9ティアと二人
前回の続き
星を見上げたまま、ユウトは、ほんの出来心だった。
静かで、近くて、言葉が要らない距離。
――気づいたときには、顔を寄せていた。
軽く、触れるだけ。
一瞬。
「……?」
ティアは、瞬きをして、ユウトを見た。
驚いていない。
怒ってもいない。
ただ、不思議そうだった。
「……なに、今の?」
ユウトは固まった。
「……えっと……」
言葉が出ない。
「……くち、くっついたね」
ティアは首を傾げる。
「合図?」
「いや、合図じゃない」
ユウトは慌てて距離を取る。
「えーと……その……」
ティアは、
少し考えてから言った。
「どうして、私の口に触れたの?」
ユウトはティアの顔をじっと見る。
「あのね、俺の住んでいた世界では――」
「……うん」
「好きになった人に、そうするんだ」
ティアは、ほっと安心したような表情を浮かべる。
「そうなんだ。じゃあ、もっとして」
ためらう。
「好きじゃなくなったの?」
恥ずかしいのを押し殺してもう一度キスする。
「……口、触る習慣、この世界にはないよ?」
「そ、そうなんだ」
心臓の高鳴りがティアに気づかれそうだ。
「少なくとも、私の知ってる限りでは」
ティアはユウトの手を見た。
そして、そっと指に触れる。
ぴたり。
その瞬間、ユウトの背中に、ぞくっとした感覚が走った。
「……!」
ティアは、少しだけ顔を赤くする。
「こっちの方が……変な感じ」
「……え?」
「手、つなぐの」
ぎゅ、と指を絡める。
ユウトは、ようやく思い出した。
城へ向かうとき。
丘を駆け下りたとき。
さっき、ここへ帰って来た時だって。
何度も、何度も――
無意識に、手を引いていたことを。
(……そっちは平気で、こっちはアウトなのか)
文化の壁が、思った以上に厚い。
ティアは、そっと手を離し、少し照れたように笑った。
「……でも」
小さな声。
「嫌じゃなかったよ」
ユウトは、視線を逸らした。
「……それは……よかった」
「でも……」
ティアの怒ったような、かわいい顔が近づく。
「でも外ではだめ……人が見てるかもしれないし」
想像以上に、公序良俗を乱していたようだ。
マジックミラー号の壁には、変わらず星空が広がっている。
二人の間はさっきより少しだけ温かく感じる。
分かり合えたからか、ハーブのせいなのか。
外では、城の夜が続いていた。
夜明け前の城は、音が少ない。
完全な静寂ではないが、昼間のざわめきが嘘のようだ。
足音も声も、すべてが抑えられている。
マジックミラー号の中で、ユウトは目を覚ました。
天井いっぱいに、薄い青が滲んでいる。
星が消え、夜が溶けはじめた色だ。
「……朝か」
体を起こすと、隣でティアが丸まって眠っていた。
小柄な身体が、シートの上で不安定に寄り添っている。
ユウトは、起こさないように動きを抑えながら、
外の様子を確認した。
車内の照明はつけていない。
それでも、外の景色は透けるように見える。
城内の広場。
門番が交代している。
動線が、昨夜とは微妙に違うのに気付く。
(……警戒が上がってる)
ユウトは、直感的にそう感じた。
フォルグ出没の件。
勇者が消えた件。
どちらも、城にとっては放置できないはずだ。
「……うん」
小さな声。
ティアが、目をこすりながら起き上がる。
「……どうしたの?」
「門番が増えてる」
ティアはすぐに状況を理解したようで、
寝ぼけた表情が一気に引き締まった。
「……殿下、気づいたかな」
「まだだ。でも、もうすぐ戻ってきそうだ」
その言葉に、ティアの指先が強張る。
ユウトは、それを見逃さなかった。
「ティア、正直に聞く。教えてくれ」
「……なに?」
「王女は、勇者をどうするつもりなんだ?」
ティアは、少し黙った。
言葉を選んでいる、わけではなさそうだ。
どこまで言っていいかを測っている沈黙だった。
「知ってるんだろ、本当は」
「……伝承ではね」
ようやく、口を開く。
「勇者は、国のモノになる」
ユウトは、眉をひそめた。
「モノ?所有物ってことか」
「うん。自由は、ほとんどなくなる」
ユウトは、短く息を吐いた。
「それ、俺が一番嫌いなやつだな」
ティアは、小さく笑った。
「……知ってる」
その笑い方が、少し切なかった。
「でも何もかも得られるの」
「何もかも?」
「お妃だって、おいしい食べ物だって、何だって……」
「ええ……」
ユウトはふと浮かんだ酒池肉林の想像で下半身が反応するのを感じた。
ティアに気づかれたか。
でも特に反応しない。
この世界ではコレも特別なことではないのか。
ユウトは恥ずかしがらず胸を張った。
隠さなくてもいいのなら、気が楽だ。
「勇者様……」
ティアが真顔でうつむいている。
「お城でモノになりたいですか」
「そんなわけ――」
「お身体が反応されています」
(やっぱりだめなのか!)
