20 治癒薬
前回の続き
「……キャラバンだ」
ユウトが、外を覗いて言う。
サリが、小さく笑った。
苦笑に近い。
「……助かる……」
キャラバンに紛れることで、視線も散る。
追手も、獣も、簡単には近づけない。
「ここからは彼らと一緒に行こう」
「一人で砂漠を行くのは、自殺行為だ」
御者が振り返る。
「彼らとは方向が違う」
声はぶっきらぼうだが、それは事実だった。
小さな希望はあっけなく失われた。
言葉を話す気すら無くなった。
荷車の中で、ユウトは男に包帯を締める。
揺れで緩んだ結び目を結び直し、血が滲む箇所を押さえ、布を当てる。
水を飲ませ、傷口を確認する。
傷は深い。
だが、さっきまでの熱の勢いは弱まっている。
完全に治ったわけじゃない。
むしろ、ここからが勝負だ。
だが、間違いなく生き延びられる。
その手応えだけは、確かにあった。
サリは、ユウトをじっと見ていた。
警戒の目ではない。
理解しようとする目。
「……どうして……そこまで……」
ユウトは、手を止めずに答える。
「味方だって言われた」
一拍。
「それで十分だ」
サリは、目を伏せる。
「……城の兵は……」
言葉を切る。
次の言葉を言えば、何かが壊れると知っている顔。
「……同じこと、してくれなかった……」
ユウトは、何も言わなかった。
言えなかった。
怒りを言葉にすれば、いま支えている現実が崩れる気がした。
だから、手を動かし続ける。
ティアが、そっとサリの手に触れる。
小さな手。
冷たくなった指。
それが触れた瞬間、サリの肩がほんの僅かに緩む。
「……一緒に……行こう……」
サリは、ゆっくり頷いた。
「……うん……」
そして、ユウトに向かって、深く頭を下げた。
「……恩は……返す……必ず……」
ユウトは、困ったように笑った。
「返さなくていい」
「今は、生きててくれ」
その言葉は、命令じゃなく、約束に近かった。
砂漠の風が、布を揺らす。
ゆっくりと、だが確実に、砂の海へ入っていった。
討伐でも、命令でもない。
勝利でも、栄光でもない。
ただ、生き延びる旅として。
そして――誰かを生かしながら進む旅として。
最初に異変に気づいたのは、荷車ではなかった。
それを引いていた動物だった。
馬でもラクダでもない、砂漠用に飼い慣らされた大型の獣たち。
突然、歩みを鈍らせ、耳を伏せ、低く唸り始めた。
喉の奥で鳴る、不安を含んだ音。
飼い慣らされた獣が出す、警戒の唸り。
鼻先を砂へ近づけ、何度も地面を叩く。
前脚で砂を掻き、落ち着かない様子で首を振る。
まるで――地面の下に、何かを感じ取っているように。
「……おい、止まれ!」
御者の声が上がる。
手綱が強く引かれる。
だが、獣は従わない。
脚をばたつかせ、後退しようとする。
蹄が砂を削り、後ろへ下がる。
周囲の荷車でも、同じ反応が起き始めていた。
動物たちが一斉に落ち着きを失い、鳴き声と蹄音が重なって、不吉なざわめきになる。
「なんだ……?」
「砂が……動いてる……?」
誰かが、震えた声で叫んだ。
その瞬間だった。
空気が一斉に変わる。
誰かが、はっきりと恐怖を認識した。
「逃げろ!!」
怒鳴るような叫び。
次の瞬間、御者たちは荷車から飛び降り、
積荷も仲間も構わず、
動物にまたがり、砂の上を駆け出した。
一人が走れば、皆が走る。
振り返る者はいない。
「おい、待て――!」
ユウトが叫ぶが、誰も振り返らない。
荷車をつなぐ縄が切られ、
積荷は放置され、
人だけが、蜘蛛の子を散らすように散っていく。
残されたのは、荷車と、取り残された数人。
「……置いていかれた……?」
ティアの声が、かすかに震える。
答える暇はなかった。
次の瞬間。
