16 境界の決断
前回の続き
ティアは、それ以上、続けなかった。
すぐに再び眠りに落ちる。
ユウトは、その寝顔を見下ろしながら、
ゆっくりと息を吐いた。
この小さな体温が、胸の中で確かに答えを揺らしている。
毛布の中で、夜は深まっていった。
夜明け前。
境界の外縁は、まだ薄い霧に包まれていた。
光はある。だが、太陽の輪郭はどこにも見えない。
空そのものが、ぼんやりと白く発光しているような、不思議な明るさだった。
ここでは、朝も夜も、時間ではなく「気配」でしか分からない。
空気の温度、湿り気、風の向き。
それらがわずかに変わることで、今がどの時間帯なのかを感じ取るしかない。
ユウトは、静かに目を覚ました。
まず感じたのは、胸元の温もりだった。
腕の中に、まだティアがいる。
小さな身体が、丸まるようにして寄り添っている。
寝息は、穏やかで規則正しい。
昨日の恐怖が嘘のように、深く眠っているようだった。
(……起こさないほうがいいな)
そう思って、そっと腕を抜こうとする。
だが、その瞬間。
指先が、ユウトの服の裾を掴んだ。
弱い力だが、はっきりとした意志のある動き。
「……どこ……?」
寝ぼけた声。
まだ夢の中にいるような、輪郭の曖昧な響き。
「起きてない。少し外を見るだけだ」
ユウトは、できるだけ優しい声で言う。
指を無理に外すことはせず、そのまま立ち上がる。
ティアは半分眠ったまま、毛布を引き寄せ、再び丸くなる。
ユウトは、ゆっくりと外へ出た。
霧の中の空気は、冷たく、肺の奥まで澄んでいる。
焚き火の跡から、かすかに炭の匂いが漂っていた。
レイは、すでに起きていて、焚き火の灰を足で踏み消していた。
「早いな」
振り向かずに言う。
「そっちこそ」
ユウトは答えながら、霧の向こうの丘を見る。
昨日、あの獣が姿を現した方向だ。
霧の中に、何かが潜んでいるような錯覚が、まだ消えない。
「……もう、来ないのか」
レイは、少し考えてから答えた。
「境界が閉じたからな」
「閉じた?」
「ああ」
レイは地面を軽く踏む。
「さっきまで、ここは開きかけだった」
「今はもう、ただの境目だ」
ユウトは眉をひそめる。
「……じゃあ、昨日の獣は」
「境界が動いた直後に来た」
「匂いが残ってるうちに、もう一匹は来ない」
胸の奥で、何かが沈む。
「……俺のせい、か」
レイは即座に首を振った。
「違う」
短く、はっきりと。
「来たのは獣だ」
「動かしたのは世界だ」
ユウトは、納得していない顔をする。
レイは、少しだけ語気を和らげた。
「……だが」
一拍。
「境界を動かせる存在が、危険なのは事実だ」
「だから王女が、俺を捕まえようと?」
「捕まえる、というより――」
レイは言葉を選ぶ。
「……囲い込む、だな」
ユウトは、苦く笑う。
「やっぱりな」
しばらく沈黙が落ちる。
霧の向こうで、風が草を揺らす音だけが聞こえる。
「王女は、間違ったことは言っていない」
レイが続ける。
「世界が揺れているなら、力は必要だ」
「でも」
ユウトが遮る。
「俺は、世界を固定したいわけじゃない」
レイは、その言葉に少しだけ目を細めた。
「……さっき言ったな」
ユウトは、昨日の会話を思い出す。
「勇者の力は、世界を一方向に固定する力だ」
「決断を、逃がさない力だ」
レイは、静かに頷く。
「だから、世界は勇者を選ぶ」
「迷っている時ほど、な」
ユウトは、霧の向こうを見つめる。
「……じゃあ、俺は」
「お前は」
レイは、はっきりと言った。
「境界を割る側だ」
ユウトが振り向く。
「決断の前に、別の選択肢を作る存在だ」
少しだけ、笑う。
「世界から見れば、邪魔者だ」
ユウトは、しばらく何も言えなかった。
