№5 最後の書き置き
……前置きにしては、話が少々ヘヴィーすぎた。
にしたって、閑話休題。
小生は早速、いちじくちゃんに向かって尋ねた。
「まずは、お母さんが残した手紙をみせてくれないかい?」
いちじくちゃんはごそごそとポケットをあさって、しわくちゃになった青空の柄の封筒を取り出した。
「……これ」
差し出されたそれが、奥さんの遺書なのだろう。
受け取って、乱雑に開封されているそれの中身をあらためる。
同じくしわくちゃになった空の模様の便箋には、いくつかのことが書かれていた。
謝罪の言葉と、パパを殺したということ。
だから、ママも自分で死ぬということ。
困ったことがあったら、安土のおじさんか八坂のおじさんを頼りなさいということ。
いくつかの生活習慣に関する注意書きと、風邪をひかないようにということ。
最後に、誕生日お祝いできなくてごめんね、という、再度の謝罪の言葉。
……便箋五枚に渡る、母親からいちじくちゃんに向けた遺書だった。
明らかに、いちじくちゃんが第一発見者になることを見越していた。
……ダメだ、ちょっと腹が立ってきた。
いや、ちょっとどころじゃないか。
全部の責任を子供になすりつけるようなことをしている。いい大人のすることじゃない。なにが、『困ったら安土のおじさんを頼りなさい』だ。それはあんたの役目だろう。
いちじくちゃんは、母親に置いていかれたみなしご同然だ。
ひとの親になるというのは、こんなに無責任でいいことなのだろうか?
……子供を持ったことがない小生にだってわかる。そんな責任のないことをしちゃいけないことくらい。
突発的に湧いてきた怒りを腹の底に沈めるまでに、何回か深呼吸をする必要があった。
「……安土のおじさん?」
「いや、大丈夫だよ。喜怒哀楽の沸点が低いところが、小生の悪いところだね」
問題ない、とばかりにいちじくちゃんの頭をなでると、また不満気な顔をされた。
……今は、小生の感情論なんてどうでもいい。
一番つらいのは、いちじくちゃんなのだから。
ひとさまの不幸をかなしむな。
その不幸はそのひとだけのものなのだから。
小生にそんな権利はない。
だから、感情を押し殺して、ただ海斗先輩の死体の行方を追うしかない。
ぐ、と奥歯を噛み締めてから、遺書に視線を戻す。
ここから読み取れるのは、奥さんが海斗先輩を殺したと『主張している』ことだ。
あくまでも、『主張している』だけ。
『観測』されるまで、真実は確定しない。
つまり、海斗先輩の死体が発見されて、その『死』が『観測』された瞬間にのみ、奥さんの主張は本当だったと証明できるのだ。
そこを見誤ってはいけない。
先輩の殺害については、まだ前提条件の固定ができていないから、まだまだ仮説は立てられる。
奥さんではなく第三者が殺害したのかもしれないし、本当は死んでいないのかもしれない。逃げたのかもしれないし、すべて奥さんの妄想かもしれない。
絶対に『ありえない』可能性だけを削ぎ落としていって、残った絞りカスこそが真実なのだ。
もっと手がかりを探そう。
パパを殺したから、ママも死ななければならない。
目の前にぶら下がっているのは、間違いなく奥さんの首吊り死体だ。だから、この『主張』は確定事項。
気になったことがあったので、再度いちじくちゃんに聞いてみた。
「お兄さんの携帯には、どうやってかけてきたの?」
「……パパの電話、このお手紙といっしょに置いてあったから、順番に探した。触ったらダメだって言われてたから、どうやって電話するのかわからなかったけど、いろいろ押してみた」
なるほど、海斗先輩の携帯は奥さんが所持していて、遺書といっしょに置いていった。
携帯電話を奥さんが持っているということは、海斗先輩を殺害した可能性が上がる。逃げたり、妄想だったりしたら、ここに先輩の携帯が存在する理由がなくなってしまう。
だとすれば、その可能性は捨てよう。
あと考えられるとすれば、偽装殺人の可能性だ。
