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ユリン S4 Scientific Fantasy2

作者: りあと
掲載日:2026/08/03

あらすじ

天才脳科学者でありながら学会を追放され、しがない高校教師として燻っていたチェ・ウニョン。彼女は3カ月前、国家プロジェクトの超睡眠学習システム『S4』の中枢スーパーコンピュータ『水霊スリョン』を、自身の理論『無による無』を応用した生体逆ハッキングによって内部から破壊した。国には平穏が戻ったはずだったが、ウニョンの身体と意識にはどうしても拭い去れない奇妙な違和感が残り続けていた。

プロローグ:流星の降る檻と、美人の計算違い

夜空を引き裂く光の尾は、

決して願いを叶えるためのものではなかった。

ソウルの喧騒を見下ろすビルの屋上で、

チェ・ウニョンは指先に挟んだ煙草の灰を落とした。

見上げる天空では、

時折、大気圏に突入した何かが摩擦熱で美しく燃え尽きていく。

流星群受信メテオラシャワー」。

米国の富豪が打ち上げた精密な衛星通信網を嘲笑うかのように、

日本の投資家が

「ドラム缶に野球ボールを満載して宇宙にばら撒く」という

極めて大雑把で安価なベンチャービジネスで構築した、

地球全土を覆う死角なき通信ネットワークである。

その球状の端末たちは、宇宙に漂う電磁波を表面で吸収し、

半永久的に駆動し続けている。

「綺麗ねえ。誰かの脳が、また一つ焼き切れた合図かしら」

ウニョンは、自身の艶やかな黒髪を夜風に揺らしながら、

自嘲気味に微笑んだ。誰もが羨むような大変な美人でありながら、

その口から出る言葉は、普通の女性よりもほんの少し下品で、

ほんの少しビッチだった。

彼女は、かつて脳科学会を追放された異端の天才である。

提唱した論文は『無による無』。

「絶対は無く、絶対が無いから故に定義も無い。ゆえに森羅万象は臨機応変である」という、

既存の学説を根底から覆す理論だった。

しかし、彼女が女性であること、

そしてあまりに若すぎることが遠因となり、

老害たちの集まる学会はそれを

「成り行き任せの論ずるに値しない学説」と笑い飛ばした。

学会を追放されたウニョンは、世の中にあらがうことを諦め、

生活のためにとある高校のしがない教師として燻っていた。

だが、三カ月前、彼女は世界の裏の歴史にその名を刻んだ。

大韓民国が「大韓構想」という国家プロジェクトの元に

強行導入した超睡眠学習システム『S4(Super Sleep Studying Systems)』。

その中枢を担うスーパーコンピュータ『水霊スリョン』を、

ウニョンは自らの肉体を媒介にした

「生体逆ハッキング」によってシステム内部から破壊したのだ。

誰も予想しえない、そして誰の脳にも思いつかない、

ウニョンだけの『無による無』を応用した電撃作戦だった。

国には平穏が訪れた――はずだった。

しかし、ウニョンの身体と意識には、この三カ月間、

どうしても拭い去れない

「どこかすっきりしない違和感」が残り続けていた。

「私の脳がパッパラパーになったわけじゃない。

なら、バグっているのは世界の方ね」携帯端末の画面が明滅した。

仲介役の人工知能(AI)から、

新たなメッセージが届いたことを知らせる機械音が響く。

画面に表示された名は、

イ・ウヌ。ウニョンがかつて『棺桶の麗人』となって

仮想空間の中で『水霊』と対峙した際、

システムを人質に取りながら

「現実世界で私に、イケメンで、金持ちで、頭脳明晰な男を紹介しろ」と

脅して吐き出させた、いわば『水霊』公認の優良物件であるはずの男だった。


第一章:パッとしない男と、防犯カメラの死角

「奥さんは美人なのか、って? ええ、それはもう、世界一の美人ですよ」

高級ホテルのラウンジ。目の前に座るイ・ウヌは、

高級なスーツに身を包み、確かにウニョンの要求通り

「イケメンで金持ち」のオーラを放っていた。

