3 変わった物語
それから一ヶ月経ち、ソル様はどんどん顔色が良くなっていった。
「本当に、夢みたいだ……」
涙ぐむ彼は今、杖無しで歩いている。ここまで健康になったソル様に、お医者様も驚いていた。
スチルでは見たことない姿で、わたくしは心のカメラで連写しながら表面上では柔らかく微笑む。
「本当に良かったですわ」
「ありがとう、フロレンティア。本当にありがとう」
満足気に笑ってからわたくしは、ソル様を外に連れ出した。ゆっくり歩き、ガーデンチェアに座る。
初夏の乾いた空気が青々とした草木を揺らした。
「リウィア」
わたくしの呼び掛けに、優秀な侍女はすぐにやって来る。カートを押しながら。
紅茶かな? とニコニコしていた彼は、リウィアがテーブルの上に置いたモノに笑みを引っ込めた。
「……ごめんなさい。本当はもっと、綺麗に焼くつもりだったんです」
まだまだ細いソル様にもっとご飯を食べて欲しくて、それがわたくしの作ったものなら素敵だと思いケーキを作ってみた。
料理は前世でも行っていたからと慢心があったのだが、お菓子作りは奥が深すぎた。加えて前世のように優れた調理器具もない。
結果ケーキの生地は薄く潰れ、クリームも上手に塗れず所々塗りムラがある。
しかしわたくしを心配してオロオロと周りを歩いていたシェフの手伝いがなければ、もっと酷い出来になっていただろう。今の健康状態のソル様に消し炭を食べさせるなど、ただのオーバーキルだ。
「味は、食べれない程ではないと思うのですが」
ソル様の血と肉、全てをわたくしの作ったモノで形成したかったのにその未来はまだ遠いようだ。
やっぱりこんなモノ食べさせる訳にはいかない、と手を伸ばしたわたくしをソル様が止めた。フォークで固そうな生地を切り分けパクリと食べる。
「ソル様……!」
悲鳴に似た声を上げれば、彼がもう一口食べる。
「凄く美味しいよフロレンティア」
「……お優しいですね、ソル様は」
貴方がとても優しいことは知っているけれど、今は少しだけ心に来る。
「ううん本当に美味しいよ。……僕の為に作ってくれただけで、僕にとっては十分なんだ。また作ってくれる?」
わたくしの好きな人が今日も尊すぎてクラリと目眩がする。
幸せを感じながら頷いた。
「はい、ソル様が望んでくれるなら何度だって作りますわ」
笑顔を取り戻したわたくしに、ソル様が安心したように頬を緩める。
――わたくしはその笑みに見惚れて、気づかなかった。
木の陰から、アグネス様が此方を見ていることに。表情はなく、のっぺりとソル様を見ていることに。
「乙女ゲームの展開と、全然違うわ……。駄目よ、駄目。――邪魔ねぇ、フロレンティア様」
◇◇◇
翌日。目を覚ましたわたくしは瞠目した。
「今日はリウィアだけなの?」
朝の用意。顔を洗うわたくしの隣にはリウィアしかいない。いつもならもう二、三人いた筈だけど、と目を眇める。
「すみません奥様。他の者は今日忙しいようでして」
消え入りそうなリウィアの声で察した。
今日、主人の手伝いを満足に行うことが不可能な程大事な用事などない。彼女たちはわたくしの世話をボイコットしたのだろう。
これは少人数の仲間内の行動なのか、それとももっと大人数なのか――
今この少ない情報だけで考えても詮方無い。わたくしはタオルで顔を拭きながら立ち上がった。
「リウィア、わたくしの準備は貴女だけでも十分よね?」
わたくしの強気な笑みに、リウィアも強い視線で頷き返す。
「勿論でございます」
誰が敵か分からない。ならば完璧な装いで迎え撃つ。
家で着るモノとして相応しいゆったりとしたデザインでありながら、品の良いドレスを選ぶ。リウィアはわたくしにドレスを着せ終わると、次に丁寧に髪を梳き始めた。鮮やかな技術で黄色いリボンと共に茶髪が編み込まれていく。
ハーフアップになった髪を鏡で確認したわたくしは、ご機嫌な猫のように喉を鳴らした。
「いかがでしょうか、奥様」
