10 選択をし導かれるは後悔か、それとも
アグネスのお話です
何が失敗だったのだろう。
底から湧き上がってくる風に足をすくわれそうになりながら、私は岸壁に立っていた。
「おら、早く行け!」
槍で突かれそうになり、私は踏み外すように奈落へ落ちていく。
前世の私は、心の中に何冊ものノートを持っていた。
お母さんは私に同調することを望んだ。
お父さんは私が人形のようでいることを望んだ。
そうすれば殴られることも怒鳴られることもなかった。お母さんに同調して、家事を率先して手伝ってニコニコして、小学生の私はいつも生きた心地がしなかった。
「お前も私を見下しているんだろうッ」
たまに殴られるけど平気。いつもみたいに笑って抱きしめればお母さんは泣きながら謝って「愛してる」って言ってくれるから。
「いや、それ虐待じゃん」
「うええ〜? そおかなぁ」
親友のみなちゃんの言葉に、私は頭をかく。彼女は人よりも優位に立ちたがるから、馬鹿な子を模して振る舞う。
中学生になった私は、みなちゃんという親友と行動を共にしていた。彼女に合わせるのは楽だった。『馬鹿な私』をお世話するのが好きだったから。
お父さんはお母さんを置いて何処かに行ってしまった。それからお母さんは、何をしても何を言っても私の髪の毛を引っ張って殴るだけになってしまった。何がいけないのだろう、もっと研究しなくちゃ。
「本当に高校進学しないの?」
中学三年生の冬、担任の先生にそう問われた。
「はい。私馬鹿ですし〜」
なあなあにして進路相談を終え、下駄箱に向かう。立て付けの悪い下駄箱の扉を乱雑に閉めると、声をかけられた。
「ねえ」
「あれ、みなちゃん。どうしたの?」
「――私と一緒に、家を出ていこうよ。二人で家出しよう」
彼女は私の家庭環境を知っている。家に帰るのが嫌で、みなちゃんと公園で遊んだこともあった。そこで遊ばせて貰った乙女ゲームを思い出す。私の目の前に、選択画面が広がった気がした。
▶みなちゃんについて行く
▶みなちゃんとは離れる
そして私は、彼女の手を取った。選んだ訳ではない。みなちゃんの手を取らなければ、また彼女の金切り声を聞くことになりそうだったから。ただ、それだけだった。
この選択バッドエンドなのかハッピーエンドなのか私には分からない。けれどみなちゃんがあまりにも嬉しそうに笑うから、これで良かったんだと言い聞かせた。
中学卒業と同時に、私たちはありったけの荷物を持って家を飛び出した。
「何処まで行くの?」
「んー? 私についてくれば大丈夫だから心配しないでって」
電車に揺られながら、私たちは海を眺めた。私にはあくまで馬鹿でいて欲しいみなちゃんから視線をそらし光る水面を眺める。
ちょい、と肩を突かれる。
「ねえ、新しい場所に行ったらゲームしようよ!」
彼女が取り出したスマホには、あの乙女ゲームの画面が燦々と輝いている。
いけない。笑うのを忘れていた。
「うん!」
私、今上手に笑えているのだろうか。最近、心の中にあるノートが役に立たないの。分からない。人の心が分からない。自分の心ですら分からないから。
◇◇◇
みなちゃんとの逃避行は、二週間続いた。終わるまでの一週間、みなちゃんはいつも焦っていたような気がする。
逃避行が終わる前日。みなちゃんに貸してもらったスマホの乙女ゲームをクリアした私は、彼女に話しかけた。
「みなちゃん、私王子様と結婚したんだよ〜」
「――煩いッ、今呑気な声で話しかけて来ないで!」
大きな音を立て頬を打たれた。
「……あ、ごめんなさいっ」
お母さんに打たれた日を思い出した。全部私が悪いのだから、早く謝らないと。
「ごめんなさい。ごめんなさい……っ」
忌々しそうに一瞥された。フン、と鼻を鳴らし私からスマホを奪い取って彼女は何処かへ行ってしまった。
お金がないと、言っていた気がする。保護者がいないからお金を稼げないことも。どうすれば良いのだろう。家事の仕方は知っているけどお金の稼ぎ方は分からない。お母さんが前に言っていた「お前は能無しの役立たずなんだから体でも売れよ」とアドバイスを貰ったからそれに倣うべきなのだろうか。それにしても、何処で体を売れるんだろう……
考え続ければ気づけば眠っていた。包まっていた布団から顔を出す。部屋の中は薄暗い。夜中なのだろう。ママ、そう頼りない弱々しい声が狭い部屋に響いた。
布団から顔を覗かせ隣のベッドに座っているみなちゃんを見上げる。彼女はスマホを食い入るように見つめていた。泣きそうな顔が青白い光で発光している。