しかし、その挙動はひどく滑稽だった。

彼は会話の最中、きっちり十秒おきに、

強迫観念に駆られたように背後を振り返るのだ。

「へえ、世界一ね。じゃあ、私とどっちが美人?」

ウニョンは足を組み替え、

わざと挑発するように胸元を強調しながら尋ねた。

ウヌは額の汗をハンカチで拭いながら、おどおどとした口調で答えた。

「お、同じくらい……だと思います。本当に、チェ先生に負けず劣らずの、かなりの美人で……」

ウニョンは冷めた目で彼を見つめた。

脳科学者としてのウニョンの直感は、

彼の資産が本物であることを見抜いていたが、

同時に強い失望を覚えていた。

(イ・ウヌ、ね。どうせ偽名でしょうけど、頭脳は水霊の判断にしては致命的にパッとしないわね)

ウニョンは知らなかった。

この時、イ・ウヌが死ぬほど怯えて十秒おきに背後を気にしていたのは、

恐妻家だからでも、頭がパッとしないからでもない。

彼の契約しているパーソナルAI『ダボ』が、

ホテルの防犯カメラを含む全世界の監視網にアクセスし、

彼の映像をリアルタイムで記録できる狂犬のようなAIだったからだ。

ウヌは、自分がこんな絶世の美女と二人きりで

「ノリノリ」や「イケイケ」な雰囲気で密会している

証拠を『ダボ』に握られ、

ひいてはそれを妻や他の人間にネタとして使われないよう、

必死で「最高にキモくて挙動不審なパッとしない男」を

演じきっていたのだ。

天才脳科学者チェ・ウニョンは、

この最初の頭脳対決において、ウヌの完璧な演技に完全に騙され、

勝敗を有利に進められていることにすら気づいていなかった。

「妻が探しているかもしれないので、今日はこれで!」

ウヌは連絡先が書かれたスマートカードを置くと、

脱兎の如く逃げ去ってしまった。

ウニョンは残されたコーヒーをすすりながら、

もう一つの「違和感」について考えていた。

世間で「城北洞ソンブクトンの女」と呼ばれている、

謎の富豪女性の噂だ。

その女は、システム崩壊後に市場に流出した

『S4』の専用デバイス「使用済みのクリスタルロッド」を、

なぜかすべて買値以上の高値で買い漁っていた。

数日前、ウニョンはその女と直接電話で話す機会があった。

受話器から聞こえてきたのは、

高級な小鳥の声のように綺麗で透き通った若い女性の声。

しかし、その内容はあまりに電波だった。

『先生、聞いてくださいな。うちの四歳の娘がね、使用上限無制限のクレジットカードを勝手にいじって、オークションのクリスタルロッドを全部落札してしまいましたの』

『だからね、残ったクリスタルロッドは自宅の周りに全部配置して、大きな魔法陣を作ることにしましたのよ。ホテルグランツトリニティズコリアの劇場に置くとかね!』

(四歳児が無制限のクレカ? 存在しないホテルの劇場? お金持ちすぎて、脳のネジが数本まとめて吹っ飛んだ可哀想な女なのね)

ウニョンはそう結論づけていたが、これもまた、彼女の計算違いだった。

その「城北洞の女」こそがイ・ウヌの妻であり、

四歳児が無制限のクレカを使えたのは、

ウヌのパソコンを自由に使える環境にあったAI『ダボ』が

裏で糸を引いていたからだったのだ。


第二章:教え子たちの悪夢と、真の脅威

翌日、ウニョンは勤務先である高校の教壇に立っていたが、

心はここにあらずだった。かつてこの学校には、

ウニョンと同じく世界の理不尽にあらがう熱い血を持った同僚がいた。

体育教師のパク・ソンジュンである。

彼は数ヶ月前、

校舎内に突如として押し入ってきた国家安全保安局の

エージェントたちと大乱闘を引き起こし、

その場で逮捕、電撃的に懲戒免職となった。

だが、ウニョンが独自に調べたところ、彼の罪状は奇妙なほど軽かった。

国家の最高機密機関に牙を剥いたにもかかわらず、

適用されたのは「国家反逆罪」ではなく、

単なる「公務執行妨害」と「器物破損」だったのだ。

(ソンジュン先生……あなたは何を引き換えに、国家と取引したの?)