「十分よ、さあ行きましょう。――そういえば、手紙はきちんと送れている?」
「はい。それは抜かりなく」
その答えが聞ければ満足だ。あの手紙は大事な物で、他の者に情報が漏れることは避けたい。
普段の朝食の時間からは遅れている。
だがそれで急いだら格好の餌食になるだけだ。わたくしはリウィアを連れながら淑やかに歩く。十七年間鍛え上げてきた淑女教育の賜物と言えよう。
食堂には、やはり既にソル様とアグネス様がいた。
「遅れてすみません。準備に手間取ってしまいましたわ」
「気にしないでフロレンティア」
椅子に座っていたソル様は、わたくしが食堂に来ると立ち上がってエスコートしてくれた。
椅子に座り、テーブルの上を見てふと眉を上げる。アグネス様の分しか食事が置かれていない。
「ソル様、食べていませんでしたの? お先に食べ始めて良かったですのに」
わたくしの隣に腰を下ろしたソル様が、瞳をとろけさせた。
「だってフロレンティアと食べるご飯が美味しいから」
甘えたな彼に愉悦で心が満たされる。
そこでさっきからカチャカチャとソーセージを切り分けていたアグネス様が口を挟む。
「ずぅっと部屋の中をウロウロしていたんですよ。女性は準備に時間がかかるからって言っても迎えに行こうとしたり」
「アグネス! それは秘密にして欲しいと言ったじゃないか」
「まあ何故ですか? わたくしを待っていてくれたなんてとても嬉しいですのに」
アグネス様から悪意に似た雰囲気は伺えない。彼女は関係ないのか、そう結論付けソル様に視線を戻した。
耳まで赤くしているソル様は今日もとびきり愛らしい。初夜は彼が体調が優れないからとお預けになったが今のソル様となら――……
そこまで考えてから、邪な考えに蓋をした。じわじわと囲って、ソル様がわたくしを心の底から求めてくれた時が一番楽しいのだから。だからまだ、お預けだ。涎が垂れそうで舌なめずりをしてから、わたくしはいつもの表情に戻す。
いけない、こんな顔をしては怖がられてしまう。
食事が運ばれてくる。いつもと侍女の顔ぶれが違うことに気が付きながらも沈黙を貫けば、わたくしの前に皿を置いた侍女の腕がカトラリーに当たった。
カチャン、とスプーンが落ちる。
「あら、すみません奥様」
焦った素振りのない声。
「まあまあお姉様。怒らないでくださいね、彼女に悪気はありませんのよ」
「別に何ともありません。代わりのモノを持ってきてもらえる?」
アグネス様の含みのある声。
他の侍女によってすぐに持って来られた代わりのスプーンを手に取る。
「……っ」
滑り落としそうになるのを耐えた。
このスプーンを持ってくるメイドが、スプーンをタオルに包んでいたことをふと思い出す。
「どうかしたのフロレンティア?」
「そうですわ。やはり怒っていますの?」
スプーンが熱い。持てないほどではないが、手は確実に赤くなっていることだろう。
「いいえ、怒っていません」
スープをすくい、口にする。スプーンに触れた唇が痛いのを笑みで誤魔化した。
「とても美味しいですわ」
極上の笑みを浮かべるわたくしが、熱いスプーンを使っているとは当事者以外知らないだろう。
さっと周りを見渡す。あの侍女、目を見開いている。そこに控えている侍女も眉が僅かに寄っている。替えのスプーンを持って来た侍女の体は僅かに震え顔色が悪い、一応罪悪感はあるのだろう。
――そしてアグネス様。十四歳の彼女はまだまだ完璧な淑女とは言い難いようだ。唇の端が歪んでいるわよ、ちろりと視線を向ける。
わたくしの視線に気づきさっと取り繕ったが、もう騙されない。
彼女にどんな思惑があるかは知らないが、侍女たちに命令したのはアグネス様だろう。
目を細めた。
もう十分だろうとスプーンを置きパンを食べる。
あと二週間でソル様が乙女ゲーム内で死亡する日が来る。
わたくしにとって重要なのは、彼だけ。
乙女ゲームの筋書きを変えられる日が近づいている。そう思えば笑みが偽りではなくなった。