もう一度、いちじくちゃんに質問する。
「このお手紙の字は、いつものお母さんの字かい?」
「……うん。お料理の献立、冷蔵庫に貼ってあるから、それといっしょ」
冷蔵庫に貼ってある献立表と、遺書の字を見比べてみたけど、素人目には同じに見える。本格的な筆跡鑑定をすればもっと高い精度で同一と認めることができるけど、今回小生たちは警察を頼らないことに決めている。
まだ明確なことは言えないけど、遺書の欺瞞工作の可能性は低い。
しかし、遺書が本物だって、脅されて書いた可能性だってある。第三者か、海斗先輩本人かによって。
他に読み取れることはないか。
筆圧や文言を精査したけど、おかしいところは特に見当たらない。
……一番おかしいのは、娘を遺して自死する親ごころだけど。
また湧いてきそうになる怒りを押さえ込みながら、小生はいちじくちゃんに遺書を返した。
「ありがとう。おおむね理解したよ」
「……おおむね、って、どれくらい?」
「おおむね、としか言えないね」
本当に、大まかなことしかわからなかった。やっぱり、小生は探偵には向いていないようだ。
偽装の可能性は捨てずに、焦点を奥さんの自殺体から海斗先輩殺害に移そう。
いつ、どこで、どうやって殺されて、死体は今どこにあるのか。
まだ家の中にあったっておかしくはない。
「いちじくちゃん、帰ってきてから台所以外の場所を探したかい?」
「……ううん、探してない。先にママの絵を描きたかったから」
……なんとも、『モンスター』らしい回答だった。
ともかく、そういうことならまだこのマンションに死体があるかもしれない。せめて、殺害現場がマンション内だと確定すれば、いろいろと推測しやすくなるのだけれど。
夫婦とはいえ、男と女だ。体格差も、ちからの差もある。女が男を殺すのは、実はとても難しい。
ゆえに、有史以来、女は毒薬を使ってきた。
先輩だって、毒殺されたのかもしれない。
家族の食卓に毒が盛られているなんて思いもしないだろうから、朝飯前のおちゃのこさいさいだ。
けど、即効性の毒ならば、この場に死体が転がっていないことについては、今ひとつ説得力に欠ける。
遅効性の毒だったのならば、しばらくの間、先輩は自分の足で歩き回っていただろう。
別の部屋で死んだのかもしれないし、外出した可能性だってある。
……ますます、死体の行方が暗雲に遮られて見えなくなってきた。
毒殺、という可能性が有力だけど、殺害現場を見ないことには話が始まらない。
……と、いうか。
「いちじくちゃん。まずは、お母さんを下ろしてあげようか」
こんな子供の前に、いつまでも母親の死体をぶら下げておくわけにはいかない。小生がまっさきに電話で聞いたのだって、その辺だ。
いつまでも、この無責任な母親の自殺体の前に、いちじくちゃんを置いておくなんて、小生のわずかばかりの良心が許さなかった。
「……うん。お絵描きは、もう終わったから」
あくまでも、スケッチ対象か。
……まったく、とんでもない子供を遺してくれたものだ。
もう、奥さんの自殺に関しては、現場保存の必要はない。遺書を残して死んだ、第三者の介入のおそれはあるけど、倒れた脚立といい、死体そのものといい、縄の結び目といい、取り立てて矛盾したようなところは見受けられない。
……最悪、いちじくちゃんのスケッチから推理することになるかもしれないけど、それだけは最終手段だ。
小生は台所から大型のカッターを探してきて、死体が最後に蹴ったであろう脚立にのぼってロープを切った。どさり、と死後硬直している奥さんの死体が床に転がった。
いちじくちゃんは、やっと床に足が着いた母親を、複眼の昆虫のような眼差しで見つめている。
「……今は、お絵描きの時間じゃないよ」
「……わかった」
聞き分けのいい子だ。
自分たちのしている会話の異常性から意識を逸らしながら、小生はまず、浴室からルームツアーを開始するのだった。




