ハイドランジアの園
ハイドランジアの園
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目次
- 序 水の中
- 第一章 空っぽの台所
- 第二章 連れ戻した人
- 第三章 やさしい人たち
- 第四章 眉とカードと、ひとことの毒
- 第五章 そう。じゃあ、このまま
- 第六章 二十二年
- 第七章 教祖からの連絡
- 第八章 母の日記
- 第九章 いつもの食卓
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序 水の中
水の中では音が遠くなる。
子どものころ、はじめて顔をつけたとき世界がぐにゃりと丸くなった。耳の奥にくぐもった鼓動が響いて、遠くで誰かが何かを叫んでいた。
怖かった。
それなのに、少し安心もした。
誰の声もここまでは届かない。
自分の呼吸と水の揺れだけが、そこにある。
プールサイドで母が手を振っていた。
顔をつけたまま薄目を開けると、水面の向こうに母の影がゆらゆらと滲んで見えた。
あれがいちばん古い記憶かもしれない。
歪んで、揺れて、けれど、確かに、そこにいる人影。
二十二年経ったいまも、ときどき夢に見る。
プールの底から、水面を見上げると、誰かが、そこに立っている。
手を伸ばそうとすると、影は、波にほどけて、消えてしまう。
目が覚めると決まって、雨の匂いがする。
梅雨の朝だった。
あの人が、いなくなったのも。
これはあの人を探した春から初夏にかけての話と、それから、ずいぶん時間が経ってからのある冬の食卓の話だ。
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第一章 空っぽの台所
叔父からの電話は、水曜の夜十時過ぎにかかってきた。
湯を沸かしている最中だった。カップ麺の蓋を半分めくったところで、スマートフォンが震えた。画面には「須藤のおじさん」と出ている。母の弟だ。正月と法事のほかに向こうから連絡が来ることはない。
嫌な予感はたいてい当たる。
「浩生か。姉ちゃんと連絡取れてるか」
挨拶もなかった。
「いや、先月の頭に電話したきりだけど」
「そうか」
叔父は息を吐いた。電話の向こうで、テレビの音が小さく鳴っている。
「職場から俺のところに連絡が来た。無断で三日休んでる。家に行ってみたが、鍵がかかってて誰もいない。携帯も繋がらん」
ケトルが鳴った。湯気が上がる。俺はコンセントを抜いて、台所の床にしゃがみこんだ。
「三日っていつから」
「月曜の朝からだ。最後に姉ちゃんを見たのは先週の日曜に近所の人が」
そこから先は、あまり頭に入ってこなかった。母がスーパーの惣菜部門で十年近く働いていること。勤務態度は真面目で、休んだのは俺の大学の卒業式の日くらいだということ。そんなことは、言われなくても知っている。
母は約束を破る人ではなかった。
だから、これはただごとではない。
「明日行く」
俺は言った。
「仕事は」
「有休がある」
それだけ言って電話を切った。麺はのびきるまで放っておいた。
*
小野浩生二十五歳。東京の中堅の設備メーカーで、営業事務をしている。高円寺の六畳のワンルームに住んで、三年目になる。
母の芳野は神奈川の三浦半島にある団地で、いまも一人で暮らしている。
父のことは、ほとんど覚えていない。俺が四つのときに家を出て、それきりだ。写真も残っていない。母は一度だけ「いい人だったけど向いてなかったのよ、いろいろ」とだけ言った。それ以上聞いたことはない。
母は昼間スーパーで働き夜は内職をして、俺を育てた。水泳教室の月謝も、遠征費も大会のたびに買う新しい水着も全部そこから出ていた。
感謝している。本当にしている。
ただ、それを口に出したことは、たぶん一度もない。
翌朝始発に近い電車に乗った。京急の窓から見慣れた海がのぞく。五月の海は白く光って、やけに静かだった。
*
団地の三階の角部屋。玄関ドアの前に叔父が立っていた。
「合鍵持ってるだろ」
「持ってる」
キーケースの奥から古い鍵を探した。錆びかけて角が丸くなっている。鍵穴に差し込むとひっかかる感触があって、それから開いた。
玄関に母の靴はなかった。
いつもの黒いパンプスと通勤用のスニーカー。その二足がない。代わりに俺が高校のころに使っていた水泳バッグが靴箱の上に置いてあった。色が褪せて、ファスナーの引き手が欠けている。
そんなものが、なぜここにあるのだろう。
台所はきちんと片づいていた。流しには水滴ひとつない。ふきんが蛇口にかけて干してある。
冷蔵庫を開けた。
ほとんど空だった。卵が二つしなびたネギ開封した味噌。牛乳パックは、賞味期限が五日前に切れていた。
誰かが失踪したときの部屋は散らかっているものだと思っていた。ドラマではそうだった。
違う。ここは旅立つ人の部屋だ。
整えて片づけて、「もう戻らない」と決めた人の台所。
「あいつ前から様子がおかしかったんだ」
後ろで叔父が言った。
「去年あたりから、電話しても上の空でな。昔は『浩生がね』ってそればっかりだったのに、最近はあんまりお前の話もしなくなった」
「……俺の話?」
「そうだ。お前が就職してから、ちょっとずつな」
叔父は言いにくそうに目をそらした。
「寂しかったんじゃないのか。ずっとお前だけだったんだから」
その言葉は、胸の真ん中に冷たい石みたいに落ちた。
*
母の部屋は六畳の和室だった。
布団が畳んである。小さな鏡台。壁には、俺が小学生のとき県大会で三位になったときの賞状がいまも額に入って掛かっていた。
押入れの上段に見覚えのある缶があった。昔のバタークッキーの丸い缶だ。蓋の端が少し凹んでいる。母が大事なものをしまう缶だということは子どものころから知っていた。
手を伸ばしかけて、やめた。
いまは、そっちじゃない。
鏡台の引き出しを開けた。ヘアゴム化粧水の小瓶使いかけの口紅。その下にクリアファイルがあった。
封筒がいくつか入っている。
一番上の封筒の表に見たことのない名前が印字されていた。
ハイドランジアの園
縦書きの細い明朝体だった。
中身を取り出す。二つ折りにされた書類。「入会申込書」と書いてある。氏名の欄に母の字があった。丸くて右に少し傾く見慣れた字。
小野芳野。
その下に住所と電話番号。緊急連絡先の欄は空白だった。
空白だった。
俺の名前も、叔父の名前も書かれていない。
「なんだそれ」
叔父がのぞきこむ。
「宗教か?」
「わからない」
わからないままファイルの中身を全部広げた。「活動のご案内」と題した案内状。会費の振込用紙の控え。月に一度日曜に開かれる「集いの会」の日程表。
そして、案内状の隅に青紫の花の絵が小さく印刷されていた。
アジサイだ。
花びらが丸く寄り集まって、雨に濡れたみたいな色をしていた。
*
叔父に断って母の部屋で、スマートフォンを取り出した。
「ハイドランジアの園」と検索窓に打ち込む。
出てきた。
数年前のニュース記事がいくつかある。見出しだけで、胃のあたりが重くなった。
高額の寄付をめぐって、信者の家族が相談窓口に駆け込んでいる。退会した元信者が「家も車も手放した」と証言している。弁護士会が注意を呼びかけた。
別のサイトでは、元信者を名乗る人の書き込みがあった。
〈みんな優しい。最初はそれが本当に嬉しかった〉
〈気づいたら帰る場所がなくなっていた〉
別のページには、「家族会」という名前の素朴な掲示板があった。園に家族を取られたという人たちの書き込みが並んでいる。その一番上に固定された投稿があった。
〈園に家族が入っていた者です。話せることがあります。ご連絡ください〉
連絡先のアドレスが添えてあった。
画面を持つ手がじっとりと汗ばんでいく。
母は、そういうところにいるのか。
あの卵焼きを焦がして「ごめんね」と笑うような人が。参観日にいつも一番後ろの端に立って、誰とも目を合わせないようにしていた人が。
……騙されたんだ。
そう思った瞬間に怒りがきた。
熱いものが腹の底から喉までせり上がってくる。
誰かが母の弱いところにつけこんだ。ひとりで頑張ってきた人の静かな寂しさに手を入れた。
許せなかった。
「叔父さん警察は」
「届けは出した。ただ、大人の失踪だからな。事件性がなければ、積極的には動かないそうだ」
「事件だよ」
声が思ったよりも大きく出た。
「これは事件だ」
叔父は黙って俺を見た。それから、困ったように眉を下げた。
「浩生。あんまり突っ走るなよ」
「突っ走ってない」
「お前の悪いところだ。昔から、こうと決めたら周りが見えなくなる」
言い返そうとして、言葉が出てこなかった。図星だったからではない。叔父の言い方に責める響きがなかったからだ。ただ、心配している。それがかえって居心地が悪かった。
*
夕方叔父は仕事に戻った。
俺は団地の階段に座って、日が傾くのを見ていた。
子どものころこの階段の踊り場で、母の帰りを待った。水泳の練習で疲れて腹が減って、壁にもたれて足音を聞き分けていた。コツ、コツ、コツ。パンプスの音が三階まで上ってくる。
母は、必ず「ただいま」より先に「おなかすいたでしょ」と言った。
あれは、いつからなくなったのだろう。
俺が上京してからか。それとも、その前俺が競技をやめたころからか。
思い出そうとして、やめた。思い出したくないことが、そのへんに固まっている気がした。
そういえばとひとつ思い出した。
中学二年の冬、大会の前の晩に、母が、台所で、何かを書いていた。
俺は水を飲みに起きてきて、その後ろ姿を見た。蛍光灯の下で、母は、小さな紙に、鉛筆を走らせていた。
「何書いてるの」
「ううん、なんでもない」
母は紙をさっと裏返した。
「早く寝なさい。明日早いんだから」
「うん」
俺はコップの水を飲んで、布団に戻った。
あのとき何を書いていたのだろう。
あの紙はどこに行ったのだろう。
考えかけてまた押しやった。
思い出の中の母は、いつも台所に立っている。
背中ばかりで顔が思い出せない。
俺は、母の顔をちゃんと見ていただろうか。
階段の風が頬を撫でた。
海の匂いがした。
スマートフォンを取り出して、メモを開く。
〈ハイドランジアの園〉
〈集いの会 月一回 日曜〉
〈家族会 連絡先〉
階段の下で、子どもたちが自転車を押しながら笑っている。夕焼けが団地の壁を橙色に染めて、窓ガラスがひとつずつ光った。
どこにでもある夕方だった。
それなのに、母だけが、ここにいない。
取り戻す。
口に出さずにそう決めた。
何があったのか、誰がやったのか、全部暴いて、必ず連れ戻す。
*
その夜は実家に泊まった。
母の布団は使えず居間の床に押入れから出した毛布をかぶって寝た。窓の外で、海から上がってきた風が団地の隙間を鳴らしていた。
眠れないまま天井を見ていると、台所の方からかすかな音が聞こえた気がした。
蛇口から落ちる水滴だった。
ぽた、ぽた、と。
誰もいない家で、いつまでも鳴っていた。
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第二章 連れ戻した人
返信は三日後に来た。
〈お話しできるかどうか、わかりません。それでも、お会いするだけなら〉
宛名はなかった。末尾に「篠原」とだけ署名がある。
待ち合わせは、藤沢の駅ビルの二階の喫茶店だった。土曜の昼過ぎで、店は半分ほど埋まっていた。窓際の席に小柄な女性が一人で座っている。
紺色のブラウス。膝の上に小さな紙袋。六十代の半ばくらいだろうか。髪はきれいに整えてあるのに、目の下だけがひどく疲れていた。
「篠原です」
立ち上がりかけた人を手で制して、向かいに座った。
「小野と言います。ご連絡、ありがとうございます」
「……記者さんでは、ないのね」
「違います。会社員です」
「そう」
篠原さんは、紅茶のカップに目を落とした。湯気が細く立っている。
「家族の話を知らない人にするのは、ずいぶん迷って。あの掲示板に書いたのも」
「無理にはお願いしません」
沈黙がテーブルの上に降りた。隣の席で、誰かがフォークを皿に当てた。
俺はスマートフォンを取り出して、母の写真を画面に出した。去年の正月、団地の台所で叔父が撮ったものだ。母は、おせちの重箱を抱えて、少し迷惑そうに、笑っている。
「母を探しています」
篠原さんが顔を上げた。
「先月の終わりから連絡がつきません。部屋に園の入会書類が残っていました。何があったのか知りたくて。園のことを少しでも知っている方の話を聞きたくて」
篠原さんは画面をじっと見た。
「……お母さんも」
「はい」
「うちは息子でした」
息子。
体が前のめりになった。同じ立場の人が目の前にいる。連れ戻す方法を知っているかもしれない。
「息子さんはいま、どうされているんですか。まだ園に。それとも」
「殺されました」
「……は?」
間の抜けた声が出た。
聞き間違いだと思った。喫茶店の音が急に遠のいた。皿の触れ合う音も、他の客の笑い声も水の中で聞いているようだった。
背筋が凍った。
殺された。
頭の中が真っ白になった。団地の台所が勝手に浮かぶ。空っぽの冷蔵庫。蛇口から落ちる水滴。ぽた、ぽた、と。
母さん。
指先から血の気が引いていく。カップに伸ばしかけた手が宙で止まった。
「……園、に、ですか」
やっとそれだけ絞り出した。
「ええ。園の人たちに」
篠原さんはそう言い切った。迷いのない声だった。
冗談を言っている顔ではなかった。
「最初から聞かせてください」
声が掠れた。
「お願いします。最初から」
*
航というのが息子さんの名前だった。
子どものころから喘息があった。毎日薬を飲む必要があった。それでも、薬さえきちんと飲んでいれば日常生活にはほとんど支障がなかった。
腕にはいつも時計をしていた。父親からもらった腕時計で、航さんにとって大切な品だったという。
大学を出て、都内の会社に勤めたが、体を壊して、辞めた。半年ほど実家の二階にこもっていた。
「そのころに昔の友達に誘われたんです。『いい場所がある』って」
篠原さんは、紙袋の持ち手を指でなぞった。
「入ってから電話が減って。帰ってこなくなって」
航さんが家を出てから三か月。篠原さんは、息子が宗教施設に入ったことを知っていた。
家族で何度も話をした。父親は怒鳴った。篠原さんは泣いた。それでも、すぐには動けなかった。
「三か月迷いました。それから、はじめて連れ戻しにいったんです。無理にでも連れて帰るつもりで」
俺は、スマートフォンを握りしめていた。
画面に着信はない。母からの連絡もない。
時計を見た。まだ十分も経っていない。それなのに、一時間も座っているように感じた。
「お金は」
思わず聞いた。
「航の貯金はほとんど、なくなっていました。返してほしいと言いましたが、規約だと言われて。戻ってきたのは、ほんの一部でした」
篠原さんの声は静かだった。静かなぶん重かった。
「そのあとです。荷物と、薬を取りに、航を連れて、もう一度、園へ行きました」
「……」
「航は一人で中に入っていきました。私は玄関の前で待っていました」
篠原さんは、カップに手を伸ばさなかった。紅茶はもう冷めている。
「そのとき、建物の脇を、人が、通りました。二三十人はいたと思います」
指が紙袋の持ち手を強く握った。
「みんな、何か、大きなものを、運んでいました。最初は何なのか、わかりませんでした」
息が詰まる。
「人の形をしていたんです」
喫茶店の音がまた遠くなった。
