1 ずっと前から恋に落ちていた
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誰よりも何よりも大切な、わたくしの愛しい人。
そんなわたくしの愛しいソル様を奪うなんて烏滸がましい真似をするヒロインなど、いらない。
この周到に用意した断罪劇で、捻り潰してあげる。
「お兄様を亡くされてから、お姉様の様子がおかしいのです。まるで、悪魔に取り憑かれてしまったみたいに」
「――いいえ、わたくしの身に悪魔など宿っていませんわ。宿っているとするならば、それは貴女の方では? アグネス様」
◇◇◇
日は重たい雲によって遮られ、執務室は薄暗い。
わたくし――フロレンティア・ユーテリルは元より細い目をさらに細め、執務室の椅子に腰掛けるお父様に問う。
「嫁ぎ先が見つかった、ですか?」
「ああそうだ。トライトル伯爵家夫妻が少し前に事故に遭ったのは知っているだろう?」
「はい、勿論です」
道が不安定な山道を馬車で走っていると、急な雨に降られぬかるみに足を取られたと聞いている。亡くなられた、ということも。
「トライトル家は二人の兄妹がいるのだがな、兄は病弱で執務仕事を満足に行えないらしい」
「それでわたくしと結婚し執務仕事を代わりに行ってもらう、ということですか」
「座って出来ることは自分でやるつもりらしいがな」
わたくしを産んだ後、お母様は産後の肥立ちが悪く亡くなったらしい。だからか、お母様を愛していたお父様の他の兄姉と比べわたくしに対する態度は冷たい。
昔はお父様に認めて貰いたかった。その為に培った力がこうして政治の道具として使われるなんて、とため息が漏れる。
トライトル伯爵家はそんなに大きくない領地だが土壌が良く特産品も多い。金などの加工にも秀でた領地でもある。
繋がりを持って損はないということなのだろう。
ちらりとお父様の顔を盗み見た。厳格な表情がわたくしの前で緩むことはない。
これが姉たちであれば、我が家より家格の低い家に執務仕事を行う為として嫁ぐことに難色を示したであろうに。
揺らめく失望の炎を胸の奥にしまいながら、決まりきった言葉を口にした。
「かしこまりました」
お父様の眉間に寄った皺が一本消える。
「ああ」
◇◇◇
「フロー……」
ほぼ開けてないように周りからは思われる一重の目に、野暮ったい茶髪。間違っても綺麗と評されることのないわたくしに対して姉二人は、本当に姉妹かと疑う程に美しいかんばせを持っている。
だが今はその顔も歪んでいた。
「さみしい、さみしいわフロー! お姉様たちを置いていかないでちょうだい〜」
「ううっ、私たちが結婚を後に引き延ばせば、妹である貴女はまだこの家にいてくれると思っていたのに!」
お父様からのあからさまな格差があるのに対して、兄妹仲は良好だったりする。
わたくしをひしっと抱きしめ頬擦りする彼女たちにされるがままになっていると、お兄様が眉根を寄せながら二人に声をかける。
「姉さんたち、フローも時間がないんだ。別れは後にしませんか」
一番上のお姉様――ディアナお姉様が頬を膨らませる。
「まあまあ。貴方だってさみしい癖に何強がってるのよ」
コルネリアお姉様も追随する。
「レムスだって内心、可愛いフロレンティアをどこの馬の骨とも知らない男に嫁がせるの、不安でしょうに」
「トライトル伯爵家のソル様とは以前話したことがありますが、心穏やかな人でした。心配することはないでしょう」
わたくしはお兄様の腕をつつく。目元が赤い彼は、昔と変わらず泣き虫なようだ。泣く場所が自室に変わっただけで。
気丈に振る舞ってはいるが彼もわたくしの身を案じているのだろう。
「……フロー、急になにするんだ」
「眉間に寄った皺を解してあげようと思いまして。お父様みたいになってしまいますわよ」
ぐりぐりと人差し指の腹で押す。
わたくしの手をペイと振り払ったお兄様はため息をついた。
「フロー、お前は何でも抱え込む癖がある。だが、無理するなよ。無理だと思ったらすぐに帰ってきて良い」
「そうよフロー。お姉様たちが絶対何とかするから」
「ありがとう、お兄様お姉様。でも大丈夫ですわ。覚悟は決まっております」
他に愛する人がいようと、冷遇を強いられても泣き寝入りなどする気はない。
自分の力で寝床は整えてみせる。
