17 王女の条件
前回の続き
「……城の噂って、他には?」
ティアは、少し迷ってから言った。
「……殿下、近衛兵団のこと……すごく大事にしてる」
「それは、そうだろう」
「でも、自分のことは、あんまり……」
ユウトは、ハンドルを握る手に、わずかに力を入れた。
「王女って立場だから、だろ」
「それもあるけど……」
ティアは、小さく続ける。
「殿下、子どもの頃から……ずっと、選ぶ側だったから……」
「選ぶ立場だと、自分の価値が低くなるのか?」
「そんな気持ちわからない?」
「いや、俺には……」
「王女様は、誰にも頼れないのよ」
「なるほど、うーん、わかる気が……するかな……。俺とは立場が違いすぎて」
ユウトは、ふとレイの言葉を思い出す。
――世界は、迷っているときほど、勇者を選ぶ。
「……誰かに、選ばれることがないまま、来たのか」
ティアは、驚いたようにユウトを見る。
「……どうして、分かるの……?」
「……勘」
正直、ほぼ想像だ。
だが、不思議と確信に近いものがあった。
「だから、俺みたいなのが現れると……」
ユウトは、言葉を探す。
「……掴みに来る、か」
ティアは、ぎゅっとシートの端を掴む。
「……殿下、悪い人じゃない……」
「分かってる」
ユウトは、即答した。
「だから厄介なんだ」
ティアは、少しだけ安心したように息を吐く。
「……ユウト様、殿下のこと……怖い?」
ユウトは、少し考えてから答えた。
「……怖いっていうより……」
「……距離の詰め方が、速い」
ティアの顔が、少し赤くなる。
「……はい……」
「正直、戦場より緊張する」
ティアが、くすっと笑った。
「……じゃあ……」
小さな声。
「……私の方が……いい……?」
ユウトは、一瞬言葉に詰まる。
ハンドルを握る手に、余計な力が入る。
「……今は、その話じゃない」
「……はい……」
だが、ティアの指は、そっとユウトの袖を掴んでいた。
ユウトは、何も言わず、そのまま運転を続ける。
やがて、霧の向こうに、城の外壁が見えてきた。
白い石の輪郭が、ゆっくりと現実の重さを帯びてくる。
「……なあ、ティア」
「はい」
「もし、王女が俺を利用しようとしたら――」
「そのときは、逃げる」
ティアは、少し驚いた顔で、すぐに頷いた。
「……一緒だよね?」
「当然だ」
ユウトは、短く言った。
「レイが言っていたのは、この辺りだ」
マジックミラー号は、ゆっくりと減速した。
それまで、風も音も曖昧だった世界が、次第に輪郭を取り戻していく。
土の匂い。
湿った空気。
遠くで、かすかに聞こえる金属音。
(……戻ったな)
ユウトは、直感的にそう思った。
獣の気配を探る。
いない。
フロントガラスの向こう。
木立が途切れ、石を積み上げた壁が見える。
高い。
均一で、人工的。
「……お城」
ティアが、小さく声を上げた。
マジックミラー号が止まった場所は、舗装されていない細道だった。
人通りはない。
だが――完全に捨てられているわけでもない。
轍がある。
靴跡がある。
そして、石壁の一部に――見覚えのある文様。
城門の外壁に刻まれていたものと、
同じ意匠。
「……間違いない。帰ってきた」
ユウトは、車のドアを開けて外に出た。
空気が重い。出発前とは違う。
境界の外縁とは全く違う世界だ。
ここには、人の気配がある。
見えなくても、常に誰かに見られている空気。
ティアも降りてきて、周囲を見回す。
「……音がする……」
耳を澄ますと、確かに聞こえる。
城の中庭で鳴る鐘。
兵の掛け声。
どこかで、鉄が擦れる音。
すべてが、城の生活音だ。
そのとき。
遠くで、複数の足音が重なった。
巡回だ。
まだ、こちらには気づいていない。
