オトナは汚い
日向葵と速水徳彦は、一般警官の隙間をすり抜け、厳重な警備をあざ笑うかのように、巨大な東京タワーの鉄骨の足元へと潜り込んだ。徳彦の予測に基づき、ふたりはエレベーターシャフトを避け、整備用の高速階段を人知れず駆け上がり続ける。
「ハァ……ハァ……チッ、てっぺんまでまだかよ……!」
葵は息を荒げ、ポケットのけん玉が擦れる感触を頼りに進んだ。彼の宝貝である天魔夜光剣は、いつでも抜けるよう待機状態だ。
「夜野の動線はここに収束している、葵。炎龍の龍理がエネルギーを『広範囲に波及させるための増幅点』として機能する、アンテナマストの基部がターゲットだ」
徳彦は細身の身体で、拳法の訓練で培った体力を維持していた。彼の分析は、エネルギー源の移動速度とタワーの構造を組み合わせた、極めて合理的な結論だ。
やがて、ふたりは特別展望台のさらに上、アンテナマストの昇降口に続く、厳重に施錠されたハッチの前に到着した。徳彦はデータパッドを数秒操作し、セキュリティを解除する。機械的な解除音とともにハッチが開き、そこは、鉄骨と機械がむき出しの吹きさらしのデッキだった。
しかし、そこに夜野焔の姿はない。
「なんだよ……誰もいねぇだぜ」
葵の興奮は急速に冷めた。炎龍のテロリストが仕掛けた龍理の痕跡を探す間もなく、窓はなく、代わりに巨大なアンテナマストが頭上を貫き、凍えるような夜風が吹き付けてくる。夜野焔の姿は、そこにもない。
ふたりはタワーの心臓部、鉄骨の接合部、メンテナンス通路の隅々まで、夜野の龍理が残した微かなエネルギーの残滓を追った。エネルギー反応は、確かにこの頂上付近で最大値を示していた。だが、それは爆発的な上昇ではなく、持続的な、まるで待機しているかのような安定したエネルギーだった。
「夜野は我々を察知し、行動を凍結したのだろう。テロリストは計画が露呈すれば失敗だ」
徳彦は合理的な結論を導き出したが、葵は納得できない。
「そんなんじゃ、空回りじゃねぇか! なんの成果もなしに帰るなんて、冗談じゃねぇだろ!」
朝日が昇り、規制線が解除され始めた頃、ふたりは疲労と焦燥を抱えたまま、東京タワーを後にした。東京は静かで、何も起こらなかった。その平和は、夜野が一時的に撤退したことによる、仮初の静寂だった。その事実を、ふたりの子どもたちの手柄だとは、誰も知らない。
翌日の午前十時。法田法律事務所の所長室。
法田真紀子は、胸までの黒髪に青いメッシュを揺らし、ふたりの前に仁王立ちしていた。彼女は一切の表情を顔に出さないが、その細マッチョな体躯から発せられる威圧感は、嵐のようだった。
「不発。これが、君たちの暴走が導いた結果だ」
真紀子の声は、静かな分だけ恐ろしい。
「許可されていない区域への侵入。旧世代警官への暴言。そして、宝貝の携行」
「携行しただけだぜ、真紀子さん! 使ってねぇだろ!」
葵が反射的に反論した。
徳彦も口を開く。「我々の解析結果に基づけば、炎龍のテロは時間の問題だった。被害の最小化を優先すれば、あの行動は合理的だ」
真紀子は鼻で笑った。「合理性? ひとつ聞くが、速水徳彦。君たちは、龍理を使わない一般人相手に、無力であることを忘れたか? テロリストが行動を凍結したのは、君たちの過剰な勢いに感動したからか?」
彼女の指摘は鋭い。
「君たちは補助だ。本職の警察官が展開している区域で、君たち小学生のバウンティハンターが龍理が分からねぇオッサンは引っ込んでろ!と叫び、けん玉の玉を指で弾きながら走る姿が、いかに現場を混乱させたか、想像できるか」
葵は悔しそうに床を見つめた。嫌いな科目である体育で培った、身体を動かす能力が、ここでは裏目に出た。
「君たちの能力は確かに優れている。だが、組織の一員としての規律がない。この事務所の信頼を、君たちの無許可の行動で失うわけにはいかない」
真紀子は、冷徹な目をふたりに向けた。
「よって、決定だ。日向葵。速水徳彦。今後、君たちは、宝貝の使用を禁じる。天魔夜光剣も、シュトゥルム・ウント・ドラングも、事務所に預けろ」
「え……!」 葵は絶句した。
「補助であれば、補助の役割を徹底しろ。現場への急行、状況の分析、避難誘導の支援。これら全てを、君たちのコドモプラスαの能力で完遂しろ。宝貝は、君たちの私的な衝動を満たすための甘い麻薬だ」
真紀子はデスクを叩いた。「筋肉は裏切らない。自らの肉体と知性だけを頼りに、真の龍理への適応力を身につけろ。文句は、素手で炎龍を止められてから言うことだ」
葵は肩を落とし、「チッ……分かっただぜ……。どうせ、使っても空回りだったんだろ」と、けん玉を真紀子のデスクに置いた。
徳彦は静かに、そして鋭く、真紀子を見つめた。
「了解した。法田所長の言う通り、我々は補助であり、補助であれば宝貝の使用は過剰戦力だ。補助であるからこそ、与えられた条件下で最高の結果を出す。問題はない、だろう」
彼の口癖は「問題はない」だが、その冷たく燃える瞳には、真紀子への反発と、宝貝を禁じられたことへの静かな怒りが宿っていた。それは、彼の尊敬するガンジーの非暴力とはかけ離れた、過剰な衝動だった。
ふたりが退室した後、真紀子はひとり、デスクのパソコン画面を見た。
画面には、夜野焔の行動を追跡する公安の機密報告書が表示されている。そこには、「東京タワーにおけるテロ計画。直前で一時中断。原因:頂上付近への予期せぬ二名の侵入により、炎龍のエネルギー展開に必要な厳密なタイミングが崩壊。テロリスト夜野焔は、計画実行条件の再構築のため、一時的に撤退したと見られる。」と記されていた。
彼女は、ふたりの子どもが警戒線を突破する映像を思い出す。
「まったく……」真紀子は唇の端を上げた。「私が仕込んだ風龍の制御範囲を超えた、単なる予期せぬ攪乱。君たちは、奴の厳密性という弱点を突いた。これは幸運な中断に過ぎない。だが、その事実は、今は知る必要はない。いいか、コドモプラスα。お前たちは、まだ育ち盛りだ」
彼女は、ふたりの空回りという名の無計画な行動が、テロリストの厳密な計画を崩壊させ、一時的な撤退を招いた真の要因であることを、静かに噛みしめた。




