めるかよ……。

 俺は正常だ。狂っているのはお前らだ――」

「もうそれ以上言うな…」

 再び顔を険しくさせて、その顔に近づく大木。

 いよいよ冷徹で酷薄になった彼は、やおら左手をあげて少年の顔をおさえつけんとした。

 だが、いつときから彼の心には隙が生まれてきたのだろうか。彼はこの直後に起こったことを決して回避することはできなかった。

 それは、一瞬のことだった。

 少年の頭が、ざっと前面へ動き出し、そして牙をむく。

「うっ!?」 大木は声を上げた。

 突如として指先に激痛を感じたのである。

 そこから大木が手を引いたとき、その手からは四本の指が途中からもぎ取れていた。

 先ほどまでの冷徹な表情に大きなゆがみが生まれたらしかった。

 と、その時。

「この、クズ野郎が!」

 別の男が横から飛び出して、少年の頭を激しく殴打した。

 ばきり、という生々しく堅い音。

 ……そして、それっきりだった。

 少年の物音は、そこでとだえてしまったのだ。

(死んだ……)

 中岡は、自分が怒ると思った。涙をふるって大木の方に立ち向かっていくと思った。

 しかしそうではなかった。

 彼はわずかも、その足も、手も大きく揺らしてはいない。そうしようともしてはいない。

 事実は逆だ。自分は怒りも悲しみも感じなかった。

 ただ、大きな空虚感があるだけだった。

(どうやら俺も、心の中から死んでいってるようだ…)

 いくぶんそう感じていて、だが平静をよそおっている自分自身に戦慄した。

 中岡はその少年の顔に異様なものを感じた。それは不快なものであったし、近づきがたいものでもあったが、同時に彼を引きつけて離さなかったのだ。

 この感情こそが、豊野さんの出会ったと言う、気の()れた男の言いたかったことなのだろうか?

「争いが怠惰な毎日に活力を与えるというのは幻想だった! そいつが与えるのは、際限のない苦しみと憎しみと、恐怖だ。

 今だからよくわかる。あらゆる人間も恐怖の前では全く無力ってことを。次々と疑心暗鬼におちいったあの日の我々はやがて殺しあうようになった。もしかしたら、隣にいる誰かが感染者かもしれんとな。恐怖のあまり関係ない人間を勝手に感染者として隔てたり、殺したりした。

 奴ら的にはしたくてやったんじゃない。やらなきゃならなかったんだとでも思ってたんだろう。

 しかし違う!! やつらは本当はしたくてたまらなかった。恐怖から起こる暴力が人間の本能を刺激しだした。

 普通人間はそんなことを好みはしない。だが、一度そんな風に本能を弄り回されると、どんな醜悪なことでもやってしまう。理性をどぶに捨てたケダモノになってしまうんだ」

 豊野はそこでうつむき、暗い表情を浮かべた。

 中岡は、その時、豊野に厭世的気質――まるで自分のように――があるのかと疑った。だが、口を開きかけた時、豊野は突如と明るい顔に様変わりした。

 あたかも、太陽が前触れなく出現したように。

「だがそれがいい」

 顔の変わりぶりに、一瞬中岡は怯む。

「その変貌ぶりがいいんだ」

 彼の瞳には、異様な魔力が籠っているかのようだ。

「人間が理性に満ちた人間だというのは間違っている! 現にあいつらを視ろ、激情に駆られて我を忘れ、なのに自分らには理性が思い込んでいる禽獣じゃないかね」

 豊野の声色が再びあがりはじめる。

「……、だがそれがいい! 普通人間が見せる姿というのはあれこそが本当に正しかるべきものだ。おとなしくて従順なのは素晴らしくない。品位があって優雅なものは言うもおろか!! この上なく暴虐で野蛮でにまみれて生きるのこそが美しい!」

 不思議だった。

 俊二は、それを聴いてもあまり不快にはならなかった。むしろ、自分が選ぶべき道を提示されたような気がした。

 そんなことを知ってか知らずか。繁亮はさらに気勢をあげる。

「私は素敵なもんだと思っとるよ!