「ママ……」
ぼんやりと眺めて、瞳を閉じた。
目が覚めたら私は知らない部屋にいて、知らない自分で。今の生活が全て嘘だったら良いのに。
目を覚ましたら、みなちゃんは居なくなっていた。代わりに一通の手紙が置いてあった。
『ママがメールで帰ってきてって何度も言うの。もうお金もないし、私やっぱり帰るね。ごめん、あとはもう自分でどうにかして』
捨てられたのだろう。馬鹿だから何も感じないのだと軽んじられ。
分からない。何に導かれば、私は幸せになるのだろう。
『あんたなんて産まなければ良かった! さっさと死ねよ!』
いつかのお母さん言葉。まだ耳に残ってる。
窓を開け、ベランダに出る。眩しい朝日に目を細めた。片足を上げ手すりに足をかけた。ずる、と姿勢が崩れる。
「……あ」
宙に体が浮いた。支えを失くした体は、ただ落ちていくだけ。誰にも助けられず、私の体は地面に叩きつけられた。
◇◇◇
生まれ変わっていることに気づいたのは、十二歳の時だった。
きっかけは私と歳の近い、新しく入ってきた侍女が変なことを言い出したからだ。
「お嬢様! お嬢様は乙女ゲームのヒロインなんですよ!」
やれ自分はヒロインと隣国の王太子のカプが好きだの、自分がサポートするなど。勝手なことをべらべらと話し続けた。
聞いてもいないのにいつまでも煩く喋り続け正直目障りだった。けどお陰で、私は自分の前世を思い出した。
「そっか、次こそは……」
心が躍った。
前世は失敗した。だけどこの乙女ゲームの世界でなら。物語の展開をなぞらえるだけで、私は確実に幸せになれる。
「うふふっ、あははは!」
「……! 分かっていただけましたかお嬢様!」
私はうっそりと笑みをたたえた。
「ええ。――だから貴女はもう、要らない」
「え」
乙女ゲームにこんな侍女はいなかった。それなら展開が壊される可能性がある。私は階段の一番上から、侍女を突き落とした。
次の日から、私はヒロインになれるよう努力した。みなちゃんと話を合わせる為にキャラクター設定資料を立ち読みしたのが功を奏したのだろう。ヒロインの格好をするのは容易だった。
学園に入ってからは攻略対象とも、乙女ゲームの方法をなぞらえ仲良くなった。私の今度の人生は、驚く程上手く行っていた。
上手く行かなくなったのは、フロレンティアが現れてからだ。
ソルが健康になった。でも物語通りに進むだろうと思っていたのに、物語は破綻した。フロレンティアに嫌がらせして家から追い出そうとしたのも上手くいかず、ソルは生きている。私の心を乱すには十分だった。
それからは、もう語るまでもないだろう。私は毒を盛ってソルを殺し、正規の物語に戻そうとしたのに彼は死んでおらず、貶めようとしたフロレンティアに逆に断罪され私は処刑されることとなった。
「――ここは」
辺りは真っ暗闇だった。崖から落ちて生きている訳ないのだから、私は死んだのだろう。
「……何処に、行こう」
次は何に導かれれば、私は幸せになれるのだろう。
宛もなく歩いた。気づけば、二つの道があった。
一つは心地よさそうな真っ暗な道で、もう一つは私を焼き尽くしそうな光溢れる道。
その光に、フロレンティアを連想した。
「……憎たらしいくらい、真っ直ぐな人だったな」
自分の進む道が正しいと信じていそうな、気持ち悪い人。
でも少しだけ、羨ましいと思ったのかもしれない。だって彼女は自分で選択して、幸せを掴み取ったのだから。
「私も、選べば何か変わるのかな」
もう一度があるとしたら。
今度は、今度こそは――
歩みを進めた。光溢れる道へ。
ジュワリ、凄まじい熱が私を焼いた。苦しくて、声にならない悲鳴が上がる。皮膚が爛れ、私という原型がなくなっていく。
それでも笑顔を浮かべてしまった。
「初めて、自分で選んだんだぁ」
体が塵となって消えていく。指が失くなり、頬が欠けていった。
最後に今世の両親とソルにだけ、ごめんなさいと呟く。本当はね、大好きだったの。嘘じゃないの、本当よ。
この身が全て失くなり、また生まれなおした日。何にも従わず生きて行けるのだろうか。きっととても難しいだろう。何度も挫折するだろう。苦しいだろう。逃げ出したいと思うだろう。
だけどとても自分らしくいられると思うから。
「ありがとう、お姉様。どうか私を踏み台にして掴んだ幸せを大事にしてね」
嫌味を、最後まで残った口で声高に叫ぶ。彼女の元まで届くように。
そのままわたしのからだは、あとかたもなくきえていった――……