21 バザール
前回の続き
風の向き。
砂の粒の粗さ。
そして――境界の気配。
マジックミラー号で走っていると、時折、空気が薄くなる場所があった。
車体がわずかに浮く。
音が遠くなる。
砂の色が一瞬だけ変わる。
そこを通り抜けるたび、ユウトは背筋が冷える。
(……ここを何度も動かしたら、また獣が出てくる)
境界への裂け目を刺激するたびに、何かがそれを嗅ぎつける。
今でもレイの言葉が、胸の奥で鳴っている。
(――餌)
「……ユウト様」
助手席のティアが、小さく言った。
「ん?」
「次の街、バザールって……ほんとにあるの?」
「ある」
ユウトは短く答えた。
地下の学者が示した地図を思い出す。
バザールは、砂漠の入口と、奥地の交差点にある。
交易と流民が集まる場所。
情報と嘘が同じ屋根の下にある場所。
「……でも」
ティアは窓の外を見たまま続ける。
「……みんな逃げたよね……」
御者たちが荷車を捨てて逃げた光景が、彼女の目に残っているのだろう。
人が自分を見捨てる様子。
誰だって命の優先順位は、自分が一番だ。
あれが当たり前なんだ。
ティアは黙っていた。
その沈黙は、安心でも不満でもない。
ただ、疲れの沈黙だった。
荷台のスタジオで、男は体を起こした。
その恵まれた体躯に似合う鋭いまなざしにも、生気が戻っていた。
サリがすぐに手を当て、額の熱を測る。
「まだ熱い」
「……大丈夫だ」
「大丈夫、なのね」
サリは自分に言い聞かせるように呟いた。
「薬が効いたみたいだ」
男はマジックミラー越しに見える風景を、珍しそうに眺めていた。
「バザールに向かっているのか」
「彼らは何と言っていた」
サリは首を横に振る。
男は厳しい目をする。
「助けてくれたのはいいが、油断するんじゃない」
何かを言い返そうとするサリ。
「いいかサリ、お前は積極的に彼らと交流して情報を引き出せ。彼らは何者なのか」
「あの人たちは、悪者じゃない」
「ああ……そう思っているお前だから役に立つ」
サリは兄のかたくなな心に目を伏せた。
運転席。
まだマジックミラー号はバザールに向けて走っている。
何かを感じたのか、ティアの肩がほんのわずかに震えた。
ユウトは、見ないふりをした。
見れば、言葉が要る。
言葉は、今はまだ痛い。
砂漠をどれほど走ったのか、時間の感覚は溶けていく。
太陽が傾いたようにも見えるし、まったく動いていないようにも見える。
ただ、遠くに「色」が現れた。
砂の単調な黄の中に、布の赤や青が点々と揺れる。
煙が細く立ち上がる。
鳥のような影が輪を描く。
「あれだ」
ユウトが指をさす。
バザール――砂漠の市。
近づくほど、音が増える。
鈴の音。
話し声。
獣の鳴き声。
金属を打つ音。
鍋をかき混ぜる音。
そして、香りが風に乗ってくる。
焼いた肉の脂。
焦がした香辛料。
乾燥果実の甘さ。
汗と獣と煙の匂い。
生きている場所の匂いだった。
バザールは街というより、仮設の迷宮だった。
背の低い天幕が幾重にも張られ、布と布の間に細い通路ができている。
杭に結ばれたロープが蜘蛛の巣のように交差し、ランタンがぶら下がる。
砂の上に板を敷いた露店、石を積んだだけの炉、壺や木箱の山。
人々は流れるように動き、足元の砂が常に舞っている。
ユウトがマジックミラー号をゆっくり走らせると、視線が集まった。
最初は警戒。
次に好奇心。
最後に――値踏み。
(まずいな)
派手な馬車でも、豪奢なキャラバンでもない。
けれど、この車は異物だ。
異物は金か災いの、どちらかに分類されるものだ。
「……ここで降りる?」
ティアが小声で言う。
「まずは……目立たない場所を探して停めよう」
ユウトは陰になる位置を探し、空いた砂地に車を止めた。