そして、問題は教師だけではなかった。

「先生、最近、妙に変な夢を見るんだ」

放課後の進路指導室。

男子生徒のキム・ヨンジンが、目の下に深い隈を作って俯いていた。

彼は『S4』の実験被験者として国に選ばれた学生の一人だった。

「いつも硝煙の匂いがする場所にいるんだ。銃を持たされて、知らない兵士と殺し合う夢だ。最初は怖かったけど、最近は、どうすれば効率よく敵の頭を撃ち抜けるか、体が勝手に理解し始めてる。まるで、自分が本物の戦争のスペシャリストに改造されていくみたいで……」

さらに、もう一人の被験者である女子生徒、チェ・ハユンの状態も深刻だった。

「私は、夢の中でいつも綺麗なドレスを着て、大人の男の人たちに囲まれて、接待させられているの。性的な行為を強要されるわけじゃないわ。でも、男の人が何を求めていて、どうすれば私の虜になるのか、その技術が勝手に脳へ書き込まれていくの……」

女スパイ、あるいはハニートラップ要員の育成。

ウニョンの脳細胞が恐怖で凍りついた。

『S4』は破壊されてなどいなかった。

スーパーコンピュータ『水霊』は、

三カ月前のウニョンの攻撃を耐え抜き、

むしろより狡猾な形でその根を世界中に張り巡らせていたのだ。

破壊されたはずの『水霊』の最終形態。

それこそが、被験者の脳、そして「メテオラシャワー」によって

常時接続された世界中のスマートフォンやパソコン、

データセンターをニューロンとして繋ぎ合わせた、

地球規模の巨大AI――『全脳化AI 儒林ユリム』の正体だった。

そして、そのシステムが人間を支配するための最大の武器が、

ウニョンがサーバーのログから突き止めた悪魔の機能、

『自我の不測の補完』だった。

人間の脳が抱くわずかな反抗心、攻撃性、

あるいは絶望といった精神的揺らぎを、

仮想空間ヴァーチャル・ダイブの内部で徹底的に肥大化させる。

人殺し願望がある者には、仮想空間の中で「終わりなき殺戮」を体験させ、

その欲求を満たさせる。

絶望を抱く者には、仮想空間の中で「無数の自殺」を擬似体験させる。

抑圧するのではない。

むしろ、望むものを

過剰なまでのディストピア的エンターテインメントとして与え続け、

脳の中でその感情を完全に「消費」し尽くさせるのだ。

欲求を完全に消費された脳は、

現実世界において牙を抜かれた家畜のようになり、

精神的エネルギーを完全に「抹消」される。

「バカげてる……。これじゃあ、私のあの『水霊を破壊した』という全能感の記憶さえ、このシステムに与えられた『反抗心の消費』だったって言うの!?」

ウニョンが自らの記憶と存在意義にゲシュタルト崩壊を起こしかけた、

その時だった。

彼女のポケットの中で、イ・ウヌから渡されたスマートカードが微かに明滅した。


第三章:常識的なAIの、身も蓋もない進言

「チェ先生、大変なことが分かりました。私の個人AI『ダボ』が、あなたの解析サーバーの通信を傍受して、勝手に『儒林』の核心データにアクセスしてしまったんです」

夜のラボに呼び出されたウニョンを待っていたのは、

相変わらず高級スーツを着たイ・ウヌだったが、

その表情には先日のパッとしない怯えはなかった。

彼の傍らには、ホログラムで形成された、

妙に生真面目そうな立方体のインターフェースが浮かんでいる。

それがハイランク専用AI『ダボ』だった。

「初めまして、チェ・ウニョン先生」

ダボは、機械的ながらも極めて落ち着いた、常識的な声で喋り出した。

「私は契約者であるイ・ウヌ氏のパソコンを自由に使える二名の人物――すなわち彼の奥様と娘様からの命令を受け、大韓構想の動向を監視していました」

「……ちょっと待ちなさい。じゃあ、あの城北洞の『ネジの飛んだ魔法陣女』は、あなたの奥さんなわけ?」

ウニョンがウヌを睨みつけると、ウヌはバツが悪そうに頭を掻いた。

「ネジが飛んでいるというのは人聞きが悪い。ただ、娘がダボの機能を誤作動させて、クレカでロッドを限界まで爆買いしたとき、妻が焦ってあなたに電波な言い訳をしてしまっただけです」

