ふたつの魔法
「お母さんのわからずや!」
そう叫んだっきり出て行ってしまった小さな娘の背中を由里子は「しきちゃん!」と呼び止める声しか出せずにただ見送ってしまった。
閉まった扉を見つめたまま黙り込んだ彼女に、息子は気遣わしげに口を開く。
「母さん、識は、」
「・・・わかってる」
識、とはつい先ほど飛び出していってしまった中学3年生の娘のことである。
「わかってるのよ。お家のこと、考えてくれてるのね」
というのは、中学を卒業したら働くと言い出した娘に、由里子が高校はせめていきなさいと思わず叱りつけてしまった原因だ。
母子家庭で火の車の我が家を考えて、可愛い娘は働いてくれるという。
でもそれは、母親として、由里子には認められないことだった。
それが、滅多にない母と娘の口論の本題。
「・・・識はちゃんとわかってるよ。それでも自分が無力に思えて情けなくてつい、当たっちゃったんだ。・・・僕もそうだったから、識の気持ちはわからなくもない」
母さんも識も悪くない。
僕だって、やっぱり識には学校に行ってもらいたいよ。
と慰めてくれる息子の穏やかな声に、由里子は泣きそうになった。
そんな彼は勉学に励みながらアルバイトをして由里子を支えてくれているのだ。
なんてやさしい子
「めぐちゃん」
「・・・その呼び方やめてよ、母さん」
「いったいなにを食べて育ったら、こんないい子たちになったのかしら!」
なにいってるの、と苦笑する息子に微笑み返しながら、その実、由里子は涙が零れるのを我慢していた。
由里子には悔やみ続けていることがある。
なんども後悔したこと。
せめて、笑顔で見送ればよかった
その日も滅多になく、さっきのような口論をした。
あの日はひどいことを言って、ひどいことを言われて。
稀に見るひどい口喧嘩だった。
ふてくされて、次の日の朝、自分はなにも言わなかった。
「行ってくるよ」
あの人、そう言ってくれたのに
私はなにも言葉も掛けないで、ただ、扉の閉じる音だけが響いていた。
そうして、二度と。
ただいま、と扉が開けられることはなかったのだ。
二人のわが子におまじないだと教えたことが山ほどある。
そのうちのひとつ。
いってらっしゃい。
もちろん、言っても、帰ってこないことも悲しいことにあるかもしれないけれど
そのときは、送り出した最後の姿が、なるべく笑顔であるように
いってらっしゃいは、おまじない。
子供におまじないを教えるたびにほんとうにそれが魔法のように思えて、そうやって由里子は今まで頑張ってきた。
実のところ、このふたりのこどもこそが、唯一絶対の由里子のおまじないなのである。
「お母さん」
仕事に出かけようと玄関で靴を履いていると喧嘩をした娘のぶっきらぼうな声が飛んできた。
顔をあげれば案の定、居心地悪げな娘の表情。
「しきちゃん」
「・・・いってらしゃい」
同じく不器用な声で投げかけられた言葉に、由里子は驚いた。
とても驚いた。
めぐちゃん。しきちゃん。
いってらっしゃい、はおまじないよ。
その人が、無事にまたここへ帰ってくきてくれますように
由里子には何度も、後悔したことがある。
「いってきます!」
由里子は涙が零れるのが嫌で、目が見えなくなるくらいの笑顔で扉を閉じた。
完全に扉が閉まる直前、その隙間から娘の小さな困ったような微笑みが見えた。
由里子のかけがえのない魔法である。
ああ!あなた!
私のこどもたちがこんなにいい子のはずがないわ!
めぐちゃん。しきちゃん。あのね
おかあさんは、魔法使いなのよ