冬の終わり、春の訪れ
里から二時間ほど険しい斜面を登っていったところに小さな集落がある。
そんな寒村に暮らしていた少年の話だ。
少年がひとりの少女と出会い――そして別れるに至ったまでの話をここに語ろう。
少年は冬が嫌いだった。
雪が外一面に降り積もって走り回れなくなる。
走ることはできても履き物には雪が入り込み、冷たくてやってられない。
もちろん、冬が嫌いな理由はこれだけじゃない。
手はすぐにかじかみ、うまく動かなくなる。
川は冷たいどころか凍ってしまい、泳ぐことができない。
少年の両親も「危ないからあまり遠くに行くんじゃない」とますます口うるさい。
しかも、雪かきを手伝えと毎日のようにシャベルを持たされる。
だから、少年は冬が嫌で嫌でしかたなかった。
また来年も冬が来るのかと思うだけで今から少年の気は沈んでいく。
暦の上では三月も終わりに近いというのに外はまだまだ寒く、空から白く細かい雪がまた落ちてきている。
少年はこの景色も嫌いだった。
早く春になりたい、と空がしくしくと泣いているみたいだ。
この涙が早く枯れてしまえばいいのにと少年は思っていた。
ある日、少年は集落から少しばかり離れたところにやってきた。
そこは少年の秘密基地だ。少年の他にここの存在を知るものなんていない。
ここならうるさい両親の声も届かない。
暖かくなれば、ここはたくさんの緑に覆われ鳥たちが集まり歌い出す。
近くの川の音もさらさらと心地よい。
そこは少年にとっての安らぎの場所だった。
しかし、そんな場所も今は白く冷たい雪に覆われ命の動きを感じることはできない。
なんとかしなくちゃ、と少年は一体の雪だるまを作った。
大きさは少年自身とほぼ同じだ。
うまくできたと少年は一人で満足していた。
雪だるまを作ったのはそれを作ることを楽しむためじゃあない。
壊すためだ。
冬の象徴――雪の塊である雪だるまを壊すことで、冬が終わり春が来るんだと少年は信じていた。
思っていたのと違うことは、壊すために作っていた雪だるまが思ったよりもはるかに上手にできてしまったことだ。
いつもなら雪だるまの体はきれいな丸じゃなく、でこぼこになる。頭の部分も体に載せる前に崩れてしまう。
いま、少年の目の前に雪だるまはすばらしい。きれいなまんまるが上と下に二つ繋がっている。
少年は壊すことを忘れてしまっていた。
家から黙って取ってきたみかんを目の部分に入れた。みかんは雪で冷やして食べるとしゃりしゃりしてとてもおいしい。
さらに近くの木の枝を折って、雪だるまの体に挿して自分の手袋を嵌めた。
まさに雪だるまだ。動いてもふしぎじゃない。
こいつが動いて一緒に遊んでくれればいいのに……。
少年はそんなことを思っていた。
そうこうしているうちに、またもや雪が降り始めた。
風も強くなり、少年の首に巻かれていたマフラーがたなびく。手袋を外した小さな手はどんどん冷たくなってきた。
細かい雪が少年の頬にくっついては溶けて冷たい水滴を頬に残す。
景色も白く霞んできている。
どうやら早く帰った方がよさそうだ。
少年はそう考えた。
さて、そうなると問題はこの雪だるまだ。
壊すために作ったものの、ここまでうまくできるとは思っていなかった。
壊してしまうのはもったいない。
とりあえず、今日のところは残しておいて明日どうするかをまた考えることにした。
手袋も雪だるまの腕につけたままだ。
家に帰った少年はまず両親に怒られた。
みかんを取ったことがばれてしまったからだ。
それだけではない。
少年が手袋も外に置いてきたことを知って、両親はさらに声を大きくした。
これも冬のせいだ。
少年はますます冬が嫌いになった。
次の日、少年はまた彼だけの秘密基地に向かった。
手袋を取って、雪だるまを壊すためだ。
昨日、壊すか壊さないかで迷ったのは失敗だった。あんなものはさっさと壊しておけばよかったのだ。
秘密基地にたどり着いた少年を出迎えたのは昨日作った雪だるまではなく、上から下まで白い服に身を包んだ少女だった。
雪だるまは砕け散ってすでになく、その代わりに少女が雪だるまの位置に立っていた。
背丈は少年と同じくらい、髪も肌も着ている服と同じように真っ白、目は赤と黄色を混ぜ合わせたよう――まるでみかんのような色だ。そして、その両手には少年の手袋をつけている。
初めて見る髪や肌の白色、目のみかん色、不思議な服に少年は目を開いて驚いた。
そんな雪の像みたいに固まっている少年を少女は見つめて、口元をにっこりと緩ませた。そして、そのまま口を開く。