慌てて股間を隠す。
「逃げたいよ」
「お逃げなさりますか」
「ああ、もちろん」
「ティアと一緒に逃げたいよ」
ティアが感動して抱きついてくる。
「ちょ、収まるものも収まらなく……」
「そんな事より」
ティアは体を離す。
「これからどうするんですか。殿下が戻ってこないうちに」
ユウトは、頭を切り替える。
このまま車のエンジンをかけて、門から出るわけにはいかないだろう。
(選択肢は三つある)
・いったん城から出る。
・城に潜入して機会をうかがう。
・このままここに居る。
「城を出るのは、もったいない」
出るのも入るのも大変だ。
警備も厚い。
「潜入は危険だけど、情報が取れる」
ユウトは、マジックミラー号の壁に手を当てた。
「ただ、今、何を知ればいいのかもわからない」
マジックミラー越しに見る城の構造。
石壁の影。
巡回の間隔。
「……こいつを動かせたら、一気に楽になるのに」
ティアの目が、ぱっと輝いた。
「動かすって!?」
「静かに」
ガソリンの残量はある。
バッテリーも問題ない。
(城の中でエンジン音を立てるのは致命的)
だが。
ユウトは、ふと、昨夜のことを思い出す。
フォルグが止まった瞬間。
鏡に映る自分を見て、混乱したあの反応。
兵も、魔獣も、
映っているという感覚に慣れていない。
それに、こいつが自分で動くことも、わかっていないだろう。
ユウトは、ゆっくりと口角を上げた。
「……いけるかもしれない」
「なに?」
「城の中で、見られない状態で動く」
ユウトはティアの手を引、こうとしてためらった。
ティアは恥ずかしそうに微笑んで、ユウトの手を握り返した。
ティアの手を引いて運転席に移動する。
「……」
説明はしない。
する必要もない。
ユウトは、エンジンキーに指をかける。
「ティア」
「うん」
「音が出たら、頭を上げて隠れろ」
「……分かった」
ティアは、強い瞳で見つめ返した。
その瞳が、一緒に行くという意思そのものだった。
ユウトは、そっとエンジンをかける。
――低い振動。
こんなに静かなエンジン音だっただろうか。
広場だから音が反射しなかったからか。
城の広場の真ん中で、ユウトはブレーキから足を離す。
マジックミラー号はゆっくりと、エンジンをふかすことなく動き始めた。
静かに世界が動き始める。
外から見れば、反射して映る世界が動いているようだろう。
ティアは、息を呑んだ。
「……すごい」
石畳の上を、音もなく、影もなく。
城はまだ、この異変に気づいていない。
ごく少ない人が、ポカンとこちらを見ている。
城の最上階。
王女の私室。
アリシア・ルミナス・エストリアは、ふと窓辺で足を止めた。
「……?」
理由はなく、ただ、胸の奥がざわついた。
「……動いた」
彼女は、感じたものをつぶやいた。
「反射の勇者よ……」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「……やっぱり、面白い人」
城が、ゆっくりと目を覚まそうとしていた。




