35話 朝の森
ブン、ブーンと音がする。
ニキは目を開けた。
あたりは乳白色で明るい。
一瞬、目を細める。
そして再び目を開けた。
小さい何かが、音を立てながら、空中に止まっている。
ニキと目が合う。
すると、それは、どこかへ飛んでいってしまった。
ニキが聞いていたのは、ハチドリが飛ぶ音だったのだ。
「朝だ」とニキは思った。
空気は冷たく、辺りには霧が立ち込めている。
そして自分が、昨夜の焚き火の近くで、毛布に包まって寝ているのに気が付いた。
厚手の毛布の上には朝露が降りたらしく、小さな水滴がきらきらと光っている。
ニキは頭を上げる。
火の気の残る薪から出た煙が昇っている。
いつ眠ったのか覚えていない。
「疲れてたんだ。 夢も見なかったみたい・・・」そう思いながら体を起こし、そのまま、ぼーっと座り込む。
「ニキ、紅茶を入れようか?」
ランが声をかけた。
焚き火に薪が加えられ、再び、火が燃えている。
薪は湿っているせいか、煙の量が多い。
ニキは、ちろちろと燃える火を見ながら、毛布に包まったままで紅茶を飲む。
吐く息が白い。
そして自分の首に手をやる。
「首がこってるの?」
ランが聞いた。
「ん~、大丈夫です」
ニキは首を回しながら答えた。
「よく土の上で眠れるわね。 私は、ケビンの中で休ましてもらったわ。」
「いつ寝たのか覚えてないです」
ニキの答えにランは笑いながら言った。
「あなたたち、ずーっと焚き火を見ていたのよ」
「あなたたち?」
「キースよ。 覚えてないの?」
ニキは思い出そうとするが、覚えていない。
「皆と一緒にいたのだけしか覚えてないです」
ニキはそう答えた。
そこへ、キースとカイが戻ってきた。
マフィーも一緒に、辺りを調べていたのだ。
「この霧はかなり深い。 晴れてから出かけよう」
キースはそう言うと、ランから紅茶を貰い、焚き火の近くに座る。
「この森は、雨は降らないらしい」
「でしょうね~。 そんなスプリンクラーシステムはなさそうだったもの」
ランが言った。
「その代わり、霧の湿気で森を潤すらしいね。
蒸気霧のようなものだと思うよ。
だから、空気が冷たい」
「この霧はいつ晴れるの?」
「あと半時間ほどで晴れ始めますよ」
カイが答えた。
ランはカイを見る。
キースは、ふっと笑うと言った。
「じゃあ、出かける準備を始めた方がいいな」
カイは、近くの小川から汲んできた水を薪の残り火にかける。
その間、キースは、簡易食をマフィーに食べさせていた。
「そんなもん食べさせていいの?」
ランが覗き込みながら言った。
「ああ、これには良質のプロテインが入っている。
マフィーが何を食べていたのかは知らないけどね。
犬の消化器官は、人間ほど野菜や果物を消化できるように出来ていないんだ。
野菜ばかりじゃ、マフィーも力が出ないだろう?」
「ふーん、優しいのね。」
「ま、食べ慣れてないから、お腹を壊さないといいけれど」
ランは、辺りを見る。
木々の姿が前よりはっきりしてきた。
「カイの言うとおり、晴れ始めたわ。 彼は気象にも詳しいの?」
「その知識はあると思うけど、経験から言っているんじゃないのかな。
よくキャンプしてたらしいし」
キースはそう言って、マフィーに最後のキューブを食べさせると立ち上る。
「出発だ」
しばらく歩くと、霧は晴れていった。
前方に、傘のように天井を覆っている大きな木が見える。
「あんな大きな木、前からあったっけ?」
ランが言った。
「いや、あれは、ホログラムだ。
あれだけ大きく育つには、千年ぐらいかかるはずだよ。
この森は設置されて二百年も経っていない。
それに、突然現れたってことは、僕たちにそこへ行けってことなんじゃないかな」
「あれが、ニキの言っていた森の中央の木だとしたら、目的地も近いってわけね。
ところで、ジェイクには連絡がついたの?」
「いや、まだだ。
最後の連絡は、この森に入って少ししてからだったから、もうそろそろ連絡が付いて欲しいんだけどね」
そう言いながらキースは先頭を歩き続ける。
ニキもその木を見ていた。
それはまだ先で、木々の間からしか見えない。
そして、何も言わず皆の後に付いて行く。
霧が晴れた朝の森は、空気まで新しくなったようだ。
その湿り気の残る、ひんやりした感じが気持ちを高揚させる。
それに、これから何かが始まる、と言う期待感もあった。
それと共に、ニキは、昨夜の感触が忘れられないでいる。
それはまるで、子供の頃に思い巡らした世界に迷い込んだようだった。
焚き火の美しさ、薪の燃える匂い、その音すべてが夢のようにも思える。
そう言えば、小さい頃、どこかで焚き火を見ながら夜を過ごしたことがあった。
父がそばにいて、母が・・・あれは、家? いやケビンだったかのしれない・・・
自分は母に、もう遅いので、中に入って寝るように言われたんだ。
それなのに、まだ火を見ていたくて泣いて・・・そしたら、父が許してくれて・・・
あんな風に寝たんだ。 毛布に包まって。
お父さんの暖かい手が、私の額に触ったあの感触が、まだここにある、とニキは自分の額に手を当てる。
そして、次の瞬間、思った。
いや、違う、あれは夕べだ。
誰かが、私の額に触った? それは、手のひらと言うよりは、指でそっと・・・
その時、ぼんやりと誰かを見たような気がする。
キース? そして、私は何かを言った?