「そのとき、運ばれているものの、端から、腕が、見えました」
篠原さんは顔を上げなかった。
「その腕に時計がありました。航の時計でした。父親からもらった、あの時計です。見間違えるはずが、ありません」
言葉が出なかった。
航さんは、そのまま戻ってこなかった。
「……確認は、されたんですか」
やっと聞いた。
「いいえ」
篠原さんは首を横に振った。
「顔は見ていません。見たのは腕と時計だけです。何があったのかも、誰がしたのかも、私には、わかりません」
「警察には」
「行きました。何度も」
その声にはじめて棘が混じった。
「息子が殺されたと。腕時計を見たのだと。でも、本気には、してもらえませんでした。航の行方はわからない。人が死んだという証拠もない。成人した息子が施設を離れて、いなくなっただけだと」
「……」
「家族の思い込みだと言われました」
紙袋がくしゃりと音を立てた。
「でも、私は見たんです」
「あの子は喘息でした。薬を飲まなければいけない子でした。薬も持たずに、何も言わずに、自分から、姿を消す理由なんて、ひとつも、ありませんでした」
「誰も信じてくれない。でも私には分かります」
瞳の奥の燃え上がるような怒りが見えた。
*
腹の底から、熱いものがせり上がってきた。
息子の腕が、運ばれていくのを、この人は、見たのだ。それを誰にも信じてもらえないまま、ここにいる。
許せない。
母も同じ場所にいる。同じことが母にも。
早く、母に会わなければ、という焦りだけが、募っていく。
「園のことは許せません」
篠原さんがはじめて、強い声を出した。
「あの子を返してほしい。それしか思えないんです」
その言葉に、俺は、深く、頷いた。
頷くしかなかった。
*
改札の前で、篠原さんは、深く、頭を下げた。
帰りの電車の窓に夕暮れが流れていく。
手のひらがまだ冷たかった。
母を取り戻す。園を許さない。
決心はかたまった。
俺は、園の電話番号を画面に呼び出した。
見ないと何もわからない。見て、確かめて、必ず、母を連れ出す。
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第三章 やさしい人たち
園の場所は、すぐにわかった。
わかってしまえば、拍子抜けするほど簡単だった。公式のサイトはなく代わりに元信者のブログと地元の掲示板と国土地理院の航空写真があった。三浦半島の山あいバス停から歩いて二十分。かつて企業の保養所だった建物をそのまま使っている。
園の見学は、電話一本で受け付けていた。
応対したのは、穏やかな女性の声だった。紹介者の名前も、身元も聞かれなかった。
「体験会は毎週土曜にやっています。お昼ごはんもご用意しますから、手ぶらでどうぞ」
拍子抜けするほど、あっさりしていた。
電話を切ったあとも、篠原さんの声が耳に残っていた。
見に行くだけだ。母の字が、あそこにあるかどうかを、確かめるだけ。
*
五月の最後の土曜、俺は、始発に近い電車で、園へ向かった。
バスを降りると、雨上がりの匂いがした。
土と葉と濡れた石段。坂道の両側にアジサイが延々と続いている。
青。紫。薄い桃色。淡い白。
梅雨入り前のはずなのに、どの株も、もう花を重たげに抱えていた。花びらの端から、雫が、ぽとり、ぽとり、と落ちる。
綺麗だと思った。
思ってしまったことに、少し腹が立った。
坂の上に白い二階建ての建物があった。玄関先に竹ぼうきを持った女性が立っている。五十歳くらい。エプロン姿で丸い眼鏡をかけていた。
「いらっしゃい。ご見学の方ね」
その人はにこっと笑った。
「みゆきといいます。今日の案内係。お名前聞いてもいいかしら」
用意していた答えを口にした。
「ヒロキです。下の名前だけで」
「ヒロキさん。いい名前ね。ここは下の名前だけで十分なの」
みゆきさんは玄関の引き戸を開けた。
「ようこそハイドランジアの園へ」
*
想像していたものとは、まるで違った。
薄暗い礼拝堂も、怪しげな祭壇も黒装束の人影もない。
玄関を上がると、広い板張りの食堂があった。長机がいくつも並んでいる。窓が大きく開いていて、庭のアジサイが額縁の絵みたいに見えた。
奥の台所から味噌汁の匂いがした。
「ちょうどお昼の支度をしてるの。よかったら食べていって」
断る理由を探した。見つからなかった。
食堂には二十人ほどの人がいた。老夫婦。若い男。子連れの女性。作業着姿の中年の男。年齢も服装もバラバラだった。誰も制服のようなものは着ていない。
共通点があるとすれば一つだけ。
みんなよく笑っていた。
「あら、新しい人?」
「いらっしゃい。ここ座りなさいな」
老夫婦が席を空けてくれた。津田さんといった。八十近いだろうか。奥さんのほうが俺の湯呑みにお茶を注ぎながら、にこにこと話しかけてくる。
「どこから来たの? 東京? あらまあ遠いところ。ご飯、ちゃんと食べてる?」
「ええ、一応」
「一応じゃだめよ。ほら、お漬物もっと食べなさい」
その調子があまりにも自然だった。
子どもの頃母の実家で、祖母が同じことを言っていた。
ふと、胸の奥が、ほんの少しだけ、緩んだ。
緩んだ自分に警戒した。
*
昼食のあと、みゆきさんが園の中を案内してくれた。
食堂、大浴場、畳敷きの休憩室、洗濯場。二階には個室と相部屋が並んでいる。生活する人たちの住まいだ。
食堂の奥には、庭に面した長い縁側が通っていた。陽の当たる板の上に座布団が、ぽつりぽつりと置かれている。何人かが並んで、ただ庭を眺めていた。
園の中で、いちばん静かな場所だと思った。
「ここには、何人くらい?」
「いまは五十人くらいかしら。通いの人もいるし住んでいる人もいる」
「みんな、ここで働いて?」
「働いている人もいるし、そうでない人もいるわ」
みゆきさんは、あっさり言った。
「ここではね何もしなくていいの」
足が止まった。
「畑仕事を手伝う人もいる。台所に立つ人もいる。でも、一日中縁側で空を見ているだけの人もいる。それで、誰も文句を言わないわ」
「……それで、成り立つんですか」
「成り立たせてるの。みんなで」
みゆきさんは少し笑った。
「ヒロキさん、あなたは、働いてる?」
「会社員です」
「お疲れさま」
その言葉があまりにも自然にぽとりと落ちてきた。
「どうして疲れてるって」
「顔に書いてあるもの」
みゆきさんは眼鏡の奥の目を細めた。
「ここに来る人は、みんな同じ顔をしてるのよ。『ちゃんとしなきゃ』って顔。肩に見えない荷物をずっと背負ってる顔」
その一言で喉の奥が熱くなった。
違う。
俺は、ここに母を連れ戻しに来たのだ。
感傷に呑まれるな。
*
午後三時広間で、体験会のお話の時間が始まった。
折りたたみ椅子が輪になって並んでいる。五十人ほどが思い思いの姿勢で腰かけた。お茶を飲む人。膝に毛布をかける人。うたた寝をしている人までいる。
奥の扉が静かに開いた。
現れた男は、想像していた教祖の姿とはかけ離れていた。
年のころは五十歳前後。白いシャツに薄い灰色のカーディガン。縁なしの眼鏡。背は高くない。猫背気味で、歩き方がどこか遠慮がちだった。
演壇もマイクもない。
男は輪の端の椅子に普通に座った。
「こんにちは」
小さな声だった。
「今日は、新しい方もいらっしゃるそうですね。ようこそ。佐竹と申します」
佐竹ひろおみ。
あの男が教祖なのだ。
拍子抜けする、というより肩透かしだった。
「難しい話はしません」
佐竹はゆっくり言った。
「私は前の仕事で、システムの開発をしていました。毎日何かを作って何かを直して、数字で評価されていました。能力が高ければ褒められる。低ければ置いていかれる」
淡々とした口調だった。
「それが普通だと思っていました」
佐竹の視線が床に落ちた。
「かつて、私が育てていた後輩がいました。優秀な青年でした。私は彼に期待していました。もっと伸びる、もっとやれると」
部屋がしんとした。
「その人はある春に、いなくなりました」
誰も声を出さなかった。
「……私が、彼に、何を言ったのか。何を言わなかったのか。今でも毎日、考えます」
佐竹は顔を上げた。
「人の価値は何かを成し遂げることで、決まるのでしょうか」
静かな問いだった。
「私はそうは思いません。何も成し遂げなくても、人は、そこにいるだけで、価値がある」
その言葉は驚くほど平凡だった。
どこかで聞いたことがあるような、薄っぺらな標語に聞こえた。
それなのに、輪の中の何人かがそっと目を拭っていた。
津田さんの奥さんも隣で、小さく洟をすすっていた。
明らかに異常な空間だった。
こんな平易な小学校の道徳の授業で出てきそうな言葉で、みんな救われているような顔をしている。
今までの二十五年では遭遇したことのない底知れない不気味さを感じた。
*
会が終わったあと若い男が俺の隣に座った。
三十歳くらい。痩せていて、手の甲に火傷の跡がある。
「若林といいます。ここに来て二年になります」
「……そうですか」
「ヒロキさんはどうして来たんですか」
答えに詰まった。用意していた建前がうまく出てこない。
「ちょっと疲れてて」
「わかります」
若林は苦笑した。
「俺前の会社で、三年連続で営業成績がビリだったんです。毎朝、朝礼で、名前を呼ばれて。最後の半年は、トイレで吐くようになりました」
淡々と話すのがかえって胸にきた。
「ここに来て最初に言われたんです。『今日は何もしなくていいよ』って。一日、縁側に座ってました。夕方になって気づいたら泣いてて」
若林は自分の手のひらを見つめた。
「ここは僕の命の恩人なんです」
嘘に聞こえなかった。
嘘ではないのだと思った。
この人にとって、ここは、本当に、救いなのだ。
*
その夜みゆきさんに誘われて、事務室で茶を飲んだ。
六畳ほどの部屋に古い事務机が二つ。壁に手書きの当番表が貼ってある。棚には、ファイルが背を揃えて並んでいた。
当番表には、名前が下の名前だけで並んでいる。台所の日曜の欄に丸くて、右に少し傾く字で見慣れた二文字があった。
芳野
息が止まった。
母はここにいる。今日は土曜。日曜の台所は母の当番だ。
顔に出さないように湯呑みを両手で包んだ。
「ヒロキさん入会を考えてくださるなら、このご案内を読んでおいてね」
みゆきさんが差し出したのは薄い冊子だった。表紙にアジサイの絵が刷られている。
ページをめくった。
会費。月々の食費。住まいの利用について。そして、最後のほうに〈お預かりについて〉という項目があった。
〈園では、皆さまが安心して暮らせるようご自身の財産を園にお預けいただく制度があります。あくまでも、ご本人の自由な意思によるものです。お預けいただいた財産は皆さま全員の暮らしのために大切に使わせていただきます〉
読み終えて顔を上げた。
「これは強制ですか」
「いいえ」
みゆきさんは即座に首を振った。
「無理にお預けいただくことは、ありません。本当よ。誰かに頼まれたこともない」
「でも」
「ただね」
みゆきさんは湯呑みを両手で包んだ。
「みんな預けたくなるの。ここで暮らしているとね。自分が持っているものを、この場所のために使ってほしくなるの」
その口調は、あくまで穏やかで、悪びれたところが、少しもなかった。
「だって、助けてもらったんだもの。恩返しをしたいと思うのは、自然でしょう?」
「……そうですね」
そう答えるしかなかった。
恩を返したい気持ちを否定することは誰にもできない。
それが恩を返す以上の人生そのものになってしまうとしても。
冊子の端に、小さな活字で、もうひとつ、注意書きがあった。
〈お預けいただいた財産はご退会の際に全額お返しできない場合があります〉
指がそこで止まった。
「これは」
「規約上の話よ。気にしないで」
みゆきさんは、ふんわりと笑った。
「そんなこと、ほとんど、ないから」
ほとんど、という言葉に、背中が、すうっと冷えた。
*
食堂に戻ると、若林が洗い物をしていた。
隣に立って皿を拭いた。
「ヒロキさん顔色悪いですよ」
「いや」
「冊子読んだんでしょう」
若林は泡を流しながら、小声で言った。
「あれ、みんな、最初は、ぎょっとするんです」
「あなたは預けたんですか」
「俺は預けるほどのものが、なかったので」
若林は苦笑した。
「でも、津田さんたちは預けました。ここに来て半年くらいで。『ここで最期まで世話になりたい』って、自分から」
「後悔していませんか。津田さんは」
「してないと思います。たぶん」
たぶん、という一語が、ふたたび、引っかかった。
「ここを、出たいと思ったことは?」
尋ねると若林は手を止めた。
流水の音だけがしばらく続いた。
「あります」
小さな声だった。
「去年の冬夜中に急に。ここにいる自分が怖くなって」
「……それで」
「荷物をまとめて玄関まで行きました」
若林は皿をそっと水切りに置いた。
「でも、玄関の前で思ったんです。出たらどこに行くんだろうって」
その言葉は淡々としていた。
「実家にはもう帰れない。前の職場にも、友達にも連絡してない。ここを出たら俺には誰もいない」
若林は自分の手のひらを見た。
「だから、部屋に戻りました。次の日の朝にはもう何事もなかったみたいに、味噌汁をよそってました」
救われている、ということと。
出られなくなっている、ということが。
同じ人間の中に同時に収まっていた。
どちらも本物だった。
「ヒロキさん」
若林はふっと微笑んだ。
「ここは本当にいい場所ですよ。ほんとうに」
その笑顔に嘘はなかった。
だからこそ俺は何も言えなかった。
*
帰り際玄関先で、津田さんの旦那さんに呼び止められた。
「兄ちゃんまた来なさい」
しわの深い手が俺の手を両手で包んだ。
「ここはないい場所だよ。わしらはここに来て本当によかった」
「津田さんはここで長いんですか」
「三年かのう。家も、畑も、もう売ってな。残りの人生は、ここで世話になることにした」
さらりと言われた。
「……売ったんですか。家を」
「ああ。ばあさんと話して決めたんだ。園に全部預けた」
預けた。
ニュースで見た言葉が頭をよぎった。
〈家や車を手放すほどの寄付〉
「息子さんは反対しなかったんですか」
津田さんは少し笑って、目をそらした。
「あいつは怒っとった。電話も、もう何年も来ん。でもな」
津田さんの声が少し震えた。
「わしらが幸せなら、いいじゃろ。それで、ええんじゃ」
その言い方に俺は、返す言葉を持たなかった。
本人が幸せだと言っている。
誰も強制していない。
ただ、家はもうない。戻る場所も、もうない。
それをどう受け止めればいいのか。
*
日が落ちてから広間に人が集まった。夕会だという。
天井の白熱灯がひとつだけ灯っている。部屋の隅に子どもの遊び場にあるような薄いマットが敷かれていた。
その上に男が横たわっていた。四十代か五十代。作業服の袖がまくれ上がっている。額には汗が浮かび呼吸は浅く途切れがちだった。ときおり喉の奥がひゅっと鳴る。
周りを信者たちが囲んでいた。
手を握る女。額の汗をタオルで拭う男。床に膝をついて、声を殺して泣いている者。
俺はその光景を目で追いかけた。
違う。
おかしい。
この部屋には点滴のスタンドがない。酸素のボンベもない。血圧計も心電図の機械も、どこにもなかった。救急箱ひとつ置かれていない。
電話がない。
誰も携帯を取り出さない。誰も立ち上がって廊下へ走らない。
それなのに、皆静かだった。
余命を宣告された家族のそばで、その時が来るのを待つように。息を詰めてただ見守っている。