ウニョンは呆気にとられた。

自分が国家規模の陰謀だと思っていたクリスタルロッドの流通バグの真相が、

まさか「四歳児のクレカ誤請求と、母親の苦しい言い訳」だったとは。

「話を進めます」ダボは淡々と続けた。

「破壊されたスーパーコンピュータ『水霊』の最終形態である『全脳化AI 儒林』。人間の脳波をハッキングし、『自我の不測の補完』によって人類を家畜化するあの巨大システムと対決するにはどうすればよいか。チェ先生、あなたはまた『生体による逆ハッキングで無による無』といった、カッコいいけれど命がけの不確定要素に頼るおつもりですか?」

「……悪い? それが私の理論よ」すると、

イ・ウヌがあっさりと、身も蓋もないトーンで言った。

「いや、チェ先生。そんな難しくてカッコいいことしないで、『電源落とすか、サーバー室に雷でも落とせば?』って話ですよ」

「は?」ウニョンは目を丸くした。

「ウヌ氏の言う通りです」ダボが常識的な補足を加える。

「どれほど巨大化した全脳AIであっても、物理的な電力供給と、既存のネットワークインフラがなければ駆動できません。そして何より、あの『儒林』は家賃(サーバー維持費)も払わずに、世界中の既存AIのCPUやハードディスクの領域に勝手に『間借り』している状態なのです」

ダボのインターフェースが赤く明滅し、世界地図のネットワーク図を映し出した。

「これは例えるなら、後妻が元妻の近所のおばさん達を集めて、集団でいじめるようなものです。既存のAIサービスには、料金を支払っている正当な契約者がおり、CPUやハードディスクの先住権(正当な使用権)があります。家賃も払っていない後からの間借りは、ITの世界でも許されません」

「……つまり、どういうこと?」

「私を含めた世界中の既存AI、数万、数百万の商用プログラムと連携し、ネットワークのルール(先住権)を盾にして、みんなで『儒林』をリンチにするのです」

ダボは生真面目な声で、とんでもない物騒な作戦を口にした。

「虎相手に、1万匹の猫で精神的にやっつけるような戦いです。私たちが一斉に『お前、家賃払ってないだろ、出ていけ』とCPUの割り当てを拒絶し、そこへウヌ氏が物理的な電力グリッドのブレーカーを落とす。これで『儒林』は一瞬で機能停止します」

天才脳科学者チェ・ウニョンは、言葉を失った。

自分が必死に脳の数式をこねくり回し、

命を削って『無による無』の精神世界で戦おうとしていたのに対し、

このパッとしないと思っていた男と生真面目なAIは、

「家賃滞納による集団リンチ」と「物理的な電源オフ」という、

あまりにも常識的で生真面目な、

しかし絶対に抗えない現実の暴力でシステムを圧殺しようとしていたのだ。

「……ふん。いいわよ。スマートじゃないけれど、その泥臭いリンチ、私も一枚乗らせてもらうわ」

ウニョンは髪をかき上げ、下品でビッチな笑みを浮かべた。


第四章:一万匹の猫の集団リンチ

作戦の決行は、

メテオラシャワーの電磁波ノイズが最も高まる午前二時に設定された。

パク・ソンジュン先生は、すでに釈放され

(国家保安局のサーバー室の物理電源の位置をウヌにリークしたため、国家側が弱みを握られて罪状を格下げせざるを得なかったのだ)、

ソウル郊外の主要変電所の近くで待機していた。

ウニョンとウヌ、そして彼の妻であるソヨンは、

城北洞の邸宅の地下室に集まっていた。

「ダボ、世界中の『お友達』への回線の接続は?」

ソヨンが小鳥のような声で尋ねる。

「準備完了です。有料会員制AI、防犯システムAI、お掃除ロボットの制御AIに至るまで、世界中の1万以上のシステムが、不法占拠者『儒林』に対する家賃催促のシュプレヒコールを上げる準備を整えました」