少女がなにを言うのか少年はわくわくさせていた。
「一緒に遊びましょう」
少女の声は雪面に反射された太陽光のようにまぶしかった。
ただ……まぶしくて目を閉じて、また開くとどこかへ消えていってしまうもろさもあった。
そんな声が、少年にはおそろしく冷たく感じた。
はじめこそ少年もそんな少女にとまどっていたが、気づけばいつもどおり話すようになっていた。
少女がなにもので、どこから来たのかとは聞かなかった――聞けなかった。
それを少女に聞いてしまうと、溶けてなくなる。そんな気がしたのだ。
少年は少女とおしゃべりをしながら、集落の周りを一緒に歩いた。
得意げに話す少年に、少女はうすく微笑み相づちを打っていた。
そんな夢のような時間はあっという間に過ぎて、周囲も暗くなってきた。
両親が怒る前に、少年は家へと帰らなければいけない。
少女に「また明日」と別れを告げて家に帰った。少女も頷いて手を振って返してきた。
しかし次の日、少年は風邪をひいてしまった。
額は熱く、顔はまっかになり頭も重い。
少女と会う約束をしていたため、せめて「今日は遊べなくなったんだ、ごめんね」と伝えに行こうと思ったが、両親は少年の外出を許さなかった。
少年が理由を話しても両親は頷かなかった。
それもそうだ。この集落に少年と同い年の子供はいない。
それでは外の人間か?
下の里から雪の中を数時間もかけて歩いて登ってくる子供なんているはずがない。
両親は少年が外に出て遊び回りたいから嘘をついているのだと思っていた。
さらにその次の日も少年の風邪は治らなかった。むしろ、悪くなった。
体中から汗が噴き出し、立つことすらもできなくなっていた。
その日の夜、少年は少女を見た。
あのときと同じ白い服を着た少女が自分の枕元に座り、少年の額に手を当ててくれていた。
その冷たさが少年には心地よかった。
体の中で燃え上がっていた火がみるみる小さくなっていくのを感じた。
そうすると少年のまぶたが重くなり、閉じられていく視界の中で少年は少女の手を見た。
その手はどろどろに溶けて、手の形をしていなかった……そんな風に見えた。
日の光を浴びて目が覚めると、頭の中にあった重いものがなくなっていることを感じた。
まだ少しふらつくものの歩くこともできた。
これもあの少女のおかげに思えた。
それにあの溶けていた手が気になったためすぐに会いに行きたかったが、やはり両親に止められてしまった。
それから二日たって少年はようやく外に出ることを許された。
寝込んでいたうちに外の様子は大きく変わっていた。
空を覆う雲がなくなり日は強く射し、風にぬくもりを感じた。
地面に白く敷き詰められていた雪も溶けて水を多く含み光をよりまぶしく反射する。
屋根の上から下に伸びるつららはその先から水滴を垂らしている。
景色のどれもが冬の終わりを感じさせる。
そんな待ち焦がれていたはずの風景が今は少年を不安にさせた。
少年は秘密の場所に走っていった。
そこには誰もいなかった。
先日のように少年だけが知る秘密の場所に戻っていた。
その場所も他のところと同じように雪が溶けてべちゃべちゃになっている。
少年は「おぉい」と声をだしてみるものの、やはり返事はない。
しばらく少女が来るのを待ってみるが、聞こえてくるのは木の枝からぽたぽたと落ちる水の音だけだ。
少女なんて最初からいなかったんじゃないかと少年は思い始めたが、雪だるまは確かに壊されている。
そして、その冬の象徴が壊れたように春の訪れを感じていた。
少年はもう一度、雪だるまを作ろうと考えた。そうすれば、少女にまた会えるかもしれない。
そうして少年が足下を見ると、見たことのあるシルエットが目についた。
少年の手袋だ。
二つの手袋がなにかを包みこむように置かれている。
水びたしになった手袋を指で挟みそっと持ち上げると、そこには緑の茎が地面から生えていた。
ふきのとうだ。
少年は祖母から聞いた話を思い出した。
ふきのとうの芽吹きは春の訪れ、と。
それを見て少年の目から涙がこぼれた。
頬を流れる水滴はあたたかかった。
同じ頬を流れる水だというのに、雪の溶け水よりもはるかにあたたかい。そのぬくもりが余計に少年を悲しませた。
少年はたしかに少女がいなくなったことを悟った。
しかし、少女はけして死んでしまったわけではない。
たしかな命の鼓動を聞き、安心してこの地を旅立ったのだ。
きっとまた会える。
少年は次の冬が楽しみになった。