叫びそうになった。
喉の奥まで言葉がせり上がってくる。病院に連れていけ。何をつったって見てるんだ。その一言を必死に飲み込んだ。
奥歯を噛みしめた。膝の上で拳が震えていた。
信者たちは誰も声を上げていない。俺もそれに合わせるしかなかった。息を殺す。声をこらえる。ここで叫べばこの部屋の全員が俺を見る。
頭がはち切れそうだった。
追いつけない。
若林が後ろから、そっと俺の腕に手を置いた。
「落ち着いてください。今大事なときなんです」
囁くような声だった。
「大事って何がだよ」
喉がかすれた。
「この人にとって大事なときなんです。だから、どうか」
若林の目は潤んでいた。
その潤みが、本物だと分かるから、よけいに、背筋が冷えた。
男の喉がまたひゅっと鳴った。
それきり音は途切れた。
男はその夜息を引き取った。騒ぎは起きなかった。
布に包まれた男が裏口から運び出されていく。数人の信者が無言でそれを抱えていた。
俺は少し離れてその後を追った。
建物の裏の木々に囲まれた空き地。佐竹がそこに立っていた。
男は地面に横たえられた。大声を出す者はいない。泣き崩れる者もいない。
佐竹は男を見つめて言った。
「この人は、ここにいてよかったんです」
誰かが小さく「ありがとうございました」と呟いた。
手を合わせる信者たちの間で、俺だけが手を合わせられなかった。
土を掘る音が静かに続いていた。
*
夜の坂道をバス停に向かって下りた。
背中の向こうで、建物の窓にひとつずつ灯りがともっていく。
ふと立ち止まった。
振り返ると、庭の隅アジサイの茂みのそばにベンチがひとつ空のまま置かれていた。
いまは誰も座っていない。
母は、毎日あの台所に立っているのだろうか。あの庭を眺めているのだろうか。
みんな優しかった。津田さんも若林さんも、みゆきさんも。
それなのに、篠原さんは息子は殺されたと言った。
どちらが本当なのか。
わからないままバスに乗った。
わからないことが、いちばん腹が立った。
帰りのバスの中で、俺はあの夜のことを思い出さないようにした。
窓の外を流れる街灯をひとつずつ数えた。
今思い出してしまったら、ただごとでは済まない気がした。頭の中の何かが音を立てて壊れてしまいそうだった。
それは自分のためにもなるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
---
第四章 眉とカードとひとことの毒
体験会から帰っても何ひとつ、はっきりしなかった。
みんな優しかった。津田さんも若林さんも、みゆきさんも。佐竹は猫背で、控えめな声をしていた。台所の当番表には母の字があった。
園は何なのか。母はあそこで何をしているのか。
園の中を見ても、答えは見つからなかった。
母が園に入る前のことを知らなければならない。
そのときふと思い出した。
去年の暮れの電話だった。母が、珍しく、自分から、話し始めた。
「ジュンさんにね眉を整えてもらったの。そしたら、鏡を見るのが、ちょっとだけ、好きになって」
あのとき、俺は、「ふうん」と生返事をして、話題を変えた。眉の話なんて、どうでもよかったから。
ジュンさん。
母の口から、あんなふうに、楽しそうに、他人の名前が出たのは、初めてだった。
スマートフォンを取り出して、検索窓に打ち込んだ。
横須賀。ジュン。眉。
それだけで、一番上にそのアカウントが出てきた。
まゆ会のアカウントは更新が妙にマメだった。
眉の写真ばかりが並んでいる。ビフォーとアフター。太すぎる眉薄すぎる眉左右の高さがちぐはぐな眉。それがことごとく、すっと整って見違えるように顔が明るくなっている。
プロフィール欄にはこうあった。
〈眉毛リッパーアーティスト 達美 純 あなたの眉はあなたの味方です♡〉
リッパーという単語の意味が分からなかった。調べるとどうやら造語らしい。
俺は、ダイレクトメッセージの下書きを何度も書き直した。身内が世話になっているお話を聞きたいできれば直接。結局最初に書いたものをほとんどそのまま送った。
返信は十分で来た。
〈あらァ嬉しい。いつでもいらっしゃい。明日の午後ならあいてるわよ♡ 場所は──〉
絵文字が多い。多いが、文面の奥にどこか緊張を解こうとする気遣いがあった。
母の行方を探していると書いたのは、そのあとだ。返信は少しのあいだ止まった。
〈芳野さんの息子さん?〉
画面を見たまま俺は息を止めた。
〈待ってるわね〉
*
場所は横須賀中央の雑居ビルの四階だった。
エレベーターがなかなか来ないので、階段で上がった。踊り場の窓から、駅前の人混みが見える。昼下がりの陽射しが手すりの錆を白く光らせていた。
〈まゆ会〉と手書きされた札が扉の横にぶら下がっている。ピンクのマスキングテープで、縁取りがしてあった。
ノックすると、「はーい開いてるわよォ」と声がした。
扉を開けた。
いい香りがした。ハーブティーと柔軟剤とほのかに甘い整髪料。
部屋の真ん中に施術用の白いチェアが一脚。壁一面に眉の見本の写真が貼ってある。窓際の棚には、観葉植物と小さなアジサイの鉢植えがひとつ。まだ蕾だった。
そこに男が立っていた。
身長は俺より少し低い。細身で四十代前半くらい。黒のシャツに薄いグレーのエプロン。髪はきっちり撫でつけてあって、そして眉が、びっくりするほど美しかった。
繊細で迷いのない線。
「あらあら、いらっしゃい。座って座って。お茶飲める? ルイボス? 麦茶もあるわよ」
「あのいえお構いなく」
「あたしが構いたいの。座んなさい」
押し切られてパイプ椅子に座った。
達美純は、湯気の立つマグカップを俺の前に置いた。それから、向かい側のチェアに腰かけた。
俺の顔をじっと見る。
「やっぱり、そっくり」
「え」
「目のあたり。芳野さんにね」
純の声が少しだけ低くなった。
「眉もね似てる。太さは違うけど動かし方が同じ。困ったときに右の眉だけちょっと上がるの」
無意識に右の眉に触れていた。
純は微笑んだ。
「ごめんなさいね。職業病なのよ。人の顔を見ると眉からしか入れないの」
*
母がまゆ会に来たのは去年の秋のことだったそうだ。
「最初はねチラシを見たんですって。スーパーの掲示板に貼ってたやつ。『眉ひとつで毎朝の鏡が変わります』って」
純は懐かしそうに目を細めた。
「芳野さん来たときすっごく小さくなってた。肩をすぼめて、手を膝の上で握りしめて。『こんな歳で恥ずかしいんですけど』って」
「……母が」
「うん。あたし言ったの。眉に歳なんて関係ないのよって」
純は棚のアジサイに視線をやった。
「で、描いてあげたの。ほんの少し整えてラインを引いて。鏡を見せたらね」
間があった。
「泣いたの」
胸の奥がきゅっと縮んだ。
「泣いたのよ。『初めて、自分の顔をちゃんと見た気がする』って」
母が。
あの母がそんなことを。
俺が知っている母の顔はいつも疲れていた。目の下にうっすらと隈があって、口角だけで笑う控えめな顔。鏡の前で長く立っているところを、一度も見たことがない。
「それから、月に一度は通ってくれたわ。眉のお手入れのあとにお茶を飲んで、世間話して。だんだん笑うようになったの」
「……この会は、『ハイドランジアの園』の」
言葉を選びきれずに、そのまま切り出した。
「下部組織なんですよね」
純の表情が少し動いた。
笑みが消えたのではない。ただ、そこに別のものが混じった。
「そういう言い方をする人もいるわね」
純はマグカップを両手で包んだ。
「あたしはね正直あんまり詳しくないのよ。『園』の中のことは」
「え?」
「ここの部屋園の会員さんが紹介してくれたの。賃料も、ほんのちょっと負担してもらってる。その代わり年に一度紫陽花祭っていうお祭りの手伝いをする。それだけ」
「教団の人間では」
「会員ではあるわよ。でも、中には入ってないの。集いの会にも一度顔を出しただけ」
純は少し困ったように眉を寄せた。
「だって、あたしお説教聞くの苦手なんだもの」
それが本音だとわかった。わかったからこそ、苛立った。
「じゃあ、母を勧誘したのは」
「あたしじゃないわよ」
食い気味に否定された。
「それだけは、はっきり言う。芳野さんを園に誘ったのは、あたしじゃない。誓って」
純の声は震えていなかった。ただ、真っすぐだった。
「あたしはね眉を描いただけ。それだけ。眉を描いてお茶を出して、話を聞いただけなの」
その言葉に嘘がないことは疑いようがなかった。
それなのに、俺は納得できなかった。
勧誘した人間が、いるはずなのだ。
母を誘い込んだ人間が。
「じゃあ、誰が」
純はしばらく黙っていた。
窓の外で電車の通過する音がした。
「……あの人かもしれない」
*
「あの人って」
「芳野さんがこの教室のあとで、よく会ってた人がいるの。商店街の二階に部屋を持ってる人」
純はスマートフォンを操作して、地図を見せてくれた。
横須賀の古い商店街。アーケードの端に近い雑居ビルの二階。
「占い師さん。みんな『先生』って呼んでる」
「占い……」
「あたしも何度か会ったことあるわ。すごくいい人よ。話を聞くのが上手で、人生相談もしてくれるの。ただの占いだけじゃなくて」
純は言葉を選びながら続けた。
「芳野さんその人のところに通うようになってから、変わったの。表情が明るくなった。あたし嬉しかったのよ。やっと自分を大事にしてくれる人に会えたんだって」
「それは洗脳です」
つい口に出た。
純の目がまっすぐ俺を見た。
責める目ではなかった。ただ、静かに傷ついた目だった。
「……そう思うのね」
「だって、そうでしょう。家を空けて連絡も絶って、書類にも俺の名前を」
言葉が途中で詰まった。
緊急連絡先が空白だったことを思い出した。
純は何も言わなかった。
「あの」
俺は立ち上がった。
「ありがとうございました。話聞けてよかったです」
「ねえ、浩生くん」
ドアに手をかけた俺に純が声をかけた。
「あたしね芳野さんから、一度も聞いたことがないの」
「何を」
「息子さんの悪口」
足が止まった。
「一度も。むしろあなたの話ばっかり。水泳のこと小さいころの失敗のこと就職が決まった日のこと。それを話すときすっごく嬉しそうだったのよ」
純の声が柔らかくなった。
「……だから、会いに来てくれて、よかったわ」
返事ができなかった。
俺は小さく会釈して扉を閉めた。
階段を下りながら、右の眉が勝手に上がっていることに気づいた。
*
商店街のアーケードは昼でも薄暗かった。
シャッターの半分は降りている。八百屋と乾物屋と潰れかけの時計屋。色褪せた造花のアーチが天井から揺れている。
目当てのビルはすぐに見つかった。
一階がクリーニング店で、二階に上がる狭い階段の脇に小さな看板が出ている。
〈星の間 ご相談・鑑定〉
手書きの文字だった。墨の滲んだやわらかい筆文字。
階段を上った。
扉の前で深呼吸をした。それから、強くノックした。
「どうぞ」
低くて落ち着いた声だった。
扉を開けると、薄暗い六畳ほどの部屋に小さな座卓が置いてあった。壁には深い藍色の布。蝋燭の火がゆらゆら揺れている。
座卓の向こうに女が座っていた。
六十代の半ば。白髪まじりの髪を後ろでまとめている。ゆったりした紺色の服。顔に化粧っ気はほとんどない。
目が驚くほど穏やかだった。
「いらっしゃい」
その人は俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「ああ。あなたが芳野さんの」
俺は何も言っていない。
「……母を、知っていますよね」
「知っています」
あまりにあっさりと認められて、拍子抜けした。用意していた言葉が全部喉の奥で崩れた。
「座りませんか」
「結構です」
立ったまま座卓の前に進んだ。
「母をあの団体に誘ったのは、あなたですか」
占い師は静かに頷いた。
「はい」
その一言に頭に血が昇った。
「あなたが母を騙したんですね」
「騙した、つもりはありません」
「騙したんだ! 母は、あんな団体に入る人じゃなかった。あんな家や車まで手放させるような」
「浩生さん」
「名前を呼ぶな!」
叫んだ声が狭い部屋に反響した。
蝋燭の火がふっと揺れた。
占い師は動じなかった。ただ、膝の上に置いた手をゆっくり組み直した。
「あなたの怒りは、もっともだと思います」
「……っ」
「私は芳野さんに園を勧めました。それは事実です」
占い師の声は静かだった。
「寄付の問題があることも知っています。ニュースで見ました。私も、そこを手放しで肯定するつもりはありません」
「じゃあ、なぜ」
「芳野さんには、あの場所が必要だと思ったからです」
その言葉が頭の中で、うまく意味を結ばなかった。
「必要……」
「ええ。本気でそう思いました」
「半年のあいだ、私は、園の話を、一度もしませんでした」
「……は?」
「水曜の午後にうちでお茶を飲んでいただいただけです。何も占わず何も勧めずに」
「言い訳だ」
「そう聞こえるでしょうね」
占い師は否定しなかった。ただ、俺を見た。
「芳野さんは、ずっと居場所を探していた人でした」
「やめてください」
「うちに来たときあの人は私にこう言いました。『家の中で息をしていいのか、わからないんです』と」
息が止まった。
「息子に迷惑をかけないように、息子の邪魔をしないように、そればかり考えて生きてきた。気がつくと自分がどこにもいなかった、と」
「やめろ」
「あの人は家庭の中で、自分の居場所を感じられなかったのかもしれません。あなたのせいだ、と言っているのではありません。ただ、あの人はそう感じていた」
「やめろって言ってるだろ!」
座卓を拳で叩いた。
湯呑みがかたんと鳴った。
「お前に」
喉が震えた。
「お前になにがわかる」
声が割れた。
「母さんと二十五年一緒にいたのは俺だ。あんたじゃない。たった数回会っただけの他人が母さんの何を知ったような口を」
占い師は反論しなかった。
ただ、俺の目をまっすぐ受け止めていた。
その沈黙がいちばん腹が立った。
「帰ります」
吐き捨てるように言って背を向けた。
「浩生さん」
扉に手をかけたところで、占い師の声が追ってきた。
「芳野さんはあなたを愛しています。それだけは間違いありません」
返事はしなかった。
扉を乱暴に閉めた。
*
商店街を早足で抜けた。
アーケードを出ると空が眩しかった。目が痛くなって立ち止まった。
手がまだ震えている。
怒りは確かにあった。いまも体の中で燃えている。
けれど、その下に別のものがあった。
冷たい小さなもの。
〈家の中で息をしていいのか、わからないんです〉
母がそんなことを。
俺の知らない母がどこかにいる。
その事実が怒りよりもずっと深いところに刺さっていた。
認めたくなかった。認めたら何かが崩れる。
だから、俺は決めた。
あれはあの占い師の言葉だ。母の言葉じゃない。人を取り込むための嘘に決まっている。
そう決めた。
けれど、その夜ワンルームの天井を見ながら、何度もあの一言が耳の奥でよみがえった。
お前になにがわかる。
自分で叫んだはずの言葉だった。
それなのに、なぜだろう。
その問いは、いつのまにか、俺自身に向かって、返ってきていた。
---
第五章 そう。じゃあ、このまま
六月の第二日曜、俺は、もう一度、園へ向かった。
今度は見学の申し込みもしなかった。当番表のあの二文字だけを頼りに始発に乗った。
坂道のアジサイは二週間のうちに、すっかり色を濃くしていた。