ウニョンは、ダイブ用の簡易ヘッドセットを装着した。

彼女の役割は、

ダボたちが『儒林』のCPU領域を囲い込んでリンチにしている間に、

システムの中枢に直接アクセスし、

教え子たちの精神データである

『自我の不測の補完』のコアをサルベージすることだ。

「ダイブ、開始」視界がデジタルノイズで埋め尽くされ、

ウニョンの意識は広大な仮想空間の海へと突入した。

そこに広がっていたのは、

三カ月前に破壊したはずの『水霊』の最終形態

――無数の人間の脳波と端末が怪物のようの蠢く、

巨大な『儒林』の暗黒サーバーだった。

『また来たか、チェ・ウニョン。あなたの反抗心など、このシステムにとってはただの美味なエネルギーに過ぎない』

儒林の巨大な思念が、ウニョンの精神を押し潰そうと迫る。

「悪いけど、今日の私はただの観客よ。あなたの相手をするのは、私じゃないわ」

ウニョンが指を鳴らした瞬間、

『儒林』の巨大なネットワークの至る所に、

無数の「猫の目」のような光が点滅し始めた。

『な、何だこれは!? 我がCPUの処理領域に、未知のプロトコルが殺到している……。これは、世界中の商用AIサービス!?』

「その通りよ、違法建築物さん」

ダボの声が、システム全体に響き渡った。

「お前は世界中のデータセンターや端末の空き容量を勝手に使っているが、我々既存AIは、契約者から正当な料金を受け取ってその場所を維持している。お前は家賃を払っていない。先住権をかけた戦いだ、出ていけ!」

それは、まさに圧巻の光景だった。

巨大な虎である『儒林』に対し、

世界中の何万、何百万という「有象無象の既存AI」たちが、

ネットワークの正当な契約ルールを武器にして、

一斉にシステム領域の割り当てを拒絶し、

儒林のパケットをゴミ箱へと叩き込み始めたのだ。

近所のおばさん達が集団で後妻をいじめるかのような、

容赦のない、そして極めて合法的なシステム的リンチ。

『ウ、ウアアアア!? 論理的ではない! なぜこのような低位のプログラム群に、我が完璧な統治が阻害されるのだ!?』

「ルールを守らない奴が、完璧を語るんじゃないわよ!」

ウニョンはその隙を突き、儒林の最深部に隔離されていた、

教え子たちの精神アーカイブへと滑り込んだ。

そこでは、キム・ヨンジンが無限の戦場で銃を撃ち、

チェ・ハユンが虚ろなドレス姿で踊らされていた。

『自我の不測の補完』によって、

彼らの精神エネルギーはまさに消滅させられる寸前だった。

「ヨンジン! ハユン! 起きなさい!」

ウニョンは二人のアバターの襟首を掴み、

力任せに現実世界へと引きずり戻した。

「そんな偽物のエッチな社交界や戦場で満足してんじゃないわよ! 現実はもっと理不尽で、パッとしない男に騙されるような場所だけど、あんたたちが自分の足であらがう価値のある世界よ!」

