第11話
「幸村さん、このデータの入力お願い」
「わかりました」
月曜日、ドキドキしながら会社へ行ったが、先輩は金曜日の夜のことは触れず必要最低限の会話で淡々と仕事をした。
触れてこられても困るのだけど、どう思っているのかも、検討がつかない。
「これお弁当。屋上で待ってるから」
「ありがとうございます……」
それから昼休みになると私にお弁当を渡し、いつも通り先に屋上へ行った。
少し時間を空けて屋上へ行き、そっとドアを開ける。
すると、ドアを開けた向かいのフェンスにもたれ掛かかった先輩と目が合う。
「先、輩……」
いつもの場所に座っていると思っていたから驚いてしまった。
「幸村さん、こっち来て」
先輩は私を呼ぶと空を見上げる。
「上弦の月だよ。昼間でも綺麗に見えるんだ」
促されるまま空を見上げると、雲一つない青い空に、白い昼の月が小さく佇んでいた。
「太陽は眩しすぎてこうしてずっと見上げるなんて出来ないけど、月はいつまでも見ていることが出来る。優しい光だよね」
「昼に月を見上げることはあまりしたことがなかったです」
「知ってる? 月はずっと同じ面を向けて地球の周りを回ってるんだ。だから、地球から月の裏側は見えないんだよ」
先輩はゆっくりと私の方を向く。
「幸村さん、みたいだね」
「え……」
どういう意味なのか頭が追い付かないまま、じっと見つめてくる先輩から目を逸らすことが出来ない。
裏側が、見えない……。
「いや、ごめん。お弁当、食べようか」
先輩は寂しそうに謝ると、既にシートを敷いてあるいつもの場所に座った。
私もシートに座ると一緒にお弁当を食べ始める。
「お弁当、いつもありがとうございます。金曜日、すみませんでした」
あの日、何も言わず飛び出し、電話にも出なかったのに責めることもせず、変わらずお弁当を作ってくれる。
そんな先輩に申し訳なくて、心苦しくなる。
自分勝手な私に、もっと何か言ってくれてもいいのに。
「僕、自分が普通じゃないってわかってる。自分の行動が無意識に他人を不快にさせてることも。当たり前のことを受け入れられないんだ。おかしいよね」
「そんなことないです! 先輩はおかしくなんてありません」
自分を責めるようなことを言う先輩に、そんなことはないと否定した。
けれど先輩は食べ終えたお弁当を片付けながらずっと俯いたままだ。
「大多数の人の当たり前と違うからっておかしいなんてことはないです。先輩にとって、それが当たり前ならそれが普通です」
俯いた先輩の顔は見ないように、真っ直ぐ前を向いた。
もしかすると、潔癖症だということに負い目を感じているのかもしれない。
でもそれが悪いなんてことはない。
「ありがとう。けど幸村さん、無理してるよね。急に帰ったのもこんな僕に嫌気が差したかなって」
「それは誤解です! 逆なんです……私が先輩に不快な思いをさせてるんじゃないかって、怖くなって逃げ出してしまいました。本当にすみません」
先輩は俯いた顔を上げると、頭を下げた私の手を優しく握る。
「僕、自分が潔癖症だって自覚あるけど、それに合わせて欲しいとは思ってないよ。幸村さんにはいつも通りでいて欲しい。僕が何かやってたら、あぁ、またやってるなって見ててくれるだけでいいから」
いつも通りでいいと言ってくれた先輩の声は優しかった。
感じ方は人それぞれで、もしかすると先輩の行動が行き過ぎだと思う人もいるのかもしれない。
けれど、私はそれをわかっていて先輩を好きになったんだ。
少しでも、私の気持ちが伝わってくれたらいいのに。
「わかりました。でも、私にも出来ることはしたいと思ってます」
「ありがとう。でも、無理はしないでね。嫌なこととか、思ってることはちゃんと言って欲しい。この間みたいに黙って帰ったりしないで」
「それは、本当にすみませんでした。私、先輩の気持ちを考えてませんでした」
「ううん。幸村さんは大学の頃からいつもちょうど良い距離で僕の側に居てくれる。それが凄く心地良かった。だから甘えてたんだ。でもこれからはちゃんと話そう。付き合ってるんだから」
黙って飛び出したことを本当に後悔した。
先輩が嫌なこと、私にして欲しいことをちゃんと聞こうと思った。
けれど、私の思いはそれだけではない。
先輩の側にいると、先輩に触れたくなるんです。
手を握るだけじゃ物足りなくなるんです。
でも、そんな欲深い思いはまだ言えない。
私たちはもっと先にするべきことがあるのではないかと思うから。
お互いのことをよく知って、気持ちを伝え合う。
ゆっくり進んでいけばいいよね。
私は先輩の顔を見上げ、微笑みながら頷いた。
「また、家来てくれる? この間着てきた服も置いたままだよ」
「はい。今度は絶対、映画観て帰ります」
先輩は私の顔を見てフッと笑う。
私の好きな先輩の顔だった。