ザザザザ――――ッ
砂が、波打った。
地面が、うねる。
まるで、巨大な生き物が、地中で身をよじるように。
砂が盛り上がり、沈み、また盛り上がる。
「……来るぞ!」
ユウトが叫んだ、その直後。
砂の中から、黒い影が噴き上がった。
虫だ。
巨大な虫。
人の胴ほどもある胴体に、節だらけの脚。
節ごとに硬質な外殻が重なり、
陽光を受けて鈍く光る。
口元には鋭い顎が幾重にも重なり、
開閉するたび、乾いた音を立てる。
一匹、二匹じゃない。
群れだ。
砂から、次々と湧き出してくる。
止まらない。
地面そのものが、虫を吐き出しているようだった。
「……砂漠の虫……」
サリの声が凍りつく。
「巣に入ったら……終わり……!」
虫たちは、音と振動に反応している。
人の呼吸。
傷ついた男の浅い息。
何でも標的になる。
荷車から大きな音が上がった。
爆竹。
逃げる瞬間に火をつけていった奴がいる。
虫の頭部が一斉にこちらを向いた。
「……ティア、後ろへ!」
ユウトが庇うように前に出る。
だが武器がない。
剣も、槍も、弓も。
荷車しかない。
砂漠しかない。
逃げ場もない。
そのとき。
藁の上で横たわっているはずの男が、歯を食いしばりながら砂漠の上にいた。
「……兄さん!? ダメ!!」
サリが叫ぶ。
男は、ふらつきながらも立つ。
片足を引きずり、包帯から血がにじむのも構わず、虫の群れの前へ出た。
まるで、壁になるつもりのように。
「危ない。戻ってこい!」
「やめて!」
サリが泣きそうな声で叫ぶ。
男は振り返らない。
そして、虫の群れへ突っ込んだ。
素手で。
殴り、蹴り、踏みつける。
拳が外殻に当たり、鈍い音がする。
脚を踏み折り、顎を叩き潰す。
一匹、叩き潰す。
だが――次の瞬間。
虫たちの色が、変わった。
緑がかった外殻が赤黒く変色し、背の節が膨張し、顎がさらに開く。
まるで、興奮した獣のようだ。
「……変異した……?」
サリの顔が青ざめる。
「仲間の死に……反応した……!」
次の瞬間。
虫たちは、さっきまでとは比べ物にならない速度で襲いかかった。
地面を這うのではない。
羽を広げて跳びつく。
群れが、一斉に男へ殺到する。
「兄さん!!」
サリが飛び出そうとする。
ユウトが必死に腕を掴む。
「行くな!!」
男の姿が、虫の群れに飲み込まれかける。
だが、それでも、男は立っている。
噛まれ、引き裂かれながらも、何度も虫を振り払って叩き落とす。
だが――きりがない。
一匹倒しても、次が来る。
さらにその次が来る。
地面から、まだ湧いてくる。
(……このままじゃ……全滅だ)
ユウトの視線が、荷車の奥へ走る。
縄で縛られ、横倒しにされた――マジックミラー号。
逃げるための車。
境界を越えるための道具。
だが今は――唯一、状況を壊せるもの。
(……今しかない)
ユウトは荷車の奥にあった、ナイフ代わりの短剣で縄を切る。
ザン、ザン、と荒々しく。
指が震える。
刃が滑る。
それでも切る。
最後の縄が切れる瞬間。
城で誰かに磨かれたのか、いつもより光輝いて見える。
「ティア、目を閉じろ!」
「ユウト様!?」
「光が出る! 直視するな!」
やがて、光り輝くマジックミラー号の包みが解かれた。
重力を無視するみたいに、ふわりと。
鏡面が、砂漠の光を吸い込み、次の瞬間。
閃光。
白でも金でもない、太陽の赤い光。
目で見なくとも、肌で感じるほどの光。
世界が真っ白に染まる。
「――――ッ!!」
虫たちが、一斉に硬直する。
外殻がひび割れ、身体が内側から崩れ落ちるように砕けていく。
まるで、存在を拒絶されたかのように。
逃げるために地面に潜ろうとした虫も、すべてが、光の中で動きを止めた。
数秒。
それは、永遠のようにも、瞬きのようにも感じられた。
そして――
砂の上には、動かない殻だけが残った。
風が吹き、砂がそれを覆っていく。
殻はすぐに輪郭を失い、ただの砂の盛り上がりになっていく。
まるで、最初から何もなかったかのように。
静寂。
耳鳴りだけが残る。
ユウトは、荒い息のまま、立ち尽くしていた。
「……終わった……?」
ティアが、恐る恐る目を開ける。
光の残像に目を細めながら、周囲を見回す。
サリが、すぐに兄のもとへ駆け寄る。
「……兄さん……!!」
砂と残された虫の残骸をかき分ける。
虫の棘が指に刺さり、サリの手の皮を引き裂く。
サリは夢中で砂山をかき分けた。
ティアが手伝おうと近づいたとき、男は地面から“発掘”された。
男は、うつ伏せで倒れながらも、まだ息をしていた。
肩が、わずかに上下する。
「……生きてる……」
サリの声が震える。
ユウトはマジックミラー号を見つめた。
鏡面は、もうあの強い光を宿してはいない。
だが、そこには確かに、異質な気配が残っている。
(……やっぱり、こいつは境界を動かす存在……なのか)
そして逃げるための車は、同時に敵を呼び寄せる灯台なのかもしれない。
助けにもなるが、災厄も呼ぶ。
砂漠は、まだ始まったばかりだった。
そして、この運命からは、もう逃げられない。
荷車の中で、虫の殻が砂に飲まれていくのを見届けたあと、ユウトは短く息を吐いた。
喉が痛い。
砂が歯の隙間に噛む。目をこすれば、指先がざらつく。
「……兄さん……」
サリが男の肩を抱えた。
「あり……がとう、助かった……」
男は小さな声でティアに言った。
「こちらこそ」
包帯の下で血が滲み、肩の上下に合わせて布がわずかに動く。
「何も残っていない」
荷車を調べていたユウトが言った。
声が荒れている。
「……それは、そうだ……」
男がむせて血を少し吐く。
「兄さん!」
「あいつらが何かを残して逃げていくとでも」
サリが兄の言葉を継ぐ。
「ここからはマジックミラー号で行こう」
ティアが頷く。だが、その目の奥に不安がある。
マジックミラー号の光――あれは確かに救いだった。
同時に彼女の中で、何かを確定させた光でもあった。
荷台の縄を外して、ユウトは車体を地面に下ろす。
内部のスペースを空けると、サリに中に入るように合図した。
サリは戸惑いながらも、男の身体を支えてマジックミラー号の荷台に乗った。
マジックミラー号は不思議だった。
外見は異物でしかないのに、快適に人が横になれるだけの余裕がある。
男を寝かせると、ティアは布を丸めて枕にし、汗を拭いた。
サリが兄の指を握り、唇の端で何か祈るように呟く。
ティアはその様子を確認すると、運転席のユウトの隣に座る。
「……走れる?」
ティアがユウトを見る。
「もちろん、走るさ」
ユウトは即答した。
エンジンをかける。
走り出すと、風を切る音が鳴る。
車窓の外は、どこまでも砂漠だった。
白に近い薄黄の砂。
熱で揺らぐ空気が、遠景を歪ませる。
影は小さく、太陽は容赦がない。
砂の丘が繰り返され、同じ景色が何度も現れる。
視線を逸らすと方向感覚が削られていく。
その単調さの中で、いくつかだけ確かなものがある。
風の向き。
砂の粒の粗さ。
そして――境界の気配。
マジックミラー号で走っていると、時折、空気が薄くなる場所があった。
車体がわずかに浮く。
音が遠くなる。
砂の色が一瞬だけ変わる。
そこを通り抜けるたび、ユウトは背筋が冷える。
(……ここを何度も動かしたら、また獣が出てくる)
境界への裂け目を刺激するたびに、何かがそれを嗅ぎつける。
今でもレイの言葉が、胸の奥で鳴っている。
(――餌)




