9 終幕の裏側でカナリアは囀る
あれから三日経った。
王太子殿下は王位継承権剥奪の上、北にある塔に幽閉され、宰相の息子と騎士団長の息子は勘当され国外追放の刑に処されたと聞いた。
「……そろそろですかね」
「うん」
彼は灰色の空を見つめている。わたくしもベランダに立ちソル様の隣に行った。
今頃、アグネスは祈りの崖に身を投げているだろうか。どんな顔をして、どんな言葉を吐いているのだろう。
いや、彼女の最期などどうでも良い。結末は同じだから。
「――空が」
ポツリとソル様が呟いた。
俯かせていた顔を上げ彼の視線を辿れば、曇りきった空に光が一閃流れた。光はゆっくりとした収縮を繰り返し、粒となって空に溶けていく。
刹那、美しい夕焼けが姿を現した。天上は藍色に染まり、そこから橙へ色が移ろえている。星の瞬きが、陽の光で隠されながらも僅かに見えた。
魔王は消えた。アグネスの命と引き換えに。
横を向けば、ソル様は景色を目に焼き付けていた。オレンジに染まった頬に、涙が一粒伝う。
「……ソル様」
「あ、ごめん」
目をぐしぐしと拭った彼は、眉を下げたわたくしに顔を向ける。唇をわななかせ、体は小刻みに震えていた。
それでも涙は堪えていた。
「泣かないよ。だってフローと約束したから、一緒に罪を背負うって」
◇◇◇
ソル様の誕生日パーティーのあとにソル様に部屋に呼ばれて。口づけを交わしたすぐのことだった。
わたくしの唇に手を当てストップをかけたソル様は体を起こし、真剣な目をした。
「ねえフロー。僕に何か隠してることあるでしょ?」
「……いいえ?」
「嘘だ。最近のフローを見てれば分かるよ」
愛しい彼に嘘をつくという罪悪感で押しつぶされそうになりながらも首を横に振る。
「フロー」
「ソル様は何も気にすることはありませんわ。わたくしは貴方に健やかに毎日を生きて欲しいんですから」
それだけが、わたくしの生まれた意味。貴方にフロレンティアの姿で出会った理由。
「フロー」
もう一度名前を呼ばれた。いやいやと耳を塞ぐわたくしの手に、彼が自身のを重ねる。
「聞いて、フロー。僕はフローが好きなんだ。いつまでも一緒にいたいって、そう思うよ」
「ソル様……」
心臓がキュンキュンする。彼からの好きだという言葉がわたくしの胸を占める。
「だから教えてほしい。君だけが重荷を背負っているなんて、僕は嫌なんだ」
ポロ、と涙が零れ落ちた。
自分で自分の流した涙に驚く。わたくしは怖かったのだろうか、ソル様が殺されるかもしれないこと、毒殺を行った彼女が辿る結末に。
お兄様とお姉様には、必要最低限迷惑しかかけてはいけないと自分を律し続けていた。
けど、彼になら。寄りかかっても許されるのだろうか。
「わたくし、は、貴方を守りたくて……」
溢れる涙を拭いながら、わたくしは堰を切ったように話しだした。
「アグネスが、僕を殺そうとしている……?」
「信じられませんよね。あ、でもわたくしの部屋には魔女から貰った売買証明書もあるんです。だから、だからわたくし嘘はついてなくて……」
駄目だ、思考が纏まらない。ソル様の前だとわたくしは強くなれなくて、弱いものになってしまったように錯覚する。
口元を手で覆ったソル様は、熟考してからわたくしに問うた。
「僕が殺されたように見せるって言ってたけど、どうやってやるの?」
「えっと……毒を盛る所を侍女にいつも監視してもらっているので、報告が上がった際に食事の後睡眠薬を飲ませる予定だったんです。そして寝ているソル様の口から血糊を垂らして死んだように見せかけて、機を見計らって侍女長のヘレナの実家に休養しに行ってもらう予定でした。ソル様には、声が変わっているのは病が完全に完治していないからだと説明して」
「そして、その間にフローが全てを終わらせようとしてくれたんだね」
「……ソル様には、アグネス様はわたくしを殺そうとして捕まったと説明する予定でした」
自分が殺される目に遭っていたかもしれないと思うより、わたくしが襲われた方が彼の心の傷が浅いと思った。
「ねえフロー。僕にもその作戦、協力させてほしい」
「何故ですか、嫌です」
この話を聞かせただけで彼にとっては大分辛かった筈だ。そんなソル様に、アグネスが断罪される姿まで見せたくはない。
罪を背負うのはわたくしだけで十分だから。
「……手が震えてる。フローだって、怖いんでしょ? フローがアグネスにどんな感情を抱いているかは僕には分からないけど、それでも誰かを死なせる為に声を上げるのは怖いことだよ」
