18 地下の学者と死の忠告
前回の続き
ユウトは、歯を食いしばる。
怒りだけではない。
屈辱と、恐怖と、どうにもならない現実が混ざっている。
「……失敗したら?」
アリシアは、微笑んだ。
それは、王女の笑みではなかった。
勝者が負け犬に向ける笑みでもない。
権力そのものの笑みだった。
「そのときは、あなたの自由は終わり」
空気が、完全に凍りつく。
「あなたは、私の所有物になる」
ティアが、ユウトの腕にすがりつく。
「……ユウト様……」
ユウトは、しばらく俯いていた。
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、痛みが現実に引き戻す。
そして、ゆっくり顔を上げる。
「……分かった」
即答ではなかった。
だが、拒否でもなかった。
「行くよ」
アリシアは、ほんのわずかに息を吐く。
勝った息でも、安堵の息でもない。
「明朝、出発しなさい」
背を向ける。
「近衛をつけるわ」
「逃げ道は、用意しない」
扉の方へ歩きながら、低く言う。
「それでも戻ってきたら――」
振り返らずに続ける。
「あなたは、私のものよ」
扉が開き、近衛兵が入ってくる。
命令は終わった。
しかし空気は終わらない。
むしろ、ここから始まる。
ユウトは、拳を握りしめたまま、何も言わなかった。
床には、砕けたグラスと、潰れた薔薇が残っていた。
血のような赤い染みと破片が、石床に散らばっている。
(最初からこうなると暗示するかのようだ)
近衛兵に挟まれ、ユウトとティアは部屋から出される。
広い部屋にひとりになったアリシア。
ワインに濡れて惨めな薔薇と、小さく光る破片が、石材に散らばっている。
(まるで、私の心……)
うつむくと、長い髪が少しずつ額を滑り、顔を隠した。
ユウトたちは城の下層へと連れていかれた。
左右に立つ兵の鎧が、歩くたびに金属音を鳴らす。
その音が、妙に規則正しくて、逃げ道のない行進のように聞こえた。
石の階段は、冷たく、湿っている。
踏みしめるたび、靴底に薄い水気が吸い付く。
壁から染み出た水が溝を作り、暗い線になって階段の縁を伝っていた。
松明の光が、壁に揺れる影を落とす。
炎が揺れるたびに影も揺れ、影のほうが生き物のように見える。
城の中心から、確実に離れていく感覚。
上へ戻る階段ではない。
何かを見せるためではなく、閉まっておくための階段。
ユウトは息を吐き、視線だけで周囲を確かめる。
ティアは黙って歩いているが、指先が自分の袖を握りしめている。
「……どこへ行くんですか」
ティアが小さく尋ねた。
声は震えていない。だが、音量が小さい。
聞かれてはいけない場所で聞く声だった。
答えたのは、先頭の近衛兵だった。
「学者のもとだ」
振り返りもしない。
「今回の任務に必要な情報を受け取る」
階段は、さらに下へ続く。
空気が一段冷たくなり、湿気が薄くなる。
代わりに、古い埃の匂いが混じってくる。
やがて、鉄の扉の前で止まった。
扉は分厚く、黒ずんでいる。
取っ手には触れた跡がほとんどない。
人が出入りする場所ではなく、封じるための扉だった。
兵が扉を叩く。
重い音。
叩くというより、警告するような音だった。
しばらくして、内側から、かすれた声が返った。
「……入れ」
鍵が外れる音。
鉄が擦れる音。
扉が開く。
中は――異様な空間だった。
床から天井まで、壁一面に書物。
積み上げられた巻物。
無秩序に広がる紙束。
棚は整然としていない。
必要なものを必要なだけ押し込んだというより、
守るべきものを積み上げて壁にしたような並び方だった。
空気は乾いているのに、古い埃と薬草の匂いが混じっている。
薬草の匂いは、治療のためではない。
紙を虫から守るための匂いだろうと、ユウトは直感した。
中央の机に、老人が座っていた。
背は曲がり、白髪は乱れ、顔は深く刻まれた皺で覆われている。
目は刃のように乾いている。
「……来たか」