胸の中で、言葉がうまく形にならない。
「……それを、王女は知ってるのか」
「薄々は」
「じゃあ――」
ユウトの声が、低くなる。
「俺を使うつもりでも、信用はしてない」
レイは、否定しなかった。
「王女は、国を選ぶ」
「それが役目だ」
沈黙。
霧が、風に押されて少しずつ薄くなる。
「……俺は」
ユウトが、ぽつりと言う。
「誰かの役目のために、世界を固定する気はない」
レイは、ゆっくりと頷いた。
「なら、戻るか?」
ユウトは即答しなかった。
拠点の入口を見る。
中には、まだ眠っているティアがいる。
「……あいつを、置いていけない」
レイは、少しだけ困った顔をした。
「それは――」
「分かってる」
ユウトは続ける。
「王女に見つかれば、利用される」
「境界を動かせば、獣が来る」
「それでも」
拳を、軽く握る。
「逃げるだけってのは、違う気がする」
レイは、ふっと笑った。
「やっぱりな」
「何がだ」
「お前、勇者向きじゃないが」
一拍。
「面倒事に首突っ込む資質は、十分ある」
ユウトは、肩をすくめる。
「褒めてないだろ」
「褒めてない」
即答。
そのとき、背後から声がした。
「……ユウト様……?」
振り返ると、ティアが立っていた。
まだ眠そうな顔で、毛布を肩にかけたまま。
「起こしたか」
「ううん……いなくなったら、いやだったから……」
その一言に、ユウトは言葉を失う。
「……悪い」
ティアは首を振る。
「……行っちゃうの?」
ユウトは、レイを見る。
レイは、答えない。
ユウトは、正直に言った。
「……まだ、決めてない」
ティアは、少し考えてから、ユウトの袖を掴んだ。
「……なら……一緒に、考えよう?」
その手は、小さくて、だが確かだった。
ユウトは、その手を見てから、ゆっくり頷く。
「……そうだな」
レイは、二人を見て、小さく息を吐く。
「なら、王女のところへ戻るな」
ユウトが驚く。
「戻れって言うのか?」
「交渉しろ」
レイの声は、静かだがはっきりしている。
「逃げれば、追われる」
「黙っていれば、利用される」
「なら――」
一拍。
「条件を出せ」
ユウトは、考える。
戦わない条件。
ティアを守る条件。
境界を動かさない条件。
(……無茶だ)
だが。
「……やるしか、ないか」
レイは、満足そうに笑った。
「それでいい」
そして、少しだけ声を落とす。
「王女は、敵じゃない」
「だが、味方でもない」
ユウトは、静かに頷く。
「……分かってる」
ティアは、ユウトの袖をぎゅっと握ったまま、言った。
「……でも……一人で、行かないで」
ユウトは、少しだけ笑った。
「一人じゃ行かない」
そして、静かに付け加える。
「二人で行く」
境界の外縁は、ゆっくりと霧を薄くしていった。
決断の前の場所は、
もう、彼らを留める理由を失っていた。
それでも――
彼らが選ぶ先だけは、まだ決まっていなかった。
マジックミラー号は、水面のような景色を静かに進んでいた。
正確には水色の晴れた空が、色の薄い地面に反射して、水面のような平らな地面を作っていた。
地面はところどころ膨れ上がり、タイヤを押し上げる。
そのことが、地にタイヤをつけて走っていることを実感させた。
エンジン音も、耳を澄まさなければ分からないほど小さい。
空間が遠くまで広がり反響するものがないからだろうか。
ハンドルを握ると、現世界とはまるで感覚の違うドライブだ。
まるで、地面の上を転がっているのではなく、薄い膜の上を滑っているような感覚だった。
ユウトはハンドルを握ったまま、前を見ていた。
視線はまっすぐだが、頭の中は決して静かではない。
隣の助手席で、ティアが窓の外を見ている。
遠くの山裾へと沈んでいく霧の流れを、じっと目で追っていた。
