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№15 『アンノウン』の再生

 ほうほうのていで、しかも手ぶらで帰ってきた僕たちを、しかし所長たちはあたたかく迎えてくれた。


「……見つかっただか……!?」


 早速詰め寄ってくる田舎女を無視して、無花果さんは『アトリエ』に直行する。僕も、カメラの準備をしてからその後を追った。


 ひんやりとした『アトリエ』の空気に、オイルランプの明かりだけがともっている。静かな夜だった。


 そんな中で、無花果さんはひざまずいて祈りを捧げていた。いつもの儀式だ。僕はまず、その祈りの姿をフィルムに焼き付けた。


「……As I do will, so mote it be.」


 やがて呪文の結句をつぶやくと、無花果さんがその目を見開く。


 『創作活動』のスタートだ。


 すでに『アトリエ』にあった『パーツ』を手に、無花果さんは用意されていた額縁に向き合う。


 緑色のビロード生地に、アンティーク調の白い木製の枠がついている大きな額縁だ。


 無花果さんはその生地に、虫ピンで右腕の表皮を引っ張って留めた。


 そのまま、なにもせずにガラスを被せて、イーゼルに立てかける。


 ……それで、終わりだった。


「……できたよ、これが今回の私の『作品』だ」


 もっとシャッターを切りたかったのだけど、唐突に終わった装飾に、僕はついファインダーから顔を上げた。


「……これで、終わりですか……?」


「……ああ、これで完成だよ」


 ただ腕を額縁に留めただけだというのに、無花果さんはすっかり疲れきって椅子の上でうなだれている。


 ……これが、今回の『作品』の完成形。


 あまりにもあっけない。


 あまりのも素っ気ない。


 ……そして、あまりにも生々しい。


 蝋細工の作り物みたいな右腕は、たしかに人体からむしり取られたものだ。腐敗する肉のにおいだけが、それを証明している。


 腕だ。


 たしかに、これだけならば決して死体などとは呼べないだろう。


 しかし、僕はその背景を知ってしまっている。


 だからこそ、額縁に収めただけの腕が、こんなにも痛々しくこころに響く。


 これは、『本体』が捨てたものだ。


 生活に疲れ果て、家族に失望し、夢を奪われ、『表現』すらも否定された『表現者』の腕。


 たしかに、よく見れば右手の指にはペンだこがあった。生活反応の痕跡だってある。


 文字通り、なにもかもを捨て去って逃げ出したのだ。


 夢も、家族も、生活も、仕事も、『生きている』という法的な確信もなにもかも。


 ニンゲンは、肉体の『死』を迎えるまでに、何度か死ぬ。


 社会的に死に、そしてアイデンティティを失い、『本体』もまた何度か死んだ。


 もうこの地上には、『本体』の行方を知るものはいない。だれも自分のことを知らないどこかの土地で、第二の人生を送っているのだろう。


 それは、『喪失』であるとともに『解放』でもあった。


 いのちを失うことで、『本体』は生き返った。


 もう、『本体』を否定するものなどいない。なにせ、一旦ゼロの更地にしてしまったのだから。否定も肯定もされることのない人生を、リスタートしたのだ。


 それは、まるでタロットの『死神』が寓意するところの『死と再生』だった。


 一度すべてを終わらせた『本体』は、そこから第二の生を始めた。


 要するに、何度か死んでから、生まれ直したのだ。


 その分、『死神』に差し出した代償は大きい。


 社会的には、もう『本体』は死んだことになっている。名前を変え、姿を変え、そこにはもう元の『本体』の名残などないだろう。だれも『生きている』とは思わない。だれも、『生きている』と保証してくれない。


