予兆
『許可する。過剰な力を、再び組織の道具として使え』
真紀子所長の声が、ふたりの耳にまだ残っていた。
宝貝の封印が解かれたブレスレットをはめ直し、日向葵と速水徳彦は、夜の帳が降りた都心に立っていた。今夜の任務は、法田法律事務所の『補助』であり、目立った行動は不要だという。テロリスト予備軍の掃討作戦後、ふたりの肉体と感覚を再構築するための、慣らし運転のようなものだった。
徳彦は、シュトゥルム・ウント・ドラングを封じたブレスレットを指で撫でながら言った。
「問題はない。やはり、宝貝があると、行動の選択肢が格段に増える。天魔夜光剣の力とのリンクも良好だ。だが、宝貝に依存する前の体捌きの感覚もまた、俺の肉体に残っている」
葵はポケットに手を突っ込み、その中で天魔夜光剣の柄を握りしめていた。握る衝動は、以前の単なる手持ち無沙汰を紛らわせる残滓ではなく、『こんなところで死んでたまるか!』という衝動を制御した先の、静かな自信に変わっていた。
「チッ、まあな。素手で天地槍を叩き落とせるなら、けん玉なんてなくても集中できるってわけだぜ」
けん玉はもういらない、と口では言いながら、そのポケットの中には、お守りのように常に愛用していたけん玉も一緒に入っていた。
ふたりが、商業ビルが並ぶ大通りから一本入った裏路地を歩き始めた、その時だった。
『お邪魔しまーす!』
背後から、ひそやかな足音と、幼なじみである結城瑞希の少しふざけた声が聞こえた。彼女は、ふたりを驚かせようと、気配を殺して接近しようとしたのだろう。
徳彦は立ち止まることなく、わずかに首を傾げながら冷静に言った。
「問題はない、瑞希。残念ながら、君の動線は、既に解析済みだ」
葵も肩越しに振り返ることなく、ため息をついた。
「瑞希、テロリスト予備軍より警戒が甘いぜ。それに、今日は任務中だ。帰って早く寝ろよ」
「えーっ、もう!アオちゃんもノリ君も、ぜんぜん面白くないんだから!」
瑞希はプクっと頬を膨らませて、ふたりの間に割って入ろうと駆け寄ってきた。
その瞬間、世界が切り替わった。
『待て、瑞希』
徳彦の声には、一瞬にして冷たい緊張が走っていた。
『止まれ、瑞希!』
葵もまた、ポケットから手を抜き、全身の筋肉を硬直させた。
瑞希がふたりのすぐ後ろ、わずか数歩の間合いに入った時、ふたりの小学生バウンティハンターの間に、ひとりの大柄な男が、あまりにも自然に、あまりにも当然のように立っていた。
ブリーチされた髪を短く刈り込み、筋骨隆々とした体躯。その男、夜野焔は、ふたりの警戒網を、大気の流れを乱すことなく、音も立てずにすり抜けてきた。その自然な存在感、殺意のない、純粋な『脅威』そのものの気配に、葵と徳彦の感覚は一瞬でフリーズした。
「ああ、これは面白い。君たち、法田の新人さんかな。随分と、お早いお着きだね」
焔の口元が、わずかに笑みの形に歪んだ。彼の瞳には、七味唐辛子を好む男の、熱に溺れたような狂気が宿っている。
「夜野焔…!」
徳彦が初めて任務中に声を荒げた。
「あの夜野の事件を起こしたテロリストの模倣犯か?」
「模倣?いや、違うね。あれは、俺が撒いた火種さ。さて、ここで君たちの『龍理の基礎』を試させてもらおうか」
焔はゆっくりと、まるで公園でラジオ体操でも始めるかのように、腕を上げた。
「爆発は――芸術だ」
次の瞬間、彼の体表からオレンジ色の炎が噴き出し、空気の層を焼きながら、ふたりと瑞希目掛けて奔流となって押し寄せた。
『炎龍……!』
葵は反射的に瑞希を抱え込み、その小さな身体を自分の背中に庇った。熱風が皮膚を焼く。
徳彦は即座にシュトゥルム・ウント・ドラングを構え、そのブレスレットから氷龍の冷気を放出しようとした。炎を相殺する、当然の動き。だが、あまりにも巨大な、純粋な炎の奔流を前に、彼の身体は本能的な恐怖で身が竦んだ。反応が、一瞬停止した。
