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小話: 雨宿り猫のロール

 雫の冷たさはこの世界の青さを際立たせる。灰色の、俺にとっては新鮮味のない色をした雲から落ちてくる透明な雫は、だがしっかりとした青を映している。だから俺は雨の日が好きだ。たとえ髪が水に濡れてしまっても、それでも雨の日には外に出たくなる。世界の青さをもっと感じていたくて。

 そうやって空ばかり見ていた俺はそのうち空だけを見ていたくなった。だから寮から近い場所にある空き地で仰向けに寝転んだ。梶野に見付かれば「制服が汚れる」とでも言われるのだろう。だがあいつはいちいちうるさいんだ。常識を知らない俺を気遣ってのことだとは勿論分かっているが、それでも……。

 ……いつの間にか眠っていたようだ。近付く気配に自然と目が覚めて、それでもじっとそこを動かずにいる。こういうときはこちらから動かないことが鉄則だ。何故なら、この世界に俺のような「人間」を狙って食べにくるものはいないから。人間は強い。世界に溢れる生命の中で恐ろしく強靭な繁殖力をもってその生息域を広げ、文化を築いてきたように。だがどうしてだろうか。それでも人間は互いに争いを続けている。

 気配に神経を研ぎ澄ませながらも俺は自分の思考を続けていた。やがて俺のすぐ傍までやってきた気配の主が、ふらりと足を上げる。それが俺の視界いっぱいに見えて。

「っ」

 しまった、反応が遅れた。しっかりと体重の乗った足が俺の顔面を遠慮なく踏みつけて、仕方なくそのままでいた俺の顔の上で「きゃっ」と悲鳴が聞こえる。女性か。

「ご……ええと、ごめんなさい?」

 慌てた声が少しだけ遠ざかったことを確認してから俺は身体を起こした。万が一にも飛び起きて相手を転ばせてしまってはまずいと思ったからだ。するとそこには全身ずぶ濡れの少女がひどく心許ない様子で立っていた。組んだ両腕に何かを抱えて、口元には笑みが浮かんでいる。だがその目はひとつも笑っていない。奇妙な表情だ、と思いながら俺は口を開く。

「俺の方こそ、すまなかった。怪我はないか」

「だ、い、じょうぶよ。ええと、あたしは怪我をしていないわ」

 年恰好は俺とそう変わらないように見えるその少女は困ったように言葉を継ぐ。話をすることに慣れていない様子だ。そして俺は彼女を観察するうちにその腕に抱かれたものの正体に気付いた。

「お前、それは」

「あ」

 俺が指摘すると少女は戸惑ったように後ずさる。おい、待て。

「非難しようというわけじゃない。落ち着け」

「車に、ひっ……轢かれていたの。誰も、誰も見向きもしなくて、あたし」

「ああ……弔ってやろうと思ったんだろう」

「そう……なのかしら。放っておけな、かったの」

 相変わらず口元は笑むように歪めたまま、少女が語る言葉には不思議なほどに棘がなかった。人間は生きていく中で言葉に棘の武装をしていることが多い。それだけ人間同士の会話には思いも寄らない危険があるということらしい。些細な一言が相手を傷付け、自分もまた傷を受ける。だから何らかの武装をしなければ傷付くばかりなのだと、そんなことを語っていたのは梶野だったか。

「ここの空き地はそのうち建物が建つ。来い、それを眠らせるのにいい場所を知っている」

 俺は少女の前に立って歩き出した。少女は小さな亡骸を胸に抱いてついてくる。俺は彼女に差し出すことのできる傘を持っていないことに気付いたが、どうしようもなかった。


 学校の敷地には広い林がある。何かの目的で設けられた研究林らしいが、詳しいことは俺も知らない。だが、ここならその短い生命を絶たれた哀しい亡骸が穏やかに過ごすこともできるだろう。決して近くはない距離を文句ひとつ言わずについてきた少女は、丁寧な手つきで小さな亡骸を大きな木の根元に埋めた。その濡れそぼった毛並みが完全に隠れるまで土をかけて、さらにそれが雨で流れることのないようにと固める。一心不乱に亡骸を埋葬する彼女に、雨は容赦なく降り注ぐ。俺は見かねて、そしてやっと思い出して着ていた制服の上着を脱いで彼女の上にかざした。これで少しはましになっただろう。

 やがて全てを終えた少女が立ち上がり、土で汚れた手を上に向けて首を傾げる。そして俺のかざした上着に気が付いて目を丸くした。

「何かしら」

「……雨宿りだ」

 雨足はさっきよりもずっと強くなっていた。青い雨が林に靄をかけ、俺達をうまく隠している。だからなのだろうか。彼女も俺も、少しばかり安らいだ気持ちでいた。彼女が土のついた両手を俺の頬に当てる。

「あなたは猫みたいね」

「ああ、そうだ」

 分かるのだろう。俺も同じだ。

「俺は野良猫だ。……お前は違うな。だが、他の人間よりは随分と俺に近いようだ」

「そうなのかもしれないわ」


 そう言ってやっとお前はその綺麗な目を細めて笑ったんだ。

 俺はその時初めて知った。誰かの笑顔に救われるという、そんな単純なことを。

 そして思った。俺もいつか、お前の手で土に還してもらいたいと。


   *   *   *


「あら、そんなことを考えていたの」

 お前は今、オレンジ色の教室で小首を傾げて目を丸くしている。外に雨の気配はない。だが俺達はいつも雨宿りをするようにここにいる。

「ああ。あの時は言わなかったが」

「あなたを埋めるのは大変だわ。だって子猫よりずっと身体が大きいもの」

「それもそうだな」

 俺も笑えているだろうか。お前のように綺麗に笑うのは難しいと、あれからずっと思っているよ。だからもっと、俺にその笑顔を見せてほしい。

 そう言うとお前は素直に俺の大好きな笑顔をくれた。

執筆日2015/02/15

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