 どこかの都会にでも埋没してしまえば、あっという間に紛れ込んでしまう。もしかしたら、もう僕たちの街にでも潜んでいるかもしれない。


 そんな『アンノウン』は、『表現』というアイデンティティさえ捨て去った。


 たとえば、足を切断することだってできたはずだ。左腕を選ぶこともできた。


 しかし、『本体』はわざわざ自分の右腕を引きちぎることを決めた。


 エロ漫画家の利き腕なんて、それはまさに『表現者』の死体そのものだ。


 たとえ肉体が今もどこかで生きていようとも、『表現者』としての『本体』は、たしかにあの現場で死んだのだ。


 その選択は、まるで決意表明のようだった。


 なにもかも、きっぱり捨て去るという。


 そして、『表現者』としてではなく、ただのニンゲンとして、二本の足で大地を踏みしめて生きていくという、決意表明。


 『本体』は、二度と『表現』をすることはないだろう。『排泄』をやめるということは、『消化』をやめるということであり、『咀嚼』をやめるということだ。つまり、感性にまつわるすべての栄養を断つということだ。


 なにを見ても、こころを動かされない。


 たとえば夕焼けが美しいだとか、ご飯がおいしいだとか、そういうことさえ感じることがなくなってしまった。


 もし感性が動いてしまえば、それを『咀嚼』しなくてはいけなくなる。そうなると、『消化』して『排泄』しなければ、生きていけない。


 だからこそ、『本体』は一切のこころの栄養供給を絶ってしまった。


 ただただ、ニンゲンとして、動物としていのちを繋いでいくことを選んだのだ。


 みずからの腕を切断するに当たっては、もちろん肉体的にすさまじい苦痛があっただろう。大きな岩の先端を、肘関節に思い切り突き立てる。皮膚がちぎれ、関節が砕け、筋が弾け。おそらくは、想像を絶するような痛みだったろう。


 それでも、『本体』はやめなかった。


 何度も何度も何度も何度も岩を打ち付け、とうとうみずからの右腕をもぎとってしまったのだ。


 たとえば僕だったら、それは『目』に当たるだろう。


 この眼球がなくなってしまえば、僕は『記録者』としてカメラのシャッターを切ることができなくなってしまう。もう、写真で『表現』することができなくなってしまうのだ。


 ……想像するだけで、ぞっとした。


 それは、肉体的な『死』よりもはるかにおそろしいことだ。


 僕だったら、眼球をえぐられたら、今度は肉体的な『死』をも切望するに違いない。いわば、たましいの『死』を先に迎えているようなものなのだから、もうただ肉体的に生きていても仕方がない。ただのケダモノには成り下がりたくない。


 ……それでも、この『本体』はニンゲンという動物としてまた生まれ直すことを選び取った。


 たましいを殺して、それと引き替えに真新しいいのちを得たのだ。


 無花果さんの言う通りだ。


 たしかに、ここには死体がある。


 『表現者』としての『本体』はあの暗がりで死に、ただの『アンノウン』として生まれ変わった。


 それを『作品』にするならば、下手に手を加えるよりもこっちの方がずっと生々しい。


 素材そのものが、すでになにかを語っている。


 無花果さんは、ほんの少しだけ『作品』としての体裁を整えただけだ。


 素材のことを知り尽くしていなければ、この『作品』は成立しなかっただろう。


 まさに、プロのアーティストの仕事にふさわしい。


「……あとは頼むよ、まひろくん」


 その一言で、すべてが伝わった。


 椅子の上でうなだれる無花果さんにうなずき返し、僕はいまだかつてないほどシンプルな『作品』に向かってシャッターを切る。


 何枚も何枚も、様々な角度からフィルムに焼き付けて、この『作品』を『記録』した。


 こうしてまた、僕の中に真実の『光』と『影』が蓄積されていく。


 おおよその撮影を終えると、僕は事務所で待っている田舎女を呼びに行った。


 『本体』が生きていることを伝えたら、きっと驚くだろう。泣くかもしれないし、笑顔になるかもしれない。


 しかし、それだけでは済まないような気もしている。


 そんな不安に似たものを抱えながら、僕は一旦『アトリエ』を後にするのだった。

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