無機質な声。
「王女の“客人”よ」
客人という言葉に、皮肉が含まれているのが分かった。
ユウトは、周囲の書物に思わず目を向ける。
本能的に、内容を知りたくなる。
境界、勇者、王女、獣――答えがありそうだ。
「……すごい量だな」
思わず、近くの本へ手を伸ばしかけた、その瞬間――
「触るな!!」
怒号が、部屋に響いた。
音が反響し、壁の書物まで震えたように感じる。
老人は机を叩き、立ち上がっていた。
「許可なく触るな! 一字でも読むな!」
近衛兵が、反射的に一歩前に出る。
ユウトは、すぐに手を引いた。
「……失礼した」
声を落として言う。
「悪かった。ただの癖だ」
老人は、荒い息を吐き、再び椅子に沈んだ。
怒りを吐き切ったというより、怒りを押し殺している。
「……若いのは、すぐ触る……」
ぼそりと呟く。
それは叱責ではなく、怯えに近い声音だった。
空気が、重くなる。
ティアが一歩後ろへ下がる。
ユウトは、老人の執着の理由を考えようとするが、答えは出ない。
やがて老人は、事務的な口調に戻った。
「王女の命だ。猛獣の情報を渡す」
机の上に、古びた地図を広げる。
紙は黄ばんでいるのに、線だけは鮮明だ。
何度も同じ箇所を指でなぞった跡がある。
「目的地は、ここだ」
指が示したのは、国境のさらに外。
砂の色で塗られた広い地域。
「砂漠を横断する」
ティアが息を呑む。
「……そんな……」
老人は構わず続ける。
「途中にバザールがある」
「流民と商人が集まる場所だ」
老人の指が、地図上の一点を叩く。
「補給と、追加の情報は、そこで集めろ」
ユウトは地図を睨む。
距離感が現実味を帯びてくる。
砂漠は、ただの地形ではない。
命を削る空間だ。
「猛獣は?」
老人は、別の紙を取り出した。
歪な獣のスケッチ。
四足だが、胴が異様に長く、背中に結晶のような突起。
口は描かれているのに、どこか生き物の口ではない。
「名は、《地喰らい》」
低い声。
「砂の下を移動し、獲物の振動を感知する」
「討伐隊が消えたのは、地面から引きずり込まれたからだ」
ユウトの背筋が冷たくなる。
砂の下、という言葉だけで想像が広がる。
足元が、突然、空洞になる。
引きずられ、声も届かず、消える。
「……弱点は?」
ユウトは、なるべく平静に問う。
だが心の中では、弱点があることを祈っている。
老人は、一瞬だけ黙った。
沈黙の間に、紙の匂いが濃くなる。
「完全な弱点は、ない」
ティアが、思わず声を上げる。
「……そんな……」
老人は、眉一つ動かさない。
「だが」
淡々と続ける。
「地上に出た瞬間、動きは鈍る」
「結晶部位は硬いが、腹側は柔らかい」
ユウトが呟く。
「……つまり」
「そうだ」
老人は、短く頷く。
「砂漠で、それができればな」
皮肉が混じる。
笑いではない。現実の冷たさだけが混じる。
近衛兵が、低く唸る。
「……無茶な任務だ」
老人は、近衛兵を一瞥する。
「王女の命だ」
それ以上、語らない。
王命という言葉が、この地下では最も強い鎖になる。
説明は、終わった。
「……以上だ」
老人は、もう二人を見なかった。
「行け」
追い払うような声。
近衛兵が、踵を返す。
ユウトとティアも、扉へ向かう。
背中に、書物の視線が刺さるような気がした。
そのとき――老人の声が、低く響いた。
「……おい」
ユウトが振り返る。
老人は、机の上でも床でもなく、ユウトの手を見ているようだった。
「本は……好きか」
唐突な問い。
ユウトは、少し驚いたが、正直に答えた。
「ああ。よく読んでいたよ」
老人の目が、わずかに揺れた。
乾いた刃が、一瞬だけ水を含むように。
そして、誰にも聞こえないほどの声で囁く。
「……この旅は」
一拍。
「お前を試すものではない」
さらに低く、喉の奥から絞り出すように。
「お前を、殺すものだ」
ユウトの表情が、固まる。
「……逃げろ」
その言葉が、背中に針のように刺さった。
次の瞬間。
ガッ!!