サリと兄が降りてくる。
ティアが空の水袋を抱える。
ユウトが周囲を見回すと、すでに何人かがこちらを見ている。
人気のない場所がないほど、密集している。
「まずは、情報を集めたい」
ユウトは言った。
「《地喰らい》のこと。砂漠の奥、境界近くの……」
ティアが頷く。
「ここなら噂はあるよ。でも……」
「でも?」
ティアは唇を噛んだ。
「ただじゃ、教えてくれないと思う……」
ユウトは、その現実に小さく息を吐いた。
城の地下の学者は、紙の上で情報を渡した。
だが、この場所は紙よりも腹が支配する。
まず、水と食料。
それから言葉。
バザールの通路に踏み込むと、声が降ってくる。
「刃! 刃はいらんか!」
「香! 砂の熱に勝つ香草だ!」
「砂金を払え! 安くはならん!」
「薬だ! 骨を繋ぐ! 熱を下げる!」
薬、の声に、ティアがぴくりと反応した。
反応したのに、すぐに視線を逸らす。
見ないふりをするように。
ユウトは露店を一つ選び、話しかけた。
布の下で香辛料を並べる中年の男。
目が鋭い。
「猛獣の噂を探してる。《地喰らい》って呼ばれてるやつだ」
男は一瞬でユウトを舐めるように見た。
服。言葉。連れ。荷物。
そして、後ろに止めたマジックミラー号。
「噂は……あるぞ」
男は言った。
だが続きが遅い。
遅いのは、値段を考えているからだ。
「どこに出る?」
ユウトが畳み掛ける。
男は肩をすくめた。
「情報は商品だ。客も商品だ。……あんたの持ってるものと交換だ」
「金なら――」
「金?」
男は鼻で笑う。
「ここじゃ金は砂貨だ。だが、それも信用と一緒に揺れる。確かなのは、物と、血と、物語だ」
ユウトは歯を食いしばった。
物語。
つまり、役に立つ話。
異世界の知識でもいい。
城の内部でもいい。
境界でもいい。
(だが境界の話を売ったら、もっと狙われるだろう)
躊躇した瞬間、ティアが小さく腹を押さえた。
「……ティア?」
ユウトが気づくと、彼女は唇を尖らせたまま、目を逸らした。
「……お腹すいた……」
その声は弱い。
弱いのに、刺さる。
さっきから水しか飲んでいない。
砂漠の中で、恐怖と汗で削られた身体に、水だけでは足りない。
「何か買おう」
ユウトは言って、露店の乾燥肉を指した。
「それと……薄いパン」
男が指を二本立てる。
「二十ギルダ」
「……二十?」
ユウトは眉をひそめる。
「高いな」
「ここは砂漠だ」
「水一袋で十ギルダ。肉とパンで二十。普通だ」
男は平然と言った。
「バザールでは硬貨ではなく、砂金を混ぜたギルダが使われる」
サリが小声で教える。
だがユウトは、手持ちが心もとない。
城から出る時に持たされたのは、最低限の袋だけだった。
王女は、逃げ道は用意しないと言った。
つまり、金も最低限だ。
ユウトが袋を探ると、ティアが突然、睨むようにこちらを見た。
「……ユウト様……」
声が低い。
「ん?」
ティアは、ぎゅっと拳を握った。
「……さっきの薬……」
「……お母さんのためのものだったのに」
ユウトの胸が、痛む。
ティアの目は、怒っているのに、濡れていない。
泣くより先に、責めることで自分を保っている目だった。
ユウトは、一瞬言葉を失った。
サリと男が気まずそうに目を伏せる。
「……助けるって決めたのは、俺だ」
ユウトはようやく言った。
「だから……責めるなら、俺を――」
「あなたを、責めてる」
ティアは、遮った。
「……だって、あれがなかったら……」
声が震える。
「お母さん……いつか……」
言葉が途切れる。
続きは言わない。
言えば、未来が確定してしまうから。
ユウトは、喉の奥で息を飲んだ。
(俺は……ティアの未来を、勝手に使った)
だが、あの場で使わなければ、男は死んでいた。