目線を下げた。わたくしはようやく、自分の身体が震えていることを知った。
「それにね。僕にも罪を償う時が廻ってきたんだ」
「罪? ソル様に」
「……僕は、見てしまったんだ。アグネスが十二歳の時に、階段の上から侍女を突き落としたのを。その後侍女は事故の後遺症で記憶を失くし、階段での出来事は事故として片付けられた。……僕は口をつぐんだ。怖かったんだ、誰かを守る為に、誰かを害することが」
真摯な光を宿したソル様が、わたくしを抱きしめていた。温い体温がわたくしを包み、安心して彼の体に体重をかける。
「……フローはどうして、僕をこんなにも僕を助けてくれるの?」
「貴方がわたしを、救ってくれたからです」
ソル様になら話しても良いと思った。わたくしの前世を。
「ソル様は、前世というものをご存じですか――」
◇◇◇
前世のわたしは、それはそれは醜い女だった。それを理由に小学生の頃虐められるのも珍しくなく、太っていれば「豚子」痩せれば「ブス女」となじられた。
大学生になった。わたしは化粧という手段を手に入れ、死に物狂いで働いて得たお金で着飾ることだけが生きがいだった。
そんなわたしがのめり込んだのは、スマホ版の乙女ゲーム。
「ふふ。やっぱりこのフロレンティアってキャラ、わたしに似てるかも」
目が細く、野暮ったい茶髪の少女。
乙女ゲームに登場するモブの彼女にわたしは親近感を覚え――自分を彼女に投影させていた。だから彼女が絶望に身を投じ悪魔と契約する時も、フロレンティアが一方的にソルに執着していると疑いもしなかった。
「……キャラクターブック」
とある日に本屋で手に取った本の名前を復唱する。
それはモブキャラたちにまで焦点を当てたキャラクターブックで、乙女ゲームを何十時間もプレイした身としては放っておけない一品だった。
早速買ったわたしは、家に帰って読む。読み進めれば、ソルとフロレンティアのぺージがあった。
「……」
呼吸が止まるとはこういうことかと思った。
『ソルは、両親を亡くした時に自分に親身になってくれたフロレンティアを心から愛していました。彼女の細い目を、いつも微笑んでいるみたいで安心できると思っています。彼が病気でこの世を去る日。側にいて欲しいと願ったのはフロレンティアでした。』
気づけば、涙が零れ落ちていた。
地味なフロレンティア。わたしとそっくりなフロレンティア。でも貴女は、愛されていたんだね。
それは、わたしもそのままの姿でも良いんだよと言ってもらえたようだった。
わたしは、わたしに愛をくれたソルに恋に落ちた。
わたしが死んだのは、それから一週間後のことだった。お父さんとお母さんに会いたくて、薄化粧だけ施して歩いていた時、突っ込んできたトラックに轢かれたのだ。
気づけば、記憶を失くしフロレンティアとしての生を受けていた。
◇◇◇
「――その『僕』の何気ないことで、僕を好きになったの?」
「はい。些細なことですけど……」
「僕と同じだ」
「え?」
抱きしめられていた体を離し、彼を見上げる。ソル様の目には涙が滲んでいた。
「僕もだよ。初めて出会った日にくれた『生きててくれて嬉しい』という言葉に、僕は救われたんだ」
零れ落ちた雫がわたくしの頬を叩く。
「僕は、次期伯爵家当主として生きているだけじゃ駄目だった。健康になるか、それか……アグネスに爵位を継がせる為に早く死ぬことを望まれていたんだ」
そんな時君に出会えて、僕は救われた。
ただ生きているだけで喜んでくれた君に、恋に落ちた。
「フローは僕の光だ」
熱い塊が喉に込み上げた。それは涙に転化して、溢れ出す。
「違います……っ、貴方こそが、わたくしの光なんです。何もないわたくしにとって、貴方こそが太陽です……」
抱きしめ合ったわたくしたちは涙を流し、指切りげんまんをした。
共に罪を背負うという、誓いだった。
◇◇◇
「――そうですね。わたくしたちはあの日、共に罪を背負うと誓いました」
わたくしはソル様に体重をかけ、小指を繋いだ。
「ですが、泣いて駄目ということはありません。その涙もまた、一緒に背負いましょう。どうぞ、わたくしの胸を貸しますわ!」
「そ、れは恥ずかしいかな。……でも、ありがとう」
ソル様もわたくしに少し体重をかけた。
空には月が淡い光を放ち、夜の帳が降りている。
彼の嗚咽だけが響く、とても静かな夜だった。