筋肉はあまり裏切らない
満足感に浸ってけん玉を取り出した、その時、床に置いていたスマホが短く振動した。画面に表示されたメッセージの送信元を見て、日向葵の表情が一瞬で引き締まった。「ヤベェな…」
「なんだ、アオイ。その殺伐とした面は」
隣で最後の紅茶を飲み干した速水徳彦が、葵の顔を見てすぐに察したように言った。
「誰からだ? まさか初仕事の報告書提出期限を忘れたわけではないだろう」
「うるせーよ、ノリ。報告書なんざとっくに終わらせてるだろ。…マキコ所長からだぜ」
葵はスマホを握りしめた。メッセージは一言、「至急、事務所まで」。それだけだったが、その背後にある威圧感は、地下室の激戦よりも重い。
「問題はない。所長は違法龍理の残滓が君の居住空間に影響を及ぼしていないかの確認のためだ。迅速に対応する。ミズキ、ごちそうさまだった」
徳彦は立ち上がり、黒いジャージのポケットに手を突っ込んだ。
「え、もう行っちゃうの? アオちゃん、何かあった?」
結城瑞希が心配そうに見上げてきた。
「なんでもねぇよ、ミズキ。急な呼び出しだ。ごちそうさま、最高のケーキだったぜ! 今度こそ、お嫁さんになってもらうからな!」
葵は勢いよく言い残すと、けん玉をジャージのポケットに突っ込み、徳彦の後を追って部屋を飛び出した。
数十分後、二人は都心の一等地に建つ、法田法律事務所の最上階にいた。ノックの音とともに、中から「入れ」という短い、しかし響きのある声が聞こえる。
重厚なドアを開けると、ガラス張りのオフィスが広がり、その中央にある大きな黒いデスクの前に、法田真紀子が立っていた。胸まである黒髪に青いメッシュが鮮やかで、身長170センチの細マッチョな体型は、威圧感そのものだ。デスクに肘をつき、引き締まった腕を組んでいる真紀子は、全身から有無を言わせぬ圧力を放っていた。
「来たか、ヒュウガ、速水」
真紀子の声は低く、抑揚がない。「ご苦労であった。初任務、よくぞ生きて帰ってきた」
「へっ、こんなところで死んでたまるか! 当たり前だろ、マキコ所長」
葵はいつもの調子で威勢良く答えた。徳彦は一歩前に出て、直立不動の姿勢で「問題はない。任務は完遂した」と報告した。
真紀子は満足そうに頷き、そして二人の全身に視線を走らせた。
「ヒュウガ。そのジャージの上に短パン、ハイカットのスニーカーという服装。合理的だ」
葵は首を傾げた。「合理的ってなんだよ、ただの軽装だぜ」
「軽装ではない。極限まで動きに特化した、スピード重視型の装備である。応龍の理を持つお前には、それが最も効率が良い。天魔夜光剣の速さと連動する、止まらぬスピード。それこそが、お前の龍理を最大限に活かすスタイルだ」
次に、真紀子の視線は徳彦に向けられた。
「速水。お前もだ。そのジャージの上下の下に、防刃防弾ジャケットをがっちり着込んでいるな、足元はブーツで」
徳彦は動じることなく「氷龍の理は防御力を高める。敵の攻撃を受け止め、反撃に転ずる重装甲型のスタイルが、勝利への最短ルートであると判断した」と淡々と述べた。
真紀子は目を細め、わずかに口角を上げた。
「私の信条は糖質排除だ。君たちがさっき食べてきたというケーキは断罪する。しかし、君たち二人のスタイル、その合理的で最適化された筋肉のような在り方は、嫌いではない」
祝福と褒めの言葉が一通り終わると、真紀子の表情が引き締まった。青いメッシュの髪が揺れ、空気が一変する。
「しかし、連携がなっていない。それが今回の最大の不備だ」
真紀子はデスクの上に置かれた分厚いタブレットを指差した。そこには、前回の地下室での戦闘記録が立体映像で再生されていた。
「ヒュウガ、お前は常に突っ込みすぎだ。単騎で応龍の力を暴走させ、速水の防御範囲から外れることが多すぎた。お前の口癖は『こんなところで死んでたまるか!』だが、あのままでは確実に死んでいた。速水の氷のバリアも、お前がその場に留まらなければ意味をなさない」
葵はぐっと言葉に詰まった。理科は好きだが、体育や肉体の限界を試される場面は嫌いだった。
「速水。お前は過剰に防御に徹しすぎた。ヒュウガを援護すべき場面で、お前は常に自分の安全確保を優先した。氷龍の理を持つ者が、味方を凍てつかせてどうする。お前の『問題はない。』という口癖は、この連携の不備において、大問題である」
二人は顔を見合わせる。確かに、初任務は互いの長所を打ち消し合うような動きが多かった。
「龍理は強靭な武器だ。だが、それを扱うのは未熟な肉体である。そして、肉体の連携は、反復によってしか生まれない」
真紀子は腕を組み直し、床に視線を落とした。
「速水、ヒュウガ。今すぐその場で腕立て伏せ100回だ。初任務の成功と、これからの連携修練を祝う、私の特別メニューである」
徳彦は一瞬たりとも躊躇せず、無表情のまま防弾ジャケットの上にジャージという重装備で完璧な姿勢を取り、すぐに腕立て伏せを開始した。
「チッ…まじかよ、いきなり100回かよ! 体育嫌いなんだぜ、オレは!」
葵は文句を言いながらも、悔しそうに顔を歪ませ、床に伏せた。
真紀子はそれを見届けると、ふっと微笑み、自身の引き締まった上腕を軽く叩いた。
「いいか、若者たちよ。筋肉は裏切らない。連携もまた、肉体による修練の成果だ。休むことなく、続行だ」
そう言い残し、真紀子はデスクの椅子に深く腰掛け、次の仕事に取り掛かった。二人は事務所の真ん中で、ゼェゼェと息を切らしながら、腕立て伏せを続けることになった。
「…こんなところで死んでたまるか!」
葵は力を振り絞るように呟いた。
「…問題はない。まだ23回だ」
徳彦は正確なカウントを続けた。