死ねばサリも壊れていた。
そして虫の群れの前で、ティアも生き残れたか分からない。
正しいかどうかじゃない。
ただ、選んだのだ。
「……ここなら」
ティアが、視線を逸らしたまま、ぼそっと言った。
「同じものが売ってるはず……」
ユウトが顔を上げる。
「本当か?」
ティアは、悔しそうに頷いた。
「……でも、ものすごく高いはず」
サリが、かすれた声で補足する。
「精製薬は砂漠の民の命……」
「普通の市じゃ、一瓶、百ギルダ以上……」
百ギルダ。
さっきの肉とパンが二十。
水が十。
桁が違う。
「……いくらだ」
ユウトが、薬を売っている露店のほうを見た。
そこには、ガラス瓶が並べられている。
淡く光るものもある。
だがティアの小瓶ほど澄んだ光ではない。
濁りがある。薄い。混ぜ物がある気配。
薬売りは、こちらの視線に気づくと、口角を上げた。
「おや、買うのか」
ユウトが言う前に、薬売りが値札のように指を立てる。
「治癒の精製薬なら――二百五十ギルダだ」
ティアが、鼻で笑った。
「……ぼったくり……」
薬売りは肩をすくめる。
「砂漠では、薬は命だ。命は安くない」
ユウトは、拳を握った。
二百五十。
今の手持ちでは、到底払えない。
(どうする)
情報も欲しい。
食料も必要。
薬も――取り戻したい。
そのとき、背後で小さなざわめきが起きた。
「なんだ、あれ」
「車……? いや……」
「鏡……?」
マジックミラー号のほうに、人が集まり始めている。
布の隙間から覗き込み、触れようとする者もいる。
ユウトは反射的に一歩戻り、車のほうへ向かおうとした。
「触るな!」
声が強くなる。
人々が立ち止まる。
そして次の瞬間、好奇心が警戒に変わる。
持ち主が怒る物は、価値がある。
薬売りも、香辛料の男も、同じ方向を見る。
その視線の角度が、金額の角度と同じだとユウトは理解した。
(……結局、取引になる)
逃げられない。
ティアが、ユウトの袖を掴む。
空腹のせいで力が弱い。
でも、その掴み方には、さっきの怒りがまだ残っている。
「……ユウト様……」
「……分かってる」
ユウトは小さく返し、息を吸う。
この場所では、誠実さだけでは買えない。
守りたいものほど、値段をつけられる。
それでも――ここで折れたら終わる。
ユウトが振り向いた瞬間。
集まってきた内の一人が、マジックミラー号の鏡面を覗き込み、目を丸くした。
そして――砂漠の市の騒音の中で、妙に浮いた声で言った。
「……なんだこれ。すげえ」
するともの珍しがった声が、あちこちから上がり始めた。
「なんだ、あの車」
「鏡みたいだぞ」
「金属じゃない、石でもない……」
「見たことないなぁ」
ユウトは、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
視線が集まる。
それも、好奇心だけじゃない。
値踏みする目。
奪えるかどうかを測る目。
(まずい……)
ここは城じゃない。
秩序は王女の言葉で保たれない。
ここで物の価値を決めるのは、力と数だ。
ユウトは一歩下がり、ティアとサリを庇う位置に立つ。
「……先に、情報を……」
そう言いかけたユウトの声を、香辛料の露店の男が遮った。
「情報?」
男は肩をすくめる。
「金も物も出さずに、砂漠の奥の話を聞こうってのか?」
その声に、周囲の商人たちも反応する。
「冷やかしか?」
「施しは教会でやれ」
「ここは市だ、慈善所じゃない」
言葉は穏やかでも、目は笑っていない。
ユウトは、袋の中を改めて探った。
城を出るときに渡された硬貨袋。
軽い。
嫌なほど軽い。
中身を確認する。
銀色の円盤が、数枚。
露店の主人の顔に、怒りと嘲笑が入り混じった。