食堂の前を通るとき、みゆきさんに見つからないように、庭のほうへ回った。
午後、集いの会が終わって、人が、ばらけるころだった。
庭の一角アジサイの茂みのそばにベンチがあった。
そこに女の人が一人座っていた。
小柄な後ろ姿。肩までの黒髪。膝に膝掛けをかけている。
その背中を俺は知っていた。
足が動かなかった。
隣に座った老婦人が何かを言ったのだろう。母はふっと笑った。
口角だけの笑いではなかった。
目じりに皺が寄っていた。肩が小さく揺れて手で口を押さえて堪えきれない、というように笑っていた。
あんな顔の母を俺は見たことがなかった。
息ができなかった。
名前を呼ぼうとした。
けれど、喉が動かなかった。
西日がアジサイの青を紫に染めていた。
母はそこにいた。
確かにそこで笑っていた。
取り戻すと決めたはずだった。
それなのに、俺は、その場から、一歩も動けなかった。
笑っている母をあの場所から連れ出すことが正しいことなのかどうか。
その問いが、胸の奥で、また、小さく息をした。
母の隣に座っていた老婦人が先に俺に気づいた。
「あら」
その声で母がこちらを向いた。
笑いが顔から、すうっと引いていった。
引き潮みたいだった。目じりの皺も、頬の丸みも少しずつ見慣れた輪郭に戻っていく。口角だけがほんの少し上がった顔。俺が知っている、いつもの母の顔。
それがひどく悲しかった。
「……浩生」
母は立ち上がろうとして、膝掛けに足をとられた。老婦人がさっとその手を支えた。
「大丈夫よ芳野さん。お話しておいで」
そう言って老婦人は俺にだけ軽く会釈をして、坂の下へ歩いていった。
残されたベンチの前に俺と母だけが立っていた。
風がアジサイを揺らした。
*
言いたいことは山ほどあった。
なぜ連絡しなかった。なぜ叔父さんに何も言わなかった。なぜ緊急連絡先を空白にした。なぜ。なぜ。なぜ。
頭の中で言葉が渋滞していた。
先に口から出たのは、これだった。
「痩せたね」
母は目を丸くした。
「え?」
「ちゃんと、食べてる?」
母は小さく笑った。笑ってそれから、泣きそうな顔をした。
「食べてるわよ。ここのご飯おいしいの。みゆきさんが作ってくれる煮物がね」
「そう」
「あなたは。ちゃんと食べてるの」
「食べてる」
嘘だった。昨夜はカップ麺だった。
けれど、母はそれ以上聞かなかった。ただ、俺の顔をじっと見ていた。眉のあたりを確かめるように。
「……来たのね」
「うん」
「叔父さんから聞いたの」
「うん」
「ごめんなさい。心配かけて」
その謝り方がいつもの母だった。反射みたいな癖みたいな謝罪。
それが俺の中の何かに火をつけた。
「謝らなくていい」
思ったより強い声が出た。
「謝るなら最初から、ちゃんと言ってくれよ。何も言わずに、いなくなって。叔父さんがどれだけ」
「ええ」
「俺がどれだけ」
声が詰まった。
母は黙って聞いていた。
「帰ろう」
俺は言った。
「ここを出よう。ここはよくない。ニュースになってる。家を売った人もいる。母さんも、そうなるかもしれないんだ。俺と一緒に帰ろう。部屋ならあの団地もある。東京に来てもいい。だから」
「浩生」
「だから、帰ろう」
「浩生」
母は静かに俺の名前を呼んだ。
ただ、それだけだった。
けれど、その呼び方には拒絶の形があった。
*
縁側に並んで座った。
夕日が庭の奥に沈みかけている。アジサイの葉の裏側が金色に光っていた。
母は膝の上で指を組んだ。
「あのね。先に言っておくね。お母さん、貯金は、全部、預けたの」
「え」
「コツコツ貯めてきたお金。全部」
「……全部」
言葉が頭に入ってこなかった。
団地の狭い台所。夜なべの内職。スーパーの惣菜の売れ残りを持ち帰る袋。母が一円ずつ数えるように貯めてきた金だ。
「自分で決めて預けたの。誰かに言われたわけじゃない」
母は静かに言った。
怒りが、また、胸の底に、灯った。けれど、母の目を前にして、その火は、うまく、燃え上がらなかった。
「それと緊急連絡先」
母は視線を落とした。
「あなたの名前を書けなかったの」
「……なんで」
「書いたら、あなたに迷惑がかかる気がして」
母はゆっくり言った。
「あなたは東京で、ちゃんと働いている。これ以上あなたの人生にお母さんが入っていっちゃいけない。そう思ったの」
「迷惑じゃない」
「うん。いまならそう言ってくれるって、わかる」
母は小さく頷いた。
「でも、あのときは、わからなかった」
庭の端で誰かが笑う声がした。夕食前の、のどかな声だった。
「ねえ、母さん」
俺は、占い師の言葉を思い出していた。
〈家の中で息をしていいのか、わからないんです〉
認めたくなかった。けれど、聞かなければ、いけなかった。
「……あの、占い師の人が、言ってた。母さんは家で居場所がなかったって」
母が息を呑んだ。
「あの人そんなことまで」
「本当なの」
長い沈黙があった。
日がさらに低くなった。縁側の板に俺たちの影が長く伸びた。
「居場所がなかった、というのは、ちょっと違うの」
母は慎重に言葉を探した。
「あなたとの暮らしが嫌だったわけじゃない。あなたを育てた二十五年を不幸だったなんて、一度も思ってない。そこは信じてほしい」
「……うん」
「お母さんねあなたの母親でいることは好きだったの。本当に。ご飯を作ってお弁当を作って、大会に連れていって。全部お母さんの大事な時間だった」
母はそこで少し笑った。
「でもね。それ以外の私が、どこにもいなかったの」
心臓がきゅっと縮んだ。
「母親としては価値があった。でも、母親じゃない私には、何も、なかった。仕事も、あなたのためのもの。内職も、あなたのためのもの。休みの日もあなたの洗濯物を干して、あなたの靴を磨いて。気がついたら、『小野芳野』っていう人がいなかった」
母は自分の手を見た。
あかぎれの跡がまだ指の付け根に残っている。
「何かできないと価値がない。何か役に立たないと、ここにいちゃいけない。ずっとそう思って生きてきたの。ひとり親になってから、とくに」
その言葉が静かに俺の胸に落ちた。
母はそんなことを考えていたのか。
あの台所で。あの団地の部屋で。
俺が水泳の疲れで床に倒れ込むように眠っていた、そのすぐ横で。
「ここに来て最初の日にね」
母の声が少しだけ明るくなった。
「みゆきさんに言われたの。『今日は何もしなくていいですよ』って」
「……若林さんも、同じことを言ってた」
「そうなの。みんな最初に言われるの」
母は庭のアジサイを見つめた。
「五十三年生きて初めて言われたの。何もしなくていい、って」
母の頬に一筋涙が伝った。
「私ね、縁側に座って、一日中、庭を見てた。夕方になって思ったの。ああ、私、ここにいていいんだ、って」
その横顔を俺は正視できなかった。
*
俺は拳を握ったまま、しばらく黙っていた。
母の言葉は嘘ではなかった。
それは疑いようがなかった。
疑えないからこそ苦しかった。
ここを悪の巣窟だと決めつけていた自分が恥ずかしいわけではなかった。ただ、取り戻すという言葉が手の中でぐにゃりと形を失っていく。
それでも、俺は言いたかった。
伝えなければならないことが、ひとつだけ残っていた。
「母さん」
母がこちらを向いた。
「俺は母さんを連れ戻しに来た」
母は小さく頷いた。
「うん」
「ここは危ないと思った。母さんが騙されたと思った。だから、取り戻したいと思った。……でも、いまは、少し違う」
言葉を一つずつ選んだ。
「母さんが、ここで笑ってるのを、さっき、見た」
母の肩が小さく揺れた。
「あんな顔見たことなかった。たぶん、俺は、母さんの何も、見てなかったんだ。母さんが何を考えてるのか何が好きなのか何がしんどいのか」
「浩生」
「知ろうとしなかった。ずっと母さんは母さんのままで、そこにいてくれるものだって、思ってた」
喉が熱い。
「だから、過去を理由に連れて帰ろうって言うのはやめる」
母は目を見開いた。
「昔のことを持ち出して、『母さんは俺の母さんだろ』って引っ張るのは違うって、いまわかった」
「……」
「でも、一緒にいたいんだ」
声が震えた。
「これからの話をしたい。母さんがいま何を考えてるか聞きたい。しんどいときは頼ってほしい。俺も頼らせてほしい。新しい思い出を作りたい。ここを出てくれとは言わない。ここにいてもいい。でも、俺とも会ってほしい。これからずっと」
言い終えたとき涙が勝手に落ちていた。
恥ずかしかった。けれど、止められなかった。
母は俺の顔を見つめていた。
長い、長い時間だった。
縁側の向こうで、日が山の端に沈んだ。庭のアジサイが青から群青に変わっていく。
母はそっと手を伸ばした。
俺の頬に指先で触れた。
あかぎれの跡がざらりと肌に当たった。
「ありがとう」
母は言った。
「そんなふうに言ってくれて嬉しい」
「……じゃあ」
「でもね」
母の声はやさしかった。やさしくて揺らがなかった。
「お母さんはまだ、ここにいたいの」
世界が止まった。
「ここで自分のことを少し大事にしてみたいの。やっと始まったばかりなの。あと少しでいいから、お母さんにお母さん以外の時間をちょうだい」
「……俺と暮らす人生は、いやなの」
情けない声が出た。
「違う」
母はすぐに首を振った。
「あなたを愛してる。それは変わらない。でも、愛してることと、あなたと生きることは、お母さんの中で、別のことなの」
その言葉の意味を俺はうまく飲み込めなかった。
わからない。
わかりたくなかった。
けれど、母の目は澄んでいた。
迷いがなかった。
「お母さんね生まれて初めて、自分で選んだの」
母は静かに言った。
「あなたのためじゃなくて。誰かのためでもなくて。自分でここにいたい、って」
俺は言い返せなかった。
選んだと言われてしまったら。
それが本当に自分の意志だと言われてしまったら。
俺には、もう、止める言葉が、ひとつもなかった。
*
しばらくして、母は、俺の手の上に、自分の手を重ねた。
「そう」
小さく息を吐いた。
「じゃあ、このまま」
その一言は拒絶ではなかった。
けれど、確かな別れだった。
「頑張ってね」
母は笑った。
最後に見せたのは、目じりに皺の寄る笑いではなくあの口角だけの笑いだった。
息子を安心させるための、いつもの顔。
それが母なりの最大限の優しさだったと、いまは思う。
*
門の前で佐竹が立っていた。
あのカーディガン姿のまま竹垣のそばに、ひとりで。
「帰られますか」
佐竹は声を荒らげることもなく、尋ねた。
「ええ」
「そうですか」
それだけだった。引き留める気配も勧誘する気配も、まるでなかった。
その静けさが癇に障った。
「母は、貯金を、全部、預けたそうです」
「はい。伺っています」
「返してください」
佐竹はすぐには答えなかった。
「芳野さんがそう望まれるならお返しします」
「望むに決まってる」
「どうでしょう。それは、芳野さんがお決めになることです」
「あんたがそう言わせてるんだろ」
声が荒れた。
「『何もしなくていい』『自分で選べ』『やりたいことをやれ』。都合のいい言葉で、人の弱いところに入り込んで」
佐竹は眼鏡の奥で、ゆっくりと瞬きをした。
「小野さんは、自己欺瞞という言葉をご存じですか」
「……は?」
「サルトルの用語です。ジャン=ポール・サルトル。フランスの哲学者の」
唐突だった。
何を言われたのか、わからなかった。
佐竹は返事を待たなかった。背筋がすっと伸びた。体験会で見たあの遠慮がちな猫背は、どこにもなかった。
「サルトルは『存在と無』のなかで、存在を二つの様態に分けました。即自存在と対自存在です。即自とは石や机のように、それがそれであるだけの、充実した存在。対自とは意識です。自らがそれであるところのものではなく、それでないものであり続ける内側に『無』を含んだ存在です」
言葉が耳の上を滑っていく。
「人間は、事実性と超越の両義的な統一です。事実性とは私が、すでにそうであるところのもの。過去身体社会的な立場。超越とはそこを越えて、自らを未来へ投企する自由。サルトルは、この二つのあいだで、人がどちらか一方へ逃げ込むことを自己欺瞞と呼びました」
「……」
「有名な例がカフェの給仕です。彼はあまりにも給仕らしく動く。盆の持ち方声の抑揚歩幅。彼は、自分を給仕という即自的な『もの』にしてしまおうとしている。自由を自ら手放しているのです。対になる例もあります。デートの席で、手を握られた女性が、その手を、そのまま置いておく。応じるとも拒むとも決めずに。彼女は、自分の手を物体のように扱っている」
佐竹の声は、早くもなく熱もなかった。
「自己欺瞞は嘘ではありません。嘘は、欺く者と、欺かれる者が、別人です。自己欺瞞は、単一の意識のなかで起こる。だから、見破ることが、原理的に、難しい。『人間は自由の刑に処せられている』。自由であることからは、逃げられません。逃げようとすること自体がひとつの選択になる」
足元から、冷たいものが這い上がってきた。
これがこの男だ。
体験会で、控えめに話していた男ではない。この教えを骨の髄から信じている。信じきっている。
さっきまで体の中で、ひとかたまりになっていた怒りがふっと遠のいた。
代わりに、別のものが、背中を、這い上がってきた。
怖いと思った。
「私たちの園は、その役割を、一度、脱ぐための場所です」
佐竹は静かに続けた。
「母親であること。会社員であること。成果を出す者であること。他人の期待や社会の評価に応えるための給仕の演技をやめる。そのうえで自分が選ぶ。選んだことを自分でやりきる。その結果に他人の点数はいりません」
*
「少し私の話をさせてください」
佐竹は淡々とそう言った。声の調子は変わらなかった。
「私は大学の教養課程で、サルトルを学びました。当時は感心して聞いただけでした。面白いと思った。それだけです」
「卒業後大手のシステム開発会社に入りました。ソフトウェアエンジニアとして、十数年働きました。後輩の指導も任されていました」
「私が指導していた後輩が自殺しました。私は彼に期待を重ねました。成果を求めました。追い込んだのは私だと考えています」
「そのとき初めて、あの哲学者はすごいと思いました。人間を役割や成果の内に閉じ込めてはならない。その意味がようやく体で理解できたのです」
「会社を辞めて、最初に事業を始めました。ITのコンサルティングです。理由は財源の確保です。思想だけでは人を支えられません」
「もともと話すことは得意でした。多くの人に自分の考えを伝えるうち人が集まってきました。誰かが私を教祖様と呼び始めました。私が名乗ったことは一度もありません」
「園の財源は、コンサルティングの収益とお預かりした財産です。使い道は食費光熱費そして、園の中での治療のための費用です。外の医療は使いませんので」
「その他は未来への投資です。ここに将来おいでになる方のための将来を見据えた先行投資です」
預かった財産を明らかに着服しておきながら、さも必要経費であるかのように語っている。
「先日の体験会の日夕会で、一人の方が亡くなりました。細菌性の肺炎でした」
佐竹は感情のこもらない声で、そう言った。
細菌性の肺炎。その病名を俺は知っていた。
大学のころ友人が同じ病気で入院したことがある。一週間ほどで退院して、けろりとしていた。現代の病院ならどこでも聞くような病名だ。治療の手順は決まっていて、抗生物質ひとつで治る。もちろん、重症化すれば命に関わることもある。それでも、ちゃんと治る病気のはずだった。
は?
