12距離、主導権
前回の続き
彼女はユウトの手を、はっきりと握った。
指を絡めるわけでもない。
だが、逃げられない強さ。
「……殿下」
ユウトは小声で言う。
「外に……兵が……」
「知っているわ」
平然とした返事だった。
「でも、見えていない」
「この中で何が起きているかは」
王女は、指先に力を込めた。
ユウトは息を詰め、無意識に視線を外へ向ける。
――ティア。
車の外で、兵に挟まれながら、不安そうにこちらを見ている。
その一瞬の視線。
それだけで、アリシアはすべてを理解した。
「……ああ」
低い声。
次の瞬間、
王女の手が、強くユウトの手を握り込む。
「そちらを見るのね」
指が痛むほどの力。
「私の前で?」
ユウトが思わず身を引こうとすると、
王女は一歩踏み込み、距離を詰めた。
「っ……離してください」
「嫌」
即答だった。
「あなたは今、私の前にいる」
その声には、王女としての威厳ではなく、
ひとりの女の感情がむき出しになっている。
「……情が湧いたの?」
問いかけではない。
断定だ。
「助けたから?それとも……あなたを守ろうとしたから?」
さらに、強く。
ユウトの指が、完全に捕まえられる。
「それとも――最初から?」
「違う……!」
ユウトは体を捻り、逃れようとする。
だが、王女は離さない。
むしろ――反対の手で、ユウトの肩を押さえつけた。
壁と、王女。
逃げ場はない。
「逃げないで」
声が、震えている。
怒りではない。
嫉妬だ。
「私の前で、他の女を見るなんて」
近衛兵の気配が、すぐそこにある。
だが、アリシアは気にも留めない。
「……あなたは、私が欲しいもの」
吐息混じりの声。
「力でも」
「勇者でも」
一拍。
「それだけじゃない」
ユウトは、初めて恐怖を覚えた。
剣でも、魔法でもない。
感情の暴力だった。
「殿下……やめてください」
ユウトの声は、必死だった。
その言葉に、アリシアは一瞬だけ動きを止める。
そして――はっとしたように、手を離した。
数歩、下がる。
深く息を吸い、表情を作り直す。
王女の顔に戻る。
「……失礼したわ」
声は冷静だが、頬の赤みは消えていない。
「感情的になった」
視線を逸らし、言う。
「外では、何も起きていない」
「いい?」
ユウトは、言葉を失ったまま頷く。
アリシアはドアへ向かい、開く直前に、振り返った。
「でも、覚えておきなさい」
静かな声。
「私は、
譲るつもりはない」
そして、何事もなかったかのように外へ出た。
妙な沈黙をまとったまま、二人はマジックミラー号から降りてきた。
近衛兵たちが一斉に姿勢を正す。
視線が一瞬だけ、二人のあいだを行き交い――だが、誰ひとりとして何も言わない。
察していないはずがない。
それでも、王女の顔色を読んだのか、あるいは見なかったことにするという選択をしたのか。
空気だけが、微妙に重い。
そのとき、兵に囲まれていたティアの前に、隙間が生まれた。
「……!」
彼女は一瞬だけ周囲を見回し、次の瞬間、抑えきれないように走り出した。
「ユウト様!」
迷いのない動きだった。
ユウトは一歩前に出て、駆け寄ってきたティアを受け止める。
細い身体が、勢いのまま胸にぶつかる。
「……大丈夫?」
不安を隠しきれない声。
ユウトは、意識して柔らかく微笑んだ。
「心配ないよ」
短い言葉だったが、それで十分だった。
ティアは胸に額を押しつけるようにして、ほっと息を吐く。
アリシア王女は、その様子を一瞬だけ見てから、何事もなかったかのように視線を逸らした。
「……今夜は、城に滞在しなさい」
事務的な声。
「客人として、もてなします」
拒否権はない。
だが、敵意もない。
その夜、二人は城の一室へ通された。
長い卓に並ぶのは、見たこともない料理の数々。
香辛料の香り、焼きたての肉、甘い果実酒。
ティアは目を丸くし、ユウトは落ち着かないまま席についた。
食事は、静かに進んだ。
兵たちは必要以上に近づかず、王女の姿も見えない。
だが、見張られていないとは思えなかった。
長い食卓には、次々と料理が運ばれてきた。
銀の蓋が外されるたび、濃厚な香りがふわりと広がる。
焼き色の美しい肉。
艶やかなソースがかかった白身魚。
香草と果実を合わせた前菜。
湯気を立てる濃い色のスープ。
どれも食べ物というより、もてなしそのものだった。
ユウトは思わず背筋を正す。
(……これ、全部食べていいのか?)