「……ねえ、ユウト様」
「ん?」
「さっき……レイさんと話してたこと……」
ユウトは、少しだけ呼吸を整えてから答える。
「境界の話か」
「……うん」
ティアは、小さく頷いた。
膝の上で、指先が絡まっている。
ユウトは視線を前に固定したまま、ゆっくり話す。
「俺がここに来たとき、道が消えたようにみえた」
「本当は境目が、ずれたのかも知れない」
ティアは、身じろぎもせずに聞いている。
「世界と世界の間にある膜みたいなものを、この車が――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「……すべっちゃった、みたいな?」
「近い」
ユウトは、ほんの少しだけ口元を緩める。
「問題はな、その膜を刺激すると……向こう側から、分かるらしい」
ティアの肩が、わずかに強張るのが分かった。
「……獣……ね」
「ああ」
「じゃあ私たち、戻れないじゃない」
「境界を越えられる存在は、向こうから見れば……餌なんだってさ」
ティアは、思わず自分の腕を抱いた。
寒さではない。
無意識の、防御の仕草だった。
「……じゃあ、ユウト様が動くと……」
「寄ってくる」
即答だった。
「だから、俺が何度も境界を動かすと、たぶん……」
言葉を切る。
ティアは続きを察して、唇を噛む。
「……王女様は……それ、知ってるの?」
「わからない。多分、全部じゃない」
ユウトは言った。
「この車を境界に滑り込ませたのは、王女の意図があってのことだったかもしれない」
「どういうこと」
「わからない。何かを企んでいるはずだ」
「少なくとも、俺が危険な存在だってことは、分かってるはずだ」
どこからか、鳥が一羽、飛びたっていく。
「危険か、そうでないか……。殿下、そういうとこに、すごく鋭いから……」
「彼女のこと、知ってるのか?」
ティアは、少し困ったように笑う。
「……結構……噂があるの」
「どんな?」
ティアは、少し声を落とす。
「殿下は……決めたら動く人だって……」
ユウトは、なんとなく分かる気がした。
「迷ってる時間が、嫌いなんだって」
「それは政治家向きの性格だな」
ティアは、苦笑する。
「それに……」
「決めたら、引かない」
ユウトは、王女との距離の近さを思い出し、喉の奥で息が詰まるような気がした。
「殿下は勇者様の伝承を、すごく大事にしてるって」
「俺は、その勇者じゃない」
「……うん」
正直な返事だった。
「だから……殿下、混乱してると思う……」
ユウトは、少し意外そうに聞く。
「混乱?」
「うん……」
ティアは、膝の上で指を絡め直す。
「勇者様なら、前に立つはずなのに」
「でも、ユウト様は……」
「俺は逃げてばっかりだもんな」
ティアが、少しだけ笑った。
「はい」
車内に、短い沈黙が落ちる。
マジックミラー号は、一定の速度で進み続ける。
やがて森が近づいてくる。どこまで走ればこの境界から抜けられるのか。
レイの指を指した方向に、まっすぐ走ってきている。
ガソリンメーターを見ると、少しだけ減っている。
走った分に比べると、異様に減っていない。
森の影が、窓を流れていく。
「……城の噂って、他には?」
ティアは、少し迷ってから言った。
「……殿下、近衛兵団のこと……すごく大事にしてる」
「それは、そうだろう」
「でも、自分のことは、あんまり……」
ユウトは、ハンドルを握る手に、わずかに力を入れた。
「王女って立場だから、だろ」
「それもあるけど……」
ティアは、小さく続ける。
「殿下、子どもの頃から……ずっと、選ぶ側だったから……」
「選ぶ立場だと、自分の価値が低くなるのか?」
「そんな気持ちわからない?」




