佐藤 識が注目を怖がるあるひとつの理由
識は正座をした両の腿の上に、これまた両の手を強く握り締めて、俯いたままやはりその自分の手を見ていた。
耳を決して塞がないためだ。
負けないためだ。
唇を噛み締めてそう自分に言い聞かせている。
また一人、喪主の母の前で、黒い服を着た人が頭を下げては去っていった。
佐藤さんのところの奥さん、お気の毒にね
というのは、この界隈で最近、最新の合言葉。
父親、母親、息子さん、娘さんの佐藤さんのお宅、旦那さんが突然の事故で亡くなったらしいという訃報は、痛々しいものに触れる独特の抑揚でご近所さんを素早く回っていった。
道を歩いて顔を知っている人たちに挨拶をするたびに彼らから労わるような視線を向けられて、識は思った。
この狭いご近所の世界で、自分は一気に有名人へと登り詰めたらしい。
佐藤さんのところの奥さん、お気の毒にね
会話はこう始まって、次はこうなる。
お子さんもいるのに
ほんとう、特に娘さん、まだ小さいのに。かわいそうに、お父さんがいなくなっちゃって。
お兄さんのめぐるくんは、しっかりさんだから大丈夫かしら
めぐるくんは賢い子だし、男の子だから。もうだいぶ大きいし。
大変なのは娘さんよ。優しい、いい子だけど、だからなおさら、かわいそうだわ。
女の子だもの。
しきちゃんね
そう、しきちゃん。かわいそうに。
ほんとう、お気の毒な佐藤さん
こんな会話を、たくさんの視線を浴びたあとに識は何回か耳にした。
その度に、腹が立ったのである。
誰にか。
他でもない
自分に
お気の毒な佐藤さん
その言葉は幼い識の頭を殴っていった。
なぜなら識は知っていたからだ。
母も、父も、決してかわいそうな人間ではなかった。
父の人生は、少なくとも娘の自分には、気の毒なものには思えなかった。
懸命に顔を上げようとする母が、気の毒な人だとは到底思えなかった。
赤い目をして、母が笑ったのを、朝の光の中で識は見た。
識は見たのだ。
決して、彼らの人生は、きっとかわいそうなものではなかった。
「わたしがいるから、おかあさんはかわいそうだと言われるの」
年の離れた兄に思わずそう訊いたとき、兄は怒ったように言った。
滅多に気性を荒げない穏やかなあの兄が、とても強い口調で言った。
識がいるから、母さんは頑張れるんだ
もちろんそんなことは識も知っていたのだけど、同時に兄がとても優しいことを知っていた。
そして佐藤 識は幼いながらも、幼いなりに心得ていたのだ。
自分が惜しみなく愛されていること
自分が惜しみなく彼らを愛していること
ご近所の人たちが、決して身勝手な人たちではないこと
上辺だけではない心がちゃんと言葉に入っていることが少なくないこと
ほんとうに、赤の他人である識のことを想ってくれる、そんなびっくりするほどとてもやさしいひとがちゃあんとこの世界にはいること
佐藤 識は決して賢い子ではなかったけれど、そのぶん素直すぎるくらい素直に、実直に育てられた。
やさしいひとが数え切れないくらいちゃんと自分の周囲にいてくれることを知っていた。
佐藤 識はちゃんと知っていた。
ちゃんと、知っていたのだ。
幼い子供は、大人が思うよりもずっと、たくさんのことを受け止めていた。
そしてやはり、幼かったのだ。
たくさんの視線のあとに、やさしいひとたちは口を揃えてこう言ったのだ。
佐藤さんお気の毒にね。ちいさなしきちゃんがいるのに。
その日、佐藤 識は両膝の上、自分の小さな手を見ていた。
いい子になるよ、おとうさん
なんだか、とてもスランプです。
上手く書けなくてとても悔しいのでいつか修正するかもしれません。