喉の奥で声にならない音がした。
「君は、病院に行けばよかったと思っているんでしょう」
「当たり前だろ」
「では伺います。救済とは何でしょうか。病気を治すことですか。以前の生活に戻ることですか。再び働き社会の役に立てるようになることですか」
「そんなの病気が治ることだろ」
「現代の医療はどうでしょう。治療の優先順位は、誰が決めていますか。どれだけ長く生きられるかより、どれだけ早く社会に戻れるかで、支援の範囲が決まってはいませんか。入院の期間も、保険の点数で区切られる。働けなくなった人間は治療の対象としても、後回しにされる」
佐竹はテーブルの端に指を置いた。
「私はそれを、おかしいと言っているのではありません。制度として合理的だと思います。ただ、合理的であることと、人が救われることは、同じではない」
「……」
「社会は人を役割で測ります。働けるか。稼げるか。誰かの期待に応えられるか。医療も、福祉もその物差しの内側で動いている。病気を治すという行為さえ結局は社会へ戻すための手続きになっている。私はそう考えています」
「だから、病院に行かせないのか。社会の物差しの外に逃がすためか」
「逃がすという言い方は少し違います。受け入れると言ってください」
佐竹は薄く笑った。
「あの方は、病院へ行けば回復の見込みはあったかもしれない。けれど、回復したところで、あの方が再び、社会の中で、何者かになれる保証は、どこにもなかった。私たちは、そのことを一緒に見つめました」
「本人がそう望んだと言うのか」
「望んだのかどうか。私は確かめていません」
「……確かめてないのに、病院に行かせなかったのか」
「確かめる必要がないとは思っていません。ただ、あの方が、ここにいてよかったと、誰かに言ってほしかったのだと、私は感じました」
言葉が喉の奥でつかえた。
佐竹は真剣だった。冗談でも策略でもない。本気でそう信じていた。
「人は、社会から与えられた役割や評価を自分の本質だと思い込みます。『自分は仕事のできない人間だ』『誰からも必要とされない人間だ』。その思い込みこそが人を生きづらくさせる。病院へ行くことも、そこから抜け出せなくなる。治療を受けさせられるほど、人は社会の物差しの中へより深く戻されていく」
「……それは、お前が、そう思い込んでるだけだろ」
「そうかもしれません」
佐竹は即座に認めた。
「ですから私はこの園で、誰にも強制はしていません。小野さんあなたもここを出て、病院へ行くことを誰にも止められてはいない」
それがいちばん質が悪いと思った。
止めていない。強制もしていない。ただ、そう信じさせるための言葉だけを丁寧に積み上げている。
*
「ふざけるな」
声が割れた。
「それは、お前がここで人を洗脳しているだけだ」
佐竹は動かなかった。
「望むように仕向けたんだろ。居場所のない人間に、ここしかないと思い込ませて。そのかわりに、金も、家も、家族も、取り上げる」
息が上がっていた。
「居場所や、価値を、奪っているのは、お前のほうだ」
叫んだ声が夕暮れの坂に吸い込まれていった。
竹垣が風で鳴った。
佐竹は反論しなかった。
ただ、しばらく俺を見ていた。眼鏡の奥の目は揺れてもいなかった。それから、深く頭を下げた。
「お気をつけてお帰りください」
俺は背を向けて坂を下った。
足が震えていた。
怒りのせいなのか。恐れのせいなのか。自分でも、わからなかった。
*
帰りのバスは、がらがらだった。
窓の外に紫陽花が流れていく。
暗くなりかけた山道に、ぽつり、ぽつりと、青い花が浮かんでいる。
スマートフォンの画面をひらいた。
純からのメッセージが届いていた。
〈無事? 変なことされてない?〉
返事を打とうとして、指が動かなかった。
代わりに窓に額を押しあてた。ガラスがひやりと冷たい。
佐竹の言葉は半分も、わからなかった。
けれど、あの男が本気で信じていることだけは、わかった。
本気で信じている人間は止まらない。
それが怖かった。
母は幸せそうだった。
それは本当だった。
母の幸せを俺の望む形に決めることは、できない。
頭ではわかった。
けれど、心はまだ追いついていなかった。
バスがトンネルに入った。
窓ガラスに泣いている自分の顔が映っていた。
右の眉が情けなく上がっていた。
---
第六章 二十二年
プールの水は朝の六時が、いちばんきれいだ。
誰も泳いでいない水面は天井の蛍光灯をそのまま薄く映している。波ひとつなく息をひそめている。塩素の匂いが鼻の奥にしみる。
二十二年前の俺はこの匂いが、嫌いだった。
いまはたぶん好きだ。
好きになるまでに二十年かかった。
*
小野浩生四十七歳。
スイミングスクール〈オノスイミングクラブ〉の代表兼コーチ。
看板だけは立派だが、実体は市街地の外れにある二十五メートル六コースの小さなプールだ。ガラス張りの見学室と事務所と更衣室が二つ。生徒は、小学生と中学生が中心で、平日の夕方には駐車場が送迎の車でいっぱいになる。
この仕事を始めたのは二十六のときだった。
営業事務の会社を辞めたあの年。
辞めた理由をうまく説明できたことは一度もない。あのとき、母の背中を見送ったあとの俺はずっと何かにつまずいていた。毎日同じ時間に出社して、同じ画面に向かっていると、ふいに自分がどこにもいないような気がした。
〈それ以外の私が、どこにもいなかったの〉
母の言葉がふとした拍子に耳の奥で鳴った。
俺も、そうなのではないか。
会社員としての俺。誰かに指示されて動く俺。それ以外の俺は、どこにいるのだろう。
答えを探して、辿り着いたのが水だった。
*
高校の三年間俺は、水泳しかしていなかった。
県の大会で、決勝に残るくらいの選手だった。三年の秋には、国体の少年の部に出場している。結果は予選敗退。けれど、あの会場の青いプールの匂いと観客席のざわめきは、いまも体のどこかに残っている。
大学では一年で挫折した。肩を痛めた。
痛みは慢性になった。治療を受けて、薬を飲んで、リハビリをして、少し良くなって、また痛んで。そのくり返しのなかで、俺は少しずつ水が嫌いになっていった。
競技を辞めたかった。
けれど、「辞める」と口に出せなかった。
母がいつも、通院に付き添ってくれたからだ。仕事を休んで診察室の外のベンチで、何時間も待ってくれた。会計のたびに財布の中身をそっと数えていた。
その背中を見ていると言えなかった。
もう泳ぎたくないとは。
あの時期の俺は逃げ場がなかった。
*
二十六歳でもう一度泳ぎ始めた。
誰のためでもなかった。母のためでも、期待してくれた誰かのためでもない。ただ、自分で、もう一度、水に入りたかった。
地元のスイミングクラブにアシスタントコーチとして採用された。月給は会社員時代の六割になった。それでも、朝と夜に自分の練習ができた。
肩のリハビリで通った病院で、理学療法士の明と出会った。
「小野さん練習しすぎです。肩壊れますよ」
最初の診察で、いきなりそう叱られた。
初対面なのに遠慮がなかった。腰に手を当てて俺の顔を睨んでいた。
「でも、まだ泳げるんで」
「泳げるのと壊れないのは別でしょう」
その口調にぐうの音も出なかった。
彼女は俺より二つ年上だった。さばさばしていて、世話焼きですこぶる口が悪かった。リハビリの日は、毎回俺の食生活や睡眠時間を問い詰められた。
「ちゃんと食べてます?」
「食べてます」
「嘘」
母と同じ質問だった。母とは違って、俺の嘘を、彼女は、容赦なく見抜いた。
半年通ううちに、いつのまにか診察のあとに二人で飯を食うようになった。
一年後結婚した。
結婚式には数十人が来てくれた。大勢、というほどではない。それでも、そのひとりひとりが、俺たち二人のために時間をつくって、わざわざ来てくれたのだと思うと少しだけ、うれしかった。
友人のスピーチは、明の中学生のころの話だった。バスケ部だったころの明の話を聞いていると、不思議と涙が出てきた。
この子には、ずっと変わらないでいてほしい。
そう思った。
隣に立つ明は、控えめな白のドレスを着ていた。見慣れた姿のはずなのに、いっそう、きれいに見えた。
*
日本選手権の予選に初めて出場したのは二十九歳のときだ。
結果は予選敗退。
自己ベストにコンマ八秒届かなかった。
電光掲示板に自分の名前とタイムが出た。八位。決勝には遠い。壁を叩いたとき肩に鋭い痛みが走った。
プールサイドに上がって、しばらくタオルをかぶって座っていた。
周りの選手たちが次々と引き上げていく。若い選手の背中がまぶしかった。
ああ、終わったなと思った。
悔しくないわけではなかった。けれど、不思議と涙は出なかった。
観客席に明がいた。妊娠七か月の腹を抱えて、まっすぐこちらを見ていた。
目が合うと、彼女はぐっと親指を立てた。
笑ってしまった。
その日の夜居酒屋で、明は枝豆を食べながら言った。
「で、どうだった」
「だめだった」
「うん。で?」
「で、って」
「やりきったの?」
俺は少し考えた。
「……やりきった、と思う」
「じゃあ、いいじゃない」
明はさっぱりと言った。
「結果が出なかったことと、やらなかったことは、全然違うでしょ。ひろき、ちゃんとやったよ」
その言葉は慰めではなかった。ただの事実のように、そこにあった。
俺は、ジョッキを持ったまま、しばらく、何も言えなかった。
*
娘が生まれたのは、その年の十二月だった。
冬の冷たい朝だった。病院の窓の外で、雪がうっすら舞っていた。
産声を聞いた。
小さな小さな手が俺の指をぎゅっと握った。
名前をどうするか明と何日も話し合った。結局ふたりだけで決めた名前を娘はいまもあまり気に入っていない。
「ねえ、お父さん」
先月娘に言われた。
「もっと普通の名前にしてほしかった」
「普通ってなんだよ」
「田中とか佐藤とか」
「名字じゃないか」
笑った。娘も笑った。
その笑い方は、俺にも明にも似ていなかった。誰にも似ていない彼女だけの笑い方だった。
*
スクールを開いたのは三十六歳のときだった。
勤めていたクラブの経営が傾いて、閉鎖が決まった。生徒たちの行き場がなくなると聞いて、居ても立ってもいられなくなった。借金をして、潰れかけた市営の廃プールを買い取り設備を直し水を張った。
最初の一年は、生徒が七人しか来なかった。
七人でも毎日水を入れ替えた。ろ過装置を点検した。受付の電話番号を手書きのチラシに書いて、近所のポストに一軒ずつ入れて回った。
二年目で少しずつ増えた。
三年目に一度大きな失敗をした。
台風の夜屋根の一部が崩れて、プールが使えなくなった。保険の手続きが遅れて、修繕費の工面がつかず三か月間休業せざるを得なかった。生徒は半分に減った。
帳簿を見ながら、事務所の床に座り込んだ夜がある。
もう、だめかもしれない、と思った。
明が何も言わずに隣に座った。
それから、俺の頭を、ぽん、と叩いた。
「馬鹿」
「……なにが」
「一緒にやろスクール」
その一言で肩の力がすっと抜けた。
翌月明は自分の勤め先を辞めた。それから、スクールの事務と、機能訓練の担当を、引き受けてくれた。
たかが仕事を辞めたくらいで大袈裟だが、彼女は自分の意志で俺に人生を預けてくれた。この子はぜったい幸せにする。そう誓った。
*
朝練を終えた小学生たちが、ばらばらと更衣室から出てくる。
「先生、おはようございます!」
「おはよう。ちゃんと髪乾かせよ」
「はーい!」
濡れた髪のまま走っていく子どもたちを俺は見送った。
そのなかに一人立ち止まっている少女がいた。
小学二年生くらい。小さな体に大きすぎる水泳帽をかぶっている。
「先生」
「どうした」
「わたし、きょうも、十五メートルで、やめちゃった」
少女は、うつむいていた。
彼女はこの春に入ってきた子だった。水が怖くて、最初は、顔をつけるのにも、二か月かかった。
「やめちゃったか」
「うん。みんなは二十五メートル泳げるのに」
俺は少女の前にしゃがんだ。
「十五メートル泳げたんだろ」
「うん」
「先月は、何メートルだった?」
「……五メートル」
「じゃあ、十メートル増えたな」
少女はきょとんと俺を見た。
「でも、みんなは」
「みんなは、みんなだ」
俺は笑った。
「何メートルかは、どうでもいいんだ。今日、自分で決めて水に入って行けるところまで行った。やりきったなら、それでいい」
少女はじっと俺の目を見ていた。
「ほんとに?」
「ほんとに。やりきれなかったら、明日またやればいい。それもいい経験だ」
「……へんなの」
そう言って、少女はちょっとだけ笑った。
その背中を見送りながら、俺はふと自分が口にした言葉の出どころに気づいて、立ち尽くした。
自分で選んで、やりきったなら、それでいい。
あの縁側で、母が「自分で選んだの」と言った声とどこか重なっていた。
*
母とはあの日から会っていない。
最初の数年は、毎年、盆と正月に、手紙を書いた。園の住所宛てに。返事は一度だけ来た。
〈元気にしています。あなたも体に気をつけて。〉
それだけの短い葉書だった。
その後手紙は、宛先不明で戻ってきた。
叔父に聞くと、「あいつは元気らしい」としか言わなかった。叔父自身も、詳しいことは知らなかったのだと思う。その叔父も五年前に亡くなった。
母の携帯の番号は、いつのまにか繋がらなくなっていた。