『この、ままでは……!』
炎の熱量が、すべてを焼き尽くそうとした、その時だった。
突如、ふたりの間に、路地の石畳を引き剥がし、ビル風ではない、圧倒的な風の壁が生まれた。それは螺旋状に天を衝き、炎龍の奔流を巻き込みながら、真っ赤に輝く『龍巻』へと姿を変えた。ただの竜巻ではない、龍理の渦、龍巻だ。
そして、その龍巻の中心から、静かな威圧感を放つ声が響いた。
「うちの新人に手を出さないでもらおうか」
青いメッシュの入った長い黒髪を風になびかせ、法田真紀子所長が、全身から風龍の力を顕現させていた。
「法田真紀子、現れたか!いいだろう。その筋肉が、どこまで保つか試させてもらう!」
焔は獰猛な笑みを浮かべ、炎龍の出力を更に引き上げた。
真紀子は、右足を踏み込み、路地の石畳にひびを入れた。彼女の体幹は微動だにせず、全身の筋肉が、巨大な風の渦を回転させるための『軸』と化していた。
「(まだだ。この場所で、彼奴のすべてを受け止め、拡散させる。一歩も、引けない)」
彼女の体捌きは、テニスボールほどのエネルギーの塊を、手のひらで無限に受け流し続ける熟練の柔術家を思わせた。風龍の渦が熱風を弾くたび、路地全体に、金属が擦れるような高周波の摩擦音と、焼けたアスファルトの焦げ臭さが充満した。
葵は、瑞希を背に庇いながら、肌が焼けるような熱に耐えていた。彼の意識は、真紀子の背中と、焔の炎の奔流との『間合い』に集中していた。この熱量を、彼女の細身の身体が、いかに制御しているのか。その、純粋な肉体の技術と衝動の制御に、彼は目を奪われた。
一方、徳彦は、いまだにブレスレットに触れることができない。純粋な恐怖は去ったが、その後に残ったのは、自身の体捌きが、目の前の脅威に対して『無力である』と全身が叫ぶ感覚だった。彼の拳は、氷龍の冷気を放つ寸前で、わずかに震えを止められない。この微細な振動が、力の制御を妨げていた。
「(この震えを、止めろ……!恐怖という衝動を、筋肉で、制圧しろ!)」
焔の炎は、熱量の奔流というより、オレンジ色に燃え盛る『液体の津波』のようだった。それが、真紀子の風龍の螺旋に巻き込まれ、巨大な赤い竜巻を形成する。竜巻は天を衝き、周囲のビルの窓ガラスを震わせた。
真紀子の顔には、汗が一筋流れ落ちていた。彼女の風龍は、ただ炎を押し返すだけでなく、炎の塊を『割り、散らし、威力を減衰させる』という、極めて緻密な体捌きの応用だった。しかし、彼女の視線は、炎の先にあるビルの窓ガラスに向けられていた。
「チッ、場所が悪い。ここでは、全力は出せない」
真紀子は、一般人を巻き込まないよう、力の出力を限界まで抑制した。その一瞬の躊躇が、勝敗を分けた。焔の炎龍が、抑制された風龍の防壁を突き破り、真紀子の細マッチョな腹部を直撃した。
『ぐっ……!』
真紀子はコンクリートの壁に叩きつけられ、口元から血を流した。しかし、彼女は倒れない。
「所長……!」葵が叫んだ。
焔は、満足そうに腕を組み、真紀子を一瞥した。
「上出来だ。君の『龍理の基礎』は素晴らしい。だが、時間切れだ。また遊んでやろう、W世代の若者たちよ」
炎は瞬時に霧散し、焔の姿は闇の中に消えた。彼は、真紀子にとどめを刺すこともなく、ただ去っていった。
葵は瑞希を地面に座らせ、荒い息を吐きながら真紀子に駆け寄った。徳彦は、まだ震える拳を握りしめ、自分自身の恐怖による硬直を恥じていた。
真紀子は壁にもたれながら、かすれた声で言った。
「問題ない。……筋肉は、裏切らない。だが、君たちの基礎は、まだ、本物の炎には耐えられないようだ」
彼女の青いメッシュが、炎の残滓のように夜の空気に揺れていた。