隣では、ティアが目を丸くしている。
皿を前にしたまま、動けずにいた。
「……あの……」
そのとき、背後から声がした。
「さあさあ、冷めちまうよ」
給仕のおばさんだった。
丸い体格で、柔らかな笑顔。
「遠慮はいらないよ」
「今日はお客さまなんだからね」
そう言って、ティアの前にそっとパンを置く。
焼きたてらしく、触れただけで香ばしい。
「……いいんですか?」
「いいとも。ほら」
おばさんは、まるで孫に勧めるみたいな手つきだった。
ティアはおそるおそる、パンをちぎって口に運ぶ。
一瞬。
目が、見開かれる。
「……!」
思わず、もう一口。
今度はスープ。
次は肉。
止まらない。
ユウトも、つられて一口食べた。
――熱い。
――柔らかい。
――味が濃い。
「……うま……」
言葉が、思わず漏れた。
噛むたびに肉汁が広がり、香草の香りが鼻に抜ける。
(……これは……)
考える前に、もう次の一口を運んでいる。
気づけば、二人とも無言だった。
皿が、次々と空になっていく。
給仕のおばさんはそれを見て、にこにこしながら料理を足す。
「若い人は、いいねえ」
「いっぱい食べな」
ティアは、完全に夢中になっていた。
口の端にソースをつけたまま、次の皿に手を伸ばす。
ユウトが気づいて、思わず笑う。
「……ティア、食べすぎじゃないか?」
「だ、だって……」
ティアは一瞬だけ止まり、照れたように言った。
「……おいしすぎます……」
その言い方があまりに真剣で、ユウトは吹き出した。
「俺もだ」
二人で、顔を見合わせる。
小さな笑いが、こぼれる。
張りつめていたものが、ゆっくりほどけていく。
おばさんは、それを見て満足そうに頷いた。
「よかったねえ」
「ちゃんと、食べられる顔になった」
ユウトは、その言葉に不意に胸が温かくなる。
(……捕まってるはずなんだけどな)
それでも、今この瞬間だけは。
ただ――おいしい。
それだけで、十分だった。
夜も更け、案内された部屋には、柔らかな寝台が二つ並んでいた。
白いシーツ。
厚い掛け布。
「……すごい……」
ティアが小さく呟く。
ユウトは、ようやく肩の力を抜いた。
「今日は……疲れただろ」
ティアは頷き、素直にベッドへ腰を下ろす。
やがて、城は静まり返った。
灯りが落ち、深い夜が訪れる。
ユウトは天井を見つめながら、
眠気に身を任せた。
――何も解決していない。
――だが、今夜は休める。
同じ城のどこかで、王女もまた、眠れずにいることを。
そのことを、ユウトはまだ知らなかった。
目を覚ました瞬間、ユウトは思った。
(……寝すぎだ)
身体が重いわけでもない。
頭がぼんやりするわけでもない。
ただ――深く、深く眠っていた。
まるで、薬でも飲まされたかのように。
「……?」
視界に入ったのは、天蓋。
白い布がやわらかく垂れ、朝の光を受けて揺れている。
「……ティア?」
跳ね起きる。
広すぎるベッドの中央に、ユウトはひとり――
そう思った、その直後。
「……あ」
視線の端。
同じベッドの端。
毛布にくるまって、小さく丸くなっている影。
「……ティア」
近づくと、寝息が聞こえた。
規則正しく、静かで、安心しきった呼吸。
同じベッドで眠っていた。
それなのに、気づかなかった。
それほどまでに、このベッドは大きい。
「……起きろ」
小さく声をかける。
ティアは、もぞ、と動き、ゆっくりと目を開いた。
「……ユウト……様……?」
まだ夢の中の声だ。
「……朝だ」
そう告げた瞬間。
「――お支度を」
扉の外から、淡々とした声がした。
反射的に身構える。
「急いでください」
「殿下のご命令です」
有無を言わせない調子。
気づけば、いつの間にか用意されていた衣服が置かれている。
昨日とは違う。
サイズも、質も、明らかに整えられていた。
「……これ……」
「着替えてください」
「時間がありません」
説明はない。
二人は言われるまま、衣服に袖を通す。
布は柔らかく、動きを妨げない。
(……完全に、管理されてる)
準備が整うや否や、扉が開かれた。
近衛兵。
昨日と同じ顔。
同じ無表情。
「……どこへ行くんですか」
ユウトが尋ねる。
「――お進みください」
答えになっていない。
「何をされるんだ」
沈黙。
「……殿下に会うんですか?」
兵は一瞬だけ視線を逸らし、それでも答えなかった。
二人はそのまま、城内を進まされる。
そして――マジックミラー号が停められていた。