ニュースで〈ハイドランジアの園〉の名前を見なくなったのは、いつごろからだろう。気づけば検索しても、古い記事しか出てこなくなった。
もちろん、あの教祖に対して怒りはある。多少母に対してもだ。二十年一緒にいた記憶があの園での数時間で上書きされていく。そんな母を見ているのがつらかった。母を止められなかった自分にも怒りが湧く。その事実から避けるかのように目を背けていた。
ときどき夜中にふと目が覚めて、考えることがある。
母はいま、どうしているのだろう。
元気だろうか。ご飯を食べているだろうか。
あの縁側で庭を見ているだろうか。
答えはわからない。
わからないまま二十二年が過ぎた。
*
十月の終わりの夜帰宅すると、居間の食卓に模試の結果が広がっていた。
「お父さん見て」
明が書類を指さした。
「第一志望判定Cよ。これ、まずくない?」
「……C、か」
「それとこの滑り止め。これほんとに受けるの? ちゃんと、もうひとつ確実なところを押さえておかないと」
食卓の向こうに娘が立っていた。部屋着のまま腕を組んで、むすっとしている。
「お母さんうるさい」
「うるさいって何よ。あなたのこと考えてるんでしょ」
「考えすぎ」
「考えなさすぎるよりマシでしょ!」
いつもの光景だった。
明は、娘のことになると、途端に、容赦がなくなる。
俺は上着を脱ぎながら、二人を眺めた。
台所の窓の外で、秋の風が枯れかけたアジサイを揺らしていた。庭の隅に明が毎年手入れしている株だった。
色の褪せた花が茶色くなって、それでも、ゆっくりと枝先にしがみついていた。
花が終わっても。
色が変わっても。
それでも、そこにある。
ふとその形をきれいだと思った。
*
その夜スクールの事務所で、売上の確認をしていると郵便受けに書留が届いた。
差出人の名前が目に入った。
佐竹 ひろおみ
手が止まった。
二十二年ぶりに見る名前だった。
封筒は厚かった。
何かが入っている。
俺は、しばらく、それを、手に持ったまま、動けなかった。
事務所の窓の外で、夜のプールが、静かに、青く光っていた。
---
第七章 教祖からの連絡
封筒の中には、二通の手紙と小さな鍵が入っていた。
一通目は便箋三枚。几帳面な細い万年筆の字。
〈小野浩生様
突然のお手紙をお許しください。かつてハイドランジアの園で、一度だけお目にかかった佐竹ひろおみと申します。
本来であればお電話かお目にかかって、お伝えすべきことでした。けれど、私にはお電話をかける資格もないように思われ書状にいたしました。
芳野さんが本年の三月に亡くなられました。〉
そこまで読んで、視線が、紙の上で、止まった。
文字が読めなくなった。
目は、確かにそこにあるのに、文字が、意味を結ばない。何度か最初の行に戻った。同じ文が同じ形で、そこに書かれていた。
亡くなられました。
事務所の蛍光灯がジジと小さく鳴った。
外の駐車場で、誰かの車のドアが閉まる音がした。
俺は、その場に座り込んだわけではなかった。ただ、立ったまま手紙を持っていた。
三月に。
今日は十月だ。
七か月知らなかった。
七か月のあいだ俺は普通に朝を迎えて、普通にプールの水を入れ替えて、普通に娘の模試の判定に一喜一憂していた。
母はもうこの世にいなかったのに。
*
続きを読んだ。
〈病名は膵臓の病気でした。見つかったときには、すでに手の施しようのない状態でした。ご本人は最期まで、とても穏やかでした。
このお手紙をこれ以上お書きするのは失礼かもしれません。けれど、芳野さんから生前にくり返し頼まれていたことがあります。
「もし私が先に逝ったら、息子にはすべてを話してください。ただし私のほうからは会いに行けませんでした、とだけ伝えてください」
同封した、もう一通の手紙と、鍵は、そのためのものです。
鍵は、芳野さんが長く暮らしていた三浦半島の団地の部屋のものです。住所は別紙に記しました。中にあの方の日記があります。
お読みになるかどうかは、あなたがお決めください。私はあなたが読まない選択をなさっても、それを決して責めません。
佐竹ひろおみ〉
便箋を膝の上に置いた。
しばらく、そのまま動かなかった。
事務所の窓の向こうの夜のプールが青い。
母の最期を知らなかった。
それを、教えてくれた人が、あの、猫背の、佐竹だった。
そのことが、なぜか悔しくて仕方がなかった。
*
明に話したのは、その夜寝室の暗がりのなかだった。
話しているあいだ明は一度も口を挟まなかった。娘はもう眠っていた。
話し終えたとき、明は、俺の背中に、そっと手を置いた。
「……そう」
「うん」
「行くの」
「行く」
「会うの。その佐竹さんに」
「会いたい。会ってちゃんと聞きたい」
「そう」
明は少し黙った。
「私も行こうか」
「だいじょうぶ。一人でいける」
「そう言うと思った」
明は俺の肩をぽんぽんと叩いた。
「ねえ」
「うん」
「おっぱい揉む?」
その一言で笑ってしまった。
明も、やってやった、という顔で、俺を見て笑っている。
笑いながら気づいた。
俺はまだ泣いていなかった。
ずっと涙をどこかに置き忘れていた。
闇の中で、天井がゆっくり滲んでいった。
明は何も言わなかった。ただ、俺の背中に、あたたかい手を、置いていた。
*
佐竹と会ったのは翌週の土曜だった。
場所は、横浜の港が見える喫茶店だった。佐竹が指定してきた。
窓際の席に佐竹は先に座っていた。
二十二年ぶりに見る顔はすっかり老いていた。髪は真っ白で頬の肉が落ちている。それでも、あのカーディガンと、縁なしの眼鏡と、遠慮がちな猫背は、変わっていなかった。
俺の顔を見ると、佐竹は、立ち上がって、深く頭を下げた。
「ご足労いただいて、ありがとうございます」
「いえ」
「お悔やみを申し上げます」
「……ええ」
席に着いた。
コーヒーが運ばれてくるまで、どちらも何も話さなかった。窓の外で、白い船がゆっくり港を滑っていった。
先に口を開いたのは俺だった。
「園は、どうなったんですか」
佐竹はカップの縁を指でなぞった。
「十四年前に解散しました」
「十四年」
「ええ。あなたが園を訪れてから六年後に」
佐竹は淡々と話した。
始まりは、津田さんの息子だったそうだ。あの電話もよこさなかった息子。彼が弁護士と家族会を立ち上げた。次々と同じ立場の家族が集まった。メディアが取り上げた。国会議員が質問をした。行政の調査が入った。
「私は争いませんでした」
佐竹は静かに言った。
「争えなかった、というほうが正しいかもしれません。彼らの言い分は事実でしたから」
寄付の返還は、佐竹自身の資産を投じて行った。園の土地と建物を売り足りない分は後に始めた事業の利益で、少しずつ払い続けた。
「事業というのは」
「介護施設向けの記録システムを作る会社です。小さな会社ですが思いのほか、うまくいきました」
佐竹は自嘲するように笑った。
「皮肉ですよね。成果で人を測る社会が嫌で、園を作ったのに。園を畳んだあとは、成果で金を稼いでいる」
「……津田さんたちは」
「津田さんご夫妻は、五年前と三年前に、それぞれ、亡くなりました。最期は、息子さんが迎えに来られました」
俺は思わず顔を上げた。
「息子さんが」
「ええ。奥様が亡くなる前に電話をかけたそうです。『会いたい』と」
佐竹は窓の外を見た。
「間に合ってよかったと思います」
その一言に嘘はなかった。
*
「母は」
俺は尋ねた。
「園が解散したあと母は、どうしていたんですか」
佐竹は一度目を閉じた。
「あの方は最後まで、園に残られました。解散の日まで、毎日台所に立っておられた」
「……」
「解散が決まったとき私はあの方に尋ねました。これから、どうなさいますか、と。あなたのところへ、戻られますかとも」
胸の奥がきゅっと鳴った。
「芳野さんは首を振りました」
「なぜ」
「『戻れない』と」
佐竹はゆっくり言った。
「『いま、息子の家庭に、私が現れたら、壊してしまう』と」
言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「息子の、家庭?」
「あなたは、そのころすでに結婚されていてお嬢さんがいらっしゃった」
佐竹は鞄から、一冊のクリアファイルを取り出した。
「芳野さんは、あなたのスクールの公式のSNSをずっと見ていらっしゃいました」
テーブルの上にファイルが広げられた。
中に何枚もの印刷された写真が入っていた。
プールサイドで笑う俺の写真。生徒たちと集合写真を撮っている俺。大会の応援席で旗を振っている明。生まれたばかりの娘を抱いている俺。保育園の運動会で、娘と手をつないで走っている俺。
全部スクールの公式アカウントに明が載せたものだった。
その一枚ずつが丁寧にラミネート加工されていた。
「……これ」
「あの方が自分で、印刷されたものです。プリンターを持っていなかったので、図書館のコピー機で」
写真の裏に、鉛筆で、小さく、書き込みがあった。
〈二〇XX年 七月 元気そう〉
〈二〇XX年 十二月 赤ちゃんうまれた。かわいい〉
〈二〇XX年 五月 予選おしかった〉
最後の一枚を手に取った。
俺が日本選手権の予選で、八位になった日の写真だった。
電光掲示板の前で、うなだれている俺の後ろ姿。
裏にはこう書いてあった。
〈よくがんばった〉
紙の端が涙でにじんでいた。
いや、涙は俺のものだった。
気づけば頬が濡れていた。
*
佐竹は言葉を選ぶように続けた。
「芳野さんは、あなたの人生をとても楽しんでおられました」
「……楽しんで」
「ええ。水泳の結果が思わしくなかったときも。仕事で大変なことがあったときも。台風でプールが壊れたときも」
佐竹はほんの少し笑った。
「そのたびに私にその話をなさるんです。心配するでもなく嘆くでもなく、まるで、連続ドラマの続きを毎週楽しみにしているみたいに」
「……ドラマ、ですか」
「失礼な言い方でしたね。ただ、本当に嬉しそうな顔でした」
佐竹は遠くを見るような目をした。
「……」
「不思議な表情でした。二十二年、離れていたはずなのに、まるで数か月実家に帰っていない息子さんを見ているようでした」
その言葉で喉がきしんだ。
数か月。
二十二年を数か月のように。
母にとって、俺は、離れていても、ずっと、近くにいたのだ。
画面の向こうの手の届く場所に。
「なぜ」
声が掠れた。
「なぜ会いに来なかったんですか」
佐竹は静かに首を振った。
「あの方は、何度も会いに行こうとされました」
「え」
「あなたのスクールの近くまで、行ったこともあるそうです。駅の改札を出てプールの建物の前まで来て、それでも中に入れなかったと」
言葉が出なかった。
「ガラス越しにあなたが、子どもたちを教えているのが見えたそうです。笑っておられたと」
佐竹は目を伏せた。
「『あんなに楽しそうな顔を私が壊してしまうかもしれない』と」
「壊れわけないだろ」
思わず声が出た。
「壊れるわけない。そんなこと」
「ええ」
佐竹は頷いた。
「私もそう申し上げました。何度も。けれど、あの方はどうしても」
佐竹の声がかすかに震えた。
「息子の幸せを守りたかったのだと思います。たとえそれが会わないという形であっても」
窓の外で汽笛が鳴った。
長く低く港に響いた。
*
「芳野さんは最後まで、日記を私に預けようとはなさいませんでした」
佐竹は膝の上で指を組んだ。
「鍵はあの方から、お預かりしていたものです。お送りしたのが、それです。日記はお部屋にあるはずです。私は中を読んでいません」
佐竹は深く頭を下げた。
「どうかあなたが」
俺は何も言えなかった。
*
帰りの電車の中で、俺は、鍵を、掌に握りしめていた。
開けるのが怖かった。
母が俺のことをどう書いているのか。
恨んでいるのかもしれない。寂しがっているのかもしれない。それとも、何も書いていないのかもしれない。
どの答えも怖かった。
窓の外を夜の街の灯りが流れていく。
ふと思い出した。
あの団地の押入れの上段。
バタークッキーの丸い缶。
蓋の端が少し凹んだあの缶。
あのときは開けなかった。
いまもあの押入れに、あるのだろうか。
自分の今まで塞いでいた記憶と不安のすべてが少しずつ漏れてくる音がした。
冷たい金属が、少しずつ、体温で、ぬるくなっていく。
明日行こう。
---
第八章 母の日記
団地は、三浦半島の海風の強い高台にあった。
三階の角部屋。玄関の鍵穴に差し込むと、少し固かったがかちりと回った。
ドアを開けると、埃と、樟脳と、古い畳の匂いがした。
六畳の和室に段ボールが五つ。小さな簞笥が一棹。折りたたまれた布団。壁際に丸い鏡台。
母の部屋にあった鏡台だった。
鏡の表面にうっすらと俺の顔が映っている。四十七歳の目の下に隈のある疲れた男の顔。
右の眉がまた少し上がっていた。
*
押入れの上段に見覚えのある缶が置いてあった。
バタークッキーの丸い缶。
蓋の端がわずかに凹んでいる。
両手で持ち上げると中で、紙の擦れる音がした。
膝をついて床に座った。
蓋に手をかけた。
開けた。
一番上に小さな紙が一枚あった。
県大会のプログラムだった。
表紙の隅が黄ばんで、折り目が深くついている。中を開くとボールペンで、赤い丸がつけられている行があった。
〈男子 小学四年 五十メートル自由形 第三組 四レーン 小野浩生〉