だが――時間の問題。
ユウトは、車の乗りこみハンドルに手をかける。
マジックミラー号は、再び静かに動き出す。
城の裏手へ続く道。
かつて、連れて来られた時に通った――
あの、袋小路へ。
戻れる場所に、たどり着いた。
だがそれは、安全な場所に戻ったという意味ではない。
むしろ。
もう一度、選択を迫られる場所だった。
マジックミラー号は、城の影へと、音もなく滑り込んでいった。
「……行くぞ」
「どこに行くつもり」
「城さ。正門から」
境界を動かせる存在が、ここにいることだけは、城も、そしてこの世界も、すでに知っていた。
そして、その事実が、これから彼らを逃がさない理由になることも。
勇者がいなくなって数日。
アリシアがひとり頬杖をついて座っている。
夕食のあとの城は、昼よりも静かだった。
昼は兵の足音や、侍女たちの衣擦れ、遠くの訓練の声がどこかに混じる。
だが今は、それらがひとつ残らず引いている。
通路には香草とワインの匂いが、まだ微かに漂っていた。
王女が私的な晩餐を終えた直後――そういう空気が、壁の石にまで染み込んでいる。
近衛兵に導かれ、二人は小広間の前で止められた。
扉の向こうから、グラスの触れ合う音が聞こえる。
軽い音。
ユウトたちは近衛兵に案内されて城の中を歩く。
そこに含まれる緊張は、薄い皮膜のように伝わってくる。
「……ここで待て」
短く告げられ、一歩下がる。
兵は扉の左右に立ち、目を伏せるが、気配は消えない。
ユウトは、扉を見つめたまま、息を整える。
胸の奥が妙に乾いて、呼吸が浅くなる。
(……ここから先は、言葉ひとつで決まる)
「……ティア」
「……はい……」
ティアの声は、少し硬い。
袖を掴む指に力が入っているのが分かる。
「無理そうなら、俺が話す」
「……でも……」
ティアは、袖を掴んだまま、唇を噛む。
「……殿下、怒ってる……と思う……」
「俺たちの意志じゃない。向こうの都合でもある」
ユウトは怖さを誤魔化すように強く言った。
扉が静かに開く。
音はほとんどしない。
なのに、空気が一段冷えたように感じた。
中には、アリシア王女がいた。
椅子に深く腰かけ、片手にワイングラス。
柔らかなドレス姿で、鎧も王族の装いもない。
髪もほどかれ、首筋が無防備に見えている。
食後のくつろぎの時間――本来なら、呼吸の緩む時間。
だが、その視線は、まったく柔らかくない。
まるで刃を布で包んだように、静かで、鋭い。
「……おかえりなさい、逃亡者さん」
低く、穏やかな声。
怒りを抑えた穏やかさではない。
最初から、怒りを温存した穏やかさだった。
近衛兵は入らず、扉は閉められる。
カタン、と鍵が落ちる音がした。
完全な密室。
ユウトは一歩前に出る。
ティアは半歩遅れて、身を縮める。
「脱走したつもりはない」
即答だった。
「境界に送り込んだのは、そちらの都合だろ」
アリシアは、ワインを一口飲む。
その動作があまりに自然で、逆に怖い。
「結果は同じよ」
グラスの縁が、かすかに鳴る。
「城を離れ、報告もなく、私の管理下から消えた」
視線が、冷たく細くなる。
見下ろしているのではない。
測っている。
「それを――脱走と言わず、何と言うの?」
ユウトは、ためらわず言い返した。
「それに俺は、あなたと契約した覚えはありません」
一瞬、空気が凍る。
ティアが、息を呑んだ。
喉の奥で音が止まる。
アリシアは、グラスを揺らしながら言った。
「……まだ、そんなことを言うのね」
「事実です」
ユウトは、言葉を引かなかった。
引けば、次はもっと深く踏み込まれると直感していた。
「国に保護された瞬間、あなたはこの国の管理下よ」
「勝手に決めるな」