「その悪い顔は、あんまり相手方には見せない方が良いと思うぞ」
「さすがフローだわ」
「ええ、私たちの自慢の妹ですわ」
自室に戻ったわたくしは、わたくし付きの侍女であるオーロラと共に荷造りを進める。
「お嬢様には、私たちが触ってはいけない小物の整理をお願いしたいのです」
「勿論よ」
相手側から一刻でも早く嫁に来ることを望まれている為、周りの侍女たちも忙しそうにしている。
自室が段々と閑散としていく様をぼんやりと眺めた。
「お嬢様、やっぱり輿入れが不安なのですか……?」
「そういうわけではないわ」
わたくしよりも小柄な体を更に縮め、ベッドに腰掛けるわたくしの側に跪くオーロラに薄い笑みを返す。
おどけるように肩を竦める。
「愛とは何かしらと思って」
慈しみを知らない訳ではない。憎しみを知らない訳ではない。だけど心にぽっかり穴が空いたような虚無感がいつもあった。
お父様に尽くしたのだって、愛していたのかと問われればそうではない。ただ兄妹で扱いに差が出来る理由を知らなくて、人からの悪意に鈍かっただけだ。
「わたくしの旦那様は、どんな方かしらね……」
「とても見た目麗しい方だと聞いておりますよ」
確かに送られた肖像画に描かれたソル様は美しかった。少し情けなさが漂う顔つきだが優しそうだと言えばそうだし、紫水晶の瞳と朝日に照らされた雪のような銀髪はとても美しかった。
病弱でなければ、引く手あまたなことだろう。
「愛せなくても、慈しみ合えたら素敵だと思うわ」
お行儀悪くボフリとベッドに突っ伏すわたくしを、オーロラは憂えげに見つめた。
――そう、そんな心配をしたことがわたくしにもあった。
「はわ……っ」
ソル様との初顔合わせ。
淑女とは程遠い声を上げながらわたくしは自分の顔が熱くなるのが分かる。
心臓が早鐘を打ち、何かが心から途絶えず溢れる。
一目見たその時から、彼に触れたくて堪らなくなる。
一生一緒に、片時もわたくしから離れず生きて欲しい! わたくしが養って、愛でて愛でてわたくしなしでは生きられないようにしたい!
「あの……?」
首を傾け揺れる銀髪ですら愛おしい。
どうしたのかしら。わたくし、おかしくなってしまったみたい……。
「……フロレンティア様。やはり僕との婚約など嫌ですよね。妹の後押しもあってダメ元で申し込んだのですが……」
ポカンと十七年生きて初めて見る顔をしたお父様と、困惑しきったソル様に見つめられ、僅かに正気が戻る。
コホンと咳払いした。
「いいえ、喜んでお受けさせてください。寧ろ今断られたら、わたくしの方から求婚状を送りますわ」
杖をついた彼の側に寄り、何も持っていない左手をそっと両手で握りしめる。
「今日初めて会ったのにこんなこと言われて驚かれると思いますが、わたくしはソル様をとてもお慕いしていますわ」
色づく彼の頬を食べてしまいたい衝動に駆られる。
微笑みでその感情を押さえつけながら、握る手に緩く力を入れた。
瞬間。
何かが弾けた。
ぶわりとわたくしの脳内に誰かの記憶がなだれ込んでくる。
瞳を閉じて記憶を整理した。瞬きにも満たない時間で膨大な知識を咀嚼し終えたわたくしの脳内に浮かんだのは、一人の女。鏡に映った冴えない顔の女。――これはわたくしだ。わたくしに至る前のわたくし。
そうだ。わたくしに至る前。わたしはニホンという国で生活していた。
わたしはとある乙女ゲームにのめり込んでいて、何度も何度もスマホ版のそのゲームをプレイしていた。
ソル様の顔をもう一度見る。
一粒涙が頬を伝った。
物語は、光魔法に目覚めたヒロインが攻略対象たちと共に魔王討伐を成し遂げるまでの良くある学園王道ラブストーリー。
作中、彼はヒロインの兄。そしてわたくしは彼の妻だった。
乙女ゲームのストーリーで、ソル様は病気でこの世を去り、彼を愛していたわたくしは絶望し悪魔と契約を結ぶ。
その悪魔を退ける為にヒロインが光魔法を発動するのだ。
ソル様はわたしの推しだった。どうしようもなく大好きな人だった。
どれだけやり直してもソル様が亡くなってしまう結末を回避できなくて枕を濡らした夜は数え切れない。
「生きててくれて、本当に嬉しい……」
顔が綻ぶ。わたくしは決意した。
彼の運命を捻じ曲げよう。ソル様を健康にして、愛でて愛でて愛でまくるのだ。
足りなかったモノが今埋まった気がした。