 最初は善悪の心を持たぬ人間が大人たちの勝手なエゴのせいで何かを尊敬したり、憎んだりすることを知る。それは本当のところあってはならないはずなのに、なぜか低能どもはやたらとそれをしたがる。

 道理でウイルスがやすやすと人類をどんどんづまりのどんッづまりに追いやるわけだ。

 あのガキもああやって憎しみを植え付けられてきたんだろう。そして子や孫にその憎しみを伝えていくわけだ。

 いや、まったくもってすばらしい…!!」

 豊野繁亮は俊二にそう語った。

 重苦しい話であった。気持ちのいい話ではなかった。

 なのに豊野の口調はいたってほがらかで、話が終わりに近づくにつれてそれはますます興奮したものになっていった。

「赦しなどくだらん! 善意などくだらん! そんなものはすぐに割れ散って消えてしまうものであろうが!! そんなものに固執し、悪意を消そうとするほど、人間はかえって苦しみと絶望に身を置いているのであろうが!! そうじゃない。

 恐怖だ。憎しみだ。それこそが人間の文明を発展させ、今のような悲惨(すてき)な世界を造りだしてきたんだ!!

 恐怖と苦痛こそが快楽だよ。恐怖に打ち勝てないならば、恐怖を快楽にすればよいのだ」

 そして豊野は、肩を落とす。

「だが、私は恐怖を愛している。その恐怖に感化された人々を愛している。彼らがその恐怖ゆえに実に愛で、楽しむべきものだ。

 ……全く嘆かわしいな。そんなことができない人間が多いせいで、我々はこのつまらない時代を長く生きそうだぞ」

 豊野は中岡の方を視ると、

「はは、心配しないでくれ。今のはただの感想だよ」

 優しく笑いかけた。

「誰がどういおうと、私はこの世界を好きだ。悪と偽善に満ちたこの世界を」

 中岡はしばらく黙っていたが、やがて種々の思いが頭の中をめぐった。

 豊野さんはやはり狂人なのだろう。彼のような人間は決して大多数の人々に受け入れられる存在ではあるまい。だが、何もかもが常軌を逸したこの世界において、何が狂気であり、理性なのか? そのようなことに思い至った時、中岡は、むしろ豊野が正しいのではないか? という可能性があるのではないかと、思い始めた。

 たしかにこの世界の現実におしつぶされ、正気を失ったら、それは狂人なのだろう。だが、むしろそんな世界を楽しもうとし、現にそうしている人間も狂気にあるのではないか。だが、そんな人間からしてみれば、普通の狂人、あるいは恐怖におびえながら生きている人間の方がどうしようもなく見えるかもしれのである。

 俺は狂人なのか? 豊野さんは、俺を狂人と思ってるんだろうか? 中岡は自問する。豊野さんはただ、感情の読み取れぬ笑いを浮かべるばかりだ。

 俊二は、ますますこの世界のありようが分からなくなってきた気がした。

 ……少年と大木のやりとりが、異様な雑音として中岡の耳朶にこだましつづける。


――いくらひどい人間でも必要以上に人を痛めつけることはしねえよ!! それなのにてめえらは人を傷つけるのを楽しんでやがる。外道以下の畜生だ。いや、それすらでもない。

 てめえらはなあ、最悪最低のド畜生どもなんだよ! 人間の心を持たないケダモノだ!! てめえらはどうせ泥ん中をいつくばってでも生きるしか能がない! そうやって……破滅するッ……滅んじまうだけだろうがーッ!!

 ――お前は自分を人間だと思ってるだろう。『人間』として扱われることを望んでいるだろう。だが今の世の中で『人間』だと思いつつ行動しているようじゃ、とうてい生きて残れやしない。

 もう俺たちは『ケダモノ』だよ。現に、お前の今の顔つきは『ケダモノ』そのものだ。心はいまだにケダモノじゃないようだが。

 ――は……ははは! なんて御大層な思想だ! わかった。おまえらは人間であることを棄てて、情けも涙もない家畜以下の奴らに移ろうとしてるわけだ。

 ――好きなようにケダモノになりやがれ。なりはてて……しまいに滅べ。塵のように死ね! 豚みてえに死ね!! その後には、どうせ何も残りゃしねぇんだよ!!!

 ――ああ、おれたちは人間じゃない

 ――俺は元から人間の心なんて捨てている。一体『人間』にどっくらいの意味があるってんだ?


 だが、やがて小さくなっていき、枝の折れるような音を以て完全に消え去った。その時、豊野さんの声が、音量を増幅しながら少年の頭の中をかけめぐっていく…。

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[一言] 鱈井元衡様 どうにも「小説」というものを書こうとするときに、改行を多用するインターネッツな作文作法に慣れない旧世代的な私にとって、オアシスのような小説でした。 お互いにこのスタイルを貫きた…
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