思わず、声が強くなる。
「俺は物じゃない」
アリシアの目が、すっと冷える。
「ええ。物じゃない」
ゆっくり立ち上がる。
椅子が軋む音が、妙に大きい。
「だから、より厄介なの」
王女はテーブルの上の花瓶から、一本の薔薇を抜き取った。
赤い花弁。
濃い色が、部屋の淡い照明の中で、血のように見える。
それを、ワイングラスの中へ沈める。
花弁が酒を吸い、ゆっくりと沈む。
その動きは美しく、そして不吉だった。
「あなたは、世界を動かせる」
静かな声。
「だから、私はあなたの運命を握っている」
「そんな権利、あなたに――」
「あるわ」
遮られる。
刃のように短い。
「国を守る立場にある者には」
王女は、グラスを見つめたまま続ける。
「あなたが生きる場所」
「あなたが使われる場面」
「あなたが壊す世界」
一つずつ、淡々と数える。
「……全部、私が決められる」
ユウトの背中に、冷たい汗が伝う。
言葉を返そうとすると、喉が乾いて声が出ない。
ティアが、声を震わせて言う。
「……殿下……そんな……」
アリシアは、ティアを一瞥する。
「あなたは黙っていなさい」
冷たい。
先ほどまでの感情的な揺れが、嘘のように消えている。
ティアは小さく肩を震わせ、何も言えなくなる。
「言うことを聞かない――」
王女は、低く呟く。
「……お馬鹿さん」
次の瞬間。
グラスが、王女の手を離れた。
床に落ちる。
高い音。
赤いワインと薔薇の花弁が、石床に飛び散る。
砕けたガラスが、光を反射してきらめく。
そのきらめきが、祝福ではなく警告に見えた。
ユウトは、思わず身構えた。
殺されるのではないか。
そんな予感が、一瞬で全身に走る。
だが、アリシアは叫ばない。
怒鳴らない。
ただ、静かに言った。
「本当なら拘束して、能力を制限して、命令だけを出すところよ」
一歩、近づく。
距離が詰まる。
圧が増す。
「でも――それでは、もったいない。あなたが壊れてしまう」
王女の声に、ほんの僅かな迷いが混じる。
それは弱さではない。
計算の合間に滲む、人間の揺れだった。
「壊れた道具は、使えない」
ユウトは、唇を噛んだ。
(道具じゃないと言ったのに、結局――)
「……じゃあ、何が条件だ」
アリシアは、はっきりと言った。
「旅に出なさい」
「……は?」
耳が疑う。
だが、王女の目は冗談を許さない。
「この国の外へ」
王女の目が、鋭く光る。
「境界近くに、猛獣が出ている」
「討伐隊が何度も戻されている」
言葉は淡々としているのに、そこに含まれる命令は重い。
「それを――」
一拍。
「あなたが処理してきなさい」
ユウトは即座に否定する。
「だから言ってるだろ、俺は戦わない」
「倒せとは言っていない」
王女は言い切る。
「消せ、と言っている」
ユウトは、言葉を失う。
逃げるでも、勝つでもない。
消すという曖昧な命令は、自由にも罠にもなり得る。
「方法は問わない」
「殺してもいい」
「追い返してもいい」
「封じてもいい」
言葉の羅列が、冷たい鎖の音のように響く。
「ただし」
冷たい声。
「二度と出てこない状態にしなさい」
ティアが、思わず叫ぶ。
「……そんなの……無茶です……!」
アリシアは、ちらりと視線を向ける。
「無茶でも、やれ」
再びユウトを見る。
「これは、懲罰です」
「あなたが、私の手を振り払った代償」
ユウトは、歯を食いしばる。
怒りだけではない。
屈辱と、恐怖と、どうにもならない現実が混ざっている。
「……失敗したら?」
アリシアは、微笑んだ。
それは、王女の笑みではなかった。
勝者が負け犬に向ける笑みでもない。
権力そのものの笑みだった。
「そのときは、あなたの自由は終わり」