そのすぐ横に母の字で、書き込みがあった。
〈四レーン。ひろき緊張してた。でも、スタート台に立ったら顔つきがかわった。かっこよかった〉
日付は俺が十歳の夏だった。
喉の奥が熱くなった。
その下にまた別の紙が重なっている。
水着のタグ。大会の参加賞のメダル。通知表の隅に貼られた記録会の結果の切り抜き。
どれにも鉛筆の書き込みがあった。
〈二十九秒八。ベスト〉
〈ちょっとおしい〉
〈ひろき悔しくて、帰りのバスで黙っていた。何も言わずそっとお菓子を渡した〉
ひとつずつ読んだ。
読むたびに記憶が痛みと一緒によみがえってくる。
悔しくて黙っていたバス。
そのとき母がお菓子を渡してくれたこと。
俺はそのお菓子を食べなかった。ふてくされて受け取りもしなかった。
母は何も言わなかった。
そのことまで書いてあった。
〈受け取ってくれなかった。でも、いい。まだ気持ちが追いついていないだけ。明日の朝にはまた笑ってくれる〉
ページをめくる手が震えた。
*
缶の底のほうに診察券が束になって入っていた。
整形外科。リハビリテーション科。肩の専門医。電気治療。鍼灸院。
診察券の裏に通院した日付が細かい字で、ぎっしりと書かれている。
その下に領収書の束。
一枚ずつ母の字で、メモが添えてあった。
〈今日肩の注射。痛そうだった。顔をしかめて、でも「大丈夫」って言った。強い子〉
〈先生に「そろそろ競技は難しいかも」と言われた。ひろきは何も言わなかった。帰り道少し泣いたと思う〉
〈でも翌朝プールに行った。あの子は、あきらめきれない〉
あのとき。
俺にとって、あの時間は苦痛でしかなかった。
病院の待合室の消毒液の匂い。冷たい診察台。リハビリの焼けつくような痛み。自分の肩が自分のものじゃなくなっていくような、あの恐怖。
競技をやめようと何度も思った。
けれど、母に言えなかった。
母が仕事を休んで、診察室の外で待っていてくれたから。
けれど、母にとってあの時間は。
紙の上の母の字を目で追った。
〈ひろきと一緒に病院に行けるのが、うれしい。変な話だけど、あの子がいつもは学校や練習でいないから。この待合室の時間だけは二人きりになれる〉
息が止まった。
〈帰りにふたりで、うどんを食べる。あの子はいつも、かけうどん。お母さんは、きつねうどん。ひとくちあげる。あの子は「いらない」と言うけど、ちゃんと食べる〉
嘘だと思った。
母は苦しんでいたはずだ。俺の怪我を見ているしかなくて。俺の将来を案じていたはずだ。
けれど、紙の上には、俺の知らない、別の時間が、確かにあった。
うどんを食べた帰り道。
ふたりで、夕日を見ながら歩いた橋の上。
母は何を思っていたのだろう。
缶の底の一番下に一枚のメモが貼りついていた。
〈この缶には、あの子と生きた時間が入っている。私がいなくなっても、誰にも捨てられませんように〉
缶を胸に抱きしめた。
金属が冷たかった。
そのまま、しばらく動けなかった。
*
部屋の電気は天井の蛍光灯がひとつだけで、薄暗かった。
俺は缶を脇に置いて、日記のノートを取り出した。
押入れの奥に同じ大学ノートが何冊も重ねてあった。
一冊目の表紙に鉛筆で、〈一〉とだけ書かれている。
ページを開いた。
最初の日付は、園を訪れるよりずっと前の去年の十一月だった。
*
〈十一月〉
まゆ会の帰りに純さんが言った。「芳野さん話を聞いてくれる人がいるの。占いの先生なんだけど、占いより話を聞くのが上手な人」
断るつもりだった。けれど、足が商店街の方へ向いてしまった。
二階の小さな部屋で、先生はお茶を出してくれた。
わたしは、浩生の運勢を見てほしいと言った。就職して三年体を壊していないか心配で、と。
先生はカードに手を伸ばさなかった。
「息子さんの話はあとで、いくらでも聞きます。今日は、芳野さんの話を聞かせてください」
わたしは答えられなかった。
わたしの話、というものが、わたしの中に、なかった。
長い時間湯呑みを見ていた。
先生は何も言わずに待っていた。
帰り際、見料を払おうとしたら、先生は、首を振った。
「今日は何も占っていません。お茶を飲んだだけです」
〈十二月〉
水曜日の午後先生の部屋に行くことになった。先生がそう言ってくれたから。
「毎週来てください。ただし、何もしなくていい日にしましょう。話さなくてもいい。寝てしまっても、いい」
最初の水曜日わたしは落ち着かなかった。
何もしないでいると、手が探してしまう。洗うもの畳むもの片づけるもの。
先生の部屋には何もなかった。ただ、窓から冬の光が差していた。
二時間座っていた。
帰り道不思議なことに疲れていた。働いたあとの疲れとは違う疲れだった。
〈一月〉
お正月浩生は帰ってこなかった。仕事が忙しいと電話があった。
わかっている。あの子はあの子の人生を生きている。それが、いいことなのも、わかっている。
けれど、元日の夜団地の台所でおせちを一人で食べていたら涙が出た。
わたしは、もう誰の役にも立っていない。
水曜日に先生にそう言った。
先生はしばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「芳野さんは役に立っているときだけ、ここにいていいと思っているのね」
図星だった。
「それは、芳野さんのせいではないと思います。長いあいだ、そうやって生きてこられたから」
わたしは泣いた。
先生は背中をさすってくれた。
何も解決しなかった。ただ、その日は、少し、息がしやすかった。
〈三月〉
先生が、今日、初めて、園の話をした。
「私が通っている場所に芳野さんと同じ顔をした人たちがいます。ここと同じで、何もしなくていいと言ってくれる場所です。もし、よかったら、一度、見に来てみませんか」
それから、先生は付け足した。
「来たくなければ来なくていいんです。水曜日はこれからも続けます。それは園とは関係なく」
半年先生はその話をしなかった。
誘われなかったことが、いまは、ありがたかった。
先生の優しさを疑う気持ちは、まったくなかった。
〈四月〉
一度だけ見学に行った。縁側から庭のアジサイが見えた。まだ葉だけだった。
夕方みゆきさんが「ご飯食べていきませんか」と言った。
わたしは断らなかった。
〈五月〉
入ることにした。
浩生には言えなかった。
あの子は、わたしに「どうして」と聞くだろう。ちゃんと答える自信がない。あの子の人生に心配を増やしたくない。
緊急連絡先の欄を長いあいだ見つめた。
書けなかった。
空欄のまま封筒に入れた。
*
それから、白い余白が数行あって俺が園を訪れたあの翌週の日付が来た。
*
〈六月 第二日曜のあと〉
今日浩生が来た。
あの子は大きくなっていた。顔が少しとがっていた。眉のあたりが、わたしに似ている。
縁側でふたりで庭を見た。
あの子が泣いていた。
泣かせるつもりは、なかった。
あの子の手を握ってやればよかった。それとも、もっと言葉を、選べばよかった。
わたしは母親失格かもしれない。
けれど、あの場所に残りたいと思った。それは嘘ではない。
帰り際、あの子は、わたしの顔を、見なかった。
背中だけが坂を下っていった。
わたしは、あの背中をずっと見ていた。
見えなくなるまで。
*
〈七月 雨の日〉
園に来て一か月になる。
朝目が覚めたら鳥の声がした。
台所に立った。みゆきさんが「手伝ってくれる?」と言ったので、大根を切った。
切りながら思った。
わたしはいま誰のためでもなく、この大根を切っている。
それが不思議だった。
これまでは、ずっと、誰かのために、切っていた。浩生のために。内職の納期のために。職場の人のために。
いまは、ただみんなの昼ごはんのために切っている。
けれど、それは、誰かのため、というのとも、少し違う。
ただ、切りたいから切っている。
包丁の音が気持ちよかった。
水曜日は、いまも、バスに乗って、先生の部屋に行く。何もしない二時間は変わらない。園とは関係なく。
*
〈十月〉
夜中に目が覚めた。
浩生のことを考えていた。
あの子は、いま何をしているのだろう。ご飯は食べているのか。
手紙が届いた。開けるのが怖かった。
〈元気ですか。俺は元気です。仕事を辞めようと思っています〉
辞める、という言葉に、胸が、ざわめいた。
けれど、返事に、「辞めないで」とは、書かなかった。書けなかった。
代わりに〈元気にしています。あなたも体に気をつけて。〉とだけ書いた。
本当はもっと書きたかった。
書いてしまったら、あの子の邪魔になる気がした。
ペンを置いて窓の外を見た。
アジサイの葉がもう色づいていた。
*
ページをめくるたびに日付が進んだ。
一年。二年。三年。
日記の中の母は、少しずつ変わっていった。
最初は、おそるおそる日々を書き留めていた。ご飯の献立。庭の花。みゆきさんの冗談。
やがて書く量が増えていった。
自分の気持ちをはっきりと書くようになった。
〈今日佐竹さんにお礼を言った。『ここに置いてくれて、ありがとう』と。佐竹さんは困った顔をした。「私は何もしていません」と〉
〈それでも、わたしは、ありがとうと言いたかった〉
〈今日は庭に小さな畑をつくった。トマトの苗を三本植えた。ほんとに育つかな?(笑)〉
〈トマトは実をつけた。赤くて少し酸っぱかった。津田さんと半分こして食べた。「うまいねえ」と津田さんは笑った〉
〈生きていて、よかった、と、はじめて思った〉
読みながら気づいた。
母は幸せだったのだ。
本当に。
偽りでも洗脳でもなく。
母は、自分の足で、自分の幸福を、見つけていたのだ。
それが、嬉しいのか、悔しいのか、自分でも、わからなかった。
ただ、確かに、母の幸福は、そこにあった。
*
ノートの途中から、日記の中に俺が出てくるようになった。
〈浩生が会社を辞めたらしい。叔父さんから聞いた。心配で眠れなかった〉
〈でも翌朝考えた。あの子は自分で決めたのだ。わたしがあの縁側で、自分で決めたように〉
〈信じようと思った〉
〈浩生がスイミングスクールで働き始めたと聞いた。うれしい。水の匂いのする場所に戻ったのだ〉
〈スクールの名前を検索した。写真があった。あの子が笑っていた〉
〈図書館で印刷した。大事にしまっておく〉
〈結婚したとスクールのページに書いてあった。お嫁さんは明さんというらしい。写真を見た。しっかりしていそうな、頼もしい顔。この人があの子の隣にいてくれるなら、安心〉
〈わたしは何もできなかった。でも、いい。わたしは、あの子の人生を、遠くから、応援する〉
涙がノートの上にぽたぽたと落ちた。
拭こうとして、やめた。
母の字が少し滲んだ。
*
日記には水泳の結果についても、書かれていた。
〈予選八位。おしかった。あとコンマ八秒。写真の中のあの子は、うなだれていた〉
〈でも、わたしは、あの子の泳ぎが、好きだ。結果がどうでもあの子が水の中で、まっすぐ前を向いている姿が好きだ〉
〈「よくがんばった」と声に出して言った。誰にも聞こえないのに〉
別のページにはこう書いてあった。
〈スクールが台風で、被害を受けたらしい。ニュースで見た。駆けつけたかった。でも、わたしが行っても何もできない〉
〈それに、あの子には、もう、頼れる人がいる。明さんが、そばにいる〉
〈わたしは、ここで祈ることしかできない〉
〈どうかあの子が折れませんように〉
その夜俺は事務所の床に座り込んで、帳簿を見ていた。
あのとき明が隣に座ってくれた。
そして、その同じ夜、遠くで、母が、祈っていたのだ。
両方に支えられていた。
俺は、ずっとひとりで立っているつもりだった。
違った。
見えないところに、いつも、誰かが、いた。
*
園が解散した日のページは短かった。
〈園がなくなる〉
〈みんな泣いていた。佐竹さんは深く頭を下げた〉
〈わたしは台所に立った。最後の味噌汁をつくった〉
〈ここでわたしは生きていた。それは本当のことだ。それを誰も消せない〉
〈明日からひとりで生きる〉
〈怖い。でも、行こうと思う〉
その後の日記は、小さな町の小さなアパートの暮らしになった。
保育園の給食の手伝い。近所の商店街。公民館の手芸の教室。
毎日小さな出来事が淡々と書かれていた。
〈今日は風が気持ちよかった〉
〈隣の人に柿をもらった。あまかった〉
〈お風呂に入浴剤を入れた。いい香り〉
その一行一行が、静かに、母の日々を、物語っていた。
母は生きていた。
俺の知らない町で、俺の知らない人たちと笑ったり困ったり柿を食べたりしながら。
自分の人生を。
*
最後のノートは薄かった。
最後の日付は今年の二月だった。
病名を告げられたあとの日記だった。
〈今日お医者さんからお話があった。あまり長くはないそうだ〉
〈驚くかと思ったけれど、思ったより静かな気持ちだった〉
〈怖くないと言えば嘘になる。でも、悔いはあまりない〉
〈ひとつだけ、あるとすれば〉
ページの下半分が空白だった。
次のページに続きがあった。
〈浩生に会いたい〉
鉛筆で書かれていた。
濃く何度もなぞった跡があった。
〈会いたい。会って顔を見たい。「ごはん食べてる?」と聞きたい。孫の顔も見たい〉
〈でもわたしは会いに行かない〉
〈あの子の幸せはあの子のものだから。わたしが壊してはいけない〉
〈それでも会いたい〉
〈会いたい〉
その二文字が、ページの余白に、いくつも、小さく、書き込まれていた。