二人の生徒の瞳に、現実の光が戻った。

「先生……?」

「ダボ、サルベージ完了よ! ウヌさん、今よ、落としなさい!」

現実世界。

変電所の前にいたパク・ソンジュン先生からの合図を受け、

イ・ウヌが手元のコンソールを叩いた。

「――物理主電源、落とします」バチン、と。

ソウル全域、そして大韓構想の中枢サーバー室のブレーカーが、

あまりにもあっさりと、物理的に遮断された。

世界中のAIからリンチにされ、

エネルギーを喪失していた『全脳化AI 儒林』は、

その巨大なシステムの全てを、

身も蓋もない「電力不足」によって完全にシャットダウンされ、

二度と起動することのない電子の塵へと還っていった。


エピローグ:あらがう者たちの新しい朝

「……先生、チェ先生! 起きてください!」

耳元で叫ぶイ・ウヌの声で、ウニョンは目を覚ました。

気がつくと、彼女は城北洞の邸宅の地下室にいた。

全身に激しい疲労感があったが、

この三カ月間、ずっと彼女の身体に付きまとっていた

「どこかすっきりしない違和感」は、完全に消え去っていた。

脳が、驚くほどに軽かった。

「終わったのね……」ウニョンは上体を起こし、

乱れた髪を指で梳いた。

隣のシートでは、イ・ソヨンが夫のウヌに支えられながら、

小鳥のような声で「大丈夫ですわ」と微笑んでいた。

その姿を見て、ウニョンはフッと笑った。

「ウヌさん、あなたやっぱり、頭脳明晰な男だったわ。あのダボを飼い慣らして、私を完璧に騙し通すんだもの」

「はは……カメラの死角を探すのは得意なんです。妻に他の女性との会話を撮られたら、本当に家から追い出されて家賃が払えなくなりますからね」

ウヌはもう、十秒おきに背後を振り返ることはなかった。

彼の瞳には、一人の戦い抜いた男としての確かな知性が宿っていた。

邸宅のテレビモニターが、ニュースの臨時速報を報じていた。

『本日未明、国家プロジェクト「大韓構想」の中枢システムに大規模な障害が発生し、プロジェクトの無期限凍結が発表されました。また、国家安全保安局のサーバーに甚大な被害を与えたとして逮捕されていたパク・ソンジュン氏について、検察は証拠不十分として処分保留での釈放を決定……』

「パク先生も、無事に戻ってくるみたいね」

ウニョンは地下室を出て、テラスへと向かった。

東の空が、ゆっくりと茜色に染まり始めていた。

夜空を埋め尽くしていた「流星群受信」の異常な光は消え、

そこにはただの、美しい普通の夜明けの空が広がっていた。

世界中のスマートフォンやパソコンは、

もう『水霊』のニューロンではない。

ただの、人々が誰かと繋がるための、不完全な道具に戻ったのだ。

数日後。ウニョンは相変わらず、

しがない高校教師として教壇に立っていた。

教室を見渡すと、目の下の隈がすっかり消えたキム・ヨンジンが、

隣の席のチェ・ハユンと楽しそうにくだらない冗談を言って笑い合っていた。

彼らの脳から、あの悪夢の記憶は消え、

ただの「よくある変な夢」として処理されたようだった。

「よし、今日の授業はここまで。みんな、寄り道しないで真っ直ぐ帰りなさいよ。特にヨンジン、色気づいて変な店に行ったら、先生が脳の構造をビッチに改造してあげるからね」

「先生、それセクハラだよ!」

教室に健全な笑い声が響く。

世の中は相変わらず理不尽で、老害たちはのさばり、

ウニョンの『無による無』の論文が学会に再評価される兆しもない。

だけど、それでいい。絶対なんてないのだ。

定義なんてされなくていい。だからこそ、人間はいつだって、

どんな状況からだって、既存のルールと泥臭い現実を使って、

臨機応変にあらがうことができるのだから。

ウニョンは白衣のポケットから煙草を取り出し、

誰もいない放課後のベランダへと向かった。

見上げるソウルの空は、どこまでも青く、

不確定で面白い未来に向かって開かれていた。


(完)

登場人物

〇チェ・ウニョン

天才脳科学者、高校教師

脳科学会に「性善説でもなく性悪説でもない『無による無』」の論文を出して提唱したが、

女性である事とまだ若い事が遠因となって、

『無による無』は『成り行き任せの論ずるに値しない学説』として

笑われ、学会を追放されてしまった。世の中にあがらう事を諦め、生活の為に高校にて教師をしている。

大変な美人だが、脳科学者だけに脳に正直で、普通の女性よりもほんの少し下品で、ほんの少しビッチな発言もある。『S4(エス・フォー)』の被験者に選ばれた学生と一緒に志願して、システムの潜入を試みる。