思い出せ、思い出すのよ、とニキは集中する。
そう、マフィーを探そうと走っていた時も、淡い光を背に、人が歩いてくる姿を見て呼んだんだ。
「お父さん!」 そうだ、そう言ったんだ、夕べも「お父さん?」って。
ニキは、急に、かぁっと顔が熱くなるのを感じた。 そしてうつむく。
私はキースを「お父さん」って呼んだんだ。
なに? 私、子供? もう社会人なのに!?
大体、お父さんのこともよく覚えてないのに、今まであまり考えることもなかったのに。
ジェイクだったらよく分かる。 それを似ても似つかないキースを!?
どうしよう! 何て謝ろう?
あなたをお父さんと間違えました、なんて言ったら、かえって傷つけてしまいそう。
キースはまだ若いのに。
それに私は、カイが額を触ろうとした時、その手を払いのけている。
カイは私を心配してくれていたのに。
あれも、すぐに悪かったと思ったのに。
キースには触らせて、それで、お父さん?
そう、私は二度も、キースを「お父さん」と呼んでしまったんだ!
ニキは気が動転して、もう、他のことは考えられない。
「ニキ! 危ない!」
突然、ランが叫ぶ。
それと同時に、ニキは、倒れ掛かっている大きな木に額をぶつけた。
ニキは地べたに座り込み、ランに顔を拭いてもらい、額の擦り傷にクリームを塗ってもらう。
手鏡を持っているが、今は、自分の顔を見たくない。
これじゃあ本当に子供だ、とニキは情けなく思う。
キースはその横に立って、ニキを見下ろしている。
ニキは、ちらっとキースを見た。
キースは怒っている。 かなり、怒っている。
「何で、しっかり前を見て歩かないんだ!?
森の中は危ないと言ったはずだ!
緊張感がない! なさ過ぎる! 昨日も急に走り出したりしただろ!?」
その声に、ニキはびくっとする。 そして、思わず出た言葉は、
「ごめんなさい! 二度も、お父さんって呼んでしまって!」
だった。
ランは、へっ?という顔をし、カイは、笑うのを堪えきれずに先へ歩き出す。
キースは、それ以上怒れない。
「とにかく、僕の横を歩いてくれ。 もうこれ以上、問題は御免だ」
ニキは、自分の言ったことに、さらに落ち込み、ゆっくりと、まるで仕方が無い、とでもいう風に立ち上がる。
ランは、キースに近付き、こそっと聞いた。
「ねえ、一度目は知ってるけど、二度って?」
キースは不機嫌な顔をしてランを睨む。
ランは、それ以上、何も言わない。
歩きながら、ニキは気が重くなっていた。
キースに怒られても仕方がないと思う。
今は必要以上に気を使われて、ちょっとしたことでも手を出されて支えられる。
これじゃあ本当に、小さな女の子を気遣う父親のようだ、とため息が出る。
しかも、キースは不機嫌なままだ。
そして、ふと思った。
キースは、なぜ、私の額に触れたんだろう。
キースも、自分の内にある動揺を無愛想な表情で隠そうとしていた。
ニキは夕べのことを覚えていたんだ、と思うと、やはり気が重い。
あれは、思わずやってしまったことなのだ。
触れるつもりはなかった。
いや、額にちょっと触れるくらい大したことではない、とも思い直す。
子供じゃあるまいし。
それなのに、自分の中に、どうしようもない気持ちがこみ上げてきて、何とかそれを抑えようとする。