震えている字だった。
力のない細い字だった。
最後のページには、日付はなく、ただ、こう書かれていた。
〈浩生へ〉
〈この日記は、あなたに読ませるために書いたものではありません。もし読んでしまったのなら、ごめんなさい〉
〈わたしは、あなたを愛していました。あなたが水泳で、いい結果を出しても。出さなくても。会社を辞めても。辞めなくても。ずっと愛していました〉
〈結果に関係なく、あなたは、わたしの、大切な子でした〉
〈苦しかった時間のことを、あなたはもう忘れていいと思います。でも、もし、思い出してしまったときは、こう思ってください。あのとき、お母さんはあなたと一緒にいられて、うれしかったと〉
〈それを押しつけたいわけではありません〉
〈あなたが、辛かったことは辛かったこと。それはそれで本当のことです〉
〈わたしが、うれしかったことも、本当のことです〉
〈どちらも本当でいい〉
〈ありがとう〉
〈いってらっしゃい〉
ノートを閉じた。
部屋の蛍光灯がジジと鳴った。
俺は声を殺さなかった。
誰もいなかった。
あの古い和室の中で、四十七歳の男が、子どものように、泣いた。
*
どれくらい時間が経っただろう。
涙が尽きたあとふと考えた。
あの時期の俺を。
競技をやめたいと、思っていたあの俺を。
母は、結局俺の「辛さ」を知らなかったのかもしれない。いや、気づいていたのかもしれない。そのどちらでも、いまは確かめようがない。
だからといって、あのとき辞めたいと思った自分が間違っていたわけではない。
苦しかったものは苦しかった。
それを、無理に「意味があった」と、言い換える必要は、ない。
苦しみがあったから、いまの俺があるなどと、きれいにまとめてしまいたくもない。
ただ。
母は俺との時間すべてを愛していた。
それだけは確かだった。
その事実だけが部屋の薄暗がりのなかで、静かな小さな灯りのように俺の中に、とどまっていた。
缶をもう一度胸に抱いた。
雨戸の隙間から、夕暮れの光が細く差し込んでいた。
外で、風が団地の隙間を鳴らしていた。
帰ろう。
俺は日記と缶を鞄に入れた。
それから、母の鏡台の鏡に映る自分に小さく頷いた。
右の眉が、母と同じ形で、そっと、上がっていた。
---
第九章 いつもの食卓
共通テストの朝は思ったよりも、いつも通りだった。
娘は六時半に起きてきた。寝ぐせのついた頭で台所に入ってきて、冷蔵庫の前で立ち止まった。
「……ヨーグルト」
「テーブルに出してあるよ」
明がフライパンを振りながら言った。
「卵焼きは? 食べる?」
「いらない」
「食べなさい」
「いらないってば」
「受験の日に朝ご飯抜く子がいますか」
やり取りを聞きながら、俺はコーヒーを飲んでいた。
ふと娘の手が小さく震えていることに気づいた。
スプーンを持つ指先がかすかにカチカチと皿の縁を鳴らしている。
俺は何も言わなかった。
娘の向かいに座って、自分の皿から、卵焼きをひとつ、取った。
少し焦げていた。
「それ、お父さんが作ったやつ?」
「ああ」
「焦げてる」
「焦げても、うまいんだよ」
娘はじっと俺の皿を見た。
それから、黙って、卵焼きをひとつ、箸でつまんだ。
口に運んで、咀嚼して、少し、顔をしかめた。
「しょっぱい」
「ああ」
「でも、食べる」
娘は、そう言って、皿の上の卵焼きを、全部、食べた。
玄関で、靴を履く娘の背中を、俺と明は、並んで見送った。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
「気をつけてね。受験票、持った? 筆箱、大丈夫?」
「大丈夫だってばお母さん」
娘は、ドアノブに手をかけて、一度、振り返った。
「……お父さんは?」
「ん?」
「お父さんは言ってくれないの。いってらっしゃい、って」
「……ああ」
そういえば俺は、まだ何も言っていなかった。
「何でもない。じゃあ」
娘は扉を開けた。冬の朝の冷たい光が玄関に差し込んだ。
その背中に俺は言った。
「いってらっしゃい」
扉がぱたりと閉まった。
明が、隣で、ほう、と息を吐いた。
「あの子緊張してたね」
「ああ」
「私さっきおなか痛くなった」
「おまえが緊張してどうする」
「だって、親ってそういうものでしょ」
明は拗ねたように、そっぽを向いた。
俺は笑った。
笑いながら思った。
母も、あの団地の玄関で、同じように、俺の大会の朝を、見送ってくれていた。
いってらっしゃい。
あの声を俺は、どれだけ聞き流してきたのだろう。
今になって、一語一語が、やけに、あたたかく、胸に響いた。
*
それから数日後。一月の夜は早く暮れる。
夕方の六時には、窓の外はもう真っ暗だった。台所の磨りガラスに湯気が白くこもっている。鍋の中で、鶏と大根がことこと煮えていた。
今夜の夕食は俺の担当だった。
母のレシピは、ノートの中にいくつも書いてあった。大根と鶏の煮物。味噌汁の出汁のとり方。卵焼きを焦がさないコツ。
〈卵焼きは火を弱くして、あせらない。焦げても、おいしいけれど〉
そう書いてあるのを見つけたとき笑ってしまった。母は確かによく焦がしていた。
それを、いま、見よう見まねで、作っている。
味見をした。
少し、しょっぱかった。
母の味とはまだ違った。
*
食卓には、俺と明と娘の三人が着いていた。
居間の隅の小さな棚に母の写真が置いてある。
母の部屋で見つけた数少ない一枚だ。園の庭でアジサイの前に立つ母。まだ五十代の顔をしている。口を結んで、少しだけ照れたように笑っていた。
あの日縁側で見た顔の続きだった。
その横にバタークッキーの缶が並べて置いてある。
娘は最初それを見て、不思議そうな顔をした。
けれど、なにも聞かなかった。ただ、ある日学校から帰ってきたとき棚の前でぺこりと小さく頭を下げていた。
俺はその背中を見ないふりをした。
「で」
明が箸を置いた。
「共通テストの自己採点もう一回見せて」
「やだ」
「やだじゃなくて」
「もう見たでしょ」
「見たけど確認するの。第一志望のラインギリギリでしょ」
「ギリギリだから見たくないの」
娘はむすっと口を結んで、味噌汁をすすった。
明はため息をついた。
「ちゃんと滑り止めを押さえておかないと」
「押さえてるよ」
「どこ?」
「この前言ったじゃん」
「あそこ通学一時間半かかるのよ。それ、本気で通うつもり?」
「受かってから考える」
「受かってから考えたら遅いのよ!」
明の声が少し高くなった。
「滑り止めはここを受けておいてほしいよね。大学は行ってほしいよね最低限」
それは半分独り言のようだった。
けれど、台所にいる俺にもはっきり聞こえた。
娘が眉をひそめた。
「お母さん、それ、何回目?」
「何回でも言うよ」
「うんざりなんだけど」
「うんざりでも言うの。あなたのためなんだから」
「それいちばん言われたくないやつ」
娘はぷいと顔をそらした。
明はむっとして口をとがらせた。
ふたりの背中が、同じ形に、少し、丸まっている。
似ているなと思った。
顔は全然似ていない。それなのに、怒ったときの肩の上げ方が、そっくりだった。
*
煮物を取り分けた。
鍋の湯気の向こうで、明はまだ何か言いたそうだった。娘は茶碗に顔を埋めている。
俺は箸を持った。
それから、娘の顔をちらりと見た。
目の下にうっすら隈ができている。
この三か月、娘は、毎晩、遅くまで、机に向かっていた。
参考書を開いたまま居眠りしている日もあった。
俺は何も言わなかった。
声をかけようとして、何度かやめた。
何を言えばいいのか、わからなかった。
頑張れと言えば重いかもしれない。大丈夫と言えば無責任かもしれない。
それでも、見ていた。
ずっと見ていた。
母が、遠くから、俺を、見ていたように。
その距離が、いまは、少しだけ、わかる気がした。
手を出さずに見ている。
放っておくのでは、ない。
見守るというのは、そういうことなのだと思う。
「やるだけ頑張れよ」
俺は言った。
娘が顔を上げた。
「それで全部落ちたら落ちたで笑えるな」
一瞬食卓がしんとした。
娘の目がまん丸になった。
それから、明が、がたん、と椅子を鳴らした。
「ちょっと! 笑えないでしょ!」
「笑えるだろ」
「笑えないよ! なに言ってるの! 全部落ちたら、どうするのよ!」
「そのときは、そのときだ」
「そのときって何!」
明が顔を真っ赤にして、身を乗り出した。
俺は箸を持ったまま肩をすくめた。
「だって、そうだろ。やるだけ、やったんだ。それで落ちたなら仕方ない。浪人でもなんでもまた考えればいい」
「簡単に言わないで!」
「簡単だなんて言ってない」
俺は娘を見た。
「でも、落ちたって、おまえが、おまえじゃなくなるわけじゃないだろ」
娘は何も言わなかった。
ただ、口の端が、わずかに、ひくついた。
それから、ふ、と、息が漏れた。
「……ぷっ」
娘が笑った。
最初は、こらえようとしていた。けれど、だめだった。肩が震えて、箸が茶碗の縁にぶつかった。
「なにそれ。全部落ちたら笑えるって」
「だろ」
「ありえない。お父さんほんとに、ありえない」
娘は顔を覆って笑い続けた。
その笑い方は誰にも似ていなかった。
彼女だけの笑い方だった。
「笑いごとじゃないでしょ!」
明がまだ叫んでいた。
けれど、よく見ると、明の口元も、ゆるんでいた。
「もう。この人はほんとに昔から」
「昔からなんだよ」
「昔から変なところで、どっしり構えて」
明は、そう言って、ふ、と笑った。
三人分の笑い声が台所の湯気の中で、ほどけていった。
*
食事が終わり娘が自分の部屋に戻っていったあと明が洗い物を始めた。
俺は、横で、布巾を持って、皿を拭いた。
「ねえ」
「うん」
「さっきの、本気?」
「何が」
「全部落ちたら笑えるって」
俺は手を止めずに答えた。
「半分本気」
「半分?」
「落ちてほしいなんて、思ってない。受かってほしい。頑張ってほしい。ちゃんと大学にも行ってほしい」
明は泡のついた手で、皿を洗い続けていた。
「あいつなら大丈夫だよきっと」
水の音がぴたりと止まった。
明がこちらを見た。
「……そうね」
ぽつりと言った。
「それはそうね」
「うん」
「でも、心配なものは心配」
「わかってる」
「親だもの」
「わかってる」
明は小さく鼻を鳴らした。
「ひろきのお母さんも、そうだったのかな」
俺は、布巾を持つ手を、少しだけ、止めた。
「……そうだったと思う」
「会ってみたかったな」
「うん」
「きっと気が合ったよ。私たち」
明は泡だらけの手の甲で、目のあたりをこすった。
「だって、ひろきの話をいちばん、うれしそうにする人だったんでしょ」
「……そうらしい」
「じゃあ、絶対気が合う」
明はきっぱりと言った。
その言い切り方がいつもの彼女だった。
俺は笑った。笑いながら、目の奥が、少し、熱かった。
*
皿を片づけ終えて居間に戻った。
娘の部屋から、かすかにペンを走らせる音が聞こえる。
棚の前に立った。
母の写真がじっとこちらを見ている。
アジサイの前に立つ母。
その唇は少しだけ笑っていた。
「母さん」
小さく声に出した。
「今日娘が笑ったよ」
もちろん、返事はない。
棚の上の缶の蓋に居間の電灯が丸く映っていた。
「受験どうなるか、わからないけど。まあなんとか、やってるよ」
窓の外で風が鳴った。
庭の隅に、明が植えたアジサイが、冬枯れの枝を、揺らしていた。
花はもうない。
茶色く乾いた小さな花の殻が枝先にしがみついている。
それでも、それは、確かに、そこにあった。
春になれば芽が出る。梅雨になればまた色づく。
色が変わっても。
花が終わっても。
それでも、残るもの。
写真に向かって、俺は、そっと、手を合わせた。
「いい経験でした」
小さな声で言った。
「全部」
苦しかったことも。悔しかったことも。逃げ出したかったことも。母に会えなかった二十二年も。
その全部が間違いだったとは言わない。
かといって、全部が正しかったとも言わない。
ただ、どれも、俺の、人生だった。
母とはすれ違ったままだった。
別れは解決していない。
謝ることも、礼を言うことも、もう、できない。
あの時間すべてが大切なものだった。
それだけは確かだった。
その確かさを、胸にしまって、俺は、これからも、生きていく。
不完全な人生を不完全なまま。
*
「お父さーん」
廊下の向こうから娘の声がした。
「なんだ」
「お風呂、お湯、足してもいい?」
「ああ、いいぞ」
「それと」
娘が、扉の隙間から、ひょい、と顔を出した。
「さっきの、ありがと」
「なにが」
「……なんでも」
そう言って、娘はぱたぱたと廊下を走っていった。
台所から明の声が飛んでくる。
「ちょっと! 廊下を走らない! あと勉強の続き、ちゃんとやりなさいよ!」
「わかってるってば!」
「わかってない顔してたよ!」
「顔見えてないでしょ!」
「見えなくてもわかるのよ!」
騒がしい声が家の中に満ちていく。
俺は、棚の前で、ひとり、苦笑した。
窓の外では、冬の星が、ひとつ、瞬いていた。
明日も朝が来る。
六時のプールの水は、きっと、静かで、きれいだろう。
子どもたちが元気に走ってくるだろう。
娘の試験の結果はまだわからない。
より一層冷えて結露がたまる窓の向こうに薄緑の芽が揺れている。




