カプサイシン
葵と徳彦を乗せた特殊車両が、東京タワー近くの路地裏に停車したとき、空気は既に張り詰めていた。普段は観光客で賑わうエリアは、私服の公安警察や、重装甲の機動隊員で埋め尽くされ、異様な静けさの中に緊張だけが渦巻いている。
「うわ、すっげぇ厳戒態勢だぜ、ノリ」
葵はジャージのポケットでけん玉を弄りながら、息を飲む。その周囲を警戒するように、徳彦は壁際に立ち、微動だにしない。
「問題はない。現在、付近の建造物への立ち入りは厳しく制限されている。逃走経路を確保するため、我々は裏路地の動線を確認する必要がある」
徳彦は小型のデータパッドを操作しながら、淡々と言う。彼の眼差しは、警戒の色を映しながらも、腹の虫には勝てなかったらしい。ふたりの腹が同時に、控えめな音を上げた。
「くそ、腹減ったな。腹が減っちゃ、戦もできねーって言うだろ。あそこ、立ち食い蕎麦屋じゃねぇか?」
路地の隅に、古びた立ち食い蕎麦の店がある。緊急事態であるにもかかわらず、その暖簾だけは、普段通りに揺れていた。徳彦は一瞬データパッドに視線を落としたが、すぐに頷いた。
「行動の合理性を欠く。十分で済ませる。エネルギー充填は重要な項目だ」
ふたりは暖簾をくぐった。店内には先客がひとり。ブリーチした短い髪と、ジャージの上からでもわかる筋骨隆々《きんこつりゅうりゅう》とした体躯を持つ男が、カウンターの端に座っていた。
その男の目の前には、異様な光景が広がっていた。立ち食い蕎麦屋にもかかわらず、彼が食べているのは蕎麦ではない。白米がこんもりと盛られたご飯の上に、濃い赤色の粉末――七味唐辛子を、まるでふりかけのように、これでもかと大量に振りかけ、それを無言で掻き込んでいるのだ。
「うわ……マジかよ」
葵は思わず小さな声を上げた。徳彦は無言で彼の隣に並び、冷静に解析を始める。
「あれだけ大量のカプサイシンを摂取しても、発汗などの肉体反応が最小限に抑えられている。並外れた代謝機能、あるいは訓練の賜物だ」
「訓練って、ただの変人だろ」
葵が蕎麦を注文し、徳彦が冷たい水を手に取った。男は一呼吸でご飯を飲み込み、満足そうに息を吐いた。
男は、口の周りを手で拭うと、葵をちらりと見た。
「悪いな、見世物みたいで」
低い、よく響く声だった。
「あ、いや、そんな。ただ、辛いの、好きなんすね?」
葵が問いかけると、男は不敵な笑みを浮かべた。
「好き、なんてものじゃない。俺にとって、辛さってのは、存在の『熱量』を可視化することだ。熱があれば、爆発も可能になる」
彼はそう言い終えると、立ち上がった。
「ごちそうさん。美味かった」
男は代金をカウンターに置き、ふたりに背を向けて暖簾をくぐり、裏路地の奥へと姿を消した。
葵は、男の言葉が気になりながら、蕎麦を啜り始めた。ふと、ポケットから取り出したけん玉の玉を、指でカチリと鳴らす。
「爆発、ねぇ……。炎龍の使い手で、爆破予告か。それにしても、あんなに七味唐辛子を食うヤツがいるなんて……」
徳彦は蕎麦を食べるのを止め、データパッドに打ち込んでいた解析結果を、葵の目の前に突き出した。
「問題はない。今、この男の顔面情報を公安の指名手配リストと照合した。一致率は九九・九九パーセントだ」
葵は目を見開き、口に含んでいた蕎麦を吹き出しそうになった。
「ちょっ……お、お前! なんで先に言わねぇんだよ!」
「会話中は情報の秘匿性が最優先だ。それに、対象は既に離脱している。……日向。あの男こそが、単独龍理テロリスト、夜野焔だ」
葵は、けん玉を握りしめた。夜野焔が言った『熱量』と『爆発』、そして七味唐辛子。炎龍使いのテロリストが好む、あまりにも合理的な辛さ。
「やべぇ、やっちまった! こんなところで死んでたまるか! 急げ、ノリ! あいつ、今、東京タワーに向かってるぜ!」
葵は蕎麦を急いで掻き込み、徳彦と共に店を飛び出した。暖簾が揺れるのを見て、蕎麦屋の主人は首を傾げるだけだった。