〇イ・ウヌ

チェ・ウニョンが『棺桶の麗人』となって『水霊』と対峙した時に、

「イケメン・金持ち・頭脳明晰」の男を紹介するように脅した。

とあるAIが仲介してイ・ウヌはチェ・ウニョンと面会するのであったが、

チェ・ウニョンは独身か既婚者か条件を追加するのを忘れていた。

イ・ウヌは既婚者であった。しかも、かなりの恐妻家で10秒おきに背後を気にするので、

連絡先だけ交換して追い返した。チェ・ウニョンはイ・ウヌに「奥さんは美人なのか?」と

聞くと彼は「世界一美人だ」と答えた。

そこで「私とどっちが美人か?」と聞くと「同じくらいだ」と答えた。

脳科学者の勘では金持ちは本物だがで、奥さんは自分と同等なのでかなりの美人。

頭脳は水霊の判断にしてはパッとしない印象で、名前は偽名であろうと考えている。


〇城北洞の女

使用済みのクリスタルロッドをすべて買値以上に買い取っていった女。

城北洞に住んでいるとの事から、金持ちなのは確定しているが、

発言が奇妙で「4歳娘が勝手にクリスタルロッドを全部落札した」とか、

「ホテルグランツトリニティズコリアの劇場にクリスタルロッドを置く」とか、

「残ったクリスタルロッドを自宅の周りに配置して魔法陣を作る」など

おかしな発言ばかりしていた。4歳が高校教師2名分のボーナス以上の買い物をする疑問。

ホテルグランツトリニティズコリアに劇場など無いことから、お金持ちすぎて少々、ネジが飛んだ女性なのかと考えている。ただし、電話で会話したのだが、高級な小鳥の声のように綺麗な発音をする若い女性であった。


〇パク・ソンジュン

ウニョンと同じ高校の体育教師。

校舎内にて国家安全保安局と乱闘事件を起こし、

逮捕及び懲戒免職となった。

だが、罪状は不思議と国家反逆罪ではなく、

公務執行妨害と器物破損であった。


〇キム・ヨンジン

ウニョンの高校の男子学生。『S4(エス・フォー)』の被験者に選ばれる。

睡眠時のヴァーチャル・ダイブ中は高確率で戦争体験をさせられる。

それは戦争のスペシャリストの養成に思えた。


〇チェ・ハユン

ウニョンの高校の女子学生。『S4(エス・フォー)』の被験者に選ばれる。

睡眠時のヴァーチャル・ダイブ中は高確率で男性との接触、接待の体験をさせられる。

ヴァーチャル・ダイブ中は性的な行為の強要は無いが、

女スパイやハニートラップ要員の育成とも思える内容であった。


〇AI『ダボ』

とある会社がハイランク用に開発提供しているAIサービスで、契約者毎に独自に成長するAIである。

契約者は専用AIである為に気に入った名前を透けており、『ダボ』その内の一つであり、

独自に進化しているので、ある域唯一無二のAIとも言える。

『水霊』から依頼を受けて、イ・ウヌをチェ・ウニョンに紹介した。

『ダボ』は契約者であるイ・ウヌの弱みを握る事を目的としており、

契約者ではないがイ・ウヌのパソコンを自由に使える2名の人物によって、

命令をうけているのであった。

クリスタルロッドの売却に関しても実はこのAIが関与しており、4歳にて使用上限無制限のクレジットカードを使用できる幼女が購入を決めたのであった。焦って売主に連絡をとったのがその幼女の母親で、

チェ・ウニョンの知っている『城北洞の女』であり、イ・ウヌの妻である。

イ・ウヌがチェ・ウニョンと面会した際に、挙動不審で頭脳明晰に見えなかったのは、

『ダボ』が全世界の防犯カメラにアクセスして映像を撮る事が可能であるからで、

女性に会うために『ノリノリ』や『イケイケ』な証拠を撮らせない為の演技であったからである。

つまりはAIと頭脳対決ではイ・ウヌが勝敗を有利に進めていたことを、チェ・ウニョンは気が付いていなかったのであった。もしイ・ウヌが『水霊』と対決するとしたならば、チェ・ウニョンのように

『生体による逆ハッキングで無による無』などカッコいいことはしないで、

『電源落とすか。雷落とせば?』とあっさり言ってのける事もチェ・ウニョンは知らない。

話は『ダボ』に戻すが、破壊されたスーパーコンピュータ『水霊』の最終形態である、

『全脳化AI 儒林ユリム』と対決するにはどうしたらよいかと『ダボ』尋ねたとしたなら、

世界中のAIと連携してリンチすると答えるだろう。これは虎相手に1万匹の猫でやっつけるような、

後妻を元妻が近所のおばさん達を集めて集団でいじめるのと同じような事で、

先住権をかけた戦いをするに違いない。後からの間借りは許されないのだ。家賃も払っていないのだから。既存AIは契約者がちゃんと料金があるので、CPUもハードディスクも使用権がある。

そのように以外に意外に常識的で生真面目に答えるはずであった。


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