鈍い音。
近衛兵の拳が、老人の頬を打ち抜いた。
老人は椅子ごと倒れ、床に転がる。
書物の山が、わずかに崩れる。
「不穏な言葉を吐くな!」
兵が怒鳴る。
「王命に背くつもりか!」
ユウトが、思わず叫んだ。
「何をするんだ!!」
近衛兵が振り返る。
「勇者殿、これは――」
「違う!」
ユウトは、兵の前に出る。
「脅したわけじゃない! 忠告しただけだ!」
床の老人が、かすかに笑った。
笑ったというより、痛みと何か別の感情が混ざって漏れた音だ。
「……ワシは……構わん……」
血の混じった息。
それでも、目はユウトを見ている。
「……生きろ……必ず……」
次の瞬間、近衛兵が老人を引きずり起こし、壁際へ突き飛ばす。
「黙れ」
老人の背が壁に当たり、鈍い音がした。
だが老人は、苦しげに笑うだけで、抵抗しない。
ユウトは、拳を握りしめた。
止めたい。
だが、止めたところで何が変わる?
王女の命令は覆らない。
この城の仕組みも変わらない。
ユウトは、もう何も言えなかった。
扉が、閉まる。
鉄の音が、最後の区切りのように響く。
書物の匂いと、血の気配だけが、地下に残った。
そしてユウトの胸の中には、
「逃げろ」という言葉だけが、いつまでも残った。
城門前は、朝の準備で慌ただしかった。
まだ太陽は低い。
けれど城の前庭には、人の熱と馬の息が満ちている。
荷車が並び、兵が行き交い、物資の積み込みが続いている。
木箱が地面に置かれる鈍い音、革袋が擦れる音、馬具の金具の音。
それらが重なり合って、ひとつの出発の騒音になっていた。
だが――
ユウトは、その中でだけ、置いていかれている気がした。
準備の輪の中心にいない。
誰も相談しない。
誰も目を合わせない。
(……妙だな)
嫌な予感が、背中の皮膚を薄く撫でる。
「……マジックミラー号は?」
ユウトは周囲を見回す。
この場にあるはずだ。
命令の中心にある道具――いや、道具じゃない。
自分の帰る可能性そのものが、ここにあるはずだ。
なのに、どこにもない。
「……ない……?」
ティアも顔色を変える。
「……まさか」
ユウトが歩幅を速める。
荷車の列を一つ、二つと覗き込む。
そして――
近くの荷車の一つに目を向けた瞬間、見つけた。
ぐるぐるに縄を巻かれ、完全に固定された状態で、
荷台の奥に横倒しで積まれているマジックミラー号。
木枠の間に無理やり押し込まれ、車体の側面が藁と布で覆われている。
まるで生き物を運ぶみたいに。
「……なんだ、これ」
思わず声が漏れる。
怒りより先に、理解できない、という感情が出た。
胸が冷える。
胃が沈む。
ティアも目を見開いた。
「……縛られてる……」
縄は、飾りじゃない。
本気で逃がさないための縛りだ。
近衛兵の一人が、平然と答える。
「逃走防止だ」
ユウトは、思わず振り返った。
「冗談じゃない。あれは俺の――」
「王命だ」
即座に遮られる。
言い返す余地を許さない言い方。
しかも言っているのが王女本人ではないのに、
その口調だけが王命の形をしている。
ユウトは、歯を食いしばった。
喉の奥で何かが熱くなる。
「……じゃあ、俺たちは?」
「別の荷車に乗れ」
指差されたのは、布で覆われた粗末な荷車だった。
荷物を運ぶ荷車。
人を運ぶための造りじゃない。
座席も、窓も、衝撃